settings

喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。最下部にカテゴリー・タグ一覧あり。

👏 #感想 #小説など
#船擬 ##マダボ ##渺

良い…と思ったらぜひ押してやってください(連打大歓迎)

No.1582

人間(ひと)の愛し子 抄

※この物語はフィクションです

 この混乱期に長崎に向かうことができたのは幸運だったに違いない。
 三菱重工業はそう己に言い聞かせていた。
 祖国の敗戦を受けてたった三日後、彼は故郷であったその地に赴くことができた。本社の面倒を打ち捨て、一心不乱にただ長崎へと向かった。あとで社員や重役に露呈すれば怒られるにちがいなかった。それに失望されるだろう。この非常時に己の会社を捨ててくるうつしみがいるだろうか。
 会社である義務を捨て矜持を捨て、まるで一人の人間のように、欲求のままその地へ赴いた。わが胎動の揺り籠。官営の長崎造船局を前身に戴き、三菱の長崎造船所として彼はその地で生まれた。彼は上海が間近なその地を恰好の稼ぎ場として愛し、八幡製鉄所の温かい膝元として愛し、端島炭坑と高島炭鉱の供給場所として愛していた。それ以上に、東京とはまた一味違う風情を愛していた。グラバー邸や中華街のような異国情緒を、長崎くんちの華やかさを、坂の多い街を、人びとを愛していた。まるで人間のように。人間のようにそれらを愛していることを実感する時に、自分が人間のようだと感じることを愛していた。彼は、長崎が好きだった。
 汽車の中で彼はその「幸運」を己に言い聞かせていたが、もしまわりの人びとがそれを聞いたのなら正気を疑ったに違いない。
 誰も故郷が爆心地となっているところを見たいとは思わないだろう、しかも自分のせいでそうなったのに、と。

 長崎への原爆投下はたった数日前のことであった。
 その状況の惨状は彼の耳にも入っていた。たくさんの人間が焼けただれ果てるとはどういうことなのか?東京の空襲とはどう違うのか?一面が更地になっているとはどんな情景なのか?すべてがすべて、空絵のように想像がつかなかった。だから直接見に行くしかなかった。
 どうにか運行していた列車を乗りついだ。軍隊から解放された兵士や労働者や、朝鮮人。早くも復員につけた幸福な内地人。もう空襲が来ないことで堂々と町へ帰ることができる疎開した人びと。
 泥と埃にまみれ、皆が皆疲れ果てた顔をしていた。敗戦に打ちひしがれているというよりも、ただ単純に、疲れているだけに見えた。そこにはお国や鬼畜米英や大東亜共栄圏などの栄えある大義がなかった。やつれた小さな人間たちがいるだけだった。
 窓際の席に押し込まれるように座っていた重工は、ぼんやりと外の風景を眺めていた。なにもなかった。彼が気づかないうちに、この国はなにもなくなっていた。
「土佐は、どう思うかな」
 ぽつりとつぶやいた自分の言葉に、重工は驚いた。ふいに大声で笑いそうになり、どうにか堪えた。
 なんだ、やはり自分はあの子の処遇を気にしていたのだ、と今更に彼は気づかされたのだった。
 ワシントン海軍軍縮条約下のもと、せっかく生んだにもかかわらず軍縮のためにそのまま沈めるしかなかった日本海軍発注の戦艦・土佐。三菱重工業にとっては第三三三番船たるふねの死を、とっくに乗り越えた――あるいはそもそもあまり気にしてもいなかった――と彼は思っていた。手渡しさえすればそれは発注相手の所有する製品なのだ。自分の物ではない。好きに自沈させればよい。それなのにいま思いだすのは未完のふねの容貌と、そのうつしみたるあの子の鮮明な眼差しだった。彼の脳裏の戦艦土佐は今、その視線で親の末路を問うていた。

 あの海が見えれば、長崎も近い。彼は気持ちに急かされて、長崎造船所を訪れた。
 長崎造船所だった場所を訪れた。
 彼は「幸運」の結末をその地で見た。
 瓦礫に埃、何が焼け焦げたのかわからない痕、死臭、死体、服の切れ端、そういったものすべてが、「かつてのもの」としてそこにあった。
 浦上駅を降りた先に、浦上天主堂がある。彼は異教徒ではなかったが、その建築と意匠に密かに感銘を受けていた。人間の造る構造物が好きなのだ。それにキリスト者の人間たちが熱心に祈るその姿を、長崎特有の美徳として彼は認めていた。浦上天主堂はがらくたのように崩れ落ち、原型を留めていなかった。
 そこには三菱長崎造船所幸町工場があった。三菱長崎製鋼所第一工場、三菱長崎製鋼所第二工場、三菱長崎製鋼所第三工場があった。三菱兵器茂里町工場が、三菱工業青年学校が三菱電機鋳造工場、三菱兵器半地下工場があった。多くの人間たちが居たはずだった。多くの人間たちが兵器を造り、それが飛び立ち駆り出され、戦地へと向かい、敵国人を殺戮していたはずだった。原爆の目的が自分の兵器工場であろうことを彼は理解していた。自分だったらそうするだろうからだ。
 
 一機のB-29が飛んでいた。
 その下には膨大な瓦礫があった。
 瓦礫の上に立っていたのは、自分の「子ども」たる戦艦土佐だった。彼は親切に教えてやった。
「あれはB-29と言ってね。いろいろなものを日本へ運んできた。まあ、黒船のようなものだよ。でも砲をぶっ放している黒船だ。ボクたちはいつもアメリカの乗り物に手が届かずに、ぼんやり見つめているだけだねえ……」
 土佐はにこりと笑って言った。悪戯に成功した子どものような笑みだった。
「もう少しで届いたかもしれませんよ」
「そうかもね。お前のようなふねをいっぱい生んで対抗したから」
「頼りなくて、ごめんなさい」
「そんなことはない。お前たちは上手くやったよ。ボクがそう造ったからね。悪いのは運用者だ」
「にんげん?」
「人間と、人間と同じような存在のボクだ。土佐」
 すぐ近くに赤ん坊の死体が残されていた。この子にもこの世に生まれた理由あったに違いなかった。三菱重工業の兵器工場を狙った原爆に巻き込まれずに、生きる価値があったに違いなかった。まっすぐな親の愛情が、この生を生み育んていたに違いなかった。
 だが重工はそれを無視して言った。今はただ自分の子どもである土佐に土佐だけに顔を向けた。土佐を見つめて、土佐の顔を懐かしく思い、それが狂おしいほど愛おしく思えた。彼は土佐の顔を覚えていた。記憶と寸分も違わぬあどけない顔だった。記憶が違わなかったことが嬉しく、また誇らしかった。彼は自分の製品の容貌と顔をひとつたりとも忘れたことがなかった。それが彼の誇りだった。
 重工は背筋を伸ばし、それから頭を深く下げて土佐に言った。
「お前には、ほんとうにすまなかったね」
「そうしたくなくても、そうしなければならなかったのでしょう?」
「ただ金儲けしか考えてなかったのかもしれないよ」
 その言葉を聞いて土佐は淡く笑った。すべてを知っている、わかっているというような笑みだった。受容、寛容、侮蔑、拒否、愛情、憎悪、離別、そのようなものをすべて含んだ横顔だった。土佐は殺すために自分を生んだ親を理解していた。⁠その表情を見た瞬間、重工は灼熱の業火の中にいた。溶接の炎の中にいた。砲火の炎の中にいた。空襲の炎の中にいた。B-29が放った炎の中にいた。この炎が蜃気楼なのか夏の灼熱の幻影なのかも重工にはわからなかった。それでもその熱さを甘受するしかなかった。辛くはなかった。なぜなら空襲の戦火も、長崎の原爆も、艦砲射撃の砲火も、八幡製鉄所の鉄も、その熱さは重工とつねに共にあったからだ。この熱さをわが親とし、伴侶と決め、産屋と思い、揺り籠であると知っていた。⁠だからこの熱さでボクはまだやっていける、まだ生きていけると重工は思った。すなわち此処こそが重工にさだめられた生業であり常態の地獄であるに違いなかった。
 B-29が飛んでいく。
 蜘蛛の糸のような白い飛行機雲をえがき飛んでいく。
 自分の生んだ航空機と同じ音を立てて飛んでいく。
「綺麗ですね」
 と土佐が言う。空を仰ぎ見る彼の眦が無垢に染められ、きらきらと光っていた。
 戦艦土佐が笑う。
 重工も晴れ晴れと笑った。
「うん」
 八月十八日、三菱重工業は被爆した自分の誕生地で、戦禍と同じように自分が生んだふねであり沈ませたふねである戦艦土佐に、わが製品に、わがふねに、わが存在意義に、わが愛し子に、赦されたことを理解した。

#「渺渺録」(企業擬人化)

小説・推敲文章,艦船擬人化,企業・組織擬人化

expand_less