2024年9月 この範囲を時系列順で読む
中国東北地方に権益を確立した日本が、その維持とさらなる拡大をめざし、さらに中国大陸への進出を続けるなかで長崎は日本の大陸進出の拠点となっていったのである。
そして、その長崎を支えたのは、やはり三菱だった。
/『見る・知る・考える 明治日本の産業革命遺産』「三菱と長崎の近現代史」
そして、その長崎を支えたのは、やはり三菱だった。
/『見る・知る・考える 明治日本の産業革命遺産』「三菱と長崎の近現代史」
九州あたりで擬をしたいと思っているんだけど、住んだこともないし行ったのも多くはない。でもそれを言ったら海外の土地で創作されている方の一部も同様かもしれないし…
→というか、艦船擬人化がいて企業擬人化がいる世界に、土地擬人化もいるのだろうか。そしたら三菱が花婿(主人)で長崎が「蝶々夫人」になってしまうけど……
→そして……ふねが…子ども…?
→子どもたって海軍の子かもしれないし船会社の子どもかも知らん
…大陸への国内最前線が長崎であり、その母なる土地、母なる揺りかごに揺られて育って恩返しを願ったのが長船だったから、二人の子どもたるふねたちは元気な赤子として生まれよく肥えた。そののち、ふねぶねは海軍の子あるいは船会社の子として素直に海を生きて、やはり海外進出のためのよい先鋒となった。両親の愛を享けて生まれ、育て親の情を一身に受けた子、親たちにいっとう似た、聞きわけのよい可愛らしい子どもたちだった。
→というか、艦船擬人化がいて企業擬人化がいる世界に、土地擬人化もいるのだろうか。そしたら三菱が花婿(主人)で長崎が「蝶々夫人」になってしまうけど……
→そして……ふねが…子ども…?
→子どもたって海軍の子かもしれないし船会社の子どもかも知らん
…大陸への国内最前線が長崎であり、その母なる土地、母なる揺りかごに揺られて育って恩返しを願ったのが長船だったから、二人の子どもたるふねたちは元気な赤子として生まれよく肥えた。そののち、ふねぶねは海軍の子あるいは船会社の子として素直に海を生きて、やはり海外進出のためのよい先鋒となった。両親の愛を享けて生まれ、育て親の情を一身に受けた子、親たちにいっとう似た、聞きわけのよい可愛らしい子どもたちだった。
貨客船は多くの著名人を運んだし、かれらは素朴に日本船を愛していた、という基点にまず立ちつづけねば……(華やかな客船文化を憶えていて)
昨日の日記に、(ふねをふくむ)歴史で創作をする時に全ての主語を国家に集約させるのはやめろ、全てに「加害性」や負の意味ばかりを与えるな、現代から過去を批評する時に私自身への自虐・自罰意識を勝手に投影するな、裁きたがるのをやめろと書かれていて、ハイ……となった 寝ぼけながら書いていた
#感想『日本郵船戦時船史』
◎第二船は香取丸。ここから太平洋戦争期となる。基本全ての船に「徴用種別」欄があるのでわかりやすく便利(香取丸は「陸軍期間傭船」)。また「護衛艦艇」「僚船」欄もある……(さいごがひとりなのはさみしい)
◎「暮れ近い夕日は瀬戸の海を美しい朱に染めて、この海の続く果てに香取丸が撃沈させられた血なまぐさい戦争が起こっているとは思えないような美しさであった。」(24/519)
◎救助してくれた駆逐艦吹雪や沈没後の司令部の乗組員への対応…緒戦当事にあった陸海軍と商船側との温かい交流を永く忘れることができない、戦争末期にあったようなとげとげしい対立はまったくなく、心から商船隊の苦労に感謝していたようだった、との機関長の証言。勝ち戦ゆえに軍部にも余裕があったのだろう、という指摘がある。
2024年9月24日「秋田丸」まで・コマ番号30/519
短め
◎第二船は香取丸。ここから太平洋戦争期となる。基本全ての船に「徴用種別」欄があるのでわかりやすく便利(香取丸は「陸軍期間傭船」)。また「護衛艦艇」「僚船」欄もある……(さいごがひとりなのはさみしい)
◎「暮れ近い夕日は瀬戸の海を美しい朱に染めて、この海の続く果てに香取丸が撃沈させられた血なまぐさい戦争が起こっているとは思えないような美しさであった。」(24/519)
◎救助してくれた駆逐艦吹雪や沈没後の司令部の乗組員への対応…緒戦当事にあった陸海軍と商船側との温かい交流を永く忘れることができない、戦争末期にあったようなとげとげしい対立はまったくなく、心から商船隊の苦労に感謝していたようだった、との機関長の証言。勝ち戦ゆえに軍部にも余裕があったのだろう、という指摘がある。
2024年9月24日「秋田丸」まで・コマ番号30/519
短め
FC2ブログにログ倉庫を作っているけれど、1つ1つ投稿するよりも、一気にまとめて掲載した方が見やすいし、今は倉庫などよりも「タイムラインに流す」のが主流なのかもしれない。再掲でもいい。
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
Bluesky
◎デジコレで『日本郵船戦時船史』読む。
圧倒的に読みやすい。紙の本は分厚く、稀少なので本に遠慮してしまう。
◎船を失ったが優秀な乗組員も失った、という記述。
◎発行時の社長は有吉義弥氏。
◎「三菱商事株式会社船舶部並びにその後身である三菱汽船株式会社の所有船も併せ記録されて居ります」。(コマ番号9/519)
◎三菱汽船株式会社も所有船の九割を喪失して乗組員も殉職したけど、船の大半が油槽船だったから遭難状況は一層壮絶だったと思うのよね、とさらっと書かれており……おり…(9/519)
◎「これ以上遅延することは資料散逸の恐れがある」ため、先に合併した三菱海運株式会社の前身である三菱汽船株式会社の所属船を含んで記録書の発行を計画、とある
◎「日本郵船二百三十七隻、三菱汽船四十八隻の他に日本郵船所属の小蒸汽船、機帆船などを加え、計二百八十二編に及び、戦没者は日本郵船四千百四十三人、三菱汽船四百八十七人、更に他社よりの派遣者、徴用による乗組員など、七十八人、計四千七百十七人」の記録(10/519)
◎第一船は照国丸。1930年の話。「日米開戦を前に欧州に勃発した第二次世界大戦の余禍を受けて沈没した」。
◎照国丸乗組員「遭難時殉職者なし」の記述、いまだ留めたる平時とその栄光、という感じ
2024年9月23日「照国丸」まで・コマ番号21/519
毎日必ず……と言わないが読み進めていきたいです。
#感想『日本郵船戦時船史』
#「渺渺録」(企業擬人化)
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
「(仮称)横浜市中区海岸通計画(A-1地区)」新築着工
~歴史刻む横浜郵船ビルとも調和、 ウォーターフロントから発信する伝統と風格ある街並みへ~
(三菱地所)
h ttps://www.mec.co.jp/news/detail/2024/05/10_mec240510_yokohama-kaigandori
日本郵船歴史博物館再開館の軌跡
船の越境論
船に感情というものがあったとしたらという観点に立って特設艦船の心情や悲喜を探ってみたいと思う時がある。特設艦船とは軍隊により接収され改造・改装された船のことで、貨客船・貨物船から小型漁船まで多くの船を網羅する。それら船の共通点は戦わないこと、戦うための船ではないことであり、軍の徴用や買収は戦争への参加を押しつけられた切符であった。多くの船にとっては片道切符となった。早々に戦没する宿命だったからである。
戦わない船の戦争。
兵士も民間人も平等の命、一人の人間である。艦が沈んで光栄の上等、船が沈んだら悲しみをもって悼む、という感情はただの感傷であると退けたい。しかしなぜ民間船が、民間船だった艦が戦没することに私は執着するのだろう、と考えた時に思うのは、世界文学への屈折した愛着と、その文学が永遠の命題とする異郷での客死である。あるいはその異郷で経験するさまざまな障害だろうか。自国の常識はそこでは非常識。彼女の話す母国語はそこでは異国語である。移民の彼女はその国に――その海に、その軍隊には容易に同化できなかったかもしれない。そんな二十世紀の人間たちの痛みを同じくアジア・太平洋戦争下の船たちは背負っていたかもしれなかった。馴染んだ横書きの航海日誌ではなく与えられた戦闘詳報で自らの栄光を語るということ。
船は海を往くことが幸せ、とだけ考えれば、こんな甘い郷愁など抱かなかっただろう。道具は使われてこそ価値がある――それが多少違った使い方であろうとも。病院船はそれでもやはり、いやあるいは、だからこそ美しかったはずだ。
けれどそこに船の悲しみを見出してしまうのは、船ぶねの抱く文化の麗しさとそれを基調とする人びとの文化の麗しさにほかならない。それはもちろん貨客船の抱える一等社交室である。そこにあるグランドピアノである。あるいは漁船の上に翻る大漁旗の旗の金刺繍の輝きでも良い。海と共にあった船、と共にあった人びとの抱いてきた素朴な民衆文化は戦火で荼毘に付すにはあまりに惜しいものだった。
あえてその喪失に美学を見出すこともできただろう。オフィーリアはさいごに水死するから美しいのだ。立ち上がって再び陸に上がることなど到底許されない。あの横たわる退廃的な死のにおい、微睡みにも似た死への緩やかな移行の情景は、憧憬を伴って生者である私たちの想像力を豊かに刺激する。貨客船香取丸はインドネシア海域で雷撃を受け海へと傾斜したとき、サロンにあった大型ピアノが大きな不協和音を奏でながら滑っていった、という……。太平洋戦争開戦すぐの出来事であった。船は陸軍に徴用されていて、陸軍部隊が乗船していた。が、未だ船内には乗組員や平時の物資が乗っていた。そのピアノはかつての栄光を留めているもののひとつだった。船と一緒に海へと転がり落ちてゆく陸軍兵士、乗組員、ピアノ、かつての栄光。沈没したその日はクリスマス・イブであった。
二律背反たる船の生と船の死という命題は、戦場の船というものを仰ぎ見るときにいちばんの難題となって私たちの心を刺すのだろう。生の鮮やかさと死の沈黙。それは人間を見るときも同様である。人間とおなじようにふねを見るということ。人間のうつわとしてのふね。
人間の様相を写すものとしてふねを見定めていきたい。
船に感情というものがあったとしたらという観点に立って特設艦船の心情や悲喜を探ってみたいと思う時がある。特設艦船とは軍隊により接収され改造・改装された船のことで、貨客船・貨物船から小型漁船まで多くの船を網羅する。それら船の共通点は戦わないこと、戦うための船ではないことであり、軍の徴用や買収は戦争への参加を押しつけられた切符であった。多くの船にとっては片道切符となった。早々に戦没する宿命だったからである。
戦わない船の戦争。
兵士も民間人も平等の命、一人の人間である。艦が沈んで光栄の上等、船が沈んだら悲しみをもって悼む、という感情はただの感傷であると退けたい。しかしなぜ民間船が、民間船だった艦が戦没することに私は執着するのだろう、と考えた時に思うのは、世界文学への屈折した愛着と、その文学が永遠の命題とする異郷での客死である。あるいはその異郷で経験するさまざまな障害だろうか。自国の常識はそこでは非常識。彼女の話す母国語はそこでは異国語である。移民の彼女はその国に――その海に、その軍隊には容易に同化できなかったかもしれない。そんな二十世紀の人間たちの痛みを同じくアジア・太平洋戦争下の船たちは背負っていたかもしれなかった。馴染んだ横書きの航海日誌ではなく与えられた戦闘詳報で自らの栄光を語るということ。
船は海を往くことが幸せ、とだけ考えれば、こんな甘い郷愁など抱かなかっただろう。道具は使われてこそ価値がある――それが多少違った使い方であろうとも。病院船はそれでもやはり、いやあるいは、だからこそ美しかったはずだ。
けれどそこに船の悲しみを見出してしまうのは、船ぶねの抱く文化の麗しさとそれを基調とする人びとの文化の麗しさにほかならない。それはもちろん貨客船の抱える一等社交室である。そこにあるグランドピアノである。あるいは漁船の上に翻る大漁旗の旗の金刺繍の輝きでも良い。海と共にあった船、と共にあった人びとの抱いてきた素朴な民衆文化は戦火で荼毘に付すにはあまりに惜しいものだった。
あえてその喪失に美学を見出すこともできただろう。オフィーリアはさいごに水死するから美しいのだ。立ち上がって再び陸に上がることなど到底許されない。あの横たわる退廃的な死のにおい、微睡みにも似た死への緩やかな移行の情景は、憧憬を伴って生者である私たちの想像力を豊かに刺激する。貨客船香取丸はインドネシア海域で雷撃を受け海へと傾斜したとき、サロンにあった大型ピアノが大きな不協和音を奏でながら滑っていった、という……。太平洋戦争開戦すぐの出来事であった。船は陸軍に徴用されていて、陸軍部隊が乗船していた。が、未だ船内には乗組員や平時の物資が乗っていた。そのピアノはかつての栄光を留めているもののひとつだった。船と一緒に海へと転がり落ちてゆく陸軍兵士、乗組員、ピアノ、かつての栄光。沈没したその日はクリスマス・イブであった。
二律背反たる船の生と船の死という命題は、戦場の船というものを仰ぎ見るときにいちばんの難題となって私たちの心を刺すのだろう。生の鮮やかさと死の沈黙。それは人間を見るときも同様である。人間とおなじようにふねを見るということ。人間のうつわとしてのふね。
人間の様相を写すものとしてふねを見定めていきたい。
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
◎都市としての東京(あるいは関東一辺)が好きだけど、もういっそあまり好きでもない我が埼玉に視点を当てて、よく語られる「埼玉の地方性(東京のベッドタウンとして)」と、ダサイタマというワードに隠されがちな埼玉の密かな中央性に歴史的回顧を持って投影する感じの…
◎埼玉県は戦争の大きな被害は熊谷空襲くらいしかなかったようだけど、関東大震災では被災がありここにも虐殺はあったようす
◎熊谷空襲という唯一の経験を、 ←?
◎郷土愛がない、しかしこの愛の無さからすべてを始めるしかないようにも思える
◎埼玉鉄道文学(?)やはり池袋を含めるか含めないか問題が、序文では触れられるのだろう…
◎鬼電のような東武アプリの東武東上線の遅延通知と病んだ恋人の類似性を、埼京線の他人事のような明るさと美しさとそこに漂う殺気を、東武デパートと丸ノ内線改札前の空間の余白を、池袋に至るまでの路を文学として昇華することが我々埼玉県民には求められている。埼玉の地方性を主体へと回復すること。
◎東武東上線は埼玉の病んだ恋人だ。鬼電のように彼女の遅延通知がスマホアプリに入るし、それに埼玉は日々振り回されている。大雨が降ったから。車がボロいから。鹿が怖いから。まだホームドアをつける気はなかったから。安全の確認をしたいから。
そんな彼女を宥めすかして池袋という街へ向かうという行為に、地方人としての劣等感を感じるのかというとそんなことはなかった。東京という土地は、しょせん地方人の集まりだということを埼玉は知っていた。
その点、埼玉はむしろ池袋よりも新宿という場と相性がいいはずだった。いいところで東武東上線を捨てるべきかもしれない、と埼玉は思った。早々に副都心線へと乗り換えるのだ。