うつくしき貨物を運べば共犯者なり

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2025.7.14|津崎 https://sizu.me/samishira/posts/6a6k30x3...
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『小説の誕生』を読んでいる。

 面白いのだが、ところどころ目が滑るというか、著者の書く文章と相性が悪いと感じる。内容は良い。もう少し読み進めてみる。

 ある本をつまらないと感じた時、完読するように努めるという行為は、「おやつとして買ったお菓子が思いのほかマズかったのに頑張って食べている」「サブスクで好きでもない音楽を『教養の為に』と頑張って聴いている」状況と一緒なのではないか、と考えるようになった。努力というもの、それはそれで重要なのだが、趣味や娯楽で努力する、という行為はおかしいんじゃないか。これは絵を描くことも一緒かもしれない。いや、絵は努力すれば上達するので同じではないのか。それなら読書という行為にも上達という概念はあるのではないか。達成する目的をどこに設置するかの問題なのか?

 ぐるぐるする。いずれにせよ、無理なくやりたい。

 ところで、私は読む側としては漫画より小説のほうが好きかもしれない。もちろん絵や漫画は時として暴力的なまでに私を圧倒するのだが、基本的には文章や小説が好きだ。活字中毒かもしれない。

 しばらくは、文章を書く訓練をしていきたい。漫画を描きつつ。
犠牲者と迫害者は同じように堕落においての兄弟関係、これはいつかえがいていきたい話だ
過去の私への警句になるが、「美麗な文章」とか「美しい言葉」とかそういうの小説にとってほとんどどうでもいい。もちろんうつくしい技巧のような一文は素敵だし、それはそれで書くのが難しいんだけども…

小説で一番重要なのはわかりやすさ(読みやすさ)ではないか、と最近思うし、このわかりやすさが実は一番高度である
waveboxパチパチありがとうございます。
無印良品のスリムノート(A6)今のうちに買いだめするか…
『沖縄・問いを立てる 3 攪乱する島』また読むか…
2000円で入手できた『ディクテ』、未だにパチもんじゃないのかと疑っている……
というかほんとう、いいねボタンポチポチありがとうございます。対話してるんよ、あなたと……(???)
Xfolio 今のUIだったらたぶん一生慣れないだろうな
pixivにはXや個人サイトのリンクが固定できるけど(X絵文字や⌂絵文字で大きく表示されているやつ)、あれはスマホアプリからはおそらく表示されてない…ですよね……?
スマホアプリからpixivを見ると、他のSNSやサイトがわからないことがままある 地味に欠点なのではないか
先日スペースでフォロワーさんと「今年の戦争本ってどれも『記憶』系ばっかりじゃない?」と話していたんだけど、講談社文芸文庫かつ、タイトルが「第二次世界大戦」という第二次世界大戦「総括の」本で、しかも「忘れえぬ戦争」という「記憶」なの、だいぶクるな……>講談社文芸文庫の新刊『第二次世界大戦 忘れえぬ戦争』
 この人の感情を害することなしに、わたしの知っているわずかなフランス語の単語でもって、あなたの美しいお国はわたしたち亡命者にとっては砂漠でしかないのだと、いったいどうすれば説明できるのか。この砂漠を歩き切って、わたしたちは「統合」とか「同化」とか呼ばれるところまで到達しなければならないのだ。当時、わたしはまだ、幾人もの仲間が永久にそこまで到達できぬことになろうとは知らなかった。
 仲間のうちの二人が、禁固刑が待っているというのに、ハンガリーへ戻っていった。別の二人は、これは若い男で独身だったが、もっと遠くへ、米国へ、カナダへ行ってしまった。また別の四人は、それよりもさらに遠くへ、人が行けるかぎりの遠い場所へ、大いなる境界線の向こう側へ行ってしまった。わたしの知り合いだったその四人は、亡命生活の最初の二年のうちに、みずから死を選んだのだ。一人はバルビツール酸系の睡眠薬で、一人はガスで、他の二人はロープで首を吊って死んだ。最年少の女性は十八歳だった。彼女の名前はジゼルだった。

/アゴタ・クリストフ『文盲』

#「ノスタルジア 標準語批判序説」(二次創作)
小説のウェブ投稿における空改行、私は読む側ではなじみがないのですが、行う側でもなじみがないことに気づきました。これはこれで技術がいるぜ
いいねボタンポチポチありがとうございます~。嬉しいです!!
森崎和江オモロイな~みたいな感情、森崎和江を全文読んでくれるフォロワーも少ないし全文引用(それ転載じゃんね)するわけにもいかないので、森崎他色々思想をぶち込んで自分の漫画にするしかない 神さんもあたしを見つけられんじゃった…

#「渺渺録」(企業擬人化)
ある小説を書いている。投稿したい、という決心がついたので、ダラダラつづけないであと一ヶ月、それこそ8月半ばには上げたいと思う。
沖縄で詩を書くとはどういうことか?それはことばが〈近代〉として充分に体験されていないところで、しかも物質としての〈近代〉がはげしい速度で都市を変客させ、村の〈共同体〉を破壊していく情況に挾撃されつつ自らのアドレッセンスを追訊する魂の行為となる以外にないだろう。地方に在りながら地方を対象化するということは、単なる土着への依拠によっては果されないし、また土着からの離反として言葉を円環化するところにもあり得ない。土から身を離する論理を縦深化すると共に、その論理化の過程で風土の肉感を体現すること――これ以外に地方に在って詩を書く方法はないのではなかろうか。それを前提にする限り、どんな言葉の実験も可能だし、どんな思想を方法化するのも可能だといえよう。

/「感受性の変容」『情念の力学』
あなたが「フォロワー!」とインターネット空間に語りかける、その声はある種の自意識と共同体意識を孕んでいる
フォロワー、わかるよ…!って一人脳内で架空投稿しとる
先ほどの、SNSは一人ぼんやり見ているだけで私も「そこに居る」という錯覚を起こすんだけど、実際は投稿して存在を顕示ない限り、私はそこに居ません、というのが最近は多い。
気持ちでは50投稿くらいしているのに、実際はフォロワーの投稿に一人「想って」いるだけ、という…
漫画は何かしらへの「祈り」で描くものなのだが、小説は明確な「社会への怒り」で書くと良いっておばあちゃんが言ってました