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喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。最下部にカテゴリー・タグ一覧あり。

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No.2768

「目にする表現の多くに、「沖縄である」という答えだけはあらかじめ用意されそして無前提的に肯われているような、そんな奇妙な印象を持つことがしばしばある」(「「沖縄である」ことへの問いー植民地・多言語・多文化」一九九八年)、「いっけん華やかなにぎわいを見せているかのごとき沖縄文学は、その実、中央文壇とかいうものの力学の中で、それらしい地方性と通りのいい異質性を担わされて、日本文学にとって心地よい周縁を演じさせられているのではないか」(「漂う沖縄文学のために」二〇〇一-〇二年)。それだけに新城さんは、九州・沖縄サミットで、「芸能人や文化人などがこぞって「沖縄らしさ」の自己演出に大わらわ」でいるのを、「無惨」と見つつ、「衆人環視のなかで沖縄らしさを演じさせられている現在の私たち」は、「ちょうど百年前、大阪天王寺の第五回内国博覧会パビリオン「学術人類館」において陳列された沖縄「土人」たちとなんの違いがあるだろうか」と思い返さずにはいなかったのでした(「あとがき」)。
「回収」という言葉に新城さんは、「安直な括り」が横行することへの怒りを突き出します。括られることによって、対象化へと押しつけられ、一方的に他者に規定される存在となりおわることを、「知の植民地主義」とし、それゆえに「回収」されない沖縄への希望を込めて、知の"攪乱者"であろうとしています。


/『沖縄の戦後思想を考える』

引用

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