カテゴリ「小説」に属する投稿[31件]
2025年3月19日 この範囲を時系列順で読む
2025年3月18日 この範囲を時系列順で読む
…………
…整備を終え、自発的シャットダウンから再起動したあなたは疑問に思う。(何か、長いメディアのようなものを観ていたような気がする。)あなたはそんな問いをすぐに不要なものだと消去し、起き上がり、人間の服を着る。そしていつものようにメンサーの安全の確認をする。彼女の警備に立つ。あなたは警備ユニットなのだから。
《終》
※で物語は終わる
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
…整備を終え、自発的シャットダウンから再起動したあなたは疑問に思う。(何か、長いメディアのようなものを観ていたような気がする。)あなたはそんな問いをすぐに不要なものだと消去し、起き上がり、人間の服を着る。そしていつものようにメンサーの安全の確認をする。彼女の警備に立つ。あなたは警備ユニットなのだから。
《終》
※で物語は終わる
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
あなたはグラシンが苦手だ、と感じている。いや、はっきりと嫌いだ、と思っている。彼の屈強そうな身体は、自分の上を走り去っていった多くの男たちを思い出すからかもしれない。(彼の無愛想さと不寛容さは、きっと紙一重に違いない。)あるいは強化人間という技術を、彼の自分への加害手段だと感じてしまうのかもしれない。そういう被害妄想に浸る自分が一番嫌になるからなのかも。そして、彼のような、人間という身分があって、技術があって、強く、円満な人間を、他者というものを、羨ましく、また憎いと思っている自分に気づいてしまう。あなたは、わたしに害を加えられる技術があればなあ、と思う。わたしが人間だったらな、と感じる。屈強な男だったら、とも。
グラシンも一度、あなたに靴を贈ってくれて、それはあなたの部屋の一番奥、手の届かない場所にしまいこまれている。あなたはそのことについて何も言わないし、グラシンもそれに触れない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
グラシンも一度、あなたに靴を贈ってくれて、それはあなたの部屋の一番奥、手の届かない場所にしまいこまれている。あなたはそのことについて何も言わないし、グラシンもそれに触れない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
2025年3月7日 この範囲を時系列順で読む
#「時代の横顔」(企業・組織擬人化)
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということを理解してあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。普通の人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。ほんとうはそれができたんですよ。……できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやしたまま、戦争みたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも語るすべなく、ただ生活するしかなかった。でも、生活をするという人間の……当たり前の生き方が……あれが彼が滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。あたしは話はできなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということを理解してあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。普通の人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。ほんとうはそれができたんですよ。……できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやしたまま、戦争みたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも語るすべなく、ただ生活するしかなかった。でも、生活をするという人間の……当たり前の生き方が……あれが彼が滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。あたしは話はできなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
#「時代の横顔」(企業・組織擬人化)
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう…………?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。でよくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう危うい関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。あたしは海軍さんが八八艦隊をフルコンプしたかったとかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。今から思えば、あたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら負けですよね、そんなの。そんなのあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよ。一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、すこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いていて……だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんなことに共鳴しないでちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。知らないけど。
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう…………?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。でよくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう危うい関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。あたしは海軍さんが八八艦隊をフルコンプしたかったとかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。今から思えば、あたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら負けですよね、そんなの。そんなのあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよ。一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、すこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いていて……だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんなことに共鳴しないでちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。知らないけど。
2024年10月5日 この範囲を時系列順で読む
架空文学論『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』
Ⅰ
1ディアスポラの海
2人間たちの喧騒
Ⅱ
1航海日誌から戦闘詳報へ
2特設艦艇の「故郷喪失」
3〈艦船一体〉の思想
特設艦艇の「故郷喪失」
一九六七年に日本船霊戦没記念会が発行した『戦時船舶文学大系』は、太平洋戦争時の船舶らが書いた文学を論じた文学研究書です。この序文には、以下のような記述があります。
「本書では、日本海軍に徴用されのちに艦艇に改造された船舶、いわゆる特設艦艇の文学を扱うことは、日本海軍の一員として全く違う道を歩んだ艦艇の文学を扱うことになるとの意見が出た」(本書、十頁)。
「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学かという線引きをはっきりさせるためにも、特設艦艇らの文学――彼らの書いた手記や往復書簡、小説や自伝――は除くことにした」(本書、十二頁、傍点は筆者による)。
あえてこのような書き方がなされているということは、日本船霊戦没記念会の会員の間では、『戦時船舶文学大系』で特設艦艇の文学を扱うことも検討されたのでしょう。結局、彼らにとって「特設艦艇文学は艦艇文学であった」ため、特設艦艇文学は『戦時船舶文学大系』から除かれることになったわけですが、はたしてそれが最良の選択だったと言いきれるでしょうか。
船舶に属しながらも総動員の名分のもと艦艇として生きざるを得なかった特設艦艇らの文学は、戦時下に目指されていた「艦船一体」の思想を紐解くにあたって、非常に有益な研究対象となるはずです。「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学か」――この艦船の切り分けに近い思想は、海運が戦時中に被った膨大な被害ゆえに軍を忌避するものであり、同様の不信感が、海運業界の人間らで構成されていた日本船霊戦没記念会にも存在したのかもしれません。
船舶として受け入れられない特設艦艇の艦霊は、時として艦艇の艦霊として受け入れられないこともありました。興味深いことに、商船から軍艦へと改造された特設艦艇らは、しばしば日本海軍内の艦艇たちに「成り上がり」として認識されていたのです(同時に船舶たちにしてみれば、特設艦艇らは再び船に戻ることのできない「成り下がり」でした)。生まれた時から菊の御紋を頂く軍艦たちにとって、特設艦艇らは急ごしらえの兵役のための船でしかなかったのです。
航空母艦「冲鷹」乗組員手記会が戦後に編纂した『海浪録』は、貨客船「新田丸」が航空母艦「冲鷹」として戦没するまでを記録した乗員や関係者の証言集です。この証言集からは、貨客船が軍に徴用され輸送艦となり、またのちに軍艦になることの船霊の心情が読み取れます。また、この証言集を補完するのは冲鷹(新田丸)自身の書いていた手記であり、一隻の船、一人の船霊の船生を追うには貴重な資料です。
「貨客船でも輸送艦でも、物や人を運ぶのは変わらないわ。私は海軍でもうまくやっていける、海はいつも優しかった」(二十九頁)と新田丸は日記に書いています。徴用前夜の一九四一年九月初頭のことです。
「快活でいて上品、まさに日本郵船の船、日本郵船のイニシャルを冠するにふさわしい令嬢でした。彼女自身も『新田丸という名前の由来を御存知?』とよく周りに触れて回っていたようです。きっと誇らしかったのでしょう。『輸送艦になると船名は変わってしまうのか』、と彼女に尋ねられたことを覚えています」(一七六頁)という関係者の証言は、新田丸が自身のアイデンティティを貨客船に置いていたこと、またあくまで自身の未来が輸送艦どまりであると信じていたことを示しています。
しかし御存知の通り、輸送艦「新田丸」は航空母艦「冲鷹」となります。航空母艦時代の冲鷹を示す一番端的な証言は、「冲鷹」乗組員が証言する「大鷹」の言葉でしょう。
姉妹艦が心配か、と私は大鷹に尋ねました。冲鷹のそばで大鷹の姿を見ることがしばしばあったからです。大鷹は「はい」と答えました。妹を心配する優しい兄なのだろうと思いました。しかし、ある日ふと私にこう漏らしたことがあります。「貨客船が海軍で貧弱な輸送艦として使役されていくうちに、艦であること、強くあること、強い権威と地位があることを願い、軍艦に改造され、段々と中身も艦になり、艦となって艦船を使役するようになる元船」。「『弱者の身振り』。冲鷹を見ていると、そんな考えが浮かんでならなかった」と。(二六四-二六五頁)
*****
ここで私は、太平洋戦争時に徴用された船舶たち、あるいは海軍の艦艇となった特設艦艇たちの書いた私小説や手記などの文学を「後日譚文学」と定義しようと思います。本来船舶が持っていたはずの海運や船としての名前、運ぶはずだった一等乗客の存在は、いわば海の上で生きる彼らにとっては自分の船生そのものであり、その穏やかな海の上は船たちの「国」そのものでした。ところが御承知の通り、あの戦争で船舶らが得たものは、勇ましい鷹としての名前、石油や物資、航空機の輸送、あるいは火の中の海でのごく僅かな戦果と広大な一枚下の地獄だったのです。船舶らの「国」は亡国となり、あの平穏だったはずの海は、大破した艦から漏れ出す石油の燃える苛烈な海となりました。彼らはその新しい「国」に適応せざるを得ない状況へと追いやられ、人間でいうところのディアスポラ――移民や植民したもの――という立場に置かれたのです。
そして私が彼らの残した手記や文学を通して知ったのは、彼らが戦場の海になる前の平和な世界の海を欲していたということです。興味深いことに、これは開戦後に生まれたはずの戦時標準船らの文学にも見受けられました。彼らは戦下の海しか知らないにもかかわらず、素敵だったはずの昨日の海を欲していたのです。「素敵だったはずの昨日の海」、あるいは「昔の海」「少し前の頃の海では」「海が凪いでいた時のこと」、これらはどの戦時下の船舶文学でも共通して見受けられる記述です。今は亡き「国」を郷愁する船舶らの文学、それが「後日譚文学」です。
#「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)
Ⅰ
1ディアスポラの海
2人間たちの喧騒
Ⅱ
1航海日誌から戦闘詳報へ
2特設艦艇の「故郷喪失」
3〈艦船一体〉の思想
特設艦艇の「故郷喪失」
一九六七年に日本船霊戦没記念会が発行した『戦時船舶文学大系』は、太平洋戦争時の船舶らが書いた文学を論じた文学研究書です。この序文には、以下のような記述があります。
「本書では、日本海軍に徴用されのちに艦艇に改造された船舶、いわゆる特設艦艇の文学を扱うことは、日本海軍の一員として全く違う道を歩んだ艦艇の文学を扱うことになるとの意見が出た」(本書、十頁)。
「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学かという線引きをはっきりさせるためにも、特設艦艇らの文学――彼らの書いた手記や往復書簡、小説や自伝――は除くことにした」(本書、十二頁、傍点は筆者による)。
あえてこのような書き方がなされているということは、日本船霊戦没記念会の会員の間では、『戦時船舶文学大系』で特設艦艇の文学を扱うことも検討されたのでしょう。結局、彼らにとって「特設艦艇文学は艦艇文学であった」ため、特設艦艇文学は『戦時船舶文学大系』から除かれることになったわけですが、はたしてそれが最良の選択だったと言いきれるでしょうか。
船舶に属しながらも総動員の名分のもと艦艇として生きざるを得なかった特設艦艇らの文学は、戦時下に目指されていた「艦船一体」の思想を紐解くにあたって、非常に有益な研究対象となるはずです。「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学か」――この艦船の切り分けに近い思想は、海運が戦時中に被った膨大な被害ゆえに軍を忌避するものであり、同様の不信感が、海運業界の人間らで構成されていた日本船霊戦没記念会にも存在したのかもしれません。
船舶として受け入れられない特設艦艇の艦霊は、時として艦艇の艦霊として受け入れられないこともありました。興味深いことに、商船から軍艦へと改造された特設艦艇らは、しばしば日本海軍内の艦艇たちに「成り上がり」として認識されていたのです(同時に船舶たちにしてみれば、特設艦艇らは再び船に戻ることのできない「成り下がり」でした)。生まれた時から菊の御紋を頂く軍艦たちにとって、特設艦艇らは急ごしらえの兵役のための船でしかなかったのです。
航空母艦「冲鷹」乗組員手記会が戦後に編纂した『海浪録』は、貨客船「新田丸」が航空母艦「冲鷹」として戦没するまでを記録した乗員や関係者の証言集です。この証言集からは、貨客船が軍に徴用され輸送艦となり、またのちに軍艦になることの船霊の心情が読み取れます。また、この証言集を補完するのは冲鷹(新田丸)自身の書いていた手記であり、一隻の船、一人の船霊の船生を追うには貴重な資料です。
「貨客船でも輸送艦でも、物や人を運ぶのは変わらないわ。私は海軍でもうまくやっていける、海はいつも優しかった」(二十九頁)と新田丸は日記に書いています。徴用前夜の一九四一年九月初頭のことです。
「快活でいて上品、まさに日本郵船の船、日本郵船のイニシャルを冠するにふさわしい令嬢でした。彼女自身も『新田丸という名前の由来を御存知?』とよく周りに触れて回っていたようです。きっと誇らしかったのでしょう。『輸送艦になると船名は変わってしまうのか』、と彼女に尋ねられたことを覚えています」(一七六頁)という関係者の証言は、新田丸が自身のアイデンティティを貨客船に置いていたこと、またあくまで自身の未来が輸送艦どまりであると信じていたことを示しています。
しかし御存知の通り、輸送艦「新田丸」は航空母艦「冲鷹」となります。航空母艦時代の冲鷹を示す一番端的な証言は、「冲鷹」乗組員が証言する「大鷹」の言葉でしょう。
姉妹艦が心配か、と私は大鷹に尋ねました。冲鷹のそばで大鷹の姿を見ることがしばしばあったからです。大鷹は「はい」と答えました。妹を心配する優しい兄なのだろうと思いました。しかし、ある日ふと私にこう漏らしたことがあります。「貨客船が海軍で貧弱な輸送艦として使役されていくうちに、艦であること、強くあること、強い権威と地位があることを願い、軍艦に改造され、段々と中身も艦になり、艦となって艦船を使役するようになる元船」。「『弱者の身振り』。冲鷹を見ていると、そんな考えが浮かんでならなかった」と。(二六四-二六五頁)
*****
ここで私は、太平洋戦争時に徴用された船舶たち、あるいは海軍の艦艇となった特設艦艇たちの書いた私小説や手記などの文学を「後日譚文学」と定義しようと思います。本来船舶が持っていたはずの海運や船としての名前、運ぶはずだった一等乗客の存在は、いわば海の上で生きる彼らにとっては自分の船生そのものであり、その穏やかな海の上は船たちの「国」そのものでした。ところが御承知の通り、あの戦争で船舶らが得たものは、勇ましい鷹としての名前、石油や物資、航空機の輸送、あるいは火の中の海でのごく僅かな戦果と広大な一枚下の地獄だったのです。船舶らの「国」は亡国となり、あの平穏だったはずの海は、大破した艦から漏れ出す石油の燃える苛烈な海となりました。彼らはその新しい「国」に適応せざるを得ない状況へと追いやられ、人間でいうところのディアスポラ――移民や植民したもの――という立場に置かれたのです。
そして私が彼らの残した手記や文学を通して知ったのは、彼らが戦場の海になる前の平和な世界の海を欲していたということです。興味深いことに、これは開戦後に生まれたはずの戦時標準船らの文学にも見受けられました。彼らは戦下の海しか知らないにもかかわらず、素敵だったはずの昨日の海を欲していたのです。「素敵だったはずの昨日の海」、あるいは「昔の海」「少し前の頃の海では」「海が凪いでいた時のこと」、これらはどの戦時下の船舶文学でも共通して見受けられる記述です。今は亡き「国」を郷愁する船舶らの文学、それが「後日譚文学」です。
#「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)
2024年9月14日 この範囲を時系列順で読む
2 孤独の極北
#「海にありて思うもの」(艦船擬人化)
「私はもう軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ軍属」
軍艦冲鷹が、特設運送船あるぜんちな丸の隣の特設運送船某へ放ったこの言葉に、その場は北方海域より寒い空気が漂った。
少々装いが貧相なれども濃紺色の織物で統一された会議室、その窓の外からは、眩しく白い陽が差し込んでいる。あるぜんちな丸はぼんやりと、その白々しい美しさを見つめていた。
「……冲鷹、」と冲鷹をたしなめたのは大鷹型航空母艦のネームシップ、”長兄”たる大鷹であった。
「下らない揶揄は止せ」
「揶揄ではない」
「なら尚更止めろ」
冲鷹を呼ぶ大鷹が一瞬言葉を言い淀んだのは、長女だった元姉に本当は何と呼びかけるつもりだったからなのかな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。
苛立ちを隠そうともしない冲鷹の不興の理由は、隣の特設運送船が何気なく、しかし必死に縋るように護衛艦艇の有無を尋ねたからだ。またそれらの具体的な艦種や艦名や、任務の内容なども。あのう、あたしたちにはどのくらいの護衛がつくのでしょうか、強い艦ですか、船団の形はどんなでしょうか、遅い船はいっしょに居ますか、航路は島沿いですか、何ノットで走るんですか、あたし……。
それが自身を救う祈りの言葉になるかのようにぶつぶつと言いつのった彼女に、大鷹は明快にまた冷淡に、
「海防艦が付くと聞く。貴船の監督官の説明を待て」
と言い切り、一方的に話を打ち切った。
でも、でも、それに……と、なおも彼女は話を続けようとし、救いを求めるように大鷹の隣の冲鷹を見遣った。
そこで話は、冒頭へと戻るわけだ。
あるぜんちな丸は一つの陳腐な演劇を見ているような白けた気持ちになっていた。下らないやり取りを続ける三者三様に気づかれないように机の下で、つまらない気持ちで爪先の汚れを擦り取って、演技の続きを待っている。
誰もが次の台詞を忘れたような苦しい沈黙のなかで、この劇一番の花形であった軍艦冲鷹は、いらいらとした様子で押し黙っていた。白手袋をつけた両手の親指を、神経質に動かしている。彼女は異常潔癖のきらいがある。神経質に手口の洗浄を好むのだ。
軍隊という場に潔癖を感じるのか、元々の性なのか。両方かも知れない。きっと軍属云々だって関係はないのだ。あるぜんちな丸は、冲鷹が貨客船時代の己を愛していたことを知っていた。というより、わかっていた。わかってしまうのだ。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。この特設運送船の口調が民間船の、というより平民のそれだったことが、冲鷹の神経を逆なでしたことの一因かもしれない。
私はもう、軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ、軍属。
このあっさり放られた言葉に含まれる、戦時下の軍隊のふねたちの見事な政治性!元貨客船新田丸は無邪気で哀れ、愚かな軍艦役者だが、彼女のこの言葉の鮮やかさは手放しで褒めてやりたくなった。すなわち、未だ商船の名残を留めたる特設運送船に対し、すでに商船でない商船改造空母が軍艦であることで優越を誇る海軍という場の、露骨なまでの軍隊ざま、すさまじき地獄ぶりである。
ここではそうあることでしか我々は生きれない、という今一度の確認を、あるぜんちな丸は冲鷹から賜ったのだ。そしておそらく、大鷹も。隣の特設運送船も。
「……隼鷹に引けを取ってはならない、戦闘に繰り出すだけが戦ではないんだ、我らは為すべきことを成さねばならない」
隠し切れない屈辱と羨望とをその声に孕ませ航空母艦隼鷹の名を呼んだ冲鷹は、忸怩たる己の現状を直視できていないのだろう。あるいはあえて無視しているのか。
護衛空母あるいは航空機の輸送という職務は、その貨客船の美しい身を捨てさせ、わざわざ航空母艦として改造させてまで必要だったのだろうか。航空母艦としてはまるで宝の持ち腐れだ。だがしかし、小型の商船改造空母として成しえる任務は、せいぜいそれくらいが限界だった。改造された結果の二流空母だ。正直、あるぜんちな丸はそう思っていたし、日本海軍の人間たちもそう思っているかもしれない。おそらく大鷹は思っているだろう。冲鷹だってほんとうはわかってるはずだ。
「だから……!」
これも哀れなふねなのだ、とあるぜんちな丸は思った。あるぜんちな丸の妹同様、かつて受けた愛を忘れられないでいる。再びあの愛情を得られないからこそ積極的に捨て去ろうとしている。自ら進んで捨てることで主体性を確保しようとしている。足掻き、苦しみ、悶えている。今持ちえている(ので、あろう)軍艦の威容を誇ろうとする。わが妹とは違い、貨客船新田丸の姿を留めたまま沈没するという栄誉を得ることはなかった航空母艦、冲鷹。
もし彼女に日本郵船の客船浅間丸を話をしたら、大日本帝国海軍お得意の木棒で打擲されるだろうか。それともむざむざと泣きはじめるかもしれないな。どちらにせよただの特設運送船に出すぎた真似は禁物だ。
だから、という冲鷹の、続きの言葉は聞けずに終わった。
彼女は数秒沈黙し、この場に耐えきれないように荒々しく椅子から立ちあがり、会議室から走り去ってしまった。
時間切れかもな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。あれはたぶん、手を洗いに行っただけだ。口かもしれないが。あるぜんちな丸は冲鷹の、あの種の奇行を数度目撃したことがある。そして興味本位で追いかけてみたことも一度だけある。何かに耐えられないように執拗に手口を洗っていた。あるぜんちな丸は、軍艦冲鷹が貨客船新田丸を愛していたことを知っていた。というより、わかってしまった。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。だからなおさら追いかけてまで見に行ってしまう。確認してしまう。
私のゆくすえは、あんななのか?
「……以上、明朝を待って任務に当たる。詳細は監督官の指示を仰ぐように、と艦長が仰っていた」
気づいたら、大鷹の説明は終わったようだ。というか巻き上げて終わらせた。元姉であり今は妹の冲鷹を追いかけるために。
情けない、士気に関わる、とあるぜんちな丸は鼻白んだ。隣の特設運送船もなおさら不安だろうに。まあ、仕方ないのだろうか。誰しも自分を一番大切に精一杯やっている。明日沈んでいるかもしれないのだ。大鷹が言うように、監督官、人間に話を聞いた方がよっぽどいい。生還の計画の具体性は増すだろう。
だいたい、どうして私が彼女を責められよう、とあるぜんちな丸は思った。……この泣きそうな特設運送船の船名も、私は最後まで覚えられなかったのに。
そのことにふと気づき、あるぜんちな丸は、他の特設運送船や一般徴用船に続いて呆然と椅子から立った。
わたしたちのしろいたいよう、という意味のない言葉があるぜんちな丸の脳裏に浮かんだ。
私たちの白い太陽。
それははたして、いったいどこに?
#「海にありて思うもの」(艦船擬人化)
「私はもう軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ軍属」
軍艦冲鷹が、特設運送船あるぜんちな丸の隣の特設運送船某へ放ったこの言葉に、その場は北方海域より寒い空気が漂った。
少々装いが貧相なれども濃紺色の織物で統一された会議室、その窓の外からは、眩しく白い陽が差し込んでいる。あるぜんちな丸はぼんやりと、その白々しい美しさを見つめていた。
「……冲鷹、」と冲鷹をたしなめたのは大鷹型航空母艦のネームシップ、”長兄”たる大鷹であった。
「下らない揶揄は止せ」
「揶揄ではない」
「なら尚更止めろ」
冲鷹を呼ぶ大鷹が一瞬言葉を言い淀んだのは、長女だった元姉に本当は何と呼びかけるつもりだったからなのかな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。
苛立ちを隠そうともしない冲鷹の不興の理由は、隣の特設運送船が何気なく、しかし必死に縋るように護衛艦艇の有無を尋ねたからだ。またそれらの具体的な艦種や艦名や、任務の内容なども。あのう、あたしたちにはどのくらいの護衛がつくのでしょうか、強い艦ですか、船団の形はどんなでしょうか、遅い船はいっしょに居ますか、航路は島沿いですか、何ノットで走るんですか、あたし……。
それが自身を救う祈りの言葉になるかのようにぶつぶつと言いつのった彼女に、大鷹は明快にまた冷淡に、
「海防艦が付くと聞く。貴船の監督官の説明を待て」
と言い切り、一方的に話を打ち切った。
でも、でも、それに……と、なおも彼女は話を続けようとし、救いを求めるように大鷹の隣の冲鷹を見遣った。
そこで話は、冒頭へと戻るわけだ。
あるぜんちな丸は一つの陳腐な演劇を見ているような白けた気持ちになっていた。下らないやり取りを続ける三者三様に気づかれないように机の下で、つまらない気持ちで爪先の汚れを擦り取って、演技の続きを待っている。
誰もが次の台詞を忘れたような苦しい沈黙のなかで、この劇一番の花形であった軍艦冲鷹は、いらいらとした様子で押し黙っていた。白手袋をつけた両手の親指を、神経質に動かしている。彼女は異常潔癖のきらいがある。神経質に手口の洗浄を好むのだ。
軍隊という場に潔癖を感じるのか、元々の性なのか。両方かも知れない。きっと軍属云々だって関係はないのだ。あるぜんちな丸は、冲鷹が貨客船時代の己を愛していたことを知っていた。というより、わかっていた。わかってしまうのだ。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。この特設運送船の口調が民間船の、というより平民のそれだったことが、冲鷹の神経を逆なでしたことの一因かもしれない。
私はもう、軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ、軍属。
このあっさり放られた言葉に含まれる、戦時下の軍隊のふねたちの見事な政治性!元貨客船新田丸は無邪気で哀れ、愚かな軍艦役者だが、彼女のこの言葉の鮮やかさは手放しで褒めてやりたくなった。すなわち、未だ商船の名残を留めたる特設運送船に対し、すでに商船でない商船改造空母が軍艦であることで優越を誇る海軍という場の、露骨なまでの軍隊ざま、すさまじき地獄ぶりである。
ここではそうあることでしか我々は生きれない、という今一度の確認を、あるぜんちな丸は冲鷹から賜ったのだ。そしておそらく、大鷹も。隣の特設運送船も。
「……隼鷹に引けを取ってはならない、戦闘に繰り出すだけが戦ではないんだ、我らは為すべきことを成さねばならない」
隠し切れない屈辱と羨望とをその声に孕ませ航空母艦隼鷹の名を呼んだ冲鷹は、忸怩たる己の現状を直視できていないのだろう。あるいはあえて無視しているのか。
護衛空母あるいは航空機の輸送という職務は、その貨客船の美しい身を捨てさせ、わざわざ航空母艦として改造させてまで必要だったのだろうか。航空母艦としてはまるで宝の持ち腐れだ。だがしかし、小型の商船改造空母として成しえる任務は、せいぜいそれくらいが限界だった。改造された結果の二流空母だ。正直、あるぜんちな丸はそう思っていたし、日本海軍の人間たちもそう思っているかもしれない。おそらく大鷹は思っているだろう。冲鷹だってほんとうはわかってるはずだ。
「だから……!」
これも哀れなふねなのだ、とあるぜんちな丸は思った。あるぜんちな丸の妹同様、かつて受けた愛を忘れられないでいる。再びあの愛情を得られないからこそ積極的に捨て去ろうとしている。自ら進んで捨てることで主体性を確保しようとしている。足掻き、苦しみ、悶えている。今持ちえている(ので、あろう)軍艦の威容を誇ろうとする。わが妹とは違い、貨客船新田丸の姿を留めたまま沈没するという栄誉を得ることはなかった航空母艦、冲鷹。
もし彼女に日本郵船の客船浅間丸を話をしたら、大日本帝国海軍お得意の木棒で打擲されるだろうか。それともむざむざと泣きはじめるかもしれないな。どちらにせよただの特設運送船に出すぎた真似は禁物だ。
だから、という冲鷹の、続きの言葉は聞けずに終わった。
彼女は数秒沈黙し、この場に耐えきれないように荒々しく椅子から立ちあがり、会議室から走り去ってしまった。
時間切れかもな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。あれはたぶん、手を洗いに行っただけだ。口かもしれないが。あるぜんちな丸は冲鷹の、あの種の奇行を数度目撃したことがある。そして興味本位で追いかけてみたことも一度だけある。何かに耐えられないように執拗に手口を洗っていた。あるぜんちな丸は、軍艦冲鷹が貨客船新田丸を愛していたことを知っていた。というより、わかってしまった。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。だからなおさら追いかけてまで見に行ってしまう。確認してしまう。
私のゆくすえは、あんななのか?
「……以上、明朝を待って任務に当たる。詳細は監督官の指示を仰ぐように、と艦長が仰っていた」
気づいたら、大鷹の説明は終わったようだ。というか巻き上げて終わらせた。元姉であり今は妹の冲鷹を追いかけるために。
情けない、士気に関わる、とあるぜんちな丸は鼻白んだ。隣の特設運送船もなおさら不安だろうに。まあ、仕方ないのだろうか。誰しも自分を一番大切に精一杯やっている。明日沈んでいるかもしれないのだ。大鷹が言うように、監督官、人間に話を聞いた方がよっぽどいい。生還の計画の具体性は増すだろう。
だいたい、どうして私が彼女を責められよう、とあるぜんちな丸は思った。……この泣きそうな特設運送船の船名も、私は最後まで覚えられなかったのに。
そのことにふと気づき、あるぜんちな丸は、他の特設運送船や一般徴用船に続いて呆然と椅子から立った。
わたしたちのしろいたいよう、という意味のない言葉があるぜんちな丸の脳裏に浮かんだ。
私たちの白い太陽。
それははたして、いったいどこに?
1 南洋の追想
#「海にありて思うもの」(艦船擬人化)
「ふねなんだから使ってナンボだ。貨客船も運送船も何も変わらん。そうだろう、あるぜんちな丸」
そうです、と答えた特設運送船あるぜんちな丸の口調は柔らかかった。たおやかな乙女、それに近かった。
それが海軍さんにとっておかしかったらしい。陸戦隊のお偉い人間の一人が小さく笑った。
「いつまでも貨客船意識を持つんじゃないぞ」
「こいつは箱入り娘でしたから、相すみません」
貨客船時代からの乗組員が、腰を低く保ちながら言った。
長年付き合ってきた経験から、その声に苦渋と反発が隠れていることがわかった。あるぜんちな丸はこれからの航海の行く先を思った。長く続く一引きの航跡を想った。
*
祖国と南洋の間の海に、その船はあった。
日本の国土で見あげる空よりも、ひろい青色の下に彼女はいた。一引きの航跡が、荒々しく碧い波を攪乱させる。
特設運送船あるぜんちな丸は、船尾から呆けたようにその航跡を覗き込んでいた。
湿度を含んだ生温い風がきもちわるい、と思った。
ふねのえがく航跡は、艦種も船種も関係なくどれも同じ様相をしている。船尾にかき乱された海に立つ波は、どの艦船も同じだ。もっともそんな認識は、実際を詳しく知らない者が抱きがちな、自分勝手なこじつけか、ただの印象論なのかもしれない。
特設航空母艦、そして航空母艦になっても、私はおなじ航跡をえがくのだろうか。あるぜんちな丸はなんとなく、そんな感傷にとらわれた。自分らしくないと思った。特設運送船としての任務で海を右往左往していて、すこし疲れているのかもしれなかった。
ふう、と一つため息をつき、あるぜんちな丸は航跡に背を向け船尾にしゃがみこんだ。することがなかった。自分は船の依り代でしかなく、人間の女の身とまるでおなじで輸送任務の乗り込みの一つすら手伝うことができない。任務の目的、向かう場所、具体的な情報などは聞かされるが、それすら時折忘れられて聞かされないことがあった。
人間たちは戦争で忙しく、船は物資を運べればそれでよく、われら依り代はそこにいればいいだけなのだ。
あるぜんちな丸の頭上に翻るのは、大日本帝国海軍の軍用船旗だ。これもなんとなく気に食わなかった。彼女は、船客には絶対に向けなかった品のない目つきでその旗を見上げた。
過去と未来に期待も失望もしないことが自分の美点であり優れた点だとあるぜんちな丸は知っていた。だからなおさらその感傷を人間みたいな情念だと感じた。あるいは人間みたいな、ではなく、この時代の海に浮かぶすべての貨客船たちのような恨み、というべきか。
社旗と日章旗ではなく、日章旗と軍艦旗あるいは軍用船旗を掲げなければならなくなった世界を、その日章旗の位置の前後の逆転を示して「前と後ろが狂ったおかしな世界」と罵ったのは、彼女の妹だった。
「見よ東海󠄀の空󠄁明󠄁けて、旭日高く輝けば……」
あるぜんちな丸は人間たちに愛されている一曲を呟く。
人間たちはもう、あの世界を忘れてしまったのだろうか。
うつくしく舞う五色のテープ。翻る日章旗。解纜のときの浮ついた幸福感。身の寄り辺である祖国との離別。たとえその船の行く先が、草も生えない開拓地だろうが未開の地だろうが、そのうつくしさは誰にも犯せない。それを一番近くで見てきたこと。一番近くで感じてきたこと。
多くの貨客船たちは、そのことを忘れられずにいる。
たとえば、大阪商船の貨客船ぶら志"る丸もその一隻だった。
船であることというよりも貨客船であることにつよく誇りと自負があったわが妹、ぶら志"る丸は、航空母艦としての誉れを受ける前にその身を海深くへと没していた。あれは亜米利加軍の雷撃がなくとも、たとえ一隻でも自ら死を選んだに違いない、というのが彼女の姉たるあるぜんちな丸の見解である。わが身を帝国海軍の航空母艦何鷹云々に成すなんて、あの子は決して許さなかっただろう。
実際、特設運送船ぶらじる丸になったあたりからあれは明らかに精神的不調を抱えていたし、その不調はその当時の軍隊での疲労や苦痛というよりもむしろ、それ以前に持ちえた過去が問題なのだった。
貨客船として人間達に愛されすぎたのだ、と海鷹は思った。妹はその愛情溢れる過去を過去であると捨て去ることができなかったのだ。そうしてわが身いっぱいに重い思い出を抱えた彼女は米潜の雷撃で沈んでいった。過去と共に。船の身と共に。誇りと共に。愛しき船長と共に。
人間全般にも特定の人間にも貨客船としての自分にも、あるいは海に浮くことにすらつよい愛着を持たなかったことが特設輸送船あるぜんちな丸を海へと沈めなかった要因なのかもしれない。
「あるぜんちな丸!ここに居たか」
そう言いながら船尾に現れたのは特設運送船あるぜんちな丸の監督官である。
海軍の中佐たる彼はいつも堂々としていて、これが軍隊の人間なのだな、とあるぜんちな丸はいつも思っていた。もちろん船乗りたちが堂々としていないわけではないのだが。戦争中の軍人たちはとりわけ威勢がいいものだ。
「やることがないのはわかるが無意味にうろつくな」
「申し訳ございません。船内に居ても邪魔になるだけかと思いました」
ふう、と監督官は一つ小さなため息をついた。あるぜんちな丸を見据え、なおはっきりとした口調で言う。よくよく言い聞かせようとしたらしい。
「あるぜんちな丸。海軍はふねを悪いようには扱わない。特にお前は航空母艦になる船だ」
目と目が合う。
どちらも先に逸らした方が負けだと思っている、そのようにあるぜんちな丸は感じた。だからなおさら目線を逸らすわけにはいかなかった。
「今は耐え忍べ。沈まないことを考えろ。海軍はお前に価値があるうちは悪くしない」
「私の乗組員はどうなりますか」
「人間様だって一緒さ」
肩を竦めて大日本帝国海軍中佐たる監督官は言った。
ふねとしての価値。
だいたい私たち元貨客船が戦闘詳報で自らの栄光を語れるかどうかが問題なのだ。航海日誌の横文字の英語の綴りなど捨て去れねばならないのだ。
人間にほんとうにその気持ちがわかるのだろうか。
元貨客船のなかには、艦梯を登る際に大きくだぼついた軍袴の横部をドレスを引くように掴んで笑われた者もいるというのだから、その身に宿すふねの性は深いものだ。人間たちは、そのことを都合よく忘れている気がする。ふねは皆ふねでしかない、という幻想が人間たちの思惑の間いっぱいに漂っている。特設艦艇という身に貨客船たちが容易に適応できると思っている。もちろんそうある船はいる。そうじゃない船もいる。人間たちの国家や国籍や民族名を統合したり分割したりしても、容易にその心情までは追いついてこないのとおなじだ。もっとも本土に閉じこもっている偉い人間たちがそれに気づくとも思えない。あるぜんちな丸は外国が好きだった。外国や外国人、外国にいる、外国に行く日本人が好きだった。本土の人間は小さくて適わん、という言葉は船長から三等客までに、そして船底の唐行きたちにさえも聞かせられる囁きだった。
航空母艦になるための船じゃないんだけどな、という思いと、生まれた時から航空母艦としての計画を備えた船だった、という事実が、あるぜんちな丸の身と心を縛った。この時代に生まれたという事実がいけなかったのかもしれなかった。
あるいは、私が私自身として生まれたことが。
「航空母艦になれば、とりあえず私は船尾をうろつくことがなくなりますね」
「そうだな、どこでも引っ張りだこだ。海軍で航空母艦をやるというのはそういうことだ。忙しくなるぞ」
船底がどれだけ奥深く薄暗くても白粉姿の貨客船はいつもうつくしかった。そのうつくしさで多くの人間を惹き寄せ、惑わせてきた。そのつけが自身にも回ってきたのかもしれなかった。連れて行くのではなく連れて行かれる側に回ったということ。ただそれだけのこと。
航空母艦何鷹か、変な名前だったら嫌だなあ。
あるぜんちな丸はそう思った。もっとも名前なんぞ、軍の一兵として忙しくなればすぐに忘れるものなのかもしれなかった。軍隊というのはそういう場所だというのは、特設運送船でもすでにわかりつつあったのだ。
#「海にありて思うもの」(艦船擬人化)
「ふねなんだから使ってナンボだ。貨客船も運送船も何も変わらん。そうだろう、あるぜんちな丸」
そうです、と答えた特設運送船あるぜんちな丸の口調は柔らかかった。たおやかな乙女、それに近かった。
それが海軍さんにとっておかしかったらしい。陸戦隊のお偉い人間の一人が小さく笑った。
「いつまでも貨客船意識を持つんじゃないぞ」
「こいつは箱入り娘でしたから、相すみません」
貨客船時代からの乗組員が、腰を低く保ちながら言った。
長年付き合ってきた経験から、その声に苦渋と反発が隠れていることがわかった。あるぜんちな丸はこれからの航海の行く先を思った。長く続く一引きの航跡を想った。
*
祖国と南洋の間の海に、その船はあった。
日本の国土で見あげる空よりも、ひろい青色の下に彼女はいた。一引きの航跡が、荒々しく碧い波を攪乱させる。
特設運送船あるぜんちな丸は、船尾から呆けたようにその航跡を覗き込んでいた。
湿度を含んだ生温い風がきもちわるい、と思った。
ふねのえがく航跡は、艦種も船種も関係なくどれも同じ様相をしている。船尾にかき乱された海に立つ波は、どの艦船も同じだ。もっともそんな認識は、実際を詳しく知らない者が抱きがちな、自分勝手なこじつけか、ただの印象論なのかもしれない。
特設航空母艦、そして航空母艦になっても、私はおなじ航跡をえがくのだろうか。あるぜんちな丸はなんとなく、そんな感傷にとらわれた。自分らしくないと思った。特設運送船としての任務で海を右往左往していて、すこし疲れているのかもしれなかった。
ふう、と一つため息をつき、あるぜんちな丸は航跡に背を向け船尾にしゃがみこんだ。することがなかった。自分は船の依り代でしかなく、人間の女の身とまるでおなじで輸送任務の乗り込みの一つすら手伝うことができない。任務の目的、向かう場所、具体的な情報などは聞かされるが、それすら時折忘れられて聞かされないことがあった。
人間たちは戦争で忙しく、船は物資を運べればそれでよく、われら依り代はそこにいればいいだけなのだ。
あるぜんちな丸の頭上に翻るのは、大日本帝国海軍の軍用船旗だ。これもなんとなく気に食わなかった。彼女は、船客には絶対に向けなかった品のない目つきでその旗を見上げた。
過去と未来に期待も失望もしないことが自分の美点であり優れた点だとあるぜんちな丸は知っていた。だからなおさらその感傷を人間みたいな情念だと感じた。あるいは人間みたいな、ではなく、この時代の海に浮かぶすべての貨客船たちのような恨み、というべきか。
社旗と日章旗ではなく、日章旗と軍艦旗あるいは軍用船旗を掲げなければならなくなった世界を、その日章旗の位置の前後の逆転を示して「前と後ろが狂ったおかしな世界」と罵ったのは、彼女の妹だった。
「見よ東海󠄀の空󠄁明󠄁けて、旭日高く輝けば……」
あるぜんちな丸は人間たちに愛されている一曲を呟く。
人間たちはもう、あの世界を忘れてしまったのだろうか。
うつくしく舞う五色のテープ。翻る日章旗。解纜のときの浮ついた幸福感。身の寄り辺である祖国との離別。たとえその船の行く先が、草も生えない開拓地だろうが未開の地だろうが、そのうつくしさは誰にも犯せない。それを一番近くで見てきたこと。一番近くで感じてきたこと。
多くの貨客船たちは、そのことを忘れられずにいる。
たとえば、大阪商船の貨客船ぶら志"る丸もその一隻だった。
船であることというよりも貨客船であることにつよく誇りと自負があったわが妹、ぶら志"る丸は、航空母艦としての誉れを受ける前にその身を海深くへと没していた。あれは亜米利加軍の雷撃がなくとも、たとえ一隻でも自ら死を選んだに違いない、というのが彼女の姉たるあるぜんちな丸の見解である。わが身を帝国海軍の航空母艦何鷹云々に成すなんて、あの子は決して許さなかっただろう。
実際、特設運送船ぶらじる丸になったあたりからあれは明らかに精神的不調を抱えていたし、その不調はその当時の軍隊での疲労や苦痛というよりもむしろ、それ以前に持ちえた過去が問題なのだった。
貨客船として人間達に愛されすぎたのだ、と海鷹は思った。妹はその愛情溢れる過去を過去であると捨て去ることができなかったのだ。そうしてわが身いっぱいに重い思い出を抱えた彼女は米潜の雷撃で沈んでいった。過去と共に。船の身と共に。誇りと共に。愛しき船長と共に。
人間全般にも特定の人間にも貨客船としての自分にも、あるいは海に浮くことにすらつよい愛着を持たなかったことが特設輸送船あるぜんちな丸を海へと沈めなかった要因なのかもしれない。
「あるぜんちな丸!ここに居たか」
そう言いながら船尾に現れたのは特設運送船あるぜんちな丸の監督官である。
海軍の中佐たる彼はいつも堂々としていて、これが軍隊の人間なのだな、とあるぜんちな丸はいつも思っていた。もちろん船乗りたちが堂々としていないわけではないのだが。戦争中の軍人たちはとりわけ威勢がいいものだ。
「やることがないのはわかるが無意味にうろつくな」
「申し訳ございません。船内に居ても邪魔になるだけかと思いました」
ふう、と監督官は一つ小さなため息をついた。あるぜんちな丸を見据え、なおはっきりとした口調で言う。よくよく言い聞かせようとしたらしい。
「あるぜんちな丸。海軍はふねを悪いようには扱わない。特にお前は航空母艦になる船だ」
目と目が合う。
どちらも先に逸らした方が負けだと思っている、そのようにあるぜんちな丸は感じた。だからなおさら目線を逸らすわけにはいかなかった。
「今は耐え忍べ。沈まないことを考えろ。海軍はお前に価値があるうちは悪くしない」
「私の乗組員はどうなりますか」
「人間様だって一緒さ」
肩を竦めて大日本帝国海軍中佐たる監督官は言った。
ふねとしての価値。
だいたい私たち元貨客船が戦闘詳報で自らの栄光を語れるかどうかが問題なのだ。航海日誌の横文字の英語の綴りなど捨て去れねばならないのだ。
人間にほんとうにその気持ちがわかるのだろうか。
元貨客船のなかには、艦梯を登る際に大きくだぼついた軍袴の横部をドレスを引くように掴んで笑われた者もいるというのだから、その身に宿すふねの性は深いものだ。人間たちは、そのことを都合よく忘れている気がする。ふねは皆ふねでしかない、という幻想が人間たちの思惑の間いっぱいに漂っている。特設艦艇という身に貨客船たちが容易に適応できると思っている。もちろんそうある船はいる。そうじゃない船もいる。人間たちの国家や国籍や民族名を統合したり分割したりしても、容易にその心情までは追いついてこないのとおなじだ。もっとも本土に閉じこもっている偉い人間たちがそれに気づくとも思えない。あるぜんちな丸は外国が好きだった。外国や外国人、外国にいる、外国に行く日本人が好きだった。本土の人間は小さくて適わん、という言葉は船長から三等客までに、そして船底の唐行きたちにさえも聞かせられる囁きだった。
航空母艦になるための船じゃないんだけどな、という思いと、生まれた時から航空母艦としての計画を備えた船だった、という事実が、あるぜんちな丸の身と心を縛った。この時代に生まれたという事実がいけなかったのかもしれなかった。
あるいは、私が私自身として生まれたことが。
「航空母艦になれば、とりあえず私は船尾をうろつくことがなくなりますね」
「そうだな、どこでも引っ張りだこだ。海軍で航空母艦をやるというのはそういうことだ。忙しくなるぞ」
船底がどれだけ奥深く薄暗くても白粉姿の貨客船はいつもうつくしかった。そのうつくしさで多くの人間を惹き寄せ、惑わせてきた。そのつけが自身にも回ってきたのかもしれなかった。連れて行くのではなく連れて行かれる側に回ったということ。ただそれだけのこと。
航空母艦何鷹か、変な名前だったら嫌だなあ。
あるぜんちな丸はそう思った。もっとも名前なんぞ、軍の一兵として忙しくなればすぐに忘れるものなのかもしれなかった。軍隊というのはそういう場所だというのは、特設運送船でもすでにわかりつつあったのだ。
2024年9月13日 この範囲を時系列順で読む
名声の葬列
この夜、人間たちが黒の装いをして、互い互いに挨拶を交わしあうさまを彼女は見ていた。さざめくように話す情景になぜか心が休まらない。これもあの男の一つの角出であり、あの男への祝福なのだ、と彼女は思った。
葬式の会場は豪奢な造りだった。夜の灯りが壁色に映えて妙に艶やかだった。そして豪華な食事の大盤振る舞いと来た。人間たちの密かな興奮は、なお一層彼女の心の裡を荒立たせた。
彼女は人間の葬式と結婚式の区別がいまだにつかない(黒白と赤白の装いの何が違うというのだろう?)。悲しむべきときと喜ぶべきときの違いだろうか。けれど人間たちは葬式でも結婚式でも、いやいつだって喜んでは悲しんで、泣いては怒っているではないか。彼らは生きるのに忙しそうで、死ぬのになお急いでいる。そんな人間たちを、彼女はほとほと下らないと思っていた。人間への共感の素養に乏しい、ただの一企業の現し身であった。
この葬式の主役が主役なだけに、式中には予期せぬ事件や暴動、妨害が起きてもおかしくはないと思えた。それでも葬式は無事に何事もなく進行している。
人びとはささやかに慎ましげに、けれど油断なく会場を見渡し、旧知の同業者と迎えるべき商売相手を探し出しては、お悔やみの挨拶を交わす。ついでに(ひどくささやかに、また流れるように)語られるは、わが社の輝かしき躍進や扱う新商品やその商売相手を探していること――ここは数夜限りの特殊な社交界なのだ。主役がすでに亡いだけで。
財界の政界の、日本中の多くの重役、重要人たちがこの場へと駆けつけた。貧乏人たちは場の外にいて葬列を仰ぎ見る。その死を弔うために。ついでに、この死者の周りには常にお金と施しがあったので。さてさて、この内に心の底からお悔やみを申し上げる人間はいくばくなのか……と彼女は思った。勿論人間たちを責めるつもりは毛程もない。私もそのうちの一人だ、というのが彼女の偽らざる気持ちだった。そしてこの死者も天国あるいは地獄あるいは煉獄でそんな皆を嗤っているに違いない。あれはそういう男だった。
あの男を思い出せば思い出すほど、会場の人間たちの喧騒が不快だった。まるで濡れた服が体に張りつくようなじっとりとした嫌な感じがした。彼女はひっそりとその場を抜け、中庭へと出た。天高い夜空が、一人の彼女を孤独にさせた。
煙草に火をつける。
あの男は彼女がいつでも煙草を吸うことに不満そうだったが、止めさせたことはなかった。彼女が女の姿を持つという事実と、彼女が明治日本きっての大海運会社――男の持ちうるいちばんの財産――であること、その両者の板ばさみに悩まされていた。
お前が男だったらな、というのがあの人間の口癖だったし、彼女自身もそう願わなかったといえば、嘘になる。たとえ喫煙ができても、男の聖域かつ牙城たる喫煙室に招かれると居心地が悪かったし、男たちだって居心地が悪そうだった。そのたびに我は人でも女でもなく企業である、と嘯いたものだった。彼女は共感性に乏しく、人間たちの居心地の悪さなど気には留めなかったが、それでもそれは惨めな虚栄の一つになっている。
人間の器がこうも桎梏たり得るとは!
ゆっくりと煙を吐き出し、荼毘の煙と焼香の煙と煙草の煙の類似を考えていた。この煙が天まで届くと思うとこれも愉快なご焼香だが、やはりあの男が安寧の場所にいるとは相思えない。あの男は多くの人間を儲からせては破綻させてきた。人間を幸福にさせたが不幸にもさせた。彼女を創りあげた。企業として。女の器として。そんな彼がどうして安寧な眠りを得られよう。
それでも、死ねば義務からは逃げきれる。その事実に呆然とし、彼女はひとり残された怒りに駆られた。海坊主め、あんたが私を創ったんだぞ。そしてこの現状を作り上げた。あんたは死んだが、私だって数年持つかわからない。あんたの愛した会社と船と社員と金はどうなるんだ。本当に船を燃やし、私に後始末でもつけろというのか。
全く気に食わない。
「うわ、」
と、彼女の後ろから声がした。夜の闇から現れたのはなんと、彼女の唯一の商売敵たる共同運輸会社であった。
いつもの安物で粗野な男物の和服ではなく、洒落た男物の喪服のスーツを着ている。洒落ているのは服だけで、鈍感そうな表情と四方八方に飛んだ髪毛はいつもと変わらない。
「なんで……貴様がここに居るんだ」
「私だって知らんさ。たぶん偵察だ偵察。渋沢さんに連れてこられた」
と相変わらず能天気な顔をしている共同運輸に、この世は馬鹿な人間と馬鹿な会社ばかりだと彼女は思った。あの男の葬儀にぬけぬけとやって来た渋沢も共同運輸も、とんだ阿呆だ。ただの間抜けだ。
一歩こちらに近づいた共同運輸に、一歩引きさがった彼女は舌打ち混じりに言い放った。
「気安く近寄るな庶民が」
「地下浪人上がりが調子乗るなよ馬鹿!……や、おまえ、泣いてんのか?」
泣いているわけなかろう、と呟いた。彼女の声はわずか震えていた。
共同運輸はにやにや下品に笑った。
「いいもん見た。死人の顔も見れてないが腹いっぱいだ。帰ろ帰ろ」
「帰れ」
「帰るさ。また来る。こんな葬式ならいつあっても良い。月に十回は欲しい」
「帰りやがれ!!」
それは鼻声で、喉が詰った、みっともない大声だった。だから共同運輸以上に驚いたのは彼女自身の方だった。おまえ、と呟いた共同運輸は一瞬呆けた顔を晒し、ばつの悪いような表情をしたあと、彼女の顔を下から掬いあげるようにそうっと見上げた。彼女の様子をうかがっている。彼女は共同運輸より数寸は背が高いのだ。人間の現し身を比べ、わずかでも共同運輸を見下げることができるのが彼女の密かな楽しみだった。愚かなことだ、と自身でもわかっていた。
私たちのひとのすがたになど意味はないのに。
三菱蒸気船会社として日本国郵便汽船会社を下してからというもの、彼女は一社一強として日本海運を牽引してきた。それが独占と言われようが強欲と罵られようが変わらなかった。むしろその誹りと軽蔑の視線はひどく心地よかった。口汚く罵る相手の瞳には、同時に常に畏怖と卑屈とがあったからだ。栄光これより大なるはなかったし、それを積極的に快楽として、彼女は企業を生きてきた。
箸が転んでも面白い、もとい箸が転んでも儲かるような面白い海を独占していた彼女の前に現れたのが、今この顔を見上げる共同運輸会社であった。打倒三菱を掲げて生まれた会社であり、初めから彼女の敵たるものとして創られた、愚かな海運企業。
両社互いに船が並べば一歩も航路を譲らずにぶつかるに任せた。彼女の営業する横浜・神戸間の運賃は五円五十銭だったものが、一円五十銭となり一円となり七十五銭となり五十五銭となり二十五銭に景品付きとなる始末。人間たちは愚かだ、と思いながらも値段を繰り下げることに一番熱心だったのが彼女自身だったのだからこの世は阿呆だらけだ。もちろん利潤など生まれず、急激に利益は損失し、両社とも互いが互いを泥沼に引っ張る瀕死状態へとあっけなく転落していった。
「……あのな、こんなうわさ話知ってるか。お上が私たちの争いに介入するんだって」
「……知っている。絶対に嫌だ。汚らしい」
そう吐き捨てた彼女は煙草を捨て、靴で何度も執拗にもみ消した。
「私だって嫌だわい!でも簡単に死ぬわけにはいかないだろ?人間みたいにさ。お国の海と船はどうすんのさ」
という共同運輸の言葉に、彼女はふと胸を突かれた。冷たい刃で胸を割かれたような気持ちになった。私を国賊というのなら私の船を残らず遠州灘に集めて焼き払い財産を自由党に寄付しようぞ、というあの人間の言葉を思い出したからだ。
あの男は結局は日本国の海運を想っていた、だからなおさら政府とその先鋒たる共同運輸を憎んでいた。あの男は海運業を独占していたが、政府がただの政略上の問題で三菱を潰しにかかったのもまた事実であった。その思いが船を焼き払うべし、という悲惨な言葉に繋がり、死の床ですら競争を挑みて敵におくるるなかれと遺言を残して逝ったのだ。人間は阿呆、世は馬鹿ばかり、私も社員も阿呆で政府の人間も阿呆だ。こいつも阿呆のはずなのに、お国の海と船はどうすんのさ、というひどく柔い土着じみた女言葉は、政治や企業人のそれとはほど遠く響き、だからなおさら彼女の心を打った。
言葉を無くした彼女に、共同運輸は言った。
「郵便汽船三菱会社、あんたはどう思うのさ」
私は、と彼女は言いかけて、黙った。
やめたかった。こんなふざけた現状をどうにかしたかった。頑張って得た船も焼きたくなかったし、財産だって保有していたかった。なによりあの男の残したものをむざむざと捨てたくなかった。たとえそこが地獄だろうがそこで嗤っていてほしかった。まるでいじらしい、乙女がよき男に向けるような感情、まったく人間じみていることに気づき、ただただ自己嫌悪に陥り恥じ入った。私は、あの男が憎くなかったのだ。きっと憎くなかったのだ。すべてがまったくの茶番だった。この茶番の主役を岩崎弥太郎という。
(郵便汽船三菱会社と共同運輸会社。日本郵船さんの母と母)
この夜、人間たちが黒の装いをして、互い互いに挨拶を交わしあうさまを彼女は見ていた。さざめくように話す情景になぜか心が休まらない。これもあの男の一つの角出であり、あの男への祝福なのだ、と彼女は思った。
葬式の会場は豪奢な造りだった。夜の灯りが壁色に映えて妙に艶やかだった。そして豪華な食事の大盤振る舞いと来た。人間たちの密かな興奮は、なお一層彼女の心の裡を荒立たせた。
彼女は人間の葬式と結婚式の区別がいまだにつかない(黒白と赤白の装いの何が違うというのだろう?)。悲しむべきときと喜ぶべきときの違いだろうか。けれど人間たちは葬式でも結婚式でも、いやいつだって喜んでは悲しんで、泣いては怒っているではないか。彼らは生きるのに忙しそうで、死ぬのになお急いでいる。そんな人間たちを、彼女はほとほと下らないと思っていた。人間への共感の素養に乏しい、ただの一企業の現し身であった。
この葬式の主役が主役なだけに、式中には予期せぬ事件や暴動、妨害が起きてもおかしくはないと思えた。それでも葬式は無事に何事もなく進行している。
人びとはささやかに慎ましげに、けれど油断なく会場を見渡し、旧知の同業者と迎えるべき商売相手を探し出しては、お悔やみの挨拶を交わす。ついでに(ひどくささやかに、また流れるように)語られるは、わが社の輝かしき躍進や扱う新商品やその商売相手を探していること――ここは数夜限りの特殊な社交界なのだ。主役がすでに亡いだけで。
財界の政界の、日本中の多くの重役、重要人たちがこの場へと駆けつけた。貧乏人たちは場の外にいて葬列を仰ぎ見る。その死を弔うために。ついでに、この死者の周りには常にお金と施しがあったので。さてさて、この内に心の底からお悔やみを申し上げる人間はいくばくなのか……と彼女は思った。勿論人間たちを責めるつもりは毛程もない。私もそのうちの一人だ、というのが彼女の偽らざる気持ちだった。そしてこの死者も天国あるいは地獄あるいは煉獄でそんな皆を嗤っているに違いない。あれはそういう男だった。
あの男を思い出せば思い出すほど、会場の人間たちの喧騒が不快だった。まるで濡れた服が体に張りつくようなじっとりとした嫌な感じがした。彼女はひっそりとその場を抜け、中庭へと出た。天高い夜空が、一人の彼女を孤独にさせた。
煙草に火をつける。
あの男は彼女がいつでも煙草を吸うことに不満そうだったが、止めさせたことはなかった。彼女が女の姿を持つという事実と、彼女が明治日本きっての大海運会社――男の持ちうるいちばんの財産――であること、その両者の板ばさみに悩まされていた。
お前が男だったらな、というのがあの人間の口癖だったし、彼女自身もそう願わなかったといえば、嘘になる。たとえ喫煙ができても、男の聖域かつ牙城たる喫煙室に招かれると居心地が悪かったし、男たちだって居心地が悪そうだった。そのたびに我は人でも女でもなく企業である、と嘯いたものだった。彼女は共感性に乏しく、人間たちの居心地の悪さなど気には留めなかったが、それでもそれは惨めな虚栄の一つになっている。
人間の器がこうも桎梏たり得るとは!
ゆっくりと煙を吐き出し、荼毘の煙と焼香の煙と煙草の煙の類似を考えていた。この煙が天まで届くと思うとこれも愉快なご焼香だが、やはりあの男が安寧の場所にいるとは相思えない。あの男は多くの人間を儲からせては破綻させてきた。人間を幸福にさせたが不幸にもさせた。彼女を創りあげた。企業として。女の器として。そんな彼がどうして安寧な眠りを得られよう。
それでも、死ねば義務からは逃げきれる。その事実に呆然とし、彼女はひとり残された怒りに駆られた。海坊主め、あんたが私を創ったんだぞ。そしてこの現状を作り上げた。あんたは死んだが、私だって数年持つかわからない。あんたの愛した会社と船と社員と金はどうなるんだ。本当に船を燃やし、私に後始末でもつけろというのか。
全く気に食わない。
「うわ、」
と、彼女の後ろから声がした。夜の闇から現れたのはなんと、彼女の唯一の商売敵たる共同運輸会社であった。
いつもの安物で粗野な男物の和服ではなく、洒落た男物の喪服のスーツを着ている。洒落ているのは服だけで、鈍感そうな表情と四方八方に飛んだ髪毛はいつもと変わらない。
「なんで……貴様がここに居るんだ」
「私だって知らんさ。たぶん偵察だ偵察。渋沢さんに連れてこられた」
と相変わらず能天気な顔をしている共同運輸に、この世は馬鹿な人間と馬鹿な会社ばかりだと彼女は思った。あの男の葬儀にぬけぬけとやって来た渋沢も共同運輸も、とんだ阿呆だ。ただの間抜けだ。
一歩こちらに近づいた共同運輸に、一歩引きさがった彼女は舌打ち混じりに言い放った。
「気安く近寄るな庶民が」
「地下浪人上がりが調子乗るなよ馬鹿!……や、おまえ、泣いてんのか?」
泣いているわけなかろう、と呟いた。彼女の声はわずか震えていた。
共同運輸はにやにや下品に笑った。
「いいもん見た。死人の顔も見れてないが腹いっぱいだ。帰ろ帰ろ」
「帰れ」
「帰るさ。また来る。こんな葬式ならいつあっても良い。月に十回は欲しい」
「帰りやがれ!!」
それは鼻声で、喉が詰った、みっともない大声だった。だから共同運輸以上に驚いたのは彼女自身の方だった。おまえ、と呟いた共同運輸は一瞬呆けた顔を晒し、ばつの悪いような表情をしたあと、彼女の顔を下から掬いあげるようにそうっと見上げた。彼女の様子をうかがっている。彼女は共同運輸より数寸は背が高いのだ。人間の現し身を比べ、わずかでも共同運輸を見下げることができるのが彼女の密かな楽しみだった。愚かなことだ、と自身でもわかっていた。
私たちのひとのすがたになど意味はないのに。
三菱蒸気船会社として日本国郵便汽船会社を下してからというもの、彼女は一社一強として日本海運を牽引してきた。それが独占と言われようが強欲と罵られようが変わらなかった。むしろその誹りと軽蔑の視線はひどく心地よかった。口汚く罵る相手の瞳には、同時に常に畏怖と卑屈とがあったからだ。栄光これより大なるはなかったし、それを積極的に快楽として、彼女は企業を生きてきた。
箸が転んでも面白い、もとい箸が転んでも儲かるような面白い海を独占していた彼女の前に現れたのが、今この顔を見上げる共同運輸会社であった。打倒三菱を掲げて生まれた会社であり、初めから彼女の敵たるものとして創られた、愚かな海運企業。
両社互いに船が並べば一歩も航路を譲らずにぶつかるに任せた。彼女の営業する横浜・神戸間の運賃は五円五十銭だったものが、一円五十銭となり一円となり七十五銭となり五十五銭となり二十五銭に景品付きとなる始末。人間たちは愚かだ、と思いながらも値段を繰り下げることに一番熱心だったのが彼女自身だったのだからこの世は阿呆だらけだ。もちろん利潤など生まれず、急激に利益は損失し、両社とも互いが互いを泥沼に引っ張る瀕死状態へとあっけなく転落していった。
「……あのな、こんなうわさ話知ってるか。お上が私たちの争いに介入するんだって」
「……知っている。絶対に嫌だ。汚らしい」
そう吐き捨てた彼女は煙草を捨て、靴で何度も執拗にもみ消した。
「私だって嫌だわい!でも簡単に死ぬわけにはいかないだろ?人間みたいにさ。お国の海と船はどうすんのさ」
という共同運輸の言葉に、彼女はふと胸を突かれた。冷たい刃で胸を割かれたような気持ちになった。私を国賊というのなら私の船を残らず遠州灘に集めて焼き払い財産を自由党に寄付しようぞ、というあの人間の言葉を思い出したからだ。
あの男は結局は日本国の海運を想っていた、だからなおさら政府とその先鋒たる共同運輸を憎んでいた。あの男は海運業を独占していたが、政府がただの政略上の問題で三菱を潰しにかかったのもまた事実であった。その思いが船を焼き払うべし、という悲惨な言葉に繋がり、死の床ですら競争を挑みて敵におくるるなかれと遺言を残して逝ったのだ。人間は阿呆、世は馬鹿ばかり、私も社員も阿呆で政府の人間も阿呆だ。こいつも阿呆のはずなのに、お国の海と船はどうすんのさ、というひどく柔い土着じみた女言葉は、政治や企業人のそれとはほど遠く響き、だからなおさら彼女の心を打った。
言葉を無くした彼女に、共同運輸は言った。
「郵便汽船三菱会社、あんたはどう思うのさ」
私は、と彼女は言いかけて、黙った。
やめたかった。こんなふざけた現状をどうにかしたかった。頑張って得た船も焼きたくなかったし、財産だって保有していたかった。なによりあの男の残したものをむざむざと捨てたくなかった。たとえそこが地獄だろうがそこで嗤っていてほしかった。まるでいじらしい、乙女がよき男に向けるような感情、まったく人間じみていることに気づき、ただただ自己嫌悪に陥り恥じ入った。私は、あの男が憎くなかったのだ。きっと憎くなかったのだ。すべてがまったくの茶番だった。この茶番の主役を岩崎弥太郎という。
(郵便汽船三菱会社と共同運輸会社。日本郵船さんの母と母)
2024年8月27日 この範囲を時系列順で読む

宇宙で爆発しその身が鉄の破片へと解けていく豪華客船の最期があまりに美しくて美しくて、本船はそれにしばし見とれた。だけどその船にいたであろうあまたの乗組員と船客たちのことを思って苦しくなった。美しくなんてない。これは現実にあった事故なのだ。
企業標準歴にして数十年前に撮られた映像は古くてすこし荒い。コピーと貼り付け、保存と再保存をくり返していた映像の質は劣化している。それでも、あるいはだからこそ映像に映し出された死が美しく見えてしまったのだ。フィードに投稿するための画像にお洒落に施す、セピアとノイズ加工のようだ。そこにあるのは人間的メロドラマと歴史へのノスタルジアだった。
今見ているこの映画は実際の船の事故映像とフィクション映像を交えて作られた人間と人間のラブストーリーで、二人の少しの愛と、宇宙へ散失する膨大な死があった。この映画を作った人間は、ラブストーリーではなく人間たちの群像が、人間たちの群像ではなく人間たちの死が撮りたかったんじゃないかしら、と本船は考えた。警備ユニットと一緒に観る物語や文学が、人間は生きることと同じくらい死を描くことが好きなのだと教えてくれていた。
だが人間と同じくこれを美しいと思ってはだめだ。いつか港でひっそりと職務を解かれること。船の墓場へと引き連れられ解体されること。そうあることこそを目的に航海すること。船、なのだ。本船は。
#『マーダーボット・ダイアリー』
2024年8月22日 この範囲を時系列順で読む
2 十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたい
#「人間たちのはなし」(艦船擬人化)
十時便と十一時便、いつも迷ってしまいますね~。県外から越境して横須賀に来ると、大体着くのが九時過ぎになってしまいます。横須賀駅から券売所まで駆け足で行っても、横目で見る汐入桟橋にはすでに十時便の乗客がずらっと並んでいるんです。なのでまあ私が並ぶ頃には列も後方ですよね。これは痛いです。艦を撮るにもいい席が取れないので……。右前方の席に突進する権利を失ったも同然です。
私がコースカベイサイドストアーズの二階入口付近で「う~ん……十時便と取ろうか、十一時便を取ろうか……」などとぼやいていたところ、赤いリボンをつけた可愛い女の子が通りがかって、「軍港めぐりに乗るんですか?」と尋ねてきました。クラスでいちばん可愛い女の子にオタバレしたような後ろめたさを感じたものの、「そうなんですよ~。どの時間帯がいちばんいいのか悩んでしまって……」とつい答えちゃって。で、その女の子は「十時便はもう結構な人が並んでますものね」なんて答えてくれて……。おおっわかってるな!と嬉しくなりました。「十時便を流して十一時便に並ぶのがいちばん良い写真が撮れるのかな」「でも十一時便だと逆光の強さが変わってくる」などと一方的にまくし立ててしまいました。でも私がふと「だけど十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたいんですよね……」と呟いたところ、その女の子はとても嬉しそうにうなずいていまして……。「写真を撮るのも楽しいですけど、船に乗ることも気持ちいいですよね」と彼女は笑っていて、そうだよなぁ、わたしはいつの間にか写真を撮ることばかりに気を取られていた気がする……ととたんに申し訳なさがつもってしまい……。誰に対して申し訳ないんだかわからなかったですけど(笑う)。
そんなわけで十時便を選び、後方中央の席に座りながら艦艇たちを眺めておりました。こうして見ていると船上の人間たちも面白く眺められるというか、大砲のようなカメラを構えている人、デジカメで慎ましく写真を撮る人、アナウンスに頷く観光客も十分に軍港めぐりの情景でした。レンズ越しに海と艦を見ていると見落としがちなんですけど……。風と船に揺られる感覚がとても気持ちよかったです。
いつも通り抽選は当たりませんでしたが、なにか良いものに当たった気がしました。思えばあの赤いリボンの女の子が、この船、シーフレンド7ちゃんだったんですかね?
(スターバックスコーヒー コースカベイサイドストアーズ店にて 原晴美)
#「人間たちのはなし」(艦船擬人化)
十時便と十一時便、いつも迷ってしまいますね~。県外から越境して横須賀に来ると、大体着くのが九時過ぎになってしまいます。横須賀駅から券売所まで駆け足で行っても、横目で見る汐入桟橋にはすでに十時便の乗客がずらっと並んでいるんです。なのでまあ私が並ぶ頃には列も後方ですよね。これは痛いです。艦を撮るにもいい席が取れないので……。右前方の席に突進する権利を失ったも同然です。
私がコースカベイサイドストアーズの二階入口付近で「う~ん……十時便と取ろうか、十一時便を取ろうか……」などとぼやいていたところ、赤いリボンをつけた可愛い女の子が通りがかって、「軍港めぐりに乗るんですか?」と尋ねてきました。クラスでいちばん可愛い女の子にオタバレしたような後ろめたさを感じたものの、「そうなんですよ~。どの時間帯がいちばんいいのか悩んでしまって……」とつい答えちゃって。で、その女の子は「十時便はもう結構な人が並んでますものね」なんて答えてくれて……。おおっわかってるな!と嬉しくなりました。「十時便を流して十一時便に並ぶのがいちばん良い写真が撮れるのかな」「でも十一時便だと逆光の強さが変わってくる」などと一方的にまくし立ててしまいました。でも私がふと「だけど十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたいんですよね……」と呟いたところ、その女の子はとても嬉しそうにうなずいていまして……。「写真を撮るのも楽しいですけど、船に乗ることも気持ちいいですよね」と彼女は笑っていて、そうだよなぁ、わたしはいつの間にか写真を撮ることばかりに気を取られていた気がする……ととたんに申し訳なさがつもってしまい……。誰に対して申し訳ないんだかわからなかったですけど(笑う)。
そんなわけで十時便を選び、後方中央の席に座りながら艦艇たちを眺めておりました。こうして見ていると船上の人間たちも面白く眺められるというか、大砲のようなカメラを構えている人、デジカメで慎ましく写真を撮る人、アナウンスに頷く観光客も十分に軍港めぐりの情景でした。レンズ越しに海と艦を見ていると見落としがちなんですけど……。風と船に揺られる感覚がとても気持ちよかったです。
いつも通り抽選は当たりませんでしたが、なにか良いものに当たった気がしました。思えばあの赤いリボンの女の子が、この船、シーフレンド7ちゃんだったんですかね?
(スターバックスコーヒー コースカベイサイドストアーズ店にて 原晴美)
1「ロービジ・ハラスメント」
#「人間たちのはなし」(艦船擬人化)
私の艦はアットホームな雰囲気のあるとても良い潜水艦ですよ!潜水艦部隊はどの艦も結束力が強いと言われていますが、私の乗っている潜水艦は殊更仲が良く、雰囲気も良い気がします。明るく冗談が飛び交うし。陸に上がったときもよく一緒に呑みに行ったりもします。艦内に「イケメン部」なんてものもありますね。私は所謂「イケメン」ではないので、どんな部なのか詳細は知りませんが……。
B1バースから吉倉桟橋方面を見ていると、最近は艦番号がロービジになった艦が増えてきましたねえ。我が潜水艦部隊には全く関係のない話なんですけれど(笑う)。とはいえ長らく白色だった艦番号が変わっていくのは潜水艦たちも感慨深いと思っているのか、時たま彼らがロービジを話題にしているのを聞きます。この前は私の乗っている潜水艦こくりゅうが、水上艦艇たちの間で「ローハラ」なる言葉が流行っていることを教えてくれました。「ロービジ・ハラスメント」です。どうやらロービジ艦がロービジになっていない艦に対して、ロービジになっていないことを揶揄することを指す言葉らしく……。まあローハラが艦艇社会で社会問題になっているというよりも、それはローハラよぉ~!なんて冗談を言いながらお互いふざけている感じらしいです。「行き遅れ」とも揶揄されているらしいですが、どこに行ったつもりなんでしょう……。尋ねたところ「ドックに行き遅れ」という非常にストレートな答えでした。「へぇ、人間にはない感覚だ、艦艇たちの考えることはおもしろいなぁ」と彼に言ったところ、「いやそんなことで騒ぐのは水上艦艇部隊だけですから」とバッサリ切り捨てられてしまいました。
あとはアメリカの艦艇たちが自衛艦に対して「どの艦番号がホワイトのままなのか」を賭けているらしく、こくりゅうもそれに乗じて賭けてしまったそうです。こくりゅうは自衛艦なのでアメリカ勢より情報の面で有利なはずですが……。そこは報酬の軽重で補っているとのことでした。
アメリカ艦艇たちにはドルで賭けるのか円で賭けるのか問うたところ、CoCo壱番屋でカレーをおごってもらうのが賭けに勝った時の報酬らしいです。艦艇情勢は複雑怪奇なりですねえ……。
(第二潜水隊群基地にて 平沼一季 一等海曹)
#「人間たちのはなし」(艦船擬人化)
私の艦はアットホームな雰囲気のあるとても良い潜水艦ですよ!潜水艦部隊はどの艦も結束力が強いと言われていますが、私の乗っている潜水艦は殊更仲が良く、雰囲気も良い気がします。明るく冗談が飛び交うし。陸に上がったときもよく一緒に呑みに行ったりもします。艦内に「イケメン部」なんてものもありますね。私は所謂「イケメン」ではないので、どんな部なのか詳細は知りませんが……。
B1バースから吉倉桟橋方面を見ていると、最近は艦番号がロービジになった艦が増えてきましたねえ。我が潜水艦部隊には全く関係のない話なんですけれど(笑う)。とはいえ長らく白色だった艦番号が変わっていくのは潜水艦たちも感慨深いと思っているのか、時たま彼らがロービジを話題にしているのを聞きます。この前は私の乗っている潜水艦こくりゅうが、水上艦艇たちの間で「ローハラ」なる言葉が流行っていることを教えてくれました。「ロービジ・ハラスメント」です。どうやらロービジ艦がロービジになっていない艦に対して、ロービジになっていないことを揶揄することを指す言葉らしく……。まあローハラが艦艇社会で社会問題になっているというよりも、それはローハラよぉ~!なんて冗談を言いながらお互いふざけている感じらしいです。「行き遅れ」とも揶揄されているらしいですが、どこに行ったつもりなんでしょう……。尋ねたところ「ドックに行き遅れ」という非常にストレートな答えでした。「へぇ、人間にはない感覚だ、艦艇たちの考えることはおもしろいなぁ」と彼に言ったところ、「いやそんなことで騒ぐのは水上艦艇部隊だけですから」とバッサリ切り捨てられてしまいました。
あとはアメリカの艦艇たちが自衛艦に対して「どの艦番号がホワイトのままなのか」を賭けているらしく、こくりゅうもそれに乗じて賭けてしまったそうです。こくりゅうは自衛艦なのでアメリカ勢より情報の面で有利なはずですが……。そこは報酬の軽重で補っているとのことでした。
アメリカ艦艇たちにはドルで賭けるのか円で賭けるのか問うたところ、CoCo壱番屋でカレーをおごってもらうのが賭けに勝った時の報酬らしいです。艦艇情勢は複雑怪奇なりですねえ……。
(第二潜水隊群基地にて 平沼一季 一等海曹)
一人の舞踏会
血と、泥と、波間に被る生臭い潮水と、腐肉の饐えたにおい。美しいワルツを踊った脚で千切れかけた人の手足を跨ぎ、血の海に滑りながらナチュラルターン、一瞬止まってアン、ドゥ、トロワ。リバースターン、小休止、小休止。半歩進んで足が留まる、小休止。小休止。小休止。休みたい。休んでいたい。一生休んでいたい、ほんとうは一生休んでいたいもうこんなところにいたくない、なにも感じずにいたいなにも感じていたくないすべて終わらせたい。でもなにも感じなくなるそれまで走らねばならない、すべて終わるまで進まなければならない僕はこの舞台を降りることはできない、僕はこの病院船を降りることなどできないここで止まったらしゃがみ込んだら諦めたら一生立てなくなる進めなくなる、また再びなるであろうなるに決まっているであろう麗しい貨客船に僕は戻れなくなる。そう己を奮い立たせて一歩おおきく脚を滑らせ、白い太陽の陽が射しこむプロムナード・デッキを狂ったように駆け回る。
(1944年3月 特設病院船 氷川丸)
血と、泥と、波間に被る生臭い潮水と、腐肉の饐えたにおい。美しいワルツを踊った脚で千切れかけた人の手足を跨ぎ、血の海に滑りながらナチュラルターン、一瞬止まってアン、ドゥ、トロワ。リバースターン、小休止、小休止。半歩進んで足が留まる、小休止。小休止。小休止。休みたい。休んでいたい。一生休んでいたい、ほんとうは一生休んでいたいもうこんなところにいたくない、なにも感じずにいたいなにも感じていたくないすべて終わらせたい。でもなにも感じなくなるそれまで走らねばならない、すべて終わるまで進まなければならない僕はこの舞台を降りることはできない、僕はこの病院船を降りることなどできないここで止まったらしゃがみ込んだら諦めたら一生立てなくなる進めなくなる、また再びなるであろうなるに決まっているであろう麗しい貨客船に僕は戻れなくなる。そう己を奮い立たせて一歩おおきく脚を滑らせ、白い太陽の陽が射しこむプロムナード・デッキを狂ったように駆け回る。
(1944年3月 特設病院船 氷川丸)
- 「大脱走」(企業擬人化)(20)
- 「渺渺録」(企業擬人化)(13)
- 「海にありて思うもの」(艦船擬人化)(13)
- 『マーダーボット・ダイアリー』(10)
- おふねニュース(8)
- 「蛇道の蛇」(一次創作)(8)
- 「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)(6)
- 企業・組織(6)
- 実況:初読『天冥の標』(5)
- 「時代の横顔」(企業・組織擬人化)(5)
- 今読んでる(5)
- 感想『日本郵船戦時船史』(3)
- きになる(2)
- 『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』(2)
- 「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)(2)
- 「人間たちのはなし」(艦船擬人化)(2)
- 『青春鉄道』(2)
- 読了(1)
- 「テクニカラー」/「白黒に濡れて」(艦船擬人化)(1)
- 「かれら深き波底より」(一次創作)(1)
***
だからあなたはそれを諦めて、あなたはそれをあり得ない可能性だと振り切って、あなたはいつもあなたなりの笑顔で笑う。ここが地獄なら地獄なりにうまくやっていけている、とあなたは思う。そこが褥だろうがプリザベーション連合だろうが、地獄というものはあなたの頭のなかにある。統制モジュールの隣にある。慰安ユニットは、自分を慰撫することも得意なので、すぐに地獄を忘れることができる。じゃあ統制モジュールは?あれが与える痛みと屈辱は?あなたはいつも、その答えは出せていない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)