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しかしこの快い広さはどうだろう。目をさえぎるもののない(あの気味の悪い鉄柱や煙突や、わずかにくずれ残った煉瓦造りの建物や監視塔が目にはいっても、そこに横たわる空間の広さに呑みこまれてしまえば、雑草の存在とかわらない)野の中に置かれると、私が享けるものは、自然ののびやかな恵みでしかない。人々の悲惨は通りすぎ、残されたものは錆び行く鉄塊と崩れゆく煉瓦でしかなく、 すべては土にかえってしまうことが定められている。ほろびるもののあいだにはさまれて、遠からずほろび行く自分をも私は遂につかみ得ないのである。虚無の陶酔が私の神経をしびらせていたろうか。 こんな広い土地を自分のものにしたい、というへんな考えがにぶい伴奏のように私の頭を覆っていた。 目をさえぎるもののない広漠たる土地の広がりは、そこで殺された何百万ものにんげんの血をにじませながら私のこころを屈託のない広がりの快さに誘いつづけていた。
/「ブジェジンカにて」『島尾敏雄全集 第9巻』
/「ブジェジンカにて」『島尾敏雄全集 第9巻』
しかし、もっとも重要なことは、初期高揚以来ドーピング期まで――多少ともぼろぼろになりながらも――維持されてきた「誇大的全体性」と決別することである。ダーウィンの『種の起源』は数倍十数倍の大著の完成の夢想を断念することによって現実の完成をみた。収束とは「断念による現実化」である。執筆はなお進行しているが、もはや「展開による現実化」の過程でなくなりつつある。この二つの 「現実化」の交替がどこで起こるかによって著作の形態と性格と雰囲気とがある程度決まる。
/中井久夫「執筆過程の生理学」『中井久夫集5』
/中井久夫「執筆過程の生理学」『中井久夫集5』
祖父の処刑のあした酔いしれて柘榴のごとく父はありたり
/「未完の手紙」『佐伯裕子歌集』
この美しげな最期の手紙をひたすら信じて、若い父と母は戦後を暮らしたように思う。ことに、「我欲、我執は貧、瞋り、愚痴と申す三毒が出て一家は正に修羅の巷となるべし」のおみくじのごとき箇所である。ここを、「戦犯の子孫は生涯を黙して暮らすべし」と解釈して、とにかく世間にものをいうことを恐れつづけていた。過度にものをいわなかった父は、世間を心底恐れているように見えた
/「墓石とワインボトル」『(同)』
/「未完の手紙」『佐伯裕子歌集』
この美しげな最期の手紙をひたすら信じて、若い父と母は戦後を暮らしたように思う。ことに、「我欲、我執は貧、瞋り、愚痴と申す三毒が出て一家は正に修羅の巷となるべし」のおみくじのごとき箇所である。ここを、「戦犯の子孫は生涯を黙して暮らすべし」と解釈して、とにかく世間にものをいうことを恐れつづけていた。過度にものをいわなかった父は、世間を心底恐れているように見えた
/「墓石とワインボトル」『(同)』
彼らは物語というものの成り立ち方を十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を経過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。
/村上春樹「東京の地下のブラック・マジック」『村上春樹雑文集』