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うつくしき貨物を運べば共犯者なり

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。最下部にカテゴリー・タグ一覧あり。

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No.3480

 日本名を名乗り、日本人らしく振舞いながら、しかし衆知の事実の前に、私はたくさんの屈辱を喰みながら一六歳までを、その地で過したのだ。
あの日も雨がふっていた。
 男達が車座になって酒盛りをしていた。
 国恋の唄をうたう男、唄にあわせて肩を揺らし踊る男。はだけた胸、茶碗にこびりついたどぶろくの呑み残り。血の泡あぶくの地獄のように臓物の煮たぎる鍋。
 あたり前のその光景にむかってその時叫んだ言葉を、私は生涯忘れないだろう。
 「やめてくんしゃい。恥ずかしか」
 と、叫んだのである。
 恥ずべきは私であった。振り返えれば恥しかない自分史であるが、この恥の記憶こそが私の今を動かしているのである。
「なんが恥かしかか!!
おどまが国ん歌ちゃろが」
 一人の女が私を叩いたのである。
 和服を着た女であった。飯場でたった一人の日本人であった。朝鮮人土工の日本人妻であったその女は、朝鮮人土工と流れるにあたって、血族から日本から拒絶され、ひしとすがりついた男の、身の内の側、つまり朝鮮人である私の拒絶に、二重の裏切りにあった思いだったであろう。逃げる私を追いつめ、戸外に逃れてもなお追いかけてきたのであった。
 あぜ道を、こけつまろびつ逃げまどいながら、私は、その時、初めて、朝鮮を叩き手渡された思いであった。
 父や母やは、あまりに優しく、私を叩いてくれなかったのである。
 集落の日常言語は父母や土工達の故郷の済州島弁であったにもかかわらず、私はその言葉さえ耳から弾いて生きていたのだった。
 私のためにと言い切って過言ではない理由で、父母は済州島弁と佐賀弁の在日言語を用いて、子である私と会話したのだ。
 「おどま朝鮮人だいね。そいが何が恥かしかか」と、私を追いつめ、背中を叩いてくれた日本の女は、数年後に病没した。私の一五の春であった。
 葬式がすんで遺骨を安置した飯場の荒壁に倒れるようにもたれて、故人の姉なる女が泣いていたことも鮮やかな記憶としてある。
 「可愛想に」と「こんなところで」と故人の流転の生涯を嘆きながら、だが一歩も敷居をまたがなかったのだ。そして白布で包んだ遺骨を首にぶらさげいずこかへ帰って行ったのだ。
 故人となって初めて生家に戻れた朝鮮人土工の日本人妻であったが、生ある時の意志とは別の朝鮮人土工の永遠の離別であった。

/宗秋月「サランヘ 2 続・どぶろく物語」『月刊自治研 28』1986年3月
#「渺渺録」(企業擬人化)

引用

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