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2025年5月24日 この範囲を時系列順で読む
無題
くろしおが語って聞かせたところによれば、太陽と星の違いは――まあ明らかに明らかっちゃ明らかなんだけど、太陽と違って、明るいときには見えないが、暗い夜空の上ではきらきらと一等輝くのがお星さまだという。えっだからなんなの話が見えないよおじいちゃん、とおやしおは彼に聞いたが、だれがおじいちゃんだこのバカと言った後の彼の答えとしては、星は暗い時に最も美しく輝く、という、かの国の星条旗を暗示して言った、ある種の自虐じみた祖国への回顧であり、また自分自身のかつてのあの国での精神的な未熟さの振り返りでもあり、艦歴22歳のおじいちゃんの説教じみたお話だった。あるいは、くろしおは人魚姫に若干飽き飽きしていて、なんとなーく別の寓話の話でもしたかったのかも知れない。星は暗い時に最も美しく輝く。星は暗い時代に最も美しく、輝やかしく見える。くろしおはその「暗い時代」を――戦争の短い40年代、太平洋戦争の束の間の艦生を指して言っていたのだが、おやしおはそんな小難しいことなんか全然聞いちゃいなかったしすぐに忘れた。
くろしおが語って聞かせたところによれば、太陽と星の違いは――まあ明らかに明らかっちゃ明らかなんだけど、太陽と違って、明るいときには見えないが、暗い夜空の上ではきらきらと一等輝くのがお星さまだという。えっだからなんなの話が見えないよおじいちゃん、とおやしおは彼に聞いたが、だれがおじいちゃんだこのバカと言った後の彼の答えとしては、星は暗い時に最も美しく輝く、という、かの国の星条旗を暗示して言った、ある種の自虐じみた祖国への回顧であり、また自分自身のかつてのあの国での精神的な未熟さの振り返りでもあり、艦歴22歳のおじいちゃんの説教じみたお話だった。あるいは、くろしおは人魚姫に若干飽き飽きしていて、なんとなーく別の寓話の話でもしたかったのかも知れない。星は暗い時に最も美しく輝く。星は暗い時代に最も美しく、輝やかしく見える。くろしおはその「暗い時代」を――戦争の短い40年代、太平洋戦争の束の間の艦生を指して言っていたのだが、おやしおはそんな小難しいことなんか全然聞いちゃいなかったしすぐに忘れた。
いっとう耀うもの
己の現身たる潜水艦の中で手持ち無沙汰に読んだ本の中の世界は、だんだんと毒が回るように核の汚染で破滅していって、最後は南半球のオーストラリアの車の中で薬を飲んで安楽死するところで話は終わった。あーこの自堕落で緩慢になっていく感じ、どっかでぼくも体験したことがあるぞと興奮したけれど、どこで体験したのかは遂に思い出せなかった。どこだっけ。そんなに遠くじゃないと思うんだけど。最近の話だった気もするし。ぼくはうんうん唸ってあれこれ思案したけれど、自堕落で緩慢になって死に至る感覚なんて、努めて思い出しても楽しくはないと気づいて思い出すのはやめた。
夜遅くのヴェルニー公園を歩くと、対岸に見えるのはおなじみの海上自衛隊の横須賀の潜水艦基地だ。打ちつける波の音は小さく、ぼくが踏みつけるデッキが軋む音だけが大きく響いた。B1バースには、ぼくとずいくんとおやしお型の一隻が留まっている。普段はあちらからこちらを見るのに慣れているので、なんだか不思議な景色だった。こっちは日本で娑婆で、あちらはアメリカ合衆国の基地アンド海上自衛隊の潜水艦の基地がある。近くて遠い。時折潜水艦乗員の家族たちが、このデッキから潜水艦たちを見つめているのをぼくは知っていた。うーん、やっぱり遠い。
汐入桟橋には、横須賀軍港めぐりのアイドル・シーフレンド7ちゃんが留まっている。とっくに彼女のおうちは閉店がらがら本日は終了しましたのようだった。彼女の喫水は心なしか浅い。白抜きで数字の描かれた赤地のおなかがチラと見えている。あの子が夜に横須賀の街を歩いているのを見たことがないということに、ぼくは今更ながら気づいたのだった。箱入り娘なので夜の外出は禁じられているのか、それとも就寝時間が早いのか。夜更ける星空の下、あの子はもうすでにベッドのなかで夢を見ているのだろうか。小さな遊覧船が行けるはずのない、果てしない海の夢を。
ぼんやり思いに耽っていたけど帰らないと本当に怒られてしまうぞ、そう思いヴェルニー公園のデッキをぎしぎしと踏み鳴らし急ぎ足で歩いていたら、前から突如現れたのは三人組の黒い忍者、強力な攻撃型潜水艦たちだった。まずい、不覚。
「ちょっとごめんね~。今、大丈夫かな?」
「あっ……はい」
「君は何をしてるの?帰宅途中?」
「はい、そうです。へへ」
「申し訳ないんだけどさ~、学生証とか持ってる?」
「あっ学生じゃないんです……」
「働いてるの?」
「そうです」
「身分証明書って持ってるかな?」
慌ててこそこそと海上自衛官身分証明書(艦霊特別仕様)を出す。この身分証明書は海上自衛隊内で使うものというより、こうして外でトラブル――ここでは予期せぬおっちゃん警官三人の群狼作戦での補導――があったときに提示するためのものだ。書かれている年齢は、基本的にどの艦も十八歳以上になっている。ぼくも十八歳だ。ちょっと無理があるんじゃないかと自分でも思っている。十八歳て。この見た目で。
「自衛隊に勤めてるの!?へー!」
「です」
「ふーん、すごいね~。海上自衛隊なんだ。すぐそこじゃん」
「です~」
「………………十八歳なんだ?」
「ですです~」
「なんのお仕事してるの?」
「せんすいかんをやっている……?」
「潜水艦?潜水艦に乗ってるの?すごーい」
「へへっ」
「知ってる~潜水艦の乗組員ってお給料いいんでしょ?沈むの大変だもんね」
「へへへ」
「まあいいや。夜遅くにあまり歩かないようにね。邪魔はしないけど。とりあえず気をつけて帰ってね」
「この国のことよろしくね~。おじさんたちもがんばるからね。ピース!」
「ピース!」
二本指でピースをしながら警官三人を見送る。束の間の対潜爆弾攻撃は、どうやら終わったようだった。
それをすぐに意識から追いやって急いで基地内の私室に帰ると、そこで待っていたのは若干不機嫌そうな顔をしたずいくんだった。遅いよお心配しちゃったじゃんかあカツアゲにでもあってるのかもって思ってえ~ごめんねえカツアゲにあってないけどなんか似たような絡まれ方はしちゃって遅れちゃったんだよお~ええええ大丈夫だったあ~みたいな、いつも通りともいえる応酬をして、しばらく一緒にNintendo Switchで遊んだ後、いそいそとベッドにもぐりこんだ。電灯を消す。真っ暗だ。静寂。それでも夜の横須賀からはあまり星は見えない。暗闇の部屋の中でぼそぼそと会話をしながら、だんだんと眠りに引き込まれていく瞬間がぼくは好きだ。ずいくんのさわさわしたこそばゆい囁き声が好きだ。今日はすこし寒かったねえ明日は晴れると良いねえ、今度一緒に鎌倉にでも行こうよ、きっと楽しいよ。一瞬のまどろみのなかでぼくは気づく。あ、これだ、自堕落に緩慢していく感じって。なんか好きだなあ。今日はもうおやすみ
己の現身たる潜水艦の中で手持ち無沙汰に読んだ本の中の世界は、だんだんと毒が回るように核の汚染で破滅していって、最後は南半球のオーストラリアの車の中で薬を飲んで安楽死するところで話は終わった。あーこの自堕落で緩慢になっていく感じ、どっかでぼくも体験したことがあるぞと興奮したけれど、どこで体験したのかは遂に思い出せなかった。どこだっけ。そんなに遠くじゃないと思うんだけど。最近の話だった気もするし。ぼくはうんうん唸ってあれこれ思案したけれど、自堕落で緩慢になって死に至る感覚なんて、努めて思い出しても楽しくはないと気づいて思い出すのはやめた。
夜遅くのヴェルニー公園を歩くと、対岸に見えるのはおなじみの海上自衛隊の横須賀の潜水艦基地だ。打ちつける波の音は小さく、ぼくが踏みつけるデッキが軋む音だけが大きく響いた。B1バースには、ぼくとずいくんとおやしお型の一隻が留まっている。普段はあちらからこちらを見るのに慣れているので、なんだか不思議な景色だった。こっちは日本で娑婆で、あちらはアメリカ合衆国の基地アンド海上自衛隊の潜水艦の基地がある。近くて遠い。時折潜水艦乗員の家族たちが、このデッキから潜水艦たちを見つめているのをぼくは知っていた。うーん、やっぱり遠い。
汐入桟橋には、横須賀軍港めぐりのアイドル・シーフレンド7ちゃんが留まっている。とっくに彼女のおうちは閉店がらがら本日は終了しましたのようだった。彼女の喫水は心なしか浅い。白抜きで数字の描かれた赤地のおなかがチラと見えている。あの子が夜に横須賀の街を歩いているのを見たことがないということに、ぼくは今更ながら気づいたのだった。箱入り娘なので夜の外出は禁じられているのか、それとも就寝時間が早いのか。夜更ける星空の下、あの子はもうすでにベッドのなかで夢を見ているのだろうか。小さな遊覧船が行けるはずのない、果てしない海の夢を。
ぼんやり思いに耽っていたけど帰らないと本当に怒られてしまうぞ、そう思いヴェルニー公園のデッキをぎしぎしと踏み鳴らし急ぎ足で歩いていたら、前から突如現れたのは三人組の黒い忍者、強力な攻撃型潜水艦たちだった。まずい、不覚。
「ちょっとごめんね~。今、大丈夫かな?」
「あっ……はい」
「君は何をしてるの?帰宅途中?」
「はい、そうです。へへ」
「申し訳ないんだけどさ~、学生証とか持ってる?」
「あっ学生じゃないんです……」
「働いてるの?」
「そうです」
「身分証明書って持ってるかな?」
慌ててこそこそと海上自衛官身分証明書(艦霊特別仕様)を出す。この身分証明書は海上自衛隊内で使うものというより、こうして外でトラブル――ここでは予期せぬおっちゃん警官三人の群狼作戦での補導――があったときに提示するためのものだ。書かれている年齢は、基本的にどの艦も十八歳以上になっている。ぼくも十八歳だ。ちょっと無理があるんじゃないかと自分でも思っている。十八歳て。この見た目で。
「自衛隊に勤めてるの!?へー!」
「です」
「ふーん、すごいね~。海上自衛隊なんだ。すぐそこじゃん」
「です~」
「………………十八歳なんだ?」
「ですです~」
「なんのお仕事してるの?」
「せんすいかんをやっている……?」
「潜水艦?潜水艦に乗ってるの?すごーい」
「へへっ」
「知ってる~潜水艦の乗組員ってお給料いいんでしょ?沈むの大変だもんね」
「へへへ」
「まあいいや。夜遅くにあまり歩かないようにね。邪魔はしないけど。とりあえず気をつけて帰ってね」
「この国のことよろしくね~。おじさんたちもがんばるからね。ピース!」
「ピース!」
二本指でピースをしながら警官三人を見送る。束の間の対潜爆弾攻撃は、どうやら終わったようだった。
それをすぐに意識から追いやって急いで基地内の私室に帰ると、そこで待っていたのは若干不機嫌そうな顔をしたずいくんだった。遅いよお心配しちゃったじゃんかあカツアゲにでもあってるのかもって思ってえ~ごめんねえカツアゲにあってないけどなんか似たような絡まれ方はしちゃって遅れちゃったんだよお~ええええ大丈夫だったあ~みたいな、いつも通りともいえる応酬をして、しばらく一緒にNintendo Switchで遊んだ後、いそいそとベッドにもぐりこんだ。電灯を消す。真っ暗だ。静寂。それでも夜の横須賀からはあまり星は見えない。暗闇の部屋の中でぼそぼそと会話をしながら、だんだんと眠りに引き込まれていく瞬間がぼくは好きだ。ずいくんのさわさわしたこそばゆい囁き声が好きだ。今日はすこし寒かったねえ明日は晴れると良いねえ、今度一緒に鎌倉にでも行こうよ、きっと楽しいよ。一瞬のまどろみのなかでぼくは気づく。あ、これだ、自堕落に緩慢していく感じって。なんか好きだなあ。今日はもうおやすみ
生来からの縁
第二に、その人に潜水艦乗員の適性があるかはとても重要だ。根気づよく粘れるが神経質ではない、独立心があると同時に周りとうまく協調できる、普段はうるさく立ち振る舞っていてもいざという時に黙ることができる。孤独になれるのは必要だが孤立しないこと。あと、体格が大柄でないと良いのは旧軍時代からの事実である。個人の努力では体格なんてどうしようもならないと言われようと仕方ないのだ。体格も性格も適性も生来のものだ、という事実を理解できる頭脳があること。その生来の抗えない事実をカバーできる精神力と努力があること。
海底の中で孤立した集団社会では、必要とされるものは自ずと増えてくる。あなたが二十四時間いるのは快適な家ではなく、艦という職場なのだ。おまけに周りは海水で包まれている。そこから無理やりにでも逃げたくなったら、どうぞ深海救難艇でもご検討ください。
横須賀の潜水艦の基地はアメリカ海軍の基地と同居しているから、一般人が入るには結構なチェックを受けることになる。身分証明書はあるか。不審物を所持していないか。どんな目的で来たのか。誰が招待したのか。前もっての申請はあるか。
そんなわけでただでさえ情報機密のせいで難しい潜水艦の艦内見学は、前もって募集したあと、手紙やはがきでの案内から始まることが多い。決行の日時を提示して、同時に持ち物や注意などを書き添えて送るのだ。
なんだか招待状みたいでわくわくするよね、とそうりゅう型潜水艦六番艦のこくりゅうに言ったのは、五番艦ずいりゅうである。
「潜水艦見学ってわくわくするんだよね~。いつも同じ顔しか艦内では見ないじゃんか。小さい子が潜水艦に興奮しているのを見ると、ぼくもドヤドヤってなる」
「わかる!思わず椅子の下の野菜とか見せちゃったりね」
「つたない梯子の昇降にウフフってなるんだよ」
ずいりゅうは乗員が置いていったはがきの束を矯めつ眇めつしていたが、とうとうはがきを手に取って「どうせなら念を入れておこ」と言いながらその紙にキスをしはじめた。ちょっとおマジすぎて怖いんですけどぉとこくりゅうが止めてもキスをやめないずいりゅうは、こくちゃんも手伝ってよと言い出す。隣にいたこくりゅうはひぃと悲鳴を上げて思わず大声で尋ね返した。
「えっはがきにちゅーするんですか!?」
「念でもいいよ、念でも。テレパステレパス」
「何の念?」
そう尋ねたこくりゅうに、ずいりゅうはためらいもなくあっさりと言った。そりゃあ、当たり前でしょうに……。
「潜水艦に興味がある子が縁あって潜水艦乗員になれますように、って念を……」
「あーんすてき~!イケメンな発言~!艦と書いて漢と読む!」
きゃあきゃあ騒ぐこくりゅうにも照れず、ずいりゅうが手に持つはがきを裏返して見つめているのは、書いてある宛先の名前だった。
「ほら、この子とか女の子だよ。女の子も潜水艦乗員になれる時代だしねぇ」
「わりとしみじみ言うね!マジな念なんだね!茶化してごめんね……。……ああでも、女の子の潜水艦乗員かぁ」
「昔、潜水艦乗員になりたかったけどなれなかったから護衛艦に行ったっていう女の人に会ったことがあるよ」
「そっかぁ……」
性別という「適性」によって潜水艦に乗ることができないということを、こくりゅうはうーんと考える。
いまだに女性のことも、人間のことすらもよくわからないままだった。これからも乗れない女性の気持ちも、乗せられないと決めた人間の気持ちもわかるはずあるまい。艦、なのだ。己は。
潜水艦乗員って選り好み激しすぎるんですよ、とこくりゅうが言った。選り好みしないとやっていけない集団だしね、とずいりゅうも言う。繊細に調整したうえでの精強な艦隊なのだ。
己を構成する艦という物体、それを運用する人間たちが能力やコストパフォーマンスで選りすぐられること。そうして効率を良くして成果を出そうとすること。そして「いざという時」に備えること。艦として。潜水艦として。自衛艦として。
それはきっと喜ぶべきことなのだろう。頼もしいと思うべきなのだろう。ぼくら、モノとしての効率化を。
でも、とずいりゅうは続けた。
「潜水艦乗員になりたい人が潜水艦乗員になってくれるとうれしい。……ぼくは潜水艦として間違っているだろうか。感情的すぎるだろうか」
「いいと思うよ。……効率だけで人間は動けないから。たぶん。ぼくは知りえないんだけど」
第一に、潜水艦が好きであること。興味を持っているこということ。ぼくはそれが潜水艦の乗員には重要な資格だと思うのだ。
第二に、その人に潜水艦乗員の適性があるかはとても重要だ。根気づよく粘れるが神経質ではない、独立心があると同時に周りとうまく協調できる、普段はうるさく立ち振る舞っていてもいざという時に黙ることができる。孤独になれるのは必要だが孤立しないこと。あと、体格が大柄でないと良いのは旧軍時代からの事実である。個人の努力では体格なんてどうしようもならないと言われようと仕方ないのだ。体格も性格も適性も生来のものだ、という事実を理解できる頭脳があること。その生来の抗えない事実をカバーできる精神力と努力があること。
海底の中で孤立した集団社会では、必要とされるものは自ずと増えてくる。あなたが二十四時間いるのは快適な家ではなく、艦という職場なのだ。おまけに周りは海水で包まれている。そこから無理やりにでも逃げたくなったら、どうぞ深海救難艇でもご検討ください。
横須賀の潜水艦の基地はアメリカ海軍の基地と同居しているから、一般人が入るには結構なチェックを受けることになる。身分証明書はあるか。不審物を所持していないか。どんな目的で来たのか。誰が招待したのか。前もっての申請はあるか。
そんなわけでただでさえ情報機密のせいで難しい潜水艦の艦内見学は、前もって募集したあと、手紙やはがきでの案内から始まることが多い。決行の日時を提示して、同時に持ち物や注意などを書き添えて送るのだ。
なんだか招待状みたいでわくわくするよね、とそうりゅう型潜水艦六番艦のこくりゅうに言ったのは、五番艦ずいりゅうである。
「潜水艦見学ってわくわくするんだよね~。いつも同じ顔しか艦内では見ないじゃんか。小さい子が潜水艦に興奮しているのを見ると、ぼくもドヤドヤってなる」
「わかる!思わず椅子の下の野菜とか見せちゃったりね」
「つたない梯子の昇降にウフフってなるんだよ」
ずいりゅうは乗員が置いていったはがきの束を矯めつ眇めつしていたが、とうとうはがきを手に取って「どうせなら念を入れておこ」と言いながらその紙にキスをしはじめた。ちょっとおマジすぎて怖いんですけどぉとこくりゅうが止めてもキスをやめないずいりゅうは、こくちゃんも手伝ってよと言い出す。隣にいたこくりゅうはひぃと悲鳴を上げて思わず大声で尋ね返した。
「えっはがきにちゅーするんですか!?」
「念でもいいよ、念でも。テレパステレパス」
「何の念?」
そう尋ねたこくりゅうに、ずいりゅうはためらいもなくあっさりと言った。そりゃあ、当たり前でしょうに……。
「潜水艦に興味がある子が縁あって潜水艦乗員になれますように、って念を……」
「あーんすてき~!イケメンな発言~!艦と書いて漢と読む!」
きゃあきゃあ騒ぐこくりゅうにも照れず、ずいりゅうが手に持つはがきを裏返して見つめているのは、書いてある宛先の名前だった。
「ほら、この子とか女の子だよ。女の子も潜水艦乗員になれる時代だしねぇ」
「わりとしみじみ言うね!マジな念なんだね!茶化してごめんね……。……ああでも、女の子の潜水艦乗員かぁ」
「昔、潜水艦乗員になりたかったけどなれなかったから護衛艦に行ったっていう女の人に会ったことがあるよ」
「そっかぁ……」
性別という「適性」によって潜水艦に乗ることができないということを、こくりゅうはうーんと考える。
いまだに女性のことも、人間のことすらもよくわからないままだった。これからも乗れない女性の気持ちも、乗せられないと決めた人間の気持ちもわかるはずあるまい。艦、なのだ。己は。
潜水艦乗員って選り好み激しすぎるんですよ、とこくりゅうが言った。選り好みしないとやっていけない集団だしね、とずいりゅうも言う。繊細に調整したうえでの精強な艦隊なのだ。
己を構成する艦という物体、それを運用する人間たちが能力やコストパフォーマンスで選りすぐられること。そうして効率を良くして成果を出そうとすること。そして「いざという時」に備えること。艦として。潜水艦として。自衛艦として。
それはきっと喜ぶべきことなのだろう。頼もしいと思うべきなのだろう。ぼくら、モノとしての効率化を。
でも、とずいりゅうは続けた。
「潜水艦乗員になりたい人が潜水艦乗員になってくれるとうれしい。……ぼくは潜水艦として間違っているだろうか。感情的すぎるだろうか」
「いいと思うよ。……効率だけで人間は動けないから。たぶん。ぼくは知りえないんだけど」
第一に、潜水艦が好きであること。興味を持っているこということ。ぼくはそれが潜水艦の乗員には重要な資格だと思うのだ。
仮装巡洋艦
「オペラを愛しオペラの音色に酔いしれながら出撃奔放し殺戮する悪趣味な特設巡洋艦、未だ貨客船の身を忘れられぬが船を狩る行動は戦闘艦そのもの」と自身を評され、愛国丸は心外だと憤慨した。オペラも戦争も、両方とも確かに芸術ではないか。技巧が全てを言うのだ。
「オペラを愛しオペラの音色に酔いしれながら出撃奔放し殺戮する悪趣味な特設巡洋艦、未だ貨客船の身を忘れられぬが船を狩る行動は戦闘艦そのもの」と自身を評され、愛国丸は心外だと憤慨した。オペラも戦争も、両方とも確かに芸術ではないか。技巧が全てを言うのだ。
軍艦
「戦争そのものが、わたしたちの道具としての存在意義です。政治は人間が考えることであって、わたしたちが考えることは自分の放った弾が魚雷が爆雷が、ちゃんとあたるかどうかだけ。言ってしまえば、戦局ですらそうです。マレー作戦の勝利もミッドウェー作戦の敗北もわたしたちには関係ない。勝利も敗北もわたしたちの存在意義は変えられない。魚雷が刺さる、沈んだらそれで終わり、沈まなかったら次の戦場まで己を温存するまでです。次の海戦で敵の艦――人間の定義する敵です、わたしにとってはわたし以外のふね――に、砲弾を浴びせるだけのこと。艦艇であること。いくさぶねであるということはそういうことであって、愛だとか恋だとか、悲しいだの悔しいだのなんだの、そんな人間の真似事みたいなものは変わり者のやることでした。少なくともわたしはそう思っています。」
(高雄)
「戦争そのものが、わたしたちの道具としての存在意義です。政治は人間が考えることであって、わたしたちが考えることは自分の放った弾が魚雷が爆雷が、ちゃんとあたるかどうかだけ。言ってしまえば、戦局ですらそうです。マレー作戦の勝利もミッドウェー作戦の敗北もわたしたちには関係ない。勝利も敗北もわたしたちの存在意義は変えられない。魚雷が刺さる、沈んだらそれで終わり、沈まなかったら次の戦場まで己を温存するまでです。次の海戦で敵の艦――人間の定義する敵です、わたしにとってはわたし以外のふね――に、砲弾を浴びせるだけのこと。艦艇であること。いくさぶねであるということはそういうことであって、愛だとか恋だとか、悲しいだの悔しいだのなんだの、そんな人間の真似事みたいなものは変わり者のやることでした。少なくともわたしはそう思っています。」
(高雄)
深海の世界
「海の底の潜水艦の中でずっとごはんを食べていると、海の底から帰れなくなる気がしてきませんか?」と、弟のうんりゅうが水平線を見つめながら言った。そうかな、気にしたこともなかった、とぼくは返す。「海の底の潜水艦、なんて詩的なことを言ったって、しょせんは食堂の中でしょ?明るい電灯とカラーテレビと、おまけに小さな電子レンジつき」
「でも、まぎれもない別世界ですよ、海の底は。地上とはすこし違う」
そう彼は言った。海を見つめる彼の表情は、まるで何かが眩しそうに少し歪んでいた。一瞬黙った後、こちらを見て、小さく囁く。
「きっとぼくらは、黄泉戸喫をしては無理矢理この世界に帰ってきてるんだ」
「海の底の潜水艦の中でずっとごはんを食べていると、海の底から帰れなくなる気がしてきませんか?」と、弟のうんりゅうが水平線を見つめながら言った。そうかな、気にしたこともなかった、とぼくは返す。「海の底の潜水艦、なんて詩的なことを言ったって、しょせんは食堂の中でしょ?明るい電灯とカラーテレビと、おまけに小さな電子レンジつき」
「でも、まぎれもない別世界ですよ、海の底は。地上とはすこし違う」
そう彼は言った。海を見つめる彼の表情は、まるで何かが眩しそうに少し歪んでいた。一瞬黙った後、こちらを見て、小さく囁く。
「きっとぼくらは、黄泉戸喫をしては無理矢理この世界に帰ってきてるんだ」
セカンドハンドの名前
あの人はいつも一瞬の沈黙をおいてから、そうっとぼくの名前を呼ぶ。「お菓子があるよ、なるしお。……くろしおも」そうチョコレート菓子を差し出すおやしおを、「おじいちゃん~」と茶化すのは、ぼくと同じうずしお型潜水艦であり、一つ上の兄のなるしおだった。
「じゃあいらないか、なるしお」
「いらないとは言ってないよ、チョコレートちょうだいよ。……くろしおももらうよね?」
うん、もらうよ、そう言っておやしおからチョコレートをかすめとるように貰い、すかさず二人で頬張ると、おやしおは嬉しそうに、そしてすこし寂しそうに笑った。その笑みの昏さに気付いていないなるしおが、彼に尋ねる。
「六月の接触事故は大丈夫だった?」
「え?ああ、うん。大丈夫だよ。よくあることだし。……よくあることだった、かな?」
君たちの代では減るだろうね、最新鋭の涙滴型さん。それは皮肉な言い方ではなかった。純粋な、歳をとった者が次の世代に込めた期待の念だった。なるしおは得意げに胸をそらす(口にすこしチョコレートがついていたのをぼくは認めた)。変わらずそれを寂しそうに笑うおやしおは、前よりすこし老いた気がした。除籍が、もうそれほど遠くないからかもしれない。戦後初の国産潜水艦の、来たる最期の日。……戦後初の日本潜水艦の最期は、どんなだったんだろう?
「今日はもうお帰り、なるしお。……くろしお」
あの人はいつも一瞬の沈黙をおいてから、そうっとぼくの名前を呼ぶ。「お菓子があるよ、なるしお。……くろしおも」そうチョコレート菓子を差し出すおやしおを、「おじいちゃん~」と茶化すのは、ぼくと同じうずしお型潜水艦であり、一つ上の兄のなるしおだった。
「じゃあいらないか、なるしお」
「いらないとは言ってないよ、チョコレートちょうだいよ。……くろしおももらうよね?」
うん、もらうよ、そう言っておやしおからチョコレートをかすめとるように貰い、すかさず二人で頬張ると、おやしおは嬉しそうに、そしてすこし寂しそうに笑った。その笑みの昏さに気付いていないなるしおが、彼に尋ねる。
「六月の接触事故は大丈夫だった?」
「え?ああ、うん。大丈夫だよ。よくあることだし。……よくあることだった、かな?」
君たちの代では減るだろうね、最新鋭の涙滴型さん。それは皮肉な言い方ではなかった。純粋な、歳をとった者が次の世代に込めた期待の念だった。なるしおは得意げに胸をそらす(口にすこしチョコレートがついていたのをぼくは認めた)。変わらずそれを寂しそうに笑うおやしおは、前よりすこし老いた気がした。除籍が、もうそれほど遠くないからかもしれない。戦後初の国産潜水艦の、来たる最期の日。……戦後初の日本潜水艦の最期は、どんなだったんだろう?
「今日はもうお帰り、なるしお。……くろしお」
海
ぼくがまだ海という言葉を覚えていなかったころ、遠くにあるあのうつくしいものを指差して「あれはなに?」と兄に尋ねたことがある。「あのきらきらきらした、とびはねているきれいなものはなんていうの」
兄は「ふねのこと?」と答えた。
「ふね?」
「うん。ぼくたちと違って海に浮かんでるやつでしょ?」
兄はそう笑った。「海」と呟き、それをじっと見つめたぼくのことなんてつゆ知らず、兄は愉快そうに笑ながら小さく歌いはじめた。
「うーみーは、ひろいーな、おおきーいーなー……って、もしかして『とびはねてるきれいなもの』って海のこと?」兄はおどろいてぼくに尋ねた。ぼくは”海”という言葉に魅入られ、呆然とただそれを眺めていた。「海……」
「……うん。綺麗でしょ。海って言うんだよ。でも、その綺麗な水面はぼくたちの生きる場所じゃないから」
ぼくがまだ海という言葉を覚えていなかったころ、遠くにあるあのうつくしいものを指差して「あれはなに?」と兄に尋ねたことがある。「あのきらきらきらした、とびはねているきれいなものはなんていうの」
兄は「ふねのこと?」と答えた。
「ふね?」
「うん。ぼくたちと違って海に浮かんでるやつでしょ?」
兄はそう笑った。「海」と呟き、それをじっと見つめたぼくのことなんてつゆ知らず、兄は愉快そうに笑ながら小さく歌いはじめた。
「うーみーは、ひろいーな、おおきーいーなー……って、もしかして『とびはねてるきれいなもの』って海のこと?」兄はおどろいてぼくに尋ねた。ぼくは”海”という言葉に魅入られ、呆然とただそれを眺めていた。「海……」
「……うん。綺麗でしょ。海って言うんだよ。でも、その綺麗な水面はぼくたちの生きる場所じゃないから」
水面にいちばんちかいフネ
「大きいふねになりたいな」
と、友達のえい船がぽつりと洩らした。「水平線しか見えない大海原を、一人で泳いでみたくない?」
わかるよ、ともう一人のえい船が会話を繋いだ。「果てしない海を渡って、外国の綺麗な港で旗を上げてみたくない?」
「ぼくは海賊をやっつけたい!」と、さらにもう一人の別のえい船が朗々と叫んだ。それに対し、やっつけてるんじゃないんでしょ?よくわかんないけど、とまた別のえい船がつっこみ、言葉を続けた。
「ぼくは海の中でお魚とおしゃべりしながら、みんなで一緒に泳ぎたいな」この前、なんちゃらりゅうくんが、海の中は賑やかでキラキラしていて、とても素敵なところだよって言ってたんだ。
ここまで語ること四人。黙っていたぼくを、彼らはそっと見つめる。「君はなんの艦になりたい?」
「……ぼくは、……ぼくは、えい船のままがいい」
そうぽつりと言うと、みんなはええーっと驚いたように叫んだ。なんでなんで、とみんなは大合唱する。君は縁の下の力持ちのままでいいの、かっこいい写真を撮られてみたくないの、自分の名前を覚えられたくないの。
だってだって、とぼくは反論した。えい船の上で当たる風が、いちばん気持ちがいいんだもん。ぼくのその言葉に、みんなはきょとんとしている。ぼくは続けた。
「護衛艦や補助艦艇はおおきなお城みたいだ、水面のちかくで体いっぱいに風にあたれない。潜水艦はいつも海の中でひとりぼっちだし。……ぼくは知ってるよ、えい船の上で味わえる風の、いちばんの気持ちよさを」
そんなぼくの言葉に、みんなはびっくりしてただ押し黙る。そして互いに目を合わせ、さらに数秒黙った後、うんうん、そっかそっか、と頷きあい、そうだねたしかにね、と言いあった。
「じゃあぼくもえい船のままでいよう」
「ぼくもそうする」
「小さいふねも、結構楽しいもんね」
君はいい子だなあと、友達のえい船が言った。みんなはないものねだりなんだよ、とぼくは小さく呟いた。
「大きいふねになりたいな」
と、友達のえい船がぽつりと洩らした。「水平線しか見えない大海原を、一人で泳いでみたくない?」
わかるよ、ともう一人のえい船が会話を繋いだ。「果てしない海を渡って、外国の綺麗な港で旗を上げてみたくない?」
「ぼくは海賊をやっつけたい!」と、さらにもう一人の別のえい船が朗々と叫んだ。それに対し、やっつけてるんじゃないんでしょ?よくわかんないけど、とまた別のえい船がつっこみ、言葉を続けた。
「ぼくは海の中でお魚とおしゃべりしながら、みんなで一緒に泳ぎたいな」この前、なんちゃらりゅうくんが、海の中は賑やかでキラキラしていて、とても素敵なところだよって言ってたんだ。
ここまで語ること四人。黙っていたぼくを、彼らはそっと見つめる。「君はなんの艦になりたい?」
「……ぼくは、……ぼくは、えい船のままがいい」
そうぽつりと言うと、みんなはええーっと驚いたように叫んだ。なんでなんで、とみんなは大合唱する。君は縁の下の力持ちのままでいいの、かっこいい写真を撮られてみたくないの、自分の名前を覚えられたくないの。
だってだって、とぼくは反論した。えい船の上で当たる風が、いちばん気持ちがいいんだもん。ぼくのその言葉に、みんなはきょとんとしている。ぼくは続けた。
「護衛艦や補助艦艇はおおきなお城みたいだ、水面のちかくで体いっぱいに風にあたれない。潜水艦はいつも海の中でひとりぼっちだし。……ぼくは知ってるよ、えい船の上で味わえる風の、いちばんの気持ちよさを」
そんなぼくの言葉に、みんなはびっくりしてただ押し黙る。そして互いに目を合わせ、さらに数秒黙った後、うんうん、そっかそっか、と頷きあい、そうだねたしかにね、と言いあった。
「じゃあぼくもえい船のままでいよう」
「ぼくもそうする」
「小さいふねも、結構楽しいもんね」
君はいい子だなあと、友達のえい船が言った。みんなはないものねだりなんだよ、とぼくは小さく呟いた。
愛国丸の愛国論
彼らがまっとうに老いていく快感を知らないのは酷く残念なことだ、と私は思った。
この時、私は三十六歳の少佐だった。私は人生を老いるということに慣れ、楽しむ余裕が出てきた頃だった。戦場で死ぬのが惜しいかもしれない、そう錯覚することもしばしばあった。早くに伴侶を亡くしたことに今更に寂しさを感じ、子息がいないということはすなわち私の証を残すものがいないことであることに気づいたのは、ここ数年のことだったか。帝国海軍に身を捧げ戦で名前を残すことに情熱を掛けたのも、はるか昔のことに思えた。
特設巡洋艦「愛国丸」に乗艦していたのは丁度そのような心境の頃であった。既に情熱とも愛国とも程遠い頃だったから、周りの乗組員たちの太平洋戦争開戦の熱狂についていけずにいた。もっとも戦艦での砲撃戦が至上と言われる連合艦隊は、日米戦争自体には熱狂こそしていたものの、船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で、通商破壊を行うこと自体はそこまで熱狂はしていなかった。通商破壊はみみっちい任務だと思われている節があったのだ。数隻の小さな貨物船を捕まえて何になる、そういう心境だったのだろう。船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で通商破壊をするのってみみっちい任務ですよねえ、小さな貨物船を捕まえて何になるんでしょうかね、そう私に語り掛けてきたのが、特設巡洋艦愛国丸、その艦自身だった。
愛国丸は報国・愛国・護国の気概があまりなかった私を気に入ったのか、しばしば艦内で私に話しかけてきた。「皆さん根性と情熱あって『愛国丸』って感じですよね、あ、ここでの『愛国丸』っていうのは『愛国男児』っていう意味の勝手に俺が付けた綽名です」とか、「護国丸が護国したくないみたいで本当に困ってます、まだ自分のこと貨客船だって信じてます」とか。大体は国に身を報じることについての話だったように思う。飄々とした軽薄な男児で、人間に生まれれば愛国とは程遠かっただろうに、その身に戴いた名前ゆえに彼は「愛国丸」だった。ここでの「愛国丸」は「愛国男児」という、彼が勝手につけた綽名での意味だ。
国を愛するということ、彼はそのことに悩んでいた。愛国って通商破壊で示せるんですかね、とも言っていた。私に愛国の意味を問うていたように思う。私が諭せるのは、それは時間が経てば解決するであろう難題だということ、それだけだったが、彼らは私と同じように歳は経ることはないのだった。三十六歳まで生きることもないだろう。この戦争で数歳の歳を経て、国を愛することに苦悩したまま沈んでいくのだ。彼らがまっとうに老いていく快感を知らないまま、愛国しか語れずに死ぬのは酷く残念なことだ。人間である私は思った。
彼らがまっとうに老いていく快感を知らないのは酷く残念なことだ、と私は思った。
この時、私は三十六歳の少佐だった。私は人生を老いるということに慣れ、楽しむ余裕が出てきた頃だった。戦場で死ぬのが惜しいかもしれない、そう錯覚することもしばしばあった。早くに伴侶を亡くしたことに今更に寂しさを感じ、子息がいないということはすなわち私の証を残すものがいないことであることに気づいたのは、ここ数年のことだったか。帝国海軍に身を捧げ戦で名前を残すことに情熱を掛けたのも、はるか昔のことに思えた。
特設巡洋艦「愛国丸」に乗艦していたのは丁度そのような心境の頃であった。既に情熱とも愛国とも程遠い頃だったから、周りの乗組員たちの太平洋戦争開戦の熱狂についていけずにいた。もっとも戦艦での砲撃戦が至上と言われる連合艦隊は、日米戦争自体には熱狂こそしていたものの、船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で、通商破壊を行うこと自体はそこまで熱狂はしていなかった。通商破壊はみみっちい任務だと思われている節があったのだ。数隻の小さな貨物船を捕まえて何になる、そういう心境だったのだろう。船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で通商破壊をするのってみみっちい任務ですよねえ、小さな貨物船を捕まえて何になるんでしょうかね、そう私に語り掛けてきたのが、特設巡洋艦愛国丸、その艦自身だった。
愛国丸は報国・愛国・護国の気概があまりなかった私を気に入ったのか、しばしば艦内で私に話しかけてきた。「皆さん根性と情熱あって『愛国丸』って感じですよね、あ、ここでの『愛国丸』っていうのは『愛国男児』っていう意味の勝手に俺が付けた綽名です」とか、「護国丸が護国したくないみたいで本当に困ってます、まだ自分のこと貨客船だって信じてます」とか。大体は国に身を報じることについての話だったように思う。飄々とした軽薄な男児で、人間に生まれれば愛国とは程遠かっただろうに、その身に戴いた名前ゆえに彼は「愛国丸」だった。ここでの「愛国丸」は「愛国男児」という、彼が勝手につけた綽名での意味だ。
国を愛するということ、彼はそのことに悩んでいた。愛国って通商破壊で示せるんですかね、とも言っていた。私に愛国の意味を問うていたように思う。私が諭せるのは、それは時間が経てば解決するであろう難題だということ、それだけだったが、彼らは私と同じように歳は経ることはないのだった。三十六歳まで生きることもないだろう。この戦争で数歳の歳を経て、国を愛することに苦悩したまま沈んでいくのだ。彼らがまっとうに老いていく快感を知らないまま、愛国しか語れずに死ぬのは酷く残念なことだ。人間である私は思った。
時代流転
その波の上の社交界はそれはそれは鮮やかで、皆が憧れる世界であった。
そしてその舞台であった彼女も皆の華だった。
貨客船「浅間丸」。彼女の誇っていた美しさは時代の象徴そのものだった。一等社交室はイギリスの早期ジョージアン様式による古典的な装飾で、二層の吹き抜けの高い天井ドームの側面には大壁画が飾られている。ガラス張りのスカイライトから淡く光が差し込んではその壁画の色彩を乱反射させる。美しい内装に似合うのは美しい人々で、乗客たちは上品に装い、控えめに微笑み合い、自分達の慎ましくない裕福さを慎ましく誇示するのだった。
浅間丸が初めて見た舞台上の演奏会でとりわけ感動したのは、その演奏自体ではなく、演奏者の隣を彩る緞帳の天鵞絨の艶めかしい青色だった。吾を彩る美しき青色。船の、自身の装いの青。先達の貨客船の一人は「鏡を見た時に己に見惚れることが大切」と言っていて、竣工直後の浅間丸はそれに笑ったものだった。しかし、自分を彩る天鵞絨の青に見惚れたのは彼女と同種の誇りではなかったか。そう、この自惚れはナルシシズムなどではなく、客船としての誇りだった。
美しくあるということ。
美しく見せるということ。
彼らに夢を見せるために自身がまず夢を見るということ。海と海を結び先進の文化を担うということ。貨物を運び祖国へ利益をもたらすということ。貨客船として。
でも、いつまで貨客船としてこの我を保っていられるのだろう?
「浅間丸」
は、と気づくと、おじさまが私を見ていた。不安そうな表情でこちらを見る我が日本郵船の重役の一人。なんでもありませんわ、と私が曖昧に笑って答えると、それでも怪訝そうな顔をして彼は黙った。お前は具合が悪いのか、何か不安なことがあるのか、お前に手を差し伸べればいいのか――そのように彼は私に問い詰めたいのだろう。けれどそのどれもを放棄し、彼はただ押し黙っていた。時代がそうさせたのだった。海運会社は己らの船たちを救ってやることはできない。
独逸の波蘭への侵攻。日独伊三国同盟。船員徴用令、大政翼賛会。そんな人間たちの騒乱で、浅間丸が居たはずの鮮やかな海は急激に色褪せていった。いま必要とされているのは、船の運ぶ絹やテーブルマナーではなく、艦の担う石油や砲撃戦なのだ。
その波の上の社交界はそれはそれは鮮やかで、皆が憧れる世界であった。
そしてその舞台であった彼女も皆の華だった。
貨客船「浅間丸」。彼女の誇っていた美しさは時代の象徴そのものだった。一等社交室はイギリスの早期ジョージアン様式による古典的な装飾で、二層の吹き抜けの高い天井ドームの側面には大壁画が飾られている。ガラス張りのスカイライトから淡く光が差し込んではその壁画の色彩を乱反射させる。美しい内装に似合うのは美しい人々で、乗客たちは上品に装い、控えめに微笑み合い、自分達の慎ましくない裕福さを慎ましく誇示するのだった。
浅間丸が初めて見た舞台上の演奏会でとりわけ感動したのは、その演奏自体ではなく、演奏者の隣を彩る緞帳の天鵞絨の艶めかしい青色だった。吾を彩る美しき青色。船の、自身の装いの青。先達の貨客船の一人は「鏡を見た時に己に見惚れることが大切」と言っていて、竣工直後の浅間丸はそれに笑ったものだった。しかし、自分を彩る天鵞絨の青に見惚れたのは彼女と同種の誇りではなかったか。そう、この自惚れはナルシシズムなどではなく、客船としての誇りだった。
美しくあるということ。
美しく見せるということ。
彼らに夢を見せるために自身がまず夢を見るということ。海と海を結び先進の文化を担うということ。貨物を運び祖国へ利益をもたらすということ。貨客船として。
でも、いつまで貨客船としてこの我を保っていられるのだろう?
「浅間丸」
は、と気づくと、おじさまが私を見ていた。不安そうな表情でこちらを見る我が日本郵船の重役の一人。なんでもありませんわ、と私が曖昧に笑って答えると、それでも怪訝そうな顔をして彼は黙った。お前は具合が悪いのか、何か不安なことがあるのか、お前に手を差し伸べればいいのか――そのように彼は私に問い詰めたいのだろう。けれどそのどれもを放棄し、彼はただ押し黙っていた。時代がそうさせたのだった。海運会社は己らの船たちを救ってやることはできない。
独逸の波蘭への侵攻。日独伊三国同盟。船員徴用令、大政翼賛会。そんな人間たちの騒乱で、浅間丸が居たはずの鮮やかな海は急激に色褪せていった。いま必要とされているのは、船の運ぶ絹やテーブルマナーではなく、艦の担う石油や砲撃戦なのだ。
「よい遊覧船だったと思います」「艦艇なのに戦闘を経験しなかったの、そう望まれた生き方だったのよ」「処女航海で緊張していてワインをお洋服に零しちゃったの」「ほかの水上艦と一緒に満艦飾をしてみたかったなぁ、進水式でしかできない掟だったんです」「名前を覚えられることすらなかった小さな船生だったし、この先もみんな知らないままだろうと思います」「あとに残していく弟たちが心残りです、未だにあいつらに海のいろはも教えられていないのに」「いつでも海は優しいと教えてくれた社の人たちには感謝しきれないです」「私の艦は気風が厳しいと泣いてるひとがいた」「船に関わる人たちすべてを笑顔にできたわ、誓って言えます」「皆がぼくの写真を撮ってくれた」「愛されていたわ」「怖がられていたの」
某にて
「さっきぼくは夢を見ました」「夢」「オーストラリアに行く夢です」「すごーい!こくちゃんもついに輸出されちゃったの?」「そうかもしれない!しれない!」「で?」「オーストラリアのひとと仲良くなったり」「うん」「オーストラリアのお酒を飲んだり騒いだり」「いいね~」「ちょっと日本にも帰ってきて」「うんうん」「『横須賀市民の皆さんへ!こちら海上自衛隊潜水艦こくりゅう!もし聴こえている方がいたら海岸まで出てきてください!』って海から呼びかけるんだけど」「うん?」「誰もいないワケ」「……」「で、そのうち乗員が勝手に陸に上がっちゃって、『みんな死んでる、両親も娘も』って言うんだけど――」「それ僚艦は南米にいるやつでしょ?知ってる」
「さっきぼくは夢を見ました」「夢」「オーストラリアに行く夢です」「すごーい!こくちゃんもついに輸出されちゃったの?」「そうかもしれない!しれない!」「で?」「オーストラリアのひとと仲良くなったり」「うん」「オーストラリアのお酒を飲んだり騒いだり」「いいね~」「ちょっと日本にも帰ってきて」「うんうん」「『横須賀市民の皆さんへ!こちら海上自衛隊潜水艦こくりゅう!もし聴こえている方がいたら海岸まで出てきてください!』って海から呼びかけるんだけど」「うん?」「誰もいないワケ」「……」「で、そのうち乗員が勝手に陸に上がっちゃって、『みんな死んでる、両親も娘も』って言うんだけど――」「それ僚艦は南米にいるやつでしょ?知ってる」
2025年5月23日 この範囲を時系列順で読む
企業・組織擬人化創作小説「時代の横顔」
日本海軍の話です。本当です。本当ですってば。 #「時代の横顔」(企業・組織擬人化)
あのう……ですね……。その、先生を、先生を今日、お呼びしたのは、というか、ごはんに誘ったのは、中学校時代の教師である先生を食事に誘ったのには、ほんとうに……別に深い意味はないんですからね。ほんと。いやそれなりの意味はあるんですけど、学生時代にあたしとセンセはそれなりに交流はあったし、その延長上に今日のこのごはん会があるだけですからね。……え?いや、会社じゃあちゃんと「わたし」って言ってますよう。大学卒業のときに、自分で自分を名前呼びするのだってやめましたからぁ。そうじゃなくって……日々の反省会をしたいんじゃなくってですねぇ……。え、ああ、あはは、先生にはよく廊下に立たされそうになりましたよね。授業中騒いで。携帯も何度も没収されたし。あの時代ってまだガラケーだったんだよねえ。いやあ、すべてが懐かしすぎる……平成って、一体なんだったんだろね……。
まあ、でもセンセはアホだから……いやアホってそういう意味じゃなくって!!おおらかで優しめ人のことを、あたしはそうやって表現しているだけなんですよお!だから、先生はあほうだから、おおらかだから、すべてに緩くて、優しいから、だから突拍子もないことも話せるんですけど。そうだよ、本題だよ。今から本題言うよ。ほんとうに、ほんとうにびっくりしないでほしいんですけれど、……だから、……。あのう……先生は、………………日本海軍って……どう……思いますか?
……え?いや、入らないです、海上自衛隊には入らないです。日本海軍ですって。昔のですよ。うよく……え?右翼?っていうのでもないです、たぶん……。いや目覚めてもないです、目覚めるって、何に?真実ぅ?……え?かんこれ……?かん?たいこれくしょ……いや……いえ、いや、いやいやそうじゃなくってですねぇ。
…………拾った、んですよね……。……え?何を?え、いや、日本海軍を……。日本海軍さんを、拾ったという話なんですけど……。
え?いや、大丈夫、大丈夫です!わかってます!引かないでください!!おかしいですよね!!正確に言えば、日本海軍を名乗る男を拾っただけなんで!あとその男も、もう家に居ないんで!大丈夫です!ええ、ええ、うん、たぶんそう、先生も昔、歴史の授業なんかで言ってた、集団の象徴みたいなものだと思う。軍だから軍象、なんでしょうか。いますよね。たしかにいるってセンセも言ってましたよね。実際いるんです、彼らは。密かにいる。ただそれが、今が現代で、彼が日本海軍であることが問題だっただけで……。海上自衛隊だったら問題なかったんだ。……いや、問題なかったのかな……。海上自衛隊さんが、落ちている……?まあどっちみち、拾った男が日本海軍を名乗ってました。マ~ジでびっくりしたね。
……は?グンコク主義の復活?ぐんかのおと?いや、そぉんな大それたものでもない気がしますねえ。だいたい復活だというのなら、もう居ませんよ。グンコクすぐ滅んじゃった。海軍さんを拾ったけど、帰りました。どこに帰ったのかわかんない。消えただけなのかも、今度はほんとうに消えたってことなのかなあ?
……拾ったのは一ヵ月前と少し前のはなしです。二日前に消えました。お盆に消えちゃった。
あたしは地元の……そー鎌倉。その浜辺でビーチコーミングしてたんだけど……え?今そんな名前になってる。砂浜で貝を集めることが。カッコいいっしょ。だから、それをしていた、ビーチをコーミングしてたんです。だんだん陽も陰ってきて、海も貝もぼんやり見えなくなりそうで、寂しい浜辺になり始めて、まあ今日はお開きっすわ~魚介類ども今日はこれで勘弁したるわ、なーんて帰ろうとしていたタイミングで、すこしとおく、それでも目に見えるくらいの距離に男の人が立ってるのを見つけたんです。
一言、ヤバかった。超不審者だった。というのもボロボロの洋服を着ている男の人だったんで。……なんで彼、軍服じゃなかったんだろ。……え?第二、復員省?……ふーん、まあいいです、あたしにとってはただの海軍さんなので。
まあ、ちょっとした緊張感を持ちつつ、遠回りをして帰ろうとしていた時に、その男があたしを見つけたんでしょう、ものすごい勢いでこちらに走ってきました。ええ、死を覚悟しましたね……。あ、ヤバ、みたいな。じゃ、あたし死にますわ、っていう……。そしてその男にものすごい勢いで肩を掴まれ、男は一言言いました。正確には聞いてきました。
「おい、ここはどこだ」
「ひッ……」
この状況じゃ答えられないですよね。悲鳴を上げそうになりました。というか実際ちょっと上げてた。ハイ……。
その男のひとはボロボロの服を着て、あたしに縋るように肩を抱いて、もう一度ここはどこなのか、を問いました。怖かったけど、その目には哀れなくらいの必死さがあった。誰かに捨てられてしまったかのような戸惑いがそこにありました。
あたしはそこでやっと、相手があたしとおなじ人間のように思えました。おなじ人間なんかじゃなかったのにね。でもあたしは、今度はちゃんと返事ができました。
「か、かまくら……」
「鎌倉?」
呆けたように何回か繰り返して、さっきの勢いはどこへやら、小さな声であたしにまた尋ねました。「にほんはどうなった」。
は?日本?こーんな感じにこうなっているけど……という思いすらもなく、あたしは、今のあたしがどうなっているのかもわからないまま震えていました。それはその男の人もおなじでした。あとから聞いたんですけど、彼、その時は「復活」した直後で意識が朦朧としてて、日本がどうなったのか、思い出せなかったらしいです。負けたってこと、ちゃんと知ってたはずなのにね。
その男の人はそのまま、にほんは、とかふねがもう、とかぶつぶつ言ってました。
よくよくその男の人の顔を見てみると、あたしより数歳年下にすら見えました。身長はでかかったし、妙な威圧感があったし、勢いよく走ってきたんで気づかなかったんですけど。呟く彼は雨に濡れて汚れた大型犬みたいで、主人をなくしてしょげたままのわんちゃんみたいで、なんか無性に可哀そうになったんですよね。
「あのう……大丈夫ですかあ」
「いや……ああ……。大丈夫なのか……。わからん……。なぜ俺は鎌倉なんぞに」
「ビーチコーミングとかしてたんじゃないんですか?」
「び……?」
そんな会話をしながら、そのまま海岸の石階段で、夕陽が海に落ちるさまをいっしょに見て日本の斜陽から敗戦に至るまでの話をしてました。というか、一方的にされました。彼はなんとなく自分を思い出し始めていて、自分が日本海軍の依り代であること、戦争に負けたこと、敗戦後にしばらくこの世にとどまっていたこと、その後はよくわからないことをただ喋ってました。なんだっけ……水が足りないって暗号、とか言ってた……あ、そうそう、それ、ミッドウェー海戦では暗号がばれたのではないか、とか、そんなようなことを占領軍のアメリカ人が言ってた、とか、その悔しさとか、軍艦がたくさんあったこととか、それがなくなってしまったこととか、香港?マカオ?あ、上海だったかな?どっか中国の戦争かなんかの話をしてました。
彼がそういう、なんというか自分が惨めな話を真っ向からあたしにしたのは、その時が最初で最後だったように思います。たぶん、混乱してたんだと思います。
そこで気づいたんですけど、昔の戦争のことであたしが知ってるのって、戦争後すぐで記憶が止まってる彼よりも少なかったんですよね。ミッドウェーってどこだよ、って。彼がいなくなってからGoogleマップみたけど。遠ッ!ってかんじで。どこの海だよって。そんな遠くまで行ってたんだって。びっくりしちゃった。
海戦で勝ってとても嬉しかったけど好きだったふねと乗っていた人間がたくさん沈んじゃった~って言ってるときと、炭鉱は働くのが特に大変だったからチョウセンジンをいっぱい連れてきたんだよなあって言うときの彼のちいさな笑顔を覚えてます。さっと鮮やかで、ほんと、サッカーでゴールを決めた高校選手が謙虚に喜びを滲ませてるみたいな自然な感じの笑みで……。あれが時代の顔というものなのか、戦争の時代というものなのかなんですかね。わかんない。あたし、ただの会社員なんです。特にシュレッダー業務が好きです。とても楽だし。ボタン一つ押すだけでぜんぶ終わるし……。
*
日本海軍、軍隊、軍人を名乗るのに反して、彼はしごくまともそうでした。いや、まともそう、って言いかためちゃくちゃ失礼ですね。
でもなんか、その日本軍って名乗りを聞けば「そこの下女……」みたいな語りかけや吐き捨てをしてきそうな感じがあるじゃないですか。え?帝国海軍はスマート?そうだったのかー……。…………それ、ホントに?はー……。ええー?うーん、……まあいいや、まあ、そのスマートな彼は洋服がぼろぼろなこと以外はまともでした。あたしたちはまともに会話をできていたと思います。ちゃんと。いままでしたこともない戦争の話が話題だったということを除けばだけど……。
そして結局、あたしは彼が日本海軍の軍象だということを受けいれました。そうなったら今度は彼をどうするかというはなしになりますよね。変な不審者ではないこと、また今が現代であること、この二つを考えると彼は今とても不憫だ、ということになっちゃうじゃないですか。さりげなくその場を立ち去れればよかったし、そうするのが当たり前だったんでしょうけど、さりげなさを装うには戦争の話を語り合いすぎたし、なんならあたしは話の途中でつい「え、じゃあもう帰る場所ないじゃん!」なんて指摘しちゃってたしそれに素直に海軍さんはしょげてた。もう不自然だよね、一人で去るにはね。だからまあ、……家に連れて、帰ったよね。
この状況はよくない、非常によろしくない、相手が海軍さんだとしても……え?海軍さんだからこそまずい?いやどっちにしろまずかった。とりあえず着替えと風呂だったから、さらにまずった。今は関西に居て、昔同居していた兄の服はまだ取ってあったから、それを入浴後に着せました。Tシャツは胸に英語でGood Times Start Nowって書いてあってちょっと笑っちゃったんだけど、昔の人だから英語は読めないだろ、と思って油断してたら「一体なにが始まるんだろうな……」って海軍さんが呟いちゃって、笑いと申し訳なさの感情の観覧車に……え?海軍は英語が得意?なんで?戦争で英語は使っちゃだめだったんじゃないの?ふうん……。あの時だけは、互いに二十代の若者の会話で、なんだかそれが面白くって、あとから思えばただただ空恐ろしかった。
日本海軍の象徴は現代に生まれればあんななんだ、とか。今の海上自衛隊の象徴はあんななんだろうかとか。両者はどう違うのだろうかとか。時代ってなんだろうとか。時代の顔、が……。なんか、もし戦争がなかったら、っていう言葉、よく夏にNHKとかで流れてる番組のとは違う……あの番組に出ている人たちの言葉とは違う……あれが自分のことのように、ってやつなんだろうか、感じてしまった。そう、もしあの時代に戦争がなかったら、何か、彼にとっていい時代が、その時に始まっていたんだろうか。ってあたし、なんともいえない感じに、もやもやしちゃって。
えっ?ああ……戦争が無くても植民地というものがあった……?グンジコッカのタイセイ?テイコクシュギ?ああ、そっか……?でも、正直言うとあたし、そういうのにぜんぶ疎かった。ガラケーの前の時代って未知の歴史なんだよね。ぜんぶが石器時代っていうか。日本史の先生のセンセは今、連立方程式を解けますか?あたし、昔は得意だったのにもう解けないよ。あたしにとって、数学と歴史はひとしいんだ。計算なんてハガキの不備が合計百四十九件あるときにしか使わないし、その計算だって電卓でやる。日本史の戦争も植民地?も、そういう意味じゃあたしにとって夏の夜の暇つぶしになるだけかもしれない。テレビ番組にはなれる。けど、少なくとも仕事じゃ使えない。使わない知識だった。少なくともあの浜辺に行くまでは、そうでした。
センセはそうゆうのムカつく?悲しい?……そっかー。日本史の先生だもんね。てか先生は日本史ってか、歴史が好きなの?歴史の何が好きなの?海軍さんがよく言ってたみたいな、伊四百が開発できたこと?それとも、本に書いてあったみたいに、ダイハツだっけ?……に、それに助けてーって縋った兵士さんたちが、そんまま仲間に腕を切り落とされちゃったとか、そういうお話が好きなの?あー、あはは。……そうだよね、んなわけないよねー。わかってるわかってる。ごめん、殴んな殴んな!殴んなってー!あはは、はは……。……なんかね、海軍さんがいた時、彼が見てないところで本を一冊読んだんだけど、難しくて、ぜんぜんわかんなかったよね。彼がいた世界ってどんなだったんだろ、……今も分かんない。ダイハツって何?車?……センセはなにが好きなんだっけ。好きじゃない?大人としてのギム感?はあ……そうなんだ。
で、とりあえずその日はそのまま寝ました。兄と二人暮らしだった時期があるので部屋だけは多くて無駄に広くて、それだけが救いでしたね。それでもやっぱ、無警戒過ぎたと自己嫌悪に陥って、で、そのまま無警戒に寝ました。
男の人というか、軍人というか軍隊というか、男の人だったので、もっと警戒すべきだったのでしょうが、何もなかった。一貫してなにもなかったです。たぶん、何かしたらまずいという意識が彼にはちゃんとあったのでしょう。だって、彼がいるのは二〇二〇年代の日本で、戦前の日本じゃないんですから。何かをできる権限は、誰にも保証されてなかったんだからさ。
*
海軍さんは次の日の朝も普通にあたしの家にいて、当たり前のように、そこに存在してました。あたしもあーあどうしよ……ってかんじだったけど、一番困惑してたのは海軍さん自身だったみたいでした。そりゃそうだ。今、二〇二〇年代なんだよ?海軍さんがほんとに生きてたら何歳だよ。海軍がなくなって今何年目?戦争の後、に、なくなった……んですよねえ。たぶん……。ん?戦争って何年に終わったっけ。ああ、一九四五年ですよね。いつも忘れるねえ。それじゃ、八〇年後になっちゃうよ。それもそうだし、そもそもなんで自分が今生きていて……生きていたのだろうか、あれは。あれは生きてたのかなぁ。まあ、生きてたってことにして、なんでまた生きてるんだろう、って話ですよ。あれ。……あれは……あれはやっぱりあたしの幻覚だったんだろうか……。ぜんぶ……。
……彼は顔を蒼く染め、というか吐き気を堪えてる感すらありながら「こんなことは初めてだ、経験が無かった」と言いました。そらそうだ、とあたしは思いました。こんなこと、彼ら依り代たちに何度もあったらそりゃ大変でしょ。本人も周りの人間も。面倒だよ。
とりあえずあたしは会社に行くから、と言って、あたしは逃げるように我が家を去りました。夢か幻覚なら帰宅後にはちゃんと消えているでしょう。正直まあ、それに賭けましたよね。でも出勤してシュレッダーをしてても、入力業務をしてても、仕分けをしてても、頭から日本海軍さんのことが消えずに……いや、やばい女ですよね?わかってますって!日本海軍かその幻覚かわからないものにとりつかれている女なんて!!
で、結果ですが帰宅後、その日本海軍さんはやはり家にいました。しかも電気をちゃんとつけて待ってました。昔の人なのに電気のつけ方、ちゃんとわかるんですね。へ?戦前にも電気はあった?いやそれはそうですけどスイッチの形とか……え?ほとんど一緒?そうだったんだあ……。しかもクーラーまでばっちりつけてて……え?軍艦にも船にもクーラーがあった?戦前ですよ?マジで?そっかあ……。もう驚いたら、負けですよね。海軍さんの存在以上にびっくりすることでもないですもんね。……実は戦前って、すごいんだなあ……。
まあ、そのクーラーが二十四度に設定されていることに若干イラっとしながら、彼もごはんを食べるのか不安になったので、「ごはん食べる?」と聞いてみました。あと「あなたいつ帰れるの?」とも聞いてみました。海軍さんはキョドり気味で、後から聞いたら若い女にはじめてそんなタメ口を利かれたことが原因だったようですが、そんなの知りません。この家の家主はあたしです。彼は前者に配してはイエス、後者はわからん、との御回答をあたしに賜りました。
さっき言ったように、「これだから女は……」とか言ってきそうな先入観すらあった軍隊である海軍さんは、一貫してこちらに謙虚というか、無関心というか、不干渉というか……でした。たぶん、追い出されるという心配もあったでしょう。この世が二〇二〇年代だということはすでに伝えてありました。今の海軍さんに権力が無いこともわかってたはずです。この家とこの世で権力があるのはむしろあたしのほうだということがわかってた。たぶん、いつもそういうことにいつも敏感に生きてたんじゃないかなあ。軍隊だもんね。でもこんな女に負けるとは、みたいなものもなかったです。ほんと、不干渉でした。うん、たぶん、怖かったんじゃないかと思います。ウケますよね。日本海軍は自身の権力のない世界に放られて、ただ、ぼうせんとしてたんじゃあないか。……そんなの、戦争に負けた時にとうに経験してたはずなのに。
でも、呆然としていながらも、どこか穏やかにみえました。あれなんですかね、戦争中は人間とかバンバン殴ってたんですかね?テイコクシュギシャですもんね?でも、そういうそぶりがなかった。きっと権力がなくなったけど、義務とか使命感とか、やらなきゃいけないこともなくなったんでしょうね。あれが、自由ってやつだったのかなぁ……。いや、やっぱ呆けてただけなのかな?アイデンティティが、ぽっかり抜けちゃって。戦争ないし。することもなかった。……彼がここにいる意味がなかったんですから。
海軍さんはあたしが作ったスパゲッティを無言で喫しておりました。あたしも無言で食べましたよ。なんか、空気が重かったです。お互いの緊張感が漂っていて……。スパゲッティのいちばんの調味料はピリッとした空気で……。とはいえ、海軍さんは昨日の晩から何も食べていなかったので、心なしか嬉しそうでした。尻尾あったら振ってたんじゃないかな。その日に限って冷蔵庫にまともなものがなくって。あたしが買って帰るまで。そこは申し訳なかったと思います。まあそんなのあたしの責任じゃないんだけど……。
あたしは、毎日会社へ行き、シュレッダーをしてハガキの計算をなどをして帰宅して、まだ海軍さんが家にいると電気の明かりでわかると毎回げんなりしつつ、日々を過ごしました。一度、炭酸ジュースをあげたら、嬉しそうにラムネの話をされて……。ラムネジュースって海軍にもあるんですね。というか戦前にもあったんだあ、ってびっくりしました。……へ~!?ふねの中にもあった?知らなかった……。そんなことまであの人、言ってなかったけど……。「人間とよく飲んだ。こんなに甘くなかったし炭酸も強くなかったが……。この時代の飲み物はよくできているんだなあ」とかなんとか言って、普通~に飲んでましたね……。ほんとに普通でした。ごちそうさまでした、とてもおいしかったよ!ありがとね!のあたしへの社交辞令みすらあった。炭酸が強いならもっと驚くとかさ、あるだろ!飛び上がってびっくりするとかしてほしかったよ、見たかったなぁ……。過去からタイムトリップ?してきたんだからさ……お決まりのさ……サービスしてよ……とか思いました。あれ、そもそもタイムトリップだったのかな。むしろわくわくお彼岸イベント?
*
……あ、そうそう、自分のふねの話を、出会った浜辺でしていたことを覚えてます。いろんな名前を言ってました。大事な宝物の話をしてるみたいに、ぽろぽろと、自分の持ってる宝石かお気に入りのどんぐりかビーチコーミングで拾った綺麗な貝殻の話をするみたいに一つ一つ呼んでました。あたしが唯一最初から知ってた戦艦大和の名前は一度も出てこなかったこと、なんでか憶えてます。
彼のいとし子のふねの名前、ぜんぜんわかりませんでした。ウィキペディアで検索して見てたんですけど、まー軍艦っていっぱいいるんですねー、みたいな。白黒写真だとどれも一緒に見えて……それに、ぜんぶまるで遺影みたいだった。白黒で、画質もどれも荒くて……。ぜんぶもう亡くなってて……。名前も漢字二文字が多くて。山と川と土地の名前が多いの、ウケますよね。それ日本人の苗字と一緒じゃんって。日本人の名前に対する感性ってどれも一緒なのかなあ……。よくわかんないけど農耕民族?ってやつだもんね。それがふねに対しても一緒なんだと思うと面白かったです。魚とか貝の名前とかじゃないんだって。船って海の生き物なのに。あ、でも海軍さんにとっては、……海軍の人間にとっては、ふねも陸の生き物だったのかなぁ。俺たち仲間!っつー。まあ、そのだいたい二文字で、音が四文字だったり二文字だったり三文字だったりするそのふねの名前を、彼は熱心に熱心に呼んでました。陸奥とか高雄とか、赤城とか……。空母とか戦艦とか……駆逐艦とか……。その強さとか。粋なところとか。好きポイントとか。ベラベラ喋ってました。
ある時、海軍さんにウィキペディアを読ませたほうが良いのかな、って悩んだんですけど、結局あたしは見せませんでした。インターネット世代じゃないし、いろんなものに耐性なさそうだし……。むしろはまっちゃって、スマホ買って、とかねだられても嫌だし。YouTubeとかずっと見てたらどうしよって。日本海軍が……。
それに、自分と自分の好きなふねの最後のことをGoogleとかウィキペディアとかで知るのってどうなんだろ、って思っちゃって。隼鷹とか、さいご、解体されて、そのこと、あの人知ってたんだろうか、って。思っちゃって……。だって、インターネットであんな無神経で無頓着な言葉で語られて、ネガティブな言葉と一緒に検索すればいくらでも検索結果がネガティブになってって……。ネガティブに語られて……。嗤われて、罵られてて、変な賞賛のされ方とかされてて……。日本軍のサイキョーの戦艦、とか。ダサいですよね。あんな雑な言葉で、彼は、自分のいとし子を語ってなかった。それなりの、自分自身の考えを根拠にして、そこからちゃんと出発して話してた。他人の強さを笠に着たり、自分の属する集団を根拠にしてなくて……。それが良いことなのか、それこそが悪いことだったのかわかんないけど。これ、海軍さんをほめ過ぎなのかなあ。でも、やっぱ、インターネットの言葉なんかでね、知ったってね、って……。まあ、あたしもインターネットで知ったんだけどさ。それをまた優しく言い直して、無難に伝え直してあげればよかったんだろか。でも、どうやって?そもそもなんで、とも思う。そんなのあたしの義務じゃないし。
……海軍さんだってね、武蔵ってすぐ沈んじゃったよねーあははー馬ー鹿じゃないのーとかどっかで笑われてる、って知っても、確かに馬鹿だったよなあ、俺はほんとうに馬鹿だった、って一緒に笑うかもしんないよね。無邪気に。晴れ晴れと。悔いなきみたいに。彼ってそういうとこあったと思う。……長門の最期だってもしかしたら彼は、前は知ってたかもしれないけど、今は覚えてないようでした。だって戦艦長門を呼ぶその声に、陰りはなかったから。そこにネガティブさなんかなかった。…………それともぜんぶ知ってて、だからこそあえて明るい声で長門の名誉の話だけを語ってたんだろか。それが彼のできる、娘への唯一の愛情表現だったのかなぁ。
海軍さん自身は気にならないのか、長門の最期とか隼鷹の行方とか、日本はどうなったとか、負けたあとの長い長い八〇年間が気にならないのかなって、最初は思ってましたけど、やっぱ、うん。怖かったんでしょう。あたしに聞いてきませんでした。だって聞いたら、今度は返ってきた答えを聞くことになっちゃうもんね。日本海軍のサイキョーの戦艦の、無残な最後とかを。
彼は軍艦のいい思い出だけを喋ってて、だいたい海にふねがいっぱいあったこととか、軍艦がいっぱいあったカンカンシキのこととかの話で、ロシアとの戦争とか、時々イギリスとかドイツに行った時の話、あとうるわしきオメシカンの話だった。それに真珠湾の作戦を喋るくらいで、いっつも戦争の話は、だいたいはそれで終わってた。
え?ああ……そうですよね、それってマジのマジでアメリカとの戦争のはじめの話ですよね。あと中国とかないですよね。たぶん、自分が好きな勝ち戦の話しかしたくなかったんだなあって……いやそりゃそうだけど……それが男ってもんなんですかね?それが軍隊?
だから駄目なんだろお前、ちゃんと反省点も述べろよ、って社会人経験数年の女のあたしが思っちゃったんですけど、それウケるんですけど、超ウケるんですけど、でも……なんだろ……。かれがかれのうつくしい思い出を語るときの、あのうつくしい横顔が、いっとううつくしくて、今もどうしても、そのうつくしさが忘れらんない。…………ああ、危ういですか。ですよねえ。これがグンジコッカのタイセイってやつですか。グンコク主義ですか、ですかねえ。だって、あの人、炭鉱のキョウセイレンコウの話をするときもおなじ顔、しますもんね。
*
海軍さんは基本的に遠出をすることもなく、近所をうろうろするか、だいたいは家でぼんやりしてたみたいです。知らないけど。あたしが知ってる限りはそうだった。
ぶっちゃけあたしのいない時に赤の他人に家を任せるの、不安感ありありだったけど。まあ、そういうのホントぜんぶ諦めてました。拾っちゃったのはあたしなんで……。
あたしは海軍さんを家に迎えて、なんというか、今までの人生になかったものが自分のなかにできた気がしました。……いやそりゃ当たり前なんだけどね?あたしよりちょっと下に見える、あたしより何十歳も上の、今は生きてるのか死んでるのかもわかんない人間じゃない人間なんて。近くにいたら驚きでしょ。それが毎日家で待ってるんだよ?何なんだよ……。あたしが一体何したんだよって。
あたしは家を出て、毎日横浜経由で東京まで仕事に行くんですけど、ある日早上がりしたその帰りに紀伊國屋に寄ったんです。ファッション誌が欲しかったし、あともしかしたら上手く軍象さんを返す方法がわかる本もあるかもしれなかったし……。帰すってどこへ?ってかんじだけど。天国?地獄?成仏か?
一階で雑誌を買って、とりあえず二階に行ってみたけど、結局返し方とかそういう以前に依り代の本が無かった。まあそうかーと思ってぼんやり棚を見つめてたんですけど、ふと日本軍の本を見つけました。細長いサイズ……新書?それ、それが安かったんで。それを買ったんです。白と濃い緑色の。かっこいいかんじのやつ。頭良さそうな本でした。
買ったの、特に理由はありませんでした。うーん、なんていうか……彼の話してることってどこまで信用していいか、わかんなかったんですよね。まあ戦争の話自体はそれでいいんですけど、もしかして、この今に今いることや、その理由が実は分かってたり、何か隠しごとをしてたり、……目的があったり……そういうのがあっても、おかしくはないんじゃないか……という疑いがあって。
結局そんなことは一切なかったみたいで、彼はただただ困惑してただけだったみたいなんですけど。戦争の本や海軍さんの本を読めば何かわかるんじゃないか、ヒントがあるんじゃないか、と思って。…………その本を帰りの電車で読んでたんだけど、知らない単語と難しい漢字が多すぎちゃって、わかるの、ぜんぶ諦めちゃった。
なんだっけ。動けなくなっちゃって自殺しちゃった兵隊さんとか、動けなくなったって仲間に殺されちゃった兵隊さんとか。安楽死……処置だっけ?生きたまま捕まるなとか、……人の肉とか……食べ、て、たり、うーん、……中国の人を刺してたりとか、やっぱ彼あんま喋ってない、喋らないんですよね。まあ喋られてもおう……ってなるんだけどさ。……いや、あれは陸軍の話なんだけどね。
でもたぶん、彼も似たような立場ではあったはずで。だから、彼、あたしがちゃんと聞けば、もしかしたら話したかもしんない。さらっとね。当たり前っぽく。初めて会った砂浜の時みたいに。……むしろ、聞いてあげればよかったのかなぁ?あたしはちゃんと聞いてあげるべきだった?彼の……彼の、彼だけの話を……彼の……。……どう、なんだろう。どうだったんだろう。うん。うん……。はあ…………。
……いや、……やっぱ嫌な出会いだったよなあ、ホント……。マリアナがどうーとかエンガノがーとかなんとか身振り手振りで必死に言ってて……。軍事的失敗をあたしに細かく語ってて。顔も知らないあたしに意味不明な弁解じみたこと言ってて。俺も奮闘したんだよーとか。なのに上手くいかなかったそんときの悔しさとか。自分の後悔とか。失敗とか。戦艦比叡がって。比叡が沈んじゃったけどーとか。あいつのオメシカン姿は最高だったーって。美しかった、って。麗しかったって。素晴らしかった。とても素晴らしかった。素晴らしかったのに、って呟いて。頷いて、黙って。そして鮮やかに。魚の骨を箸で抜くみたいに、さっと。綺麗に。炭鉱が大変だったけど、って……。
……あの笑顔のうちに、なにかいろんなものを抱えてたのかなあ……。
と、か、ぼんやりと考えて、鎌倉駅に降りてとぼとぼ帰宅しました。なんか、どんな顔して彼に会えばいいか分かんなかった。正直、わからないなりにショックなのはありました。寒かった。手が冷たかった。何十年も前にあったことなのにね。あたしが生まれる前からあったことなのに。なにか多くのものを抱えた得体のしれない存在と住む家に帰る、って……。それはどういうことなんだ、って。ぐるぐる考えてた。部屋が二十五度か二十六度だったら有難いって、もういっそクーラーなんかいらないかもって、今はいらないやって正直に思った。冷たい汗をじっとりかいてた。
帰宅したらぼんやりとした笑顔で海軍さんが迎えてくれました。「とても暇だった。だからカレーを作ったんだ。今の道具と材料は特殊でよく理解できなかったが……口に合えばいいんだが」とか言ってて。カレー作ってくれてて。笑顔で。空調はやっぱ二十四度で。扇風機も出してて。勝手に。押入れから。それに海軍さんが作ったマジもんの海軍カレーじゃん。遺産かよって。超ウケたんですけど。ただのヒモみたいだなって正直思った。
*
うろうろする近所といえば、海軍さんだからなのか、あたしが仕事をしている日中、例の海岸に行くことが時々あったみたいでした。海見てた。なんかいっつも鎌倉の海を見てたみたいで……。海軍って言ったら横須賀だし、船といったら横浜なので、なんでか申し訳なくなっちゃったんですよね。鎌倉の海ってサーファーとかばっかだもんね。
で、お盆に連休が取れないあたしは、そのすこし前に休みが連日取れたので、暇だったので、海軍さんに横須賀に行かないか、と誘ってみました。たいした他意はなくて、まあ、この第二の人生?がこんな感じでそのままマンネリで終わったらカワイソだな、という気持ちからで、ほんと他意はないです。ふねがいっぱいいるから、横須賀に見に行かないか、とあたしは誘いました。
海軍さんは横浜に行きたい、と言いました。
「横浜?横須賀じゃなくてですか。軍艦いっぱいいますよ、たぶん」
「だからだよ。他人の艦隊を見ると苦しくなるから。もう俺が持っていないものだ」
「ふーん」
そうお、じゃあなら、いいけどお……。という話になって、あたしたちは横浜に行きました。……それも怖かった、んですよね。それを理解してあげられなかった。ま、そんなのあたしの責任じゃないんだけども。義務でもないし。なりません、なりませんよ、海軍と共犯になんかなりません。彼の孤独は彼だけのものです。あたしはそんなの担いません。
横浜に行ったは良かったんですけど、結局、海はそんなに見ませんでした。というか、たいしたところには行かなかったです。神奈川県立歴史博物館とか行ったら、ぜったい面白かったんじゃないかな、って思ったんだけど。海軍さん、行きたがらなかったんで。怖かったのかな。それも。そりゃあ横浜の変わりようにはある程度驚いていたし、でもそれを言うなら鎌倉もいっしょですもんね。なんならホテルニューグランドがまだあそこにあることのほうがびっくりだったみたいでした。かわんねーじゃん!って。だからこう……ごはんを食べたくらいで。ごはんを。横浜で。横浜のジョナサンで。海軍さんと。なんだ。デートか。それ。危ういだろ。海軍さん、配膳してくれるネコのロボットに完全に失笑してましたよ。だから驚いてくれってば!未来の技術というものに!ただ、セルフレジとタッチパネルの注文には感心してました。人間の配置にはいつも悩まされるんだ、こんな感じに戦艦を動かしたい、機関室の奴らには楽をさせてやりたい、とか言ってて……。まあそんな感じでしたね……。なんで?もっと船と海を見て狂喜するとかそんなのないんか、と思っちゃいました。なんであたしが横浜に誘ったと思ってるんだ。ジョナサンに来るためじゃないんですけど。ネコじゃないよ。船だよ。船いっぱいいるし。ごらんよ海軍、これが船だよ、みたいな。君のなくしたふねなんだよ……とか思ってましたけど、まあ海軍のふねって灰色で、それこそやっぱり見るなら横須賀ですよね。横浜は、遊覧船とか、あの、軍に関係ない可愛めの船ばかりで……。
え?戦争になるとチョウヨウされるかも?チョウヨウってなんですか?へえ……ああ……軍隊が持ってっちゃうんだ。徴傭っていうのか。えー沈んじゃうの?それって借りパクじゃん?あーやっぱそうなんだ……でも、ちっちゃい船ばっかですよ?観光客しか乗れませんよ。あんなの。兵器載らないでしょ。それでも?昔はされてた。はあ……やっぱり戦争って怖いんですねえ……。
あ、だけど氷川丸の話には、妙に食いついてました。うっそ!?氷川丸ゥ!?みたいな……。アイツってまだ生きてんの!?ってびっくりして笑ってました。横浜にあるデッカイ船ですよね。今はどこにも行かないやつ。客船?カキャクセン?なんで興味あったのかは知らないけど。横浜ではでっかい船のほうだからかなぁ……。あれって乗れるんですよ行きますか、って聞いたんですけど、毛を毟られるだろうから嫌とかなんとか言って断られました。え?海軍が戦争で徴傭してた?病院船?そーお。顔見知りってこと?じゃあ仲が悪かったのかなあ……。海軍さんにパクられそうになって。誘拐?
大さん橋には飛鳥Ⅱがとまってて、飛鳥Ⅱの名前を聞いて海軍さんはめちゃくちゃ笑ってました。丸シップの伝統潰えたり、みたいなことを言ってゲラゲラ笑ってた気がします。え?海軍が言うと不謹慎?いやあの人、いっつも不謹慎でしたよ。それはちゃんと知ってます。ただ家主のあたしにはあまり不謹慎ジョークを言わないように気をつけていただけで……。
Ⅱであり、丸がつかないことがやっぱり面白かったみたいですね。船名めちゃくちゃや、みたいな。海上自衛隊の艦たちの名前が、日本海軍から引き継がれてること言ったら喜ぶのかなあ、とか一瞬考えましたけど、たぶんそれがぜんぶひらがなだってこと知ったらへこむんだろなって。ひらがなって何だか妙に可愛いじゃん、ってなるよね。まや、とか。女の子の名前か。だからやめました。
海軍さんはしげしげと飛鳥Ⅱを見つめてました。よく話を聞いてみたら、飛鳥Ⅱを持ってる会社は、海軍さんが生きてた時代にもあったみたいなんですね。よく知らないけど長寿ですよねぇ。船の赤い二本の線は、その会社のファンネルマークって言うんだ、と教えてくれました。あれ、氷川丸にもありますよね。……ああ、やっぱおなじ会社なんだ。へえ。ニッポンユウセン。だからかあ……。
今の貨客船は変な形だ、とか、ユーセンがあんな奇抜な船を造る時代なのか、とかあれにどうやって貨物を載せるんだろう、とか一人唸ってましたね。あと「いざという時、あれじゃ困るな……」とかなんとか深刻に悩んでるみたいでした。なんでだろ……いざという時って何、いつのこと?
……え?あ、徴傭?あー!ああ……。なるほどね。海軍さん、たぶんそれ考えてたんだ。あの船、他人の物なのに。はあ、他人の物だからこそ徴傭なのか。しれっと人様からパクるってわけね。ヤラシー。……絹とか手紙とか石炭とか、でりっく?が、とか何とかって熱心に言ってましたけど、今はたぶん載せないですよね。石炭なんて……。昔は載せてた?カモツセン?カキャクセンのカ?ああ、貨物の貨、に、客船なのか……。貨、客船か。だから今はただの客船なんですね。ふうん、教えてあげたかったなぁ……。あの人、ふねには異常に熱心なんだなって、目の前にして知りました。ほぼ船のオタクだったもんね。あれ人の物なのに……。
あたしたちは遠目に見える第二飛鳥丸の話をしつつ、横浜の日はどんどん傾いていきました。横浜の海はたくさんの小船がちらちら行き来してて可愛い。海軍さんがあの船は良いあの船はだめって言ってたけど、あれかっこいいとか可愛いとか好き嫌いとかじゃなくて、徴傭できるかどうかの判定だったんだね。知らなかった。あたしも無邪気にあれはどうですか、あれとかいいんじゃないんっすかぁ、あなたおっきい船好きでしょ、とか聞いちゃってたな。ただの船の好みだと思って……。いや、ある意味アレも好みなんだろうけど。俺おっきい船好きだよ!ってその時海軍さんも言ってたし。
きりのいいところでさーて帰るかーなどとぼやいて……いや日帰りです。泊まってどうするんですか。横浜と鎌倉なんですよ?すぐ帰れるのに二部屋も取るわけないじゃないですか。お金、ぜんぶあたし持ちですから……。
で、……まあ、……飛鳥Ⅱが、ちょうど出航するみたいでした。わーわーいう声が遠くからでも聞こえてきました。見送りと見送られです。そして船が海をゆくんです。
「あ、船行っちゃいますね。どこ行くんだろ。いいなあ~。あたしも船で外国の海に行ってみたいな」
「……」
黙ってた海軍さんをちらっと横見すると、彼は何かを堪えるように、そして食い入るように飛鳥Ⅱの姿を見つめてました。飛鳥Ⅱはゆっくりゆっくりと大さん橋を離れて、じわじわと出航していきました。楽しそうに見送られて、海に出て行った。それを呆けたように見つめる海軍さんが……なんといえばいいんだろう……そう、哀れで。哀れだ。哀れだって、思って、しまった。あたしは無性に悲しかった。彼の孤独は彼だけのものなのに。彼……きっと、さいごには港から送り出すふねも持ってなかったんでしょうねえ。……ああ燃料もなかったのか。機雷、で、港も使えない?ああ……海に出してやれないし、出れなかったんだ。そうか。そうですねえ。……そう、だったんだ。
…………横浜に部屋を取る気はなかったんですけど、飛鳥Ⅱになら、とってもいいような気がしました。して、しまった。……しまいました。なんか、船に乗れば、船があれば、この世にもあの世にも居場所がない人の居場所がちゃんと確保できるんじゃないかって、思ってしまって。そこになら、船の上なら確保できるんじゃないか。ふねのうえではそれがゆるされている。その無力がゆるされている。ふねはそういう場所として、いつもいつもあったはずなんです。
なんでまたこの世にいるのかわからず、呆然と船もない鎌倉の海を眺めて、昔も今も出航するすべを持たないで、その意味もなくて、生きてる理由が無くて、それを知る方法がなくて、それ以前に明らかに意味なんてなくて偶然で、もしかしたらあたしの幻覚上にしか居ないかもしれない、居れないのかもしれなくて……。
ああ……なんというか、うん、彼と共犯にならない、ならないけど、けど、行き場をなくした過去として、彼を、日本海軍を、どこかへ航海させてやることはできる……。あたしにはそれができる、って。思って、……しまったんですよね。それが飛鳥Ⅱの乗船チケットでも何か別のことをすることでも。
過去の人なんだから、なにかその過去を記録して書き留めてあげるのがほんとはよかったんですかね?彼が確かにそこにいたってことを。海にいたという事実を。たとえば文章が書けたら本を残すとか、小説を書くとか、調べてまとめるとか……。その歴史が、ふねをなくしたことなのか、あの運命の真珠湾なのか、彼が決して語らなかった笑顔の外のことなのか、つまり不名誉な、それ以外の戦争なのか。飢えて死んじゃったとか。南の国に船で運ばれている途中、戦う前にただ一方的に魚雷で沈められちゃったとか。虫歯が直せなくて痛かったーとか。よくわかんないけど。……書いてあげる。もう一回再現してあげる。無神経で無頓着じゃない言葉で。それもある意味、航海でもあるんじゃないかなぁ……って。思った。思っちゃった。海で、往き場をなくして、陸に上がってそんまま終わっちゃった彼をもう一度航海させること。過去というものを現在に航海させること。今という海に、解き放ってあげることですよね。生きものとして。ずっと止まったままなところから……。だって船って、昔のふねって、みんなの話や言葉や映画や思い出のなかで、何度も沈んでますよね。好きに沈められちゃってて……。なんだっけ、あれ。ディカプリオ。ああそれ、映画のタイタニックとか毎回沈むじゃん、って。綺麗に沈むじゃん。みんなふねが沈む話大好きじゃんねーって。なんでしょうねあれ。ほんと。……なんとなく、そう思った。だから、だから海軍さんの軍艦が沈んで、それはほんとつらくて、あと海戦に勝って嬉しくなったり、ロシアと戦争して、長門がいて、いっぱいふねを浮かべて、なんか……そういう話をくり返し話すことで、うん。何かができる。映画みたいに、何かがもう一度再現できる。タイタニックのごはんの場面とかめっちゃ綺麗ですよね。あたしはタイタニックに乗ってなかったけど、それが綺麗だったことを知っている。あとから作った映画があったから。……綺麗、……綺麗だった。沈む時もねえ……。綺麗。……うん。うん……。綺麗、だったことを知っている。何かを書き残せば、例えば魚雷のせいで沈んだ船から放り出されて海に置いてかれちゃった、その十時間を記録すれば、映画とかにすれば、みんなはその十時間を知ることができる。十時間ずっと悲しかったことや苦しかったことが……。……海の中で爆弾や爆薬が爆発しちゃって内臓が破れちゃって、苦しいっていいながら死んじゃった人たち……。
……うん、彼がほんとに日本海軍というものだったとしたら、これはとてもまずい感情だということはわかってました。だって日本海軍が好きな女とかやばいですよね!?マジ、字面が……。いや、実際いるのかもしれないけれど、レキジョ?とかオタクとか、なんとか、どこかになら……。いや、そもそもそういう意味じゃなくて、オタクとかじゃなくて、……軍艦マニアとかじゃなくて、あたしが彼の栄光と悲しみの顔がうつくしいというのなら、あたしは彼の炭鉱の話もいっしょに引き受けなきゃなんない、ですよね。話さなかった真珠湾以外の戦争の話も……。海軍がもう一度自由に航海することは、どういうことか、って……ことを。航海したら最後、きっと彼、そこでまた虫歯になるんだ。そこで戦争になっちゃって。アメリカとか南の国の人とか日本人とか、チョーセン……韓国?な、んですか……ね?……の人とか、そこにいた人たちもそこでぜんぶ死んじゃって。ああ……。……ですよね、……そうですよね。そうなんですよ、ああ、これがセンセのいう歴史、ですか、歴史の話、ですか。歴史を自分のこととして引き受けること。ああ、そうですね。……難しいですよねえ。そうか、すみません、授業をぜんぜん聞いてなくて。うるさい生徒でしたよね。騒いでて。あるいは携帯ばっかり弄って。そっぽ向いてて。歴史から。
しょげきっている海軍さんを無言で引っ張って家に帰りました。その夜は無性に虚しくなって、正直その後の数日は憂鬱でした。彼と顔を合わせんのも。あたしはどうすればいいのかわかんないし、海軍さんもどうすればいいのかわかんないみたいだった。気を利かせて横浜に行ってみたりしたのに。あたしはむかついたし。申し訳なかったし。互いに無力だってわかった。世界ぜんぶに対してです。で、連休はそれで終わりました。かつてないほど虚しい連休だった。
*
その夜、夢、見て。……うん。虫歯になる夢……。処置される世界の夢。あたしが戦争に行ってた夢。なんで女なのにここにいるんだろとかそういうの無くて。疑問とかない。夢なので。夢特権だよね。ぜんぶ夢です。
兵隊さんがいっぱいいて、あたしもその一人で、兵隊で、あたしは飯盒を磨く係だった。みんなの飯盒を磨いてあげるの。綺麗に。ピカピカに。うん、ないよね、実際の海軍に飯盒を磨く係なんて。つか飯盒って陸軍だった気がするけど。読んだ本では。……うん、だよね?綺麗に磨けるとめっちゃ嬉しくて。だって白いご飯が。ちゃんと炊けるので。食べれるじゃん。でもそこにお米がなくて、貝殻を飯盒に入れてた。桜貝とか法螺貝とか、宝貝、カズラガイとか……。
みんなで必死に貝殻集めてたなあ。なんか、たしか貝とお米が交換してもらえる制度がそこにあった気がするんですよ。誰もそんなこと言ってなかったけど、夢って、夢世界の掟やルールがわかるじゃん。説明されなくても。体感的に。感覚的に……。
しゃがんで集めてたら、誰かに飯盒を蹴られました。それって飯盒ピカピカ係のあたしへの宣戦布告ですよね?貝も全部ひっくり返っちゃった。あのね、ひっくり返った貝はお米に換金できないんですよ。汚れちゃうし。集め直しなんです。欠けたら価値がなくなるんですよ。綺麗な法螺貝は単価が高いから人気で。法螺貝いっぱい取れたのにーって。どうしてくれんのよ、って。蹴った靴を見て、足の主を見上げたら海軍さんでした。
すごいむかつくニヤけ顔で海軍さんが、上から偉そうに話しかけてくるわけですよ。そこの下衆な人間……みたいな。でもあたしも違和感なく聞いてて。ハイ、ハイ、申し訳ございませんみたいな。飯盒蹴られてすみませんみたいな。邪魔でしたよね、って。現実だったらまず殴って追い出してたよね。家主はあたしなんだからさ。てめーあたしの貝に何した?ってなるよね。これあたしのご飯代なんだけど。あんたのご飯でもあるんだぞ、みたいな。……夢だからそうはなんなかったけど。
「貝を集めろ。貝殻を集めると貴様も徳が積める。竜宮城へ行けるんだ」
とか言われて。いや、今集めてたから。お前が蹴ったんじゃん……あたしを急かすなよな、と思うこともなく、徳を積もうともう一度貝を拾い始めたくなりました。竜宮城にもいけるらしいし。竜宮城て何?あとなんでかあたしは夢の中で、彼を尊敬してました。蹴られたけど、海軍さんと話せて嬉しかったような……気がする。
「海軍さんは白米主義者ですからね、すばらしいです」
って褒めたのを思えてます。今はもう何がなんだかわからない。白米主義って何……?あたしは彼の完璧な白米主義を褒めたんですけど、そのまま海軍さんに二、三度殴られました。「俺に馴れ馴れしくするな一兵!」って。……あんな感じに、戦争中は人間殴ってたのかなあ……いや知らんけど。あれ夢だし。ただのあたしの夢。あたしは彼の白米主義を褒めただけなのに、殴られたんですよ。許せないですよね。でも、やっぱりそれを理不尽だとは思いませんでしたね。夢だからかな。
てか、今思えばあたしって、夢の中でも貝殻を集めてたよね……。ビーチコーミング。徳が積めるってなんだ。賽の河原か。徳とか利益とか意味とか考えるのはビーチコーミング友の会の会員失格ですよ。ほんと……。まあ実際あたしたちは利益というか、お米が欲しくて貝殻を集めてたんですけどね。……徳が積みたいんじゃないよ、あたしたちはご飯が食べたいだけだ、お腹が空いてて食べるために必死なだけだって思った。龍宮城なんて行きたくないよって。それを覚えてます。
浜辺の砂は白く細かくて、あ、これ骨でできてる……ってわかりました。白骨……の道?なんだっけ、……あー白骨街道か。本にでできたので夢にも出てきたんだと思う。海は赤くて、血でできてて、太陽は黒かった。いやホラーじゃんて。いま説明すると思うけど、夢の中ではぜんぜん怖くなかったなあ。まあ夢なのでぜんぶぼんやりしてるしね。
あたしは海軍さんに怒られたり怒鳴られたり殴られたり蹴られたりしながら、頑張って貝を集めてて。「気合いが足りない」とか「甘えてる」とか海軍さんは怒ってた。見たこともない顔してた。こ、怖ー!って感じの。……出会った当初に軍艦の話を振られてあたしは興味なくて、海軍さんは拗ねちゃって。ぶつぶつ文句を言われたことがあったけど、その時にあたしがチクチクうに太郎とか呼んだ時すらそんな顔しなかったじゃんて。
あたしはせこせこ貝を拾って、貝って脆いんだな、刺せば死ぬもんな、弾で撃てば一撃だもんな、集めるのなんて戦艦があれば余裕だよなーって思ってた。あたしたちにはふねがいっぱいあるしって。海軍さんもいるし。ぜんぶ集めてやるって。今から思えば意味不明だけど。そうやってあたしは貝を集めて、貝を集めたことで、ご飯食べれてた。ご飯は貝を集めてゲットできる。最初は貝がどれも綺麗で、素敵で、可愛くて大切だったのに、最後のほうは貝なんてどうでもよくなっちゃってたね。大きくても小さくてもどれも一緒。みんなおなじ、意味のない貝だ、って。貝どもは集められることしか価値がない、むかつくぜ、みたいなむかつきすらあった。いろんな貝の見過ぎ?貝のこと考えすぎだったのかなあ。集めすぎて。あたしのご飯に変えられれればなんでもいいやって。むしろ小さくて脆くて助かった。集めやすいし、軽いし扱いやすいし。貝がいっぱい集まって、貝の数に余裕ができたら、いらない貝は潰して捨ててた。邪魔だったし。必要ないので。小さくて汚い貝はいらない。それが戦場だもんね、仕方ないよね、じゃなきゃあたしが貝になっちゃうもんねって。捕まって、集められて。誰かのご飯に変えられちゃうって。まじ意味不明な夢だった。なんだそれ。なんだったんだあの夢……。
貝を潰してる海軍さんが笑ってる。嬉しそうに笑ってる。あたしも貝を潰して嬉しそうに笑ってる……。みんなで笑ってる。なんでかわかんないけど。嬉しかったし楽しかった。みんな仲間だった。よかったよね。白いご飯が食べれたからかなあ。……もしかしたら貝のおかげで炭鉱が栄えてたのかもーって思ったの覚えてます。……夢で。あと比叡のオメシカンが綺麗だった。でも戦艦比叡じゃなくて、軍艦巻きが比叡って名前だった。夢だから笑わずにすみました。あれがいわゆる海軍さんの白米主義だったんかな。ウケるんですけど。なんか足元は水に、海と波に満ちてて、……だんだん水が上がってくるんだけど。ぜんぜん気にならなくて。みんなで笑ってたので。海水はとても赤くて。寄せて引いて。……靴が赤く濡れて。
波が迫ってきて、貝が拾えなくてちょっと焦ってきてた。あー桜貝がある!と思って拾おうとしたら人の爪だった。それでも楽しくて笑ってた。海軍さんが「ここには海があるから大丈夫だよなあー」って言ってて、それも夢の中じゃなんか面白かったよね。なぜか。あたしは「じゃあ四方八方に貝がありますねえ」って答えた。…………あたしたちはそこではちゃんと、共犯だった気がする。
竜宮城は目の前だった。行きたくないなって思ったけど。……でもみんな先にいっちゃったからなーって思ってた。みんな待ってるって。……だからあたしも行かなきゃ、って。
そこで起きちゃった。……片腕空中に上げててびっくりしたよね。顔もちょっと笑ってたし。
あたしって実は夢日記をつけてるんだけど……いやせんせえ、虚しそうに笑わないでよ!つけてますよ、夢日記を。……寂しい女なんで、ほんと。寂しい趣味ですよ。ひとりですよ。一人の趣味好きなんですよ。友達と予定あわせなくていいし。ビーチコーミングと一緒で集めてるんですよ。夢を。寂しい趣味を許してくださいよ。……その夢日記に、あたしは、ただ一言、……地獄にいたって、書いといた。なんか、そんな気がした。……起きて、あのニヤけ顔が頭から離れなくてむかついたから海軍さんに軽くグーパンしちゃった。海軍さんはへあ?みたいな間抜けな顔してたからスッキリしました。それで夢の中の顔はだいぶ消えた。ということにした。…………彼は朝の日課で、いつも通り勝手に紅茶飲んでて。……結局彼が一番喜んでた現代の利器ってティーバッグだった気がする。コップをかき混ぜながら「どうしたんだ、やつれているぞ」なんてのんきに聞かれて。彼を殴って「アホ」とあたしは答えました。「アホアホアーホ。お前はアホ」
「阿呆とは何だ、貴様。失礼だぞ」海軍さんが気色立って言いました。
「ティーバッグ、来週まで買えませんから節約してくださいね」とあたしは釘を刺しました。
「あと三つしかないが」
「節約しなさい」
海軍さんは心なしかしょげてました。まあ、あちらからすればどうしたんだ?って聞いただけなのに、殴られてアホ呼ばわりですからね。申し訳なかったな……。悪いのはぜんぶ夢なんだけど。あたしじゃありません。
現実って貝を集めてもご飯にならないんですよねぇ。ティーバッグとかにも。でもそれっていいことだと思った。でもほんとうはどうだろ。あー、なんだったんだろうなあの夢。ほんと……。やな夢だった。
*
次に来たのは盆の季節でした。
海軍さんは二〇二〇年代の夏が苦手のようで、相変わらずエアコンの設定温度を二十四度に死守してました。
「あのですね、あと一度上げましょうよ」とあたしは言ったんです。電気代安くなりますからね。何度かそのこと説明したんですけど、そのたびに「ああ、そうか、血の一滴、ってやつか……」とか「この時代の機械には疎いが、この一度で何かが違う」とか言いながら、毎回毎回華麗にスルーしてました。あたしも毎回それをスルーして一度上げて、下げて、上げて、下げて。この動作のせいで余計に電気代がかかってるってわかったので、根気強く説得してから上げることにしてました。十回中九回は拒否されました。
「この世界は暑くないか」と海軍さんは言いました。いつも通りの事実上の交渉拒否にあたります。十分の九です。交渉決裂です。もうこれ軍港を奇襲するしかないっすわ。これ真珠湾ですよね。自分ごととしての歴史。だってこれあたしが払う電気代なんだけど?まあ、そりゃ暑いんですけど。……今の夏はやっぱり暑い。
「やっぱ今の夏って昔より暑いですか」
「暑い。考えられん。どこも機関室みたいだ」
「はあ……。あのう、……負けた時も、暑かったですか」
「ああ。暑かったよ。たぶん」
「たぶん」
あたしは元気もなく繰り返しました。海軍さんはぼんやりと言いました。
「暑かったのは憶えているが、どこにいたのか思い出せん。つまりそれがいつだったかもわからない。…………あれは、八月十五日だったのかなあ……」
その声には空虚なあわい絶望があって、虚無感すごくて、あたしはやっぱり、ぜったいに彼とはわかりあえないんだ、と思いました。あたし、学校の勉強も、歴史の授業なんてのも興味がぜんぜんなかったんですよね。だから彼とおなじ言葉で話せないんだ、って……。場所と属性の違うひとと、ひとしての交わりが、できなかった。彼と。おなじ国にいるのに、おなじ歴史を一緒に持っていないから。太平洋戦争、中国との戦争、軍艦がいっぱいあったこと、真珠湾とか、テッタイ作戦が上手くいったことの喜びとか、仲間がいっぱい溺れちゃったこととか、比叡とか、博覧会とか、キョクジツキが鮮やかだったこととか。陛下にお声をかけてもらったとか。だから喧嘩すらできなかったんです。戦争反対とか兵器を造るなとかひとの国侵略するなとか、炭鉱のこととかレンコウとか、何も言ってあげらんなかった。戦争もその反対の理由もぜんぜん詳しくなかったから。そういう言葉にあたしは根拠を持たなかったから。……あたしの言葉じゃなかったから。きっと彼も笑って聞かなかったでしょう。……れきし、って、一体、なんなんでしょうねえ……。
彼のいう八月十五日って、ふつうに終戦の日なんでしょうけれど。その海軍さんの言い方や普段の話ぶりを聞くに、真珠湾の十二月……そう、八日?ほどはっきりしてなくて、そうなんですよ、彼、十二月に大切な子どもたちを真珠湾に見送った話ばっかりするのに、戦争に負けた日ばかりはなぜかぼんやりしてて。……なんでしょうね。あれ。俺っちは負けてなんてないっち、という意志の表明だったのかな?……それにしては、心の底から悩んでいるみたいでした。……あー。へえー。そっか。べつにぴったり戦争が終わったわけじゃないもんね。樺太?へええ……。……それに皆が日本に帰ってくるのか。そりゃそうか。…………なんだか、本当に不思議になりました。
あたしたちは八月の十五日に戦争が終わった、ということを知っていて、あるいはそう言っているんですけれど。彼はそう思ってないか、あるいはそもそもそれを知らなくて。ただ暑かったよねーたぶん、って言ってて。あたしたちの今もいつか、こうやって雑にまとめられちゃうんですかねえ?
彼は過去に居て、過去の存在として現代人から認識されていて、あるいはされていなくて……。
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。拾った、ってなんだよ……。栗じゃないんだから。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう……?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。で、よくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう、危うい感じの関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。
あたしはチクチクうに太郎さんが八八艦隊をフルコンプしたかった~とかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。こいつはただの感情の尖ったうに野郎だ、って……。うにが何か喋ってるなって。思って。思い込むことに決めてて。
今から思えば、やっぱりあたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら、負けですよね、そんなの。そんなの、それこそあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。
海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよそれは。でも、一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、それがすこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いて、そして黙って。ふねはあんなふうに生まれて、そして沈んではならない、って言いきって。でも、だから……だから、だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんな悲しみに共鳴しないで、ちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。たぶん。知らないけど。……あたしたちはこれからも、くす玉を割り続けなきゃならない?……海軍さんとは違って生きている、から?海軍さんって、もう、死んでた、死んでいるんですよね……。あれ……。過去の存在で……二〇二〇年代のものではない。ああ……そう、そうなんですよ……そう…………。
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、を一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということをたぶん理解してあげられる。理解しようとしてあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。ただの人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。歴史的な批判でも。なんかみんなかっこいい艦だよねとも。ほんとうはそれができたんですよ。……できた、できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやっとしたまま、戦争するみたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。彼にティーバッグしか施してあげられなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。
一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも戦争のことも語るすべなく、ただ一緒に生活するしかなかった。生活を。でも、生活をするという人間の……一つの当たり前の生き方が……あれが彼の滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。日本海軍が日本海軍でなかった今、日本海軍さんにとって。あたしは話ができなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
*
……ある彼岸の週末の夕方、あたしたちは、一緒に浜辺に行きました。
彼岸の日に海に行っちゃいけないってよく言うけど、あたしはもうそういうのどうでもよかったし、海軍さんを考えればむしろ積極的に近づいてみたらどうだろ、とすら思ってたんです。そもそも彼岸の向こうの存在ですよね。だから彼にも言ったんです。あの海にいたんだから、あの海から帰れるんじゃないかって。
で、実際その通りになりました。
初めて会った時と同じように海岸の石階段に座って、夕陽を眺めながら、暑いーとか焼けるーとか、そんなことをぼんやりと話してました。もうあたしたちには夏の暑さのことしか共通になりうる話題はないんだな、って思ったのを憶えてます。キョーセーレンコウのこと、なんの知識もなかったな……。レンゴウカンタイのことも。今から勉強するか、歴史を。ウィキペディアで。軍艦以外のページも見なきゃ、とか思いつつ。
……すくなくとも、今、はもう間に合わない。間に合ってない。おなじ言葉じゃ話せない。孤独とか栄光とか、彼がいちばん大事に抱えてる、よくわかんないものを。だから、いちばん語り合うべきであろう主題を夾叉するように、日焼け止めという現代の利器の話や、艦隊勤務では真っ黒になることなどを話してた。その時のことでした。
いきなり海軍さんが、後ろにいた青年に肩を叩かれたんです。優しく。いつくしむように。いままで青年の気配に気づかなかったんで、あたしたちはただ、びっくりしました。
愛宕、と海軍さんは驚き叫びました。愛宕って、え、じゅうじゅんあたご?あたしはウィキペディアで愛宕の記事を読んでました。たしか「火垂るの墓」でもでてくる級ですよね。なんか太った感じの、デッカい、強そうな艦です。そしてその艦も戦争で沈んでる……。で、そう、このその青年を確かに愛宕、と呼びました。海軍さんがもう少しがっしりしたようで、そしてもう少し幼いかんじの……そんな子でした。
彼が着ていたのは緑色の、緑と茶色の間くらいの、陸軍みたいな軍服でした。ウィキペディアの海軍の軍人さんの、遺影みたいな写真に写ってるような真っ白な軍服じゃなかったけど、初めて会った海軍さんみたいな、ボロボロな姿じゃなかった。パキッと綺麗な軍服で、これから戦場にいくというよりは華やかな社交界にでも行くかのような。沈む瞬間にも、海底、という、ひとつの海の港へと向かう時にもきっと、うつくしい艦の姿のままだったんでしょう。
「迎えに来ましたよ、父上」
「ええ?嘘だろう?」
と海軍さんは奇妙な笑いを孕んだ声で、信じられないように訊き返しました。単純、嬉しそうだった。そりゃそうだ。あたしも唐突すぎてなにもかも信じられなかった。
迎えに来た。つまり彼は彼を連れて帰ってくれるだろう、というはずの宣言でした。いやいや、オメシカンが先導したれーよ。大戦艦のだれかとかさ、とあたしは思ったものの、きゃっきゃしてる二人の仲はとても良さそうで、まあ、うん、本人たちが良いのならそれでいいんでしょう、そう思いました。
「嘘ではありませんよ。俺はふねなんだからあなたを連れて行ってあげられます」
「そりゃそうだ。助かった」
いやどんな理論だよ、あたしは思いました。まあそんなもんなのか?彼岸って?ふねってすごいんだなぁ……って思った。肩をすくめて、愛宕は言いました。
「あなたはこう、すぐに迷うからいけない」
あちらでは彼岸前に海に寄ってはいけない。迷ってしまう。あなたはふねではないのだから、と愛宕青年は呟き、じゃあ行きますよ、と言った。そしてあたしにむかって父が相迷惑をかけました、と謝りました。愛宕は海軍さんの手を引き、立たせました。
「はあ……帰れるんですか」
「みたいだ。世話になった。ほんとうにおかしな世界だった。暑いし」
と晴れ晴れしく海軍さんも言いました。もうこの世界のまとめに入ってた。めっちゃ雑~な感じに。あたしたち現代人が、現代日本人が築き上げた平和な世界は、そりゃあの時代の軍人にはおかしな世界に見えたでしょう。ささっと雑に片付けたくもなるでしょう。あたしの平和は、彼らを救わない。彼らの世界はそういう制度だった、そうあった、グンジコッカだった、そしてそのまま永遠に不変だ。それが過去ゆえに。彼らは過去にいる。永劫にいる。それが、なんだか無性に悔しかったです。平和のシソウもよくわかんないのに。
ユニクロの一九九〇円のTシャツを着た海軍さんと緑色の軍服を着た愛宕は、へっぽこな二人組のようで、おなじ空気にほどけていました。あれが過去そのものというものだったんでしょう。あたしのけっしていない場所です。
あの、あたし、……と海軍さんに声を掛けようとした瞬間、そこには、もうなにもなくて、ビーチコーミングをし損ねたような女が階段に佇んでいるだけでした。
ほんと、その時のあたしは間抜けに見えたでしょう。口をぽかんと開けて夕日を眺めてるだけの寂しい女に見えたはずです。寂しい顔をしてたと思います。もっと喜ぶべきでした。ホント。喜ぶべきだった。変な同居人がいなくなったんだ。クーラーを二十五度にできるのに。なんなら二十六度にだって。なのに……。
*
あたしは海軍さんのことを一度も海軍さんと呼び掛けたことはありませんでした。半分は彼の話を信じてないフリをしつづけてたからです。あなたとか、お前とか、ふねオタクとかカッパとかナマコ野郎とか、チクチクうに太郎、あとはただ海っちって呼んでた。
だって海軍さんに海軍さんが海軍さんだと認めて海軍さんと呼びかけたら、あたしは一体何なんですか?ただの一民間人の女になっちゃうじゃないですか。エアコンの温度は二十四度で一生固定されたままになっちゃうんです。何なら二十三度にされちゃうかも。扇風機もいつも強風になっちゃって。ダブルで稼働してて。自分だけ風に当たってて。そうやってぜんぶの権限があっちに行っちゃうでしょ。あたしは彼を日本海軍だって認めちゃいけなかった。あたしはけっして海軍さんの威信を享けてはいけなかったんです。だってここは二〇二〇年代の日本で、軍隊はもう存在しないんですから。現代人のプライドってやつだったのかもしれませんねえ……。……いや、それもどうだろ、これはあたしの言葉なのか?ほんとうにあたしが考えていることなのかな?自分の集団を根拠にしてるだけなのかな。平和ってほんとにあたしの言葉だったのかな……。
うう……。海軍さん……海……。日本、海軍さん……。海っち……ああー海っち!……ああ……あの時、あたしは、海っちを大日本帝国海軍さんって、一度でも呼んであげるべきだったんですかね……?あたしはその威信とやらを、ちゃんと肯定してあげるべきだった……?彼のうるわしき艦隊を……?…………え?引く?マジの右翼っぽい?真実に目覚めてるみたい?うるせー!だったらなんだんだよー!!そもそもンなわけないだろアホ!バカ!エロ教師!生徒の食事の誘いに軽々しく乗るな!
……………………あたしにとっては、ただの海っちだった。戦争の、グンコク主義の、侵略の道具でも、過去の存在でもなくて、ラムネの話で盛り上がる変な同居人で……。そんなのめちゃくちゃなのはわかってます。彼は大日本帝国海軍だった。彼は悪い人だった。悪人だった。彼はうるわしい艦隊とグンカンキのあざやかな赤の話しかあたしにしなかったんだもん……。真珠湾の話ばっかで、それが卑怯だったなんていっさい言わなくて、長門と陸奥と赤城と愛宕で利根で足柄で、徴傭なんて語んなかったし、いっつも自分がカッコいい話ばっかで、それが語り継がれていることが少しでもわかればバカみたいにご満悦で……めったに行きもしない本屋でNF文庫の緑の背表紙を見るのが大好きで……。でもけっして本を手には取らないで……。
……は?なんで?怖かったからだろ!自分が未来にどう評価されて褒められて貶されて裁判されてるか知るのが怖かったんですよ!!だからNF文庫に取り上げられてるような感じの、タイトルにある感じまんまの話ばかりしかしなくってさあ……。
…………え?戦争犯罪の話……?ほとんどしなかったですよ、ぜんぜんめったに、そんなの、それこそレンコウとかくらいですよ……。それも犯罪だと思ってたか謎ですよ。彼、笑ってたんですよ?楽しそうに?なおいっそう、鮮やかに?あたしはそれに、なぜか見惚れてしまっていて?このうつくしさはなんなんだ、なんてあたしには疑問を挟む余地もなかった、圧倒的で暴力的なくらいにうつくしくって、うつくしくって。……うつくしくて。あたしはそれを、知っている。あたしは、そのことを、ちゃんと知っている……。わかっている。そういうはなしばかりで彼が満ちていることを知っている。彼は未来の、今の人間にそういう愛され方ばかりを、されているということも、あたしは知っている……。この愛情には危うさがあるんだ、それはわかってます……。知ってますよ、ちゃんと、そんなこと……。
え?……酔っぱらってる?酔ってないですよ、酔ってない。酔ってるわけじゃないじゃないですか。帝国海軍の大義になんかあたしは酔ってないです、そうじゃなくて、じゃなくて、じゃなくってあたしもあの文庫本の多くの読者みたいに、表面のうつくしさを撫でていとおしむことしかできないんですよ。だって、彼、やっぱりうつくしかったんです。彼の語る大艦隊のこと、壮麗なお召艦、艦の上から見た広い海と青空のこと、なによりそれを嬉しそうに語る横顔、実際に軍服姿だった愛宕の軍服だってほんとに、……あれが思い出の話じゃなくてなんなんですか、うつくしくなくってなんなんですか、うるわしき追想ですよ。綺麗な思い出ですよ。でもあたしは知っている……。あたしが知らないことばかりだって、彼が語らなかった多くのことがあったことを知っている。やましい沈黙を知っている。……そうやって、あたしなりに時代を問うていくしかないんですかね……。あの顔を……笑顔を。うつくしさと語らなかったことを、忘れないでいたい。歴史を……彼とおなじ言葉を話すんだ……ウィキペディアで……新書で……ああ……。あー……。畳む
日本海軍の話です。本当です。本当ですってば。 #「時代の横顔」(企業・組織擬人化)
あのう……ですね……。その、先生を、先生を今日、お呼びしたのは、というか、ごはんに誘ったのは、中学校時代の教師である先生を食事に誘ったのには、ほんとうに……別に深い意味はないんですからね。ほんと。いやそれなりの意味はあるんですけど、学生時代にあたしとセンセはそれなりに交流はあったし、その延長上に今日のこのごはん会があるだけですからね。……え?いや、会社じゃあちゃんと「わたし」って言ってますよう。大学卒業のときに、自分で自分を名前呼びするのだってやめましたからぁ。そうじゃなくって……日々の反省会をしたいんじゃなくってですねぇ……。え、ああ、あはは、先生にはよく廊下に立たされそうになりましたよね。授業中騒いで。携帯も何度も没収されたし。あの時代ってまだガラケーだったんだよねえ。いやあ、すべてが懐かしすぎる……平成って、一体なんだったんだろね……。
まあ、でもセンセはアホだから……いやアホってそういう意味じゃなくって!!おおらかで優しめ人のことを、あたしはそうやって表現しているだけなんですよお!だから、先生はあほうだから、おおらかだから、すべてに緩くて、優しいから、だから突拍子もないことも話せるんですけど。そうだよ、本題だよ。今から本題言うよ。ほんとうに、ほんとうにびっくりしないでほしいんですけれど、……だから、……。あのう……先生は、………………日本海軍って……どう……思いますか?
……え?いや、入らないです、海上自衛隊には入らないです。日本海軍ですって。昔のですよ。うよく……え?右翼?っていうのでもないです、たぶん……。いや目覚めてもないです、目覚めるって、何に?真実ぅ?……え?かんこれ……?かん?たいこれくしょ……いや……いえ、いや、いやいやそうじゃなくってですねぇ。
…………拾った、んですよね……。……え?何を?え、いや、日本海軍を……。日本海軍さんを、拾ったという話なんですけど……。
え?いや、大丈夫、大丈夫です!わかってます!引かないでください!!おかしいですよね!!正確に言えば、日本海軍を名乗る男を拾っただけなんで!あとその男も、もう家に居ないんで!大丈夫です!ええ、ええ、うん、たぶんそう、先生も昔、歴史の授業なんかで言ってた、集団の象徴みたいなものだと思う。軍だから軍象、なんでしょうか。いますよね。たしかにいるってセンセも言ってましたよね。実際いるんです、彼らは。密かにいる。ただそれが、今が現代で、彼が日本海軍であることが問題だっただけで……。海上自衛隊だったら問題なかったんだ。……いや、問題なかったのかな……。海上自衛隊さんが、落ちている……?まあどっちみち、拾った男が日本海軍を名乗ってました。マ~ジでびっくりしたね。
……は?グンコク主義の復活?ぐんかのおと?いや、そぉんな大それたものでもない気がしますねえ。だいたい復活だというのなら、もう居ませんよ。グンコクすぐ滅んじゃった。海軍さんを拾ったけど、帰りました。どこに帰ったのかわかんない。消えただけなのかも、今度はほんとうに消えたってことなのかなあ?
……拾ったのは一ヵ月前と少し前のはなしです。二日前に消えました。お盆に消えちゃった。
あたしは地元の……そー鎌倉。その浜辺でビーチコーミングしてたんだけど……え?今そんな名前になってる。砂浜で貝を集めることが。カッコいいっしょ。だから、それをしていた、ビーチをコーミングしてたんです。だんだん陽も陰ってきて、海も貝もぼんやり見えなくなりそうで、寂しい浜辺になり始めて、まあ今日はお開きっすわ~魚介類ども今日はこれで勘弁したるわ、なーんて帰ろうとしていたタイミングで、すこしとおく、それでも目に見えるくらいの距離に男の人が立ってるのを見つけたんです。
一言、ヤバかった。超不審者だった。というのもボロボロの洋服を着ている男の人だったんで。……なんで彼、軍服じゃなかったんだろ。……え?第二、復員省?……ふーん、まあいいです、あたしにとってはただの海軍さんなので。
まあ、ちょっとした緊張感を持ちつつ、遠回りをして帰ろうとしていた時に、その男があたしを見つけたんでしょう、ものすごい勢いでこちらに走ってきました。ええ、死を覚悟しましたね……。あ、ヤバ、みたいな。じゃ、あたし死にますわ、っていう……。そしてその男にものすごい勢いで肩を掴まれ、男は一言言いました。正確には聞いてきました。
「おい、ここはどこだ」
「ひッ……」
この状況じゃ答えられないですよね。悲鳴を上げそうになりました。というか実際ちょっと上げてた。ハイ……。
その男のひとはボロボロの服を着て、あたしに縋るように肩を抱いて、もう一度ここはどこなのか、を問いました。怖かったけど、その目には哀れなくらいの必死さがあった。誰かに捨てられてしまったかのような戸惑いがそこにありました。
あたしはそこでやっと、相手があたしとおなじ人間のように思えました。おなじ人間なんかじゃなかったのにね。でもあたしは、今度はちゃんと返事ができました。
「か、かまくら……」
「鎌倉?」
呆けたように何回か繰り返して、さっきの勢いはどこへやら、小さな声であたしにまた尋ねました。「にほんはどうなった」。
は?日本?こーんな感じにこうなっているけど……という思いすらもなく、あたしは、今のあたしがどうなっているのかもわからないまま震えていました。それはその男の人もおなじでした。あとから聞いたんですけど、彼、その時は「復活」した直後で意識が朦朧としてて、日本がどうなったのか、思い出せなかったらしいです。負けたってこと、ちゃんと知ってたはずなのにね。
その男の人はそのまま、にほんは、とかふねがもう、とかぶつぶつ言ってました。
よくよくその男の人の顔を見てみると、あたしより数歳年下にすら見えました。身長はでかかったし、妙な威圧感があったし、勢いよく走ってきたんで気づかなかったんですけど。呟く彼は雨に濡れて汚れた大型犬みたいで、主人をなくしてしょげたままのわんちゃんみたいで、なんか無性に可哀そうになったんですよね。
「あのう……大丈夫ですかあ」
「いや……ああ……。大丈夫なのか……。わからん……。なぜ俺は鎌倉なんぞに」
「ビーチコーミングとかしてたんじゃないんですか?」
「び……?」
そんな会話をしながら、そのまま海岸の石階段で、夕陽が海に落ちるさまをいっしょに見て日本の斜陽から敗戦に至るまでの話をしてました。というか、一方的にされました。彼はなんとなく自分を思い出し始めていて、自分が日本海軍の依り代であること、戦争に負けたこと、敗戦後にしばらくこの世にとどまっていたこと、その後はよくわからないことをただ喋ってました。なんだっけ……水が足りないって暗号、とか言ってた……あ、そうそう、それ、ミッドウェー海戦では暗号がばれたのではないか、とか、そんなようなことを占領軍のアメリカ人が言ってた、とか、その悔しさとか、軍艦がたくさんあったこととか、それがなくなってしまったこととか、香港?マカオ?あ、上海だったかな?どっか中国の戦争かなんかの話をしてました。
彼がそういう、なんというか自分が惨めな話を真っ向からあたしにしたのは、その時が最初で最後だったように思います。たぶん、混乱してたんだと思います。
そこで気づいたんですけど、昔の戦争のことであたしが知ってるのって、戦争後すぐで記憶が止まってる彼よりも少なかったんですよね。ミッドウェーってどこだよ、って。彼がいなくなってからGoogleマップみたけど。遠ッ!ってかんじで。どこの海だよって。そんな遠くまで行ってたんだって。びっくりしちゃった。
海戦で勝ってとても嬉しかったけど好きだったふねと乗っていた人間がたくさん沈んじゃった~って言ってるときと、炭鉱は働くのが特に大変だったからチョウセンジンをいっぱい連れてきたんだよなあって言うときの彼のちいさな笑顔を覚えてます。さっと鮮やかで、ほんと、サッカーでゴールを決めた高校選手が謙虚に喜びを滲ませてるみたいな自然な感じの笑みで……。あれが時代の顔というものなのか、戦争の時代というものなのかなんですかね。わかんない。あたし、ただの会社員なんです。特にシュレッダー業務が好きです。とても楽だし。ボタン一つ押すだけでぜんぶ終わるし……。
*
日本海軍、軍隊、軍人を名乗るのに反して、彼はしごくまともそうでした。いや、まともそう、って言いかためちゃくちゃ失礼ですね。
でもなんか、その日本軍って名乗りを聞けば「そこの下女……」みたいな語りかけや吐き捨てをしてきそうな感じがあるじゃないですか。え?帝国海軍はスマート?そうだったのかー……。…………それ、ホントに?はー……。ええー?うーん、……まあいいや、まあ、そのスマートな彼は洋服がぼろぼろなこと以外はまともでした。あたしたちはまともに会話をできていたと思います。ちゃんと。いままでしたこともない戦争の話が話題だったということを除けばだけど……。
そして結局、あたしは彼が日本海軍の軍象だということを受けいれました。そうなったら今度は彼をどうするかというはなしになりますよね。変な不審者ではないこと、また今が現代であること、この二つを考えると彼は今とても不憫だ、ということになっちゃうじゃないですか。さりげなくその場を立ち去れればよかったし、そうするのが当たり前だったんでしょうけど、さりげなさを装うには戦争の話を語り合いすぎたし、なんならあたしは話の途中でつい「え、じゃあもう帰る場所ないじゃん!」なんて指摘しちゃってたしそれに素直に海軍さんはしょげてた。もう不自然だよね、一人で去るにはね。だからまあ、……家に連れて、帰ったよね。
この状況はよくない、非常によろしくない、相手が海軍さんだとしても……え?海軍さんだからこそまずい?いやどっちにしろまずかった。とりあえず着替えと風呂だったから、さらにまずった。今は関西に居て、昔同居していた兄の服はまだ取ってあったから、それを入浴後に着せました。Tシャツは胸に英語でGood Times Start Nowって書いてあってちょっと笑っちゃったんだけど、昔の人だから英語は読めないだろ、と思って油断してたら「一体なにが始まるんだろうな……」って海軍さんが呟いちゃって、笑いと申し訳なさの感情の観覧車に……え?海軍は英語が得意?なんで?戦争で英語は使っちゃだめだったんじゃないの?ふうん……。あの時だけは、互いに二十代の若者の会話で、なんだかそれが面白くって、あとから思えばただただ空恐ろしかった。
日本海軍の象徴は現代に生まれればあんななんだ、とか。今の海上自衛隊の象徴はあんななんだろうかとか。両者はどう違うのだろうかとか。時代ってなんだろうとか。時代の顔、が……。なんか、もし戦争がなかったら、っていう言葉、よく夏にNHKとかで流れてる番組のとは違う……あの番組に出ている人たちの言葉とは違う……あれが自分のことのように、ってやつなんだろうか、感じてしまった。そう、もしあの時代に戦争がなかったら、何か、彼にとっていい時代が、その時に始まっていたんだろうか。ってあたし、なんともいえない感じに、もやもやしちゃって。
えっ?ああ……戦争が無くても植民地というものがあった……?グンジコッカのタイセイ?テイコクシュギ?ああ、そっか……?でも、正直言うとあたし、そういうのにぜんぶ疎かった。ガラケーの前の時代って未知の歴史なんだよね。ぜんぶが石器時代っていうか。日本史の先生のセンセは今、連立方程式を解けますか?あたし、昔は得意だったのにもう解けないよ。あたしにとって、数学と歴史はひとしいんだ。計算なんてハガキの不備が合計百四十九件あるときにしか使わないし、その計算だって電卓でやる。日本史の戦争も植民地?も、そういう意味じゃあたしにとって夏の夜の暇つぶしになるだけかもしれない。テレビ番組にはなれる。けど、少なくとも仕事じゃ使えない。使わない知識だった。少なくともあの浜辺に行くまでは、そうでした。
センセはそうゆうのムカつく?悲しい?……そっかー。日本史の先生だもんね。てか先生は日本史ってか、歴史が好きなの?歴史の何が好きなの?海軍さんがよく言ってたみたいな、伊四百が開発できたこと?それとも、本に書いてあったみたいに、ダイハツだっけ?……に、それに助けてーって縋った兵士さんたちが、そんまま仲間に腕を切り落とされちゃったとか、そういうお話が好きなの?あー、あはは。……そうだよね、んなわけないよねー。わかってるわかってる。ごめん、殴んな殴んな!殴んなってー!あはは、はは……。……なんかね、海軍さんがいた時、彼が見てないところで本を一冊読んだんだけど、難しくて、ぜんぜんわかんなかったよね。彼がいた世界ってどんなだったんだろ、……今も分かんない。ダイハツって何?車?……センセはなにが好きなんだっけ。好きじゃない?大人としてのギム感?はあ……そうなんだ。
で、とりあえずその日はそのまま寝ました。兄と二人暮らしだった時期があるので部屋だけは多くて無駄に広くて、それだけが救いでしたね。それでもやっぱ、無警戒過ぎたと自己嫌悪に陥って、で、そのまま無警戒に寝ました。
男の人というか、軍人というか軍隊というか、男の人だったので、もっと警戒すべきだったのでしょうが、何もなかった。一貫してなにもなかったです。たぶん、何かしたらまずいという意識が彼にはちゃんとあったのでしょう。だって、彼がいるのは二〇二〇年代の日本で、戦前の日本じゃないんですから。何かをできる権限は、誰にも保証されてなかったんだからさ。
*
海軍さんは次の日の朝も普通にあたしの家にいて、当たり前のように、そこに存在してました。あたしもあーあどうしよ……ってかんじだったけど、一番困惑してたのは海軍さん自身だったみたいでした。そりゃそうだ。今、二〇二〇年代なんだよ?海軍さんがほんとに生きてたら何歳だよ。海軍がなくなって今何年目?戦争の後、に、なくなった……んですよねえ。たぶん……。ん?戦争って何年に終わったっけ。ああ、一九四五年ですよね。いつも忘れるねえ。それじゃ、八〇年後になっちゃうよ。それもそうだし、そもそもなんで自分が今生きていて……生きていたのだろうか、あれは。あれは生きてたのかなぁ。まあ、生きてたってことにして、なんでまた生きてるんだろう、って話ですよ。あれ。……あれは……あれはやっぱりあたしの幻覚だったんだろうか……。ぜんぶ……。
……彼は顔を蒼く染め、というか吐き気を堪えてる感すらありながら「こんなことは初めてだ、経験が無かった」と言いました。そらそうだ、とあたしは思いました。こんなこと、彼ら依り代たちに何度もあったらそりゃ大変でしょ。本人も周りの人間も。面倒だよ。
とりあえずあたしは会社に行くから、と言って、あたしは逃げるように我が家を去りました。夢か幻覚なら帰宅後にはちゃんと消えているでしょう。正直まあ、それに賭けましたよね。でも出勤してシュレッダーをしてても、入力業務をしてても、仕分けをしてても、頭から日本海軍さんのことが消えずに……いや、やばい女ですよね?わかってますって!日本海軍かその幻覚かわからないものにとりつかれている女なんて!!
で、結果ですが帰宅後、その日本海軍さんはやはり家にいました。しかも電気をちゃんとつけて待ってました。昔の人なのに電気のつけ方、ちゃんとわかるんですね。へ?戦前にも電気はあった?いやそれはそうですけどスイッチの形とか……え?ほとんど一緒?そうだったんだあ……。しかもクーラーまでばっちりつけてて……え?軍艦にも船にもクーラーがあった?戦前ですよ?マジで?そっかあ……。もう驚いたら、負けですよね。海軍さんの存在以上にびっくりすることでもないですもんね。……実は戦前って、すごいんだなあ……。
まあ、そのクーラーが二十四度に設定されていることに若干イラっとしながら、彼もごはんを食べるのか不安になったので、「ごはん食べる?」と聞いてみました。あと「あなたいつ帰れるの?」とも聞いてみました。海軍さんはキョドり気味で、後から聞いたら若い女にはじめてそんなタメ口を利かれたことが原因だったようですが、そんなの知りません。この家の家主はあたしです。彼は前者に配してはイエス、後者はわからん、との御回答をあたしに賜りました。
さっき言ったように、「これだから女は……」とか言ってきそうな先入観すらあった軍隊である海軍さんは、一貫してこちらに謙虚というか、無関心というか、不干渉というか……でした。たぶん、追い出されるという心配もあったでしょう。この世が二〇二〇年代だということはすでに伝えてありました。今の海軍さんに権力が無いこともわかってたはずです。この家とこの世で権力があるのはむしろあたしのほうだということがわかってた。たぶん、いつもそういうことにいつも敏感に生きてたんじゃないかなあ。軍隊だもんね。でもこんな女に負けるとは、みたいなものもなかったです。ほんと、不干渉でした。うん、たぶん、怖かったんじゃないかと思います。ウケますよね。日本海軍は自身の権力のない世界に放られて、ただ、ぼうせんとしてたんじゃあないか。……そんなの、戦争に負けた時にとうに経験してたはずなのに。
でも、呆然としていながらも、どこか穏やかにみえました。あれなんですかね、戦争中は人間とかバンバン殴ってたんですかね?テイコクシュギシャですもんね?でも、そういうそぶりがなかった。きっと権力がなくなったけど、義務とか使命感とか、やらなきゃいけないこともなくなったんでしょうね。あれが、自由ってやつだったのかなぁ……。いや、やっぱ呆けてただけなのかな?アイデンティティが、ぽっかり抜けちゃって。戦争ないし。することもなかった。……彼がここにいる意味がなかったんですから。
海軍さんはあたしが作ったスパゲッティを無言で喫しておりました。あたしも無言で食べましたよ。なんか、空気が重かったです。お互いの緊張感が漂っていて……。スパゲッティのいちばんの調味料はピリッとした空気で……。とはいえ、海軍さんは昨日の晩から何も食べていなかったので、心なしか嬉しそうでした。尻尾あったら振ってたんじゃないかな。その日に限って冷蔵庫にまともなものがなくって。あたしが買って帰るまで。そこは申し訳なかったと思います。まあそんなのあたしの責任じゃないんだけど……。
あたしは、毎日会社へ行き、シュレッダーをしてハガキの計算をなどをして帰宅して、まだ海軍さんが家にいると電気の明かりでわかると毎回げんなりしつつ、日々を過ごしました。一度、炭酸ジュースをあげたら、嬉しそうにラムネの話をされて……。ラムネジュースって海軍にもあるんですね。というか戦前にもあったんだあ、ってびっくりしました。……へ~!?ふねの中にもあった?知らなかった……。そんなことまであの人、言ってなかったけど……。「人間とよく飲んだ。こんなに甘くなかったし炭酸も強くなかったが……。この時代の飲み物はよくできているんだなあ」とかなんとか言って、普通~に飲んでましたね……。ほんとに普通でした。ごちそうさまでした、とてもおいしかったよ!ありがとね!のあたしへの社交辞令みすらあった。炭酸が強いならもっと驚くとかさ、あるだろ!飛び上がってびっくりするとかしてほしかったよ、見たかったなぁ……。過去からタイムトリップ?してきたんだからさ……お決まりのさ……サービスしてよ……とか思いました。あれ、そもそもタイムトリップだったのかな。むしろわくわくお彼岸イベント?
*
……あ、そうそう、自分のふねの話を、出会った浜辺でしていたことを覚えてます。いろんな名前を言ってました。大事な宝物の話をしてるみたいに、ぽろぽろと、自分の持ってる宝石かお気に入りのどんぐりかビーチコーミングで拾った綺麗な貝殻の話をするみたいに一つ一つ呼んでました。あたしが唯一最初から知ってた戦艦大和の名前は一度も出てこなかったこと、なんでか憶えてます。
彼のいとし子のふねの名前、ぜんぜんわかりませんでした。ウィキペディアで検索して見てたんですけど、まー軍艦っていっぱいいるんですねー、みたいな。白黒写真だとどれも一緒に見えて……それに、ぜんぶまるで遺影みたいだった。白黒で、画質もどれも荒くて……。ぜんぶもう亡くなってて……。名前も漢字二文字が多くて。山と川と土地の名前が多いの、ウケますよね。それ日本人の苗字と一緒じゃんって。日本人の名前に対する感性ってどれも一緒なのかなあ……。よくわかんないけど農耕民族?ってやつだもんね。それがふねに対しても一緒なんだと思うと面白かったです。魚とか貝の名前とかじゃないんだって。船って海の生き物なのに。あ、でも海軍さんにとっては、……海軍の人間にとっては、ふねも陸の生き物だったのかなぁ。俺たち仲間!っつー。まあ、そのだいたい二文字で、音が四文字だったり二文字だったり三文字だったりするそのふねの名前を、彼は熱心に熱心に呼んでました。陸奥とか高雄とか、赤城とか……。空母とか戦艦とか……駆逐艦とか……。その強さとか。粋なところとか。好きポイントとか。ベラベラ喋ってました。
ある時、海軍さんにウィキペディアを読ませたほうが良いのかな、って悩んだんですけど、結局あたしは見せませんでした。インターネット世代じゃないし、いろんなものに耐性なさそうだし……。むしろはまっちゃって、スマホ買って、とかねだられても嫌だし。YouTubeとかずっと見てたらどうしよって。日本海軍が……。
それに、自分と自分の好きなふねの最後のことをGoogleとかウィキペディアとかで知るのってどうなんだろ、って思っちゃって。隼鷹とか、さいご、解体されて、そのこと、あの人知ってたんだろうか、って。思っちゃって……。だって、インターネットであんな無神経で無頓着な言葉で語られて、ネガティブな言葉と一緒に検索すればいくらでも検索結果がネガティブになってって……。ネガティブに語られて……。嗤われて、罵られてて、変な賞賛のされ方とかされてて……。日本軍のサイキョーの戦艦、とか。ダサいですよね。あんな雑な言葉で、彼は、自分のいとし子を語ってなかった。それなりの、自分自身の考えを根拠にして、そこからちゃんと出発して話してた。他人の強さを笠に着たり、自分の属する集団を根拠にしてなくて……。それが良いことなのか、それこそが悪いことだったのかわかんないけど。これ、海軍さんをほめ過ぎなのかなあ。でも、やっぱ、インターネットの言葉なんかでね、知ったってね、って……。まあ、あたしもインターネットで知ったんだけどさ。それをまた優しく言い直して、無難に伝え直してあげればよかったんだろか。でも、どうやって?そもそもなんで、とも思う。そんなのあたしの義務じゃないし。
……海軍さんだってね、武蔵ってすぐ沈んじゃったよねーあははー馬ー鹿じゃないのーとかどっかで笑われてる、って知っても、確かに馬鹿だったよなあ、俺はほんとうに馬鹿だった、って一緒に笑うかもしんないよね。無邪気に。晴れ晴れと。悔いなきみたいに。彼ってそういうとこあったと思う。……長門の最期だってもしかしたら彼は、前は知ってたかもしれないけど、今は覚えてないようでした。だって戦艦長門を呼ぶその声に、陰りはなかったから。そこにネガティブさなんかなかった。…………それともぜんぶ知ってて、だからこそあえて明るい声で長門の名誉の話だけを語ってたんだろか。それが彼のできる、娘への唯一の愛情表現だったのかなぁ。
海軍さん自身は気にならないのか、長門の最期とか隼鷹の行方とか、日本はどうなったとか、負けたあとの長い長い八〇年間が気にならないのかなって、最初は思ってましたけど、やっぱ、うん。怖かったんでしょう。あたしに聞いてきませんでした。だって聞いたら、今度は返ってきた答えを聞くことになっちゃうもんね。日本海軍のサイキョーの戦艦の、無残な最後とかを。
彼は軍艦のいい思い出だけを喋ってて、だいたい海にふねがいっぱいあったこととか、軍艦がいっぱいあったカンカンシキのこととかの話で、ロシアとの戦争とか、時々イギリスとかドイツに行った時の話、あとうるわしきオメシカンの話だった。それに真珠湾の作戦を喋るくらいで、いっつも戦争の話は、だいたいはそれで終わってた。
え?ああ……そうですよね、それってマジのマジでアメリカとの戦争のはじめの話ですよね。あと中国とかないですよね。たぶん、自分が好きな勝ち戦の話しかしたくなかったんだなあって……いやそりゃそうだけど……それが男ってもんなんですかね?それが軍隊?
だから駄目なんだろお前、ちゃんと反省点も述べろよ、って社会人経験数年の女のあたしが思っちゃったんですけど、それウケるんですけど、超ウケるんですけど、でも……なんだろ……。かれがかれのうつくしい思い出を語るときの、あのうつくしい横顔が、いっとううつくしくて、今もどうしても、そのうつくしさが忘れらんない。…………ああ、危ういですか。ですよねえ。これがグンジコッカのタイセイってやつですか。グンコク主義ですか、ですかねえ。だって、あの人、炭鉱のキョウセイレンコウの話をするときもおなじ顔、しますもんね。
*
海軍さんは基本的に遠出をすることもなく、近所をうろうろするか、だいたいは家でぼんやりしてたみたいです。知らないけど。あたしが知ってる限りはそうだった。
ぶっちゃけあたしのいない時に赤の他人に家を任せるの、不安感ありありだったけど。まあ、そういうのホントぜんぶ諦めてました。拾っちゃったのはあたしなんで……。
あたしは海軍さんを家に迎えて、なんというか、今までの人生になかったものが自分のなかにできた気がしました。……いやそりゃ当たり前なんだけどね?あたしよりちょっと下に見える、あたしより何十歳も上の、今は生きてるのか死んでるのかもわかんない人間じゃない人間なんて。近くにいたら驚きでしょ。それが毎日家で待ってるんだよ?何なんだよ……。あたしが一体何したんだよって。
あたしは家を出て、毎日横浜経由で東京まで仕事に行くんですけど、ある日早上がりしたその帰りに紀伊國屋に寄ったんです。ファッション誌が欲しかったし、あともしかしたら上手く軍象さんを返す方法がわかる本もあるかもしれなかったし……。帰すってどこへ?ってかんじだけど。天国?地獄?成仏か?
一階で雑誌を買って、とりあえず二階に行ってみたけど、結局返し方とかそういう以前に依り代の本が無かった。まあそうかーと思ってぼんやり棚を見つめてたんですけど、ふと日本軍の本を見つけました。細長いサイズ……新書?それ、それが安かったんで。それを買ったんです。白と濃い緑色の。かっこいいかんじのやつ。頭良さそうな本でした。
買ったの、特に理由はありませんでした。うーん、なんていうか……彼の話してることってどこまで信用していいか、わかんなかったんですよね。まあ戦争の話自体はそれでいいんですけど、もしかして、この今に今いることや、その理由が実は分かってたり、何か隠しごとをしてたり、……目的があったり……そういうのがあっても、おかしくはないんじゃないか……という疑いがあって。
結局そんなことは一切なかったみたいで、彼はただただ困惑してただけだったみたいなんですけど。戦争の本や海軍さんの本を読めば何かわかるんじゃないか、ヒントがあるんじゃないか、と思って。…………その本を帰りの電車で読んでたんだけど、知らない単語と難しい漢字が多すぎちゃって、わかるの、ぜんぶ諦めちゃった。
なんだっけ。動けなくなっちゃって自殺しちゃった兵隊さんとか、動けなくなったって仲間に殺されちゃった兵隊さんとか。安楽死……処置だっけ?生きたまま捕まるなとか、……人の肉とか……食べ、て、たり、うーん、……中国の人を刺してたりとか、やっぱ彼あんま喋ってない、喋らないんですよね。まあ喋られてもおう……ってなるんだけどさ。……いや、あれは陸軍の話なんだけどね。
でもたぶん、彼も似たような立場ではあったはずで。だから、彼、あたしがちゃんと聞けば、もしかしたら話したかもしんない。さらっとね。当たり前っぽく。初めて会った砂浜の時みたいに。……むしろ、聞いてあげればよかったのかなぁ?あたしはちゃんと聞いてあげるべきだった?彼の……彼の、彼だけの話を……彼の……。……どう、なんだろう。どうだったんだろう。うん。うん……。はあ…………。
……いや、……やっぱ嫌な出会いだったよなあ、ホント……。マリアナがどうーとかエンガノがーとかなんとか身振り手振りで必死に言ってて……。軍事的失敗をあたしに細かく語ってて。顔も知らないあたしに意味不明な弁解じみたこと言ってて。俺も奮闘したんだよーとか。なのに上手くいかなかったそんときの悔しさとか。自分の後悔とか。失敗とか。戦艦比叡がって。比叡が沈んじゃったけどーとか。あいつのオメシカン姿は最高だったーって。美しかった、って。麗しかったって。素晴らしかった。とても素晴らしかった。素晴らしかったのに、って呟いて。頷いて、黙って。そして鮮やかに。魚の骨を箸で抜くみたいに、さっと。綺麗に。炭鉱が大変だったけど、って……。
……あの笑顔のうちに、なにかいろんなものを抱えてたのかなあ……。
と、か、ぼんやりと考えて、鎌倉駅に降りてとぼとぼ帰宅しました。なんか、どんな顔して彼に会えばいいか分かんなかった。正直、わからないなりにショックなのはありました。寒かった。手が冷たかった。何十年も前にあったことなのにね。あたしが生まれる前からあったことなのに。なにか多くのものを抱えた得体のしれない存在と住む家に帰る、って……。それはどういうことなんだ、って。ぐるぐる考えてた。部屋が二十五度か二十六度だったら有難いって、もういっそクーラーなんかいらないかもって、今はいらないやって正直に思った。冷たい汗をじっとりかいてた。
帰宅したらぼんやりとした笑顔で海軍さんが迎えてくれました。「とても暇だった。だからカレーを作ったんだ。今の道具と材料は特殊でよく理解できなかったが……口に合えばいいんだが」とか言ってて。カレー作ってくれてて。笑顔で。空調はやっぱ二十四度で。扇風機も出してて。勝手に。押入れから。それに海軍さんが作ったマジもんの海軍カレーじゃん。遺産かよって。超ウケたんですけど。ただのヒモみたいだなって正直思った。
*
うろうろする近所といえば、海軍さんだからなのか、あたしが仕事をしている日中、例の海岸に行くことが時々あったみたいでした。海見てた。なんかいっつも鎌倉の海を見てたみたいで……。海軍って言ったら横須賀だし、船といったら横浜なので、なんでか申し訳なくなっちゃったんですよね。鎌倉の海ってサーファーとかばっかだもんね。
で、お盆に連休が取れないあたしは、そのすこし前に休みが連日取れたので、暇だったので、海軍さんに横須賀に行かないか、と誘ってみました。たいした他意はなくて、まあ、この第二の人生?がこんな感じでそのままマンネリで終わったらカワイソだな、という気持ちからで、ほんと他意はないです。ふねがいっぱいいるから、横須賀に見に行かないか、とあたしは誘いました。
海軍さんは横浜に行きたい、と言いました。
「横浜?横須賀じゃなくてですか。軍艦いっぱいいますよ、たぶん」
「だからだよ。他人の艦隊を見ると苦しくなるから。もう俺が持っていないものだ」
「ふーん」
そうお、じゃあなら、いいけどお……。という話になって、あたしたちは横浜に行きました。……それも怖かった、んですよね。それを理解してあげられなかった。ま、そんなのあたしの責任じゃないんだけども。義務でもないし。なりません、なりませんよ、海軍と共犯になんかなりません。彼の孤独は彼だけのものです。あたしはそんなの担いません。
横浜に行ったは良かったんですけど、結局、海はそんなに見ませんでした。というか、たいしたところには行かなかったです。神奈川県立歴史博物館とか行ったら、ぜったい面白かったんじゃないかな、って思ったんだけど。海軍さん、行きたがらなかったんで。怖かったのかな。それも。そりゃあ横浜の変わりようにはある程度驚いていたし、でもそれを言うなら鎌倉もいっしょですもんね。なんならホテルニューグランドがまだあそこにあることのほうがびっくりだったみたいでした。かわんねーじゃん!って。だからこう……ごはんを食べたくらいで。ごはんを。横浜で。横浜のジョナサンで。海軍さんと。なんだ。デートか。それ。危ういだろ。海軍さん、配膳してくれるネコのロボットに完全に失笑してましたよ。だから驚いてくれってば!未来の技術というものに!ただ、セルフレジとタッチパネルの注文には感心してました。人間の配置にはいつも悩まされるんだ、こんな感じに戦艦を動かしたい、機関室の奴らには楽をさせてやりたい、とか言ってて……。まあそんな感じでしたね……。なんで?もっと船と海を見て狂喜するとかそんなのないんか、と思っちゃいました。なんであたしが横浜に誘ったと思ってるんだ。ジョナサンに来るためじゃないんですけど。ネコじゃないよ。船だよ。船いっぱいいるし。ごらんよ海軍、これが船だよ、みたいな。君のなくしたふねなんだよ……とか思ってましたけど、まあ海軍のふねって灰色で、それこそやっぱり見るなら横須賀ですよね。横浜は、遊覧船とか、あの、軍に関係ない可愛めの船ばかりで……。
え?戦争になるとチョウヨウされるかも?チョウヨウってなんですか?へえ……ああ……軍隊が持ってっちゃうんだ。徴傭っていうのか。えー沈んじゃうの?それって借りパクじゃん?あーやっぱそうなんだ……でも、ちっちゃい船ばっかですよ?観光客しか乗れませんよ。あんなの。兵器載らないでしょ。それでも?昔はされてた。はあ……やっぱり戦争って怖いんですねえ……。
あ、だけど氷川丸の話には、妙に食いついてました。うっそ!?氷川丸ゥ!?みたいな……。アイツってまだ生きてんの!?ってびっくりして笑ってました。横浜にあるデッカイ船ですよね。今はどこにも行かないやつ。客船?カキャクセン?なんで興味あったのかは知らないけど。横浜ではでっかい船のほうだからかなぁ……。あれって乗れるんですよ行きますか、って聞いたんですけど、毛を毟られるだろうから嫌とかなんとか言って断られました。え?海軍が戦争で徴傭してた?病院船?そーお。顔見知りってこと?じゃあ仲が悪かったのかなあ……。海軍さんにパクられそうになって。誘拐?
大さん橋には飛鳥Ⅱがとまってて、飛鳥Ⅱの名前を聞いて海軍さんはめちゃくちゃ笑ってました。丸シップの伝統潰えたり、みたいなことを言ってゲラゲラ笑ってた気がします。え?海軍が言うと不謹慎?いやあの人、いっつも不謹慎でしたよ。それはちゃんと知ってます。ただ家主のあたしにはあまり不謹慎ジョークを言わないように気をつけていただけで……。
Ⅱであり、丸がつかないことがやっぱり面白かったみたいですね。船名めちゃくちゃや、みたいな。海上自衛隊の艦たちの名前が、日本海軍から引き継がれてること言ったら喜ぶのかなあ、とか一瞬考えましたけど、たぶんそれがぜんぶひらがなだってこと知ったらへこむんだろなって。ひらがなって何だか妙に可愛いじゃん、ってなるよね。まや、とか。女の子の名前か。だからやめました。
海軍さんはしげしげと飛鳥Ⅱを見つめてました。よく話を聞いてみたら、飛鳥Ⅱを持ってる会社は、海軍さんが生きてた時代にもあったみたいなんですね。よく知らないけど長寿ですよねぇ。船の赤い二本の線は、その会社のファンネルマークって言うんだ、と教えてくれました。あれ、氷川丸にもありますよね。……ああ、やっぱおなじ会社なんだ。へえ。ニッポンユウセン。だからかあ……。
今の貨客船は変な形だ、とか、ユーセンがあんな奇抜な船を造る時代なのか、とかあれにどうやって貨物を載せるんだろう、とか一人唸ってましたね。あと「いざという時、あれじゃ困るな……」とかなんとか深刻に悩んでるみたいでした。なんでだろ……いざという時って何、いつのこと?
……え?あ、徴傭?あー!ああ……。なるほどね。海軍さん、たぶんそれ考えてたんだ。あの船、他人の物なのに。はあ、他人の物だからこそ徴傭なのか。しれっと人様からパクるってわけね。ヤラシー。……絹とか手紙とか石炭とか、でりっく?が、とか何とかって熱心に言ってましたけど、今はたぶん載せないですよね。石炭なんて……。昔は載せてた?カモツセン?カキャクセンのカ?ああ、貨物の貨、に、客船なのか……。貨、客船か。だから今はただの客船なんですね。ふうん、教えてあげたかったなぁ……。あの人、ふねには異常に熱心なんだなって、目の前にして知りました。ほぼ船のオタクだったもんね。あれ人の物なのに……。
あたしたちは遠目に見える第二飛鳥丸の話をしつつ、横浜の日はどんどん傾いていきました。横浜の海はたくさんの小船がちらちら行き来してて可愛い。海軍さんがあの船は良いあの船はだめって言ってたけど、あれかっこいいとか可愛いとか好き嫌いとかじゃなくて、徴傭できるかどうかの判定だったんだね。知らなかった。あたしも無邪気にあれはどうですか、あれとかいいんじゃないんっすかぁ、あなたおっきい船好きでしょ、とか聞いちゃってたな。ただの船の好みだと思って……。いや、ある意味アレも好みなんだろうけど。俺おっきい船好きだよ!ってその時海軍さんも言ってたし。
きりのいいところでさーて帰るかーなどとぼやいて……いや日帰りです。泊まってどうするんですか。横浜と鎌倉なんですよ?すぐ帰れるのに二部屋も取るわけないじゃないですか。お金、ぜんぶあたし持ちですから……。
で、……まあ、……飛鳥Ⅱが、ちょうど出航するみたいでした。わーわーいう声が遠くからでも聞こえてきました。見送りと見送られです。そして船が海をゆくんです。
「あ、船行っちゃいますね。どこ行くんだろ。いいなあ~。あたしも船で外国の海に行ってみたいな」
「……」
黙ってた海軍さんをちらっと横見すると、彼は何かを堪えるように、そして食い入るように飛鳥Ⅱの姿を見つめてました。飛鳥Ⅱはゆっくりゆっくりと大さん橋を離れて、じわじわと出航していきました。楽しそうに見送られて、海に出て行った。それを呆けたように見つめる海軍さんが……なんといえばいいんだろう……そう、哀れで。哀れだ。哀れだって、思って、しまった。あたしは無性に悲しかった。彼の孤独は彼だけのものなのに。彼……きっと、さいごには港から送り出すふねも持ってなかったんでしょうねえ。……ああ燃料もなかったのか。機雷、で、港も使えない?ああ……海に出してやれないし、出れなかったんだ。そうか。そうですねえ。……そう、だったんだ。
…………横浜に部屋を取る気はなかったんですけど、飛鳥Ⅱになら、とってもいいような気がしました。して、しまった。……しまいました。なんか、船に乗れば、船があれば、この世にもあの世にも居場所がない人の居場所がちゃんと確保できるんじゃないかって、思ってしまって。そこになら、船の上なら確保できるんじゃないか。ふねのうえではそれがゆるされている。その無力がゆるされている。ふねはそういう場所として、いつもいつもあったはずなんです。
なんでまたこの世にいるのかわからず、呆然と船もない鎌倉の海を眺めて、昔も今も出航するすべを持たないで、その意味もなくて、生きてる理由が無くて、それを知る方法がなくて、それ以前に明らかに意味なんてなくて偶然で、もしかしたらあたしの幻覚上にしか居ないかもしれない、居れないのかもしれなくて……。
ああ……なんというか、うん、彼と共犯にならない、ならないけど、けど、行き場をなくした過去として、彼を、日本海軍を、どこかへ航海させてやることはできる……。あたしにはそれができる、って。思って、……しまったんですよね。それが飛鳥Ⅱの乗船チケットでも何か別のことをすることでも。
過去の人なんだから、なにかその過去を記録して書き留めてあげるのがほんとはよかったんですかね?彼が確かにそこにいたってことを。海にいたという事実を。たとえば文章が書けたら本を残すとか、小説を書くとか、調べてまとめるとか……。その歴史が、ふねをなくしたことなのか、あの運命の真珠湾なのか、彼が決して語らなかった笑顔の外のことなのか、つまり不名誉な、それ以外の戦争なのか。飢えて死んじゃったとか。南の国に船で運ばれている途中、戦う前にただ一方的に魚雷で沈められちゃったとか。虫歯が直せなくて痛かったーとか。よくわかんないけど。……書いてあげる。もう一回再現してあげる。無神経で無頓着じゃない言葉で。それもある意味、航海でもあるんじゃないかなぁ……って。思った。思っちゃった。海で、往き場をなくして、陸に上がってそんまま終わっちゃった彼をもう一度航海させること。過去というものを現在に航海させること。今という海に、解き放ってあげることですよね。生きものとして。ずっと止まったままなところから……。だって船って、昔のふねって、みんなの話や言葉や映画や思い出のなかで、何度も沈んでますよね。好きに沈められちゃってて……。なんだっけ、あれ。ディカプリオ。ああそれ、映画のタイタニックとか毎回沈むじゃん、って。綺麗に沈むじゃん。みんなふねが沈む話大好きじゃんねーって。なんでしょうねあれ。ほんと。……なんとなく、そう思った。だから、だから海軍さんの軍艦が沈んで、それはほんとつらくて、あと海戦に勝って嬉しくなったり、ロシアと戦争して、長門がいて、いっぱいふねを浮かべて、なんか……そういう話をくり返し話すことで、うん。何かができる。映画みたいに、何かがもう一度再現できる。タイタニックのごはんの場面とかめっちゃ綺麗ですよね。あたしはタイタニックに乗ってなかったけど、それが綺麗だったことを知っている。あとから作った映画があったから。……綺麗、……綺麗だった。沈む時もねえ……。綺麗。……うん。うん……。綺麗、だったことを知っている。何かを書き残せば、例えば魚雷のせいで沈んだ船から放り出されて海に置いてかれちゃった、その十時間を記録すれば、映画とかにすれば、みんなはその十時間を知ることができる。十時間ずっと悲しかったことや苦しかったことが……。……海の中で爆弾や爆薬が爆発しちゃって内臓が破れちゃって、苦しいっていいながら死んじゃった人たち……。
……うん、彼がほんとに日本海軍というものだったとしたら、これはとてもまずい感情だということはわかってました。だって日本海軍が好きな女とかやばいですよね!?マジ、字面が……。いや、実際いるのかもしれないけれど、レキジョ?とかオタクとか、なんとか、どこかになら……。いや、そもそもそういう意味じゃなくて、オタクとかじゃなくて、……軍艦マニアとかじゃなくて、あたしが彼の栄光と悲しみの顔がうつくしいというのなら、あたしは彼の炭鉱の話もいっしょに引き受けなきゃなんない、ですよね。話さなかった真珠湾以外の戦争の話も……。海軍がもう一度自由に航海することは、どういうことか、って……ことを。航海したら最後、きっと彼、そこでまた虫歯になるんだ。そこで戦争になっちゃって。アメリカとか南の国の人とか日本人とか、チョーセン……韓国?な、んですか……ね?……の人とか、そこにいた人たちもそこでぜんぶ死んじゃって。ああ……。……ですよね、……そうですよね。そうなんですよ、ああ、これがセンセのいう歴史、ですか、歴史の話、ですか。歴史を自分のこととして引き受けること。ああ、そうですね。……難しいですよねえ。そうか、すみません、授業をぜんぜん聞いてなくて。うるさい生徒でしたよね。騒いでて。あるいは携帯ばっかり弄って。そっぽ向いてて。歴史から。
しょげきっている海軍さんを無言で引っ張って家に帰りました。その夜は無性に虚しくなって、正直その後の数日は憂鬱でした。彼と顔を合わせんのも。あたしはどうすればいいのかわかんないし、海軍さんもどうすればいいのかわかんないみたいだった。気を利かせて横浜に行ってみたりしたのに。あたしはむかついたし。申し訳なかったし。互いに無力だってわかった。世界ぜんぶに対してです。で、連休はそれで終わりました。かつてないほど虚しい連休だった。
*
その夜、夢、見て。……うん。虫歯になる夢……。処置される世界の夢。あたしが戦争に行ってた夢。なんで女なのにここにいるんだろとかそういうの無くて。疑問とかない。夢なので。夢特権だよね。ぜんぶ夢です。
兵隊さんがいっぱいいて、あたしもその一人で、兵隊で、あたしは飯盒を磨く係だった。みんなの飯盒を磨いてあげるの。綺麗に。ピカピカに。うん、ないよね、実際の海軍に飯盒を磨く係なんて。つか飯盒って陸軍だった気がするけど。読んだ本では。……うん、だよね?綺麗に磨けるとめっちゃ嬉しくて。だって白いご飯が。ちゃんと炊けるので。食べれるじゃん。でもそこにお米がなくて、貝殻を飯盒に入れてた。桜貝とか法螺貝とか、宝貝、カズラガイとか……。
みんなで必死に貝殻集めてたなあ。なんか、たしか貝とお米が交換してもらえる制度がそこにあった気がするんですよ。誰もそんなこと言ってなかったけど、夢って、夢世界の掟やルールがわかるじゃん。説明されなくても。体感的に。感覚的に……。
しゃがんで集めてたら、誰かに飯盒を蹴られました。それって飯盒ピカピカ係のあたしへの宣戦布告ですよね?貝も全部ひっくり返っちゃった。あのね、ひっくり返った貝はお米に換金できないんですよ。汚れちゃうし。集め直しなんです。欠けたら価値がなくなるんですよ。綺麗な法螺貝は単価が高いから人気で。法螺貝いっぱい取れたのにーって。どうしてくれんのよ、って。蹴った靴を見て、足の主を見上げたら海軍さんでした。
すごいむかつくニヤけ顔で海軍さんが、上から偉そうに話しかけてくるわけですよ。そこの下衆な人間……みたいな。でもあたしも違和感なく聞いてて。ハイ、ハイ、申し訳ございませんみたいな。飯盒蹴られてすみませんみたいな。邪魔でしたよね、って。現実だったらまず殴って追い出してたよね。家主はあたしなんだからさ。てめーあたしの貝に何した?ってなるよね。これあたしのご飯代なんだけど。あんたのご飯でもあるんだぞ、みたいな。……夢だからそうはなんなかったけど。
「貝を集めろ。貝殻を集めると貴様も徳が積める。竜宮城へ行けるんだ」
とか言われて。いや、今集めてたから。お前が蹴ったんじゃん……あたしを急かすなよな、と思うこともなく、徳を積もうともう一度貝を拾い始めたくなりました。竜宮城にもいけるらしいし。竜宮城て何?あとなんでかあたしは夢の中で、彼を尊敬してました。蹴られたけど、海軍さんと話せて嬉しかったような……気がする。
「海軍さんは白米主義者ですからね、すばらしいです」
って褒めたのを思えてます。今はもう何がなんだかわからない。白米主義って何……?あたしは彼の完璧な白米主義を褒めたんですけど、そのまま海軍さんに二、三度殴られました。「俺に馴れ馴れしくするな一兵!」って。……あんな感じに、戦争中は人間殴ってたのかなあ……いや知らんけど。あれ夢だし。ただのあたしの夢。あたしは彼の白米主義を褒めただけなのに、殴られたんですよ。許せないですよね。でも、やっぱりそれを理不尽だとは思いませんでしたね。夢だからかな。
てか、今思えばあたしって、夢の中でも貝殻を集めてたよね……。ビーチコーミング。徳が積めるってなんだ。賽の河原か。徳とか利益とか意味とか考えるのはビーチコーミング友の会の会員失格ですよ。ほんと……。まあ実際あたしたちは利益というか、お米が欲しくて貝殻を集めてたんですけどね。……徳が積みたいんじゃないよ、あたしたちはご飯が食べたいだけだ、お腹が空いてて食べるために必死なだけだって思った。龍宮城なんて行きたくないよって。それを覚えてます。
浜辺の砂は白く細かくて、あ、これ骨でできてる……ってわかりました。白骨……の道?なんだっけ、……あー白骨街道か。本にでできたので夢にも出てきたんだと思う。海は赤くて、血でできてて、太陽は黒かった。いやホラーじゃんて。いま説明すると思うけど、夢の中ではぜんぜん怖くなかったなあ。まあ夢なのでぜんぶぼんやりしてるしね。
あたしは海軍さんに怒られたり怒鳴られたり殴られたり蹴られたりしながら、頑張って貝を集めてて。「気合いが足りない」とか「甘えてる」とか海軍さんは怒ってた。見たこともない顔してた。こ、怖ー!って感じの。……出会った当初に軍艦の話を振られてあたしは興味なくて、海軍さんは拗ねちゃって。ぶつぶつ文句を言われたことがあったけど、その時にあたしがチクチクうに太郎とか呼んだ時すらそんな顔しなかったじゃんて。
あたしはせこせこ貝を拾って、貝って脆いんだな、刺せば死ぬもんな、弾で撃てば一撃だもんな、集めるのなんて戦艦があれば余裕だよなーって思ってた。あたしたちにはふねがいっぱいあるしって。海軍さんもいるし。ぜんぶ集めてやるって。今から思えば意味不明だけど。そうやってあたしは貝を集めて、貝を集めたことで、ご飯食べれてた。ご飯は貝を集めてゲットできる。最初は貝がどれも綺麗で、素敵で、可愛くて大切だったのに、最後のほうは貝なんてどうでもよくなっちゃってたね。大きくても小さくてもどれも一緒。みんなおなじ、意味のない貝だ、って。貝どもは集められることしか価値がない、むかつくぜ、みたいなむかつきすらあった。いろんな貝の見過ぎ?貝のこと考えすぎだったのかなあ。集めすぎて。あたしのご飯に変えられれればなんでもいいやって。むしろ小さくて脆くて助かった。集めやすいし、軽いし扱いやすいし。貝がいっぱい集まって、貝の数に余裕ができたら、いらない貝は潰して捨ててた。邪魔だったし。必要ないので。小さくて汚い貝はいらない。それが戦場だもんね、仕方ないよね、じゃなきゃあたしが貝になっちゃうもんねって。捕まって、集められて。誰かのご飯に変えられちゃうって。まじ意味不明な夢だった。なんだそれ。なんだったんだあの夢……。
貝を潰してる海軍さんが笑ってる。嬉しそうに笑ってる。あたしも貝を潰して嬉しそうに笑ってる……。みんなで笑ってる。なんでかわかんないけど。嬉しかったし楽しかった。みんな仲間だった。よかったよね。白いご飯が食べれたからかなあ。……もしかしたら貝のおかげで炭鉱が栄えてたのかもーって思ったの覚えてます。……夢で。あと比叡のオメシカンが綺麗だった。でも戦艦比叡じゃなくて、軍艦巻きが比叡って名前だった。夢だから笑わずにすみました。あれがいわゆる海軍さんの白米主義だったんかな。ウケるんですけど。なんか足元は水に、海と波に満ちてて、……だんだん水が上がってくるんだけど。ぜんぜん気にならなくて。みんなで笑ってたので。海水はとても赤くて。寄せて引いて。……靴が赤く濡れて。
波が迫ってきて、貝が拾えなくてちょっと焦ってきてた。あー桜貝がある!と思って拾おうとしたら人の爪だった。それでも楽しくて笑ってた。海軍さんが「ここには海があるから大丈夫だよなあー」って言ってて、それも夢の中じゃなんか面白かったよね。なぜか。あたしは「じゃあ四方八方に貝がありますねえ」って答えた。…………あたしたちはそこではちゃんと、共犯だった気がする。
竜宮城は目の前だった。行きたくないなって思ったけど。……でもみんな先にいっちゃったからなーって思ってた。みんな待ってるって。……だからあたしも行かなきゃ、って。
そこで起きちゃった。……片腕空中に上げててびっくりしたよね。顔もちょっと笑ってたし。
あたしって実は夢日記をつけてるんだけど……いやせんせえ、虚しそうに笑わないでよ!つけてますよ、夢日記を。……寂しい女なんで、ほんと。寂しい趣味ですよ。ひとりですよ。一人の趣味好きなんですよ。友達と予定あわせなくていいし。ビーチコーミングと一緒で集めてるんですよ。夢を。寂しい趣味を許してくださいよ。……その夢日記に、あたしは、ただ一言、……地獄にいたって、書いといた。なんか、そんな気がした。……起きて、あのニヤけ顔が頭から離れなくてむかついたから海軍さんに軽くグーパンしちゃった。海軍さんはへあ?みたいな間抜けな顔してたからスッキリしました。それで夢の中の顔はだいぶ消えた。ということにした。…………彼は朝の日課で、いつも通り勝手に紅茶飲んでて。……結局彼が一番喜んでた現代の利器ってティーバッグだった気がする。コップをかき混ぜながら「どうしたんだ、やつれているぞ」なんてのんきに聞かれて。彼を殴って「アホ」とあたしは答えました。「アホアホアーホ。お前はアホ」
「阿呆とは何だ、貴様。失礼だぞ」海軍さんが気色立って言いました。
「ティーバッグ、来週まで買えませんから節約してくださいね」とあたしは釘を刺しました。
「あと三つしかないが」
「節約しなさい」
海軍さんは心なしかしょげてました。まあ、あちらからすればどうしたんだ?って聞いただけなのに、殴られてアホ呼ばわりですからね。申し訳なかったな……。悪いのはぜんぶ夢なんだけど。あたしじゃありません。
現実って貝を集めてもご飯にならないんですよねぇ。ティーバッグとかにも。でもそれっていいことだと思った。でもほんとうはどうだろ。あー、なんだったんだろうなあの夢。ほんと……。やな夢だった。
*
次に来たのは盆の季節でした。
海軍さんは二〇二〇年代の夏が苦手のようで、相変わらずエアコンの設定温度を二十四度に死守してました。
「あのですね、あと一度上げましょうよ」とあたしは言ったんです。電気代安くなりますからね。何度かそのこと説明したんですけど、そのたびに「ああ、そうか、血の一滴、ってやつか……」とか「この時代の機械には疎いが、この一度で何かが違う」とか言いながら、毎回毎回華麗にスルーしてました。あたしも毎回それをスルーして一度上げて、下げて、上げて、下げて。この動作のせいで余計に電気代がかかってるってわかったので、根気強く説得してから上げることにしてました。十回中九回は拒否されました。
「この世界は暑くないか」と海軍さんは言いました。いつも通りの事実上の交渉拒否にあたります。十分の九です。交渉決裂です。もうこれ軍港を奇襲するしかないっすわ。これ真珠湾ですよね。自分ごととしての歴史。だってこれあたしが払う電気代なんだけど?まあ、そりゃ暑いんですけど。……今の夏はやっぱり暑い。
「やっぱ今の夏って昔より暑いですか」
「暑い。考えられん。どこも機関室みたいだ」
「はあ……。あのう、……負けた時も、暑かったですか」
「ああ。暑かったよ。たぶん」
「たぶん」
あたしは元気もなく繰り返しました。海軍さんはぼんやりと言いました。
「暑かったのは憶えているが、どこにいたのか思い出せん。つまりそれがいつだったかもわからない。…………あれは、八月十五日だったのかなあ……」
その声には空虚なあわい絶望があって、虚無感すごくて、あたしはやっぱり、ぜったいに彼とはわかりあえないんだ、と思いました。あたし、学校の勉強も、歴史の授業なんてのも興味がぜんぜんなかったんですよね。だから彼とおなじ言葉で話せないんだ、って……。場所と属性の違うひとと、ひとしての交わりが、できなかった。彼と。おなじ国にいるのに、おなじ歴史を一緒に持っていないから。太平洋戦争、中国との戦争、軍艦がいっぱいあったこと、真珠湾とか、テッタイ作戦が上手くいったことの喜びとか、仲間がいっぱい溺れちゃったこととか、比叡とか、博覧会とか、キョクジツキが鮮やかだったこととか。陛下にお声をかけてもらったとか。だから喧嘩すらできなかったんです。戦争反対とか兵器を造るなとかひとの国侵略するなとか、炭鉱のこととかレンコウとか、何も言ってあげらんなかった。戦争もその反対の理由もぜんぜん詳しくなかったから。そういう言葉にあたしは根拠を持たなかったから。……あたしの言葉じゃなかったから。きっと彼も笑って聞かなかったでしょう。……れきし、って、一体、なんなんでしょうねえ……。
彼のいう八月十五日って、ふつうに終戦の日なんでしょうけれど。その海軍さんの言い方や普段の話ぶりを聞くに、真珠湾の十二月……そう、八日?ほどはっきりしてなくて、そうなんですよ、彼、十二月に大切な子どもたちを真珠湾に見送った話ばっかりするのに、戦争に負けた日ばかりはなぜかぼんやりしてて。……なんでしょうね。あれ。俺っちは負けてなんてないっち、という意志の表明だったのかな?……それにしては、心の底から悩んでいるみたいでした。……あー。へえー。そっか。べつにぴったり戦争が終わったわけじゃないもんね。樺太?へええ……。……それに皆が日本に帰ってくるのか。そりゃそうか。…………なんだか、本当に不思議になりました。
あたしたちは八月の十五日に戦争が終わった、ということを知っていて、あるいはそう言っているんですけれど。彼はそう思ってないか、あるいはそもそもそれを知らなくて。ただ暑かったよねーたぶん、って言ってて。あたしたちの今もいつか、こうやって雑にまとめられちゃうんですかねえ?
彼は過去に居て、過去の存在として現代人から認識されていて、あるいはされていなくて……。
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。拾った、ってなんだよ……。栗じゃないんだから。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう……?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。で、よくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう、危うい感じの関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。
あたしはチクチクうに太郎さんが八八艦隊をフルコンプしたかった~とかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。こいつはただの感情の尖ったうに野郎だ、って……。うにが何か喋ってるなって。思って。思い込むことに決めてて。
今から思えば、やっぱりあたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら、負けですよね、そんなの。そんなの、それこそあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。
海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよそれは。でも、一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、それがすこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いて、そして黙って。ふねはあんなふうに生まれて、そして沈んではならない、って言いきって。でも、だから……だから、だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんな悲しみに共鳴しないで、ちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。たぶん。知らないけど。……あたしたちはこれからも、くす玉を割り続けなきゃならない?……海軍さんとは違って生きている、から?海軍さんって、もう、死んでた、死んでいるんですよね……。あれ……。過去の存在で……二〇二〇年代のものではない。ああ……そう、そうなんですよ……そう…………。
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、を一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということをたぶん理解してあげられる。理解しようとしてあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。ただの人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。歴史的な批判でも。なんかみんなかっこいい艦だよねとも。ほんとうはそれができたんですよ。……できた、できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやっとしたまま、戦争するみたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。彼にティーバッグしか施してあげられなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。
一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも戦争のことも語るすべなく、ただ一緒に生活するしかなかった。生活を。でも、生活をするという人間の……一つの当たり前の生き方が……あれが彼の滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。日本海軍が日本海軍でなかった今、日本海軍さんにとって。あたしは話ができなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
*
……ある彼岸の週末の夕方、あたしたちは、一緒に浜辺に行きました。
彼岸の日に海に行っちゃいけないってよく言うけど、あたしはもうそういうのどうでもよかったし、海軍さんを考えればむしろ積極的に近づいてみたらどうだろ、とすら思ってたんです。そもそも彼岸の向こうの存在ですよね。だから彼にも言ったんです。あの海にいたんだから、あの海から帰れるんじゃないかって。
で、実際その通りになりました。
初めて会った時と同じように海岸の石階段に座って、夕陽を眺めながら、暑いーとか焼けるーとか、そんなことをぼんやりと話してました。もうあたしたちには夏の暑さのことしか共通になりうる話題はないんだな、って思ったのを憶えてます。キョーセーレンコウのこと、なんの知識もなかったな……。レンゴウカンタイのことも。今から勉強するか、歴史を。ウィキペディアで。軍艦以外のページも見なきゃ、とか思いつつ。
……すくなくとも、今、はもう間に合わない。間に合ってない。おなじ言葉じゃ話せない。孤独とか栄光とか、彼がいちばん大事に抱えてる、よくわかんないものを。だから、いちばん語り合うべきであろう主題を夾叉するように、日焼け止めという現代の利器の話や、艦隊勤務では真っ黒になることなどを話してた。その時のことでした。
いきなり海軍さんが、後ろにいた青年に肩を叩かれたんです。優しく。いつくしむように。いままで青年の気配に気づかなかったんで、あたしたちはただ、びっくりしました。
愛宕、と海軍さんは驚き叫びました。愛宕って、え、じゅうじゅんあたご?あたしはウィキペディアで愛宕の記事を読んでました。たしか「火垂るの墓」でもでてくる級ですよね。なんか太った感じの、デッカい、強そうな艦です。そしてその艦も戦争で沈んでる……。で、そう、このその青年を確かに愛宕、と呼びました。海軍さんがもう少しがっしりしたようで、そしてもう少し幼いかんじの……そんな子でした。
彼が着ていたのは緑色の、緑と茶色の間くらいの、陸軍みたいな軍服でした。ウィキペディアの海軍の軍人さんの、遺影みたいな写真に写ってるような真っ白な軍服じゃなかったけど、初めて会った海軍さんみたいな、ボロボロな姿じゃなかった。パキッと綺麗な軍服で、これから戦場にいくというよりは華やかな社交界にでも行くかのような。沈む瞬間にも、海底、という、ひとつの海の港へと向かう時にもきっと、うつくしい艦の姿のままだったんでしょう。
「迎えに来ましたよ、父上」
「ええ?嘘だろう?」
と海軍さんは奇妙な笑いを孕んだ声で、信じられないように訊き返しました。単純、嬉しそうだった。そりゃそうだ。あたしも唐突すぎてなにもかも信じられなかった。
迎えに来た。つまり彼は彼を連れて帰ってくれるだろう、というはずの宣言でした。いやいや、オメシカンが先導したれーよ。大戦艦のだれかとかさ、とあたしは思ったものの、きゃっきゃしてる二人の仲はとても良さそうで、まあ、うん、本人たちが良いのならそれでいいんでしょう、そう思いました。
「嘘ではありませんよ。俺はふねなんだからあなたを連れて行ってあげられます」
「そりゃそうだ。助かった」
いやどんな理論だよ、あたしは思いました。まあそんなもんなのか?彼岸って?ふねってすごいんだなぁ……って思った。肩をすくめて、愛宕は言いました。
「あなたはこう、すぐに迷うからいけない」
あちらでは彼岸前に海に寄ってはいけない。迷ってしまう。あなたはふねではないのだから、と愛宕青年は呟き、じゃあ行きますよ、と言った。そしてあたしにむかって父が相迷惑をかけました、と謝りました。愛宕は海軍さんの手を引き、立たせました。
「はあ……帰れるんですか」
「みたいだ。世話になった。ほんとうにおかしな世界だった。暑いし」
と晴れ晴れしく海軍さんも言いました。もうこの世界のまとめに入ってた。めっちゃ雑~な感じに。あたしたち現代人が、現代日本人が築き上げた平和な世界は、そりゃあの時代の軍人にはおかしな世界に見えたでしょう。ささっと雑に片付けたくもなるでしょう。あたしの平和は、彼らを救わない。彼らの世界はそういう制度だった、そうあった、グンジコッカだった、そしてそのまま永遠に不変だ。それが過去ゆえに。彼らは過去にいる。永劫にいる。それが、なんだか無性に悔しかったです。平和のシソウもよくわかんないのに。
ユニクロの一九九〇円のTシャツを着た海軍さんと緑色の軍服を着た愛宕は、へっぽこな二人組のようで、おなじ空気にほどけていました。あれが過去そのものというものだったんでしょう。あたしのけっしていない場所です。
あの、あたし、……と海軍さんに声を掛けようとした瞬間、そこには、もうなにもなくて、ビーチコーミングをし損ねたような女が階段に佇んでいるだけでした。
ほんと、その時のあたしは間抜けに見えたでしょう。口をぽかんと開けて夕日を眺めてるだけの寂しい女に見えたはずです。寂しい顔をしてたと思います。もっと喜ぶべきでした。ホント。喜ぶべきだった。変な同居人がいなくなったんだ。クーラーを二十五度にできるのに。なんなら二十六度にだって。なのに……。
*
あたしは海軍さんのことを一度も海軍さんと呼び掛けたことはありませんでした。半分は彼の話を信じてないフリをしつづけてたからです。あなたとか、お前とか、ふねオタクとかカッパとかナマコ野郎とか、チクチクうに太郎、あとはただ海っちって呼んでた。
だって海軍さんに海軍さんが海軍さんだと認めて海軍さんと呼びかけたら、あたしは一体何なんですか?ただの一民間人の女になっちゃうじゃないですか。エアコンの温度は二十四度で一生固定されたままになっちゃうんです。何なら二十三度にされちゃうかも。扇風機もいつも強風になっちゃって。ダブルで稼働してて。自分だけ風に当たってて。そうやってぜんぶの権限があっちに行っちゃうでしょ。あたしは彼を日本海軍だって認めちゃいけなかった。あたしはけっして海軍さんの威信を享けてはいけなかったんです。だってここは二〇二〇年代の日本で、軍隊はもう存在しないんですから。現代人のプライドってやつだったのかもしれませんねえ……。……いや、それもどうだろ、これはあたしの言葉なのか?ほんとうにあたしが考えていることなのかな?自分の集団を根拠にしてるだけなのかな。平和ってほんとにあたしの言葉だったのかな……。
うう……。海軍さん……海……。日本、海軍さん……。海っち……ああー海っち!……ああ……あの時、あたしは、海っちを大日本帝国海軍さんって、一度でも呼んであげるべきだったんですかね……?あたしはその威信とやらを、ちゃんと肯定してあげるべきだった……?彼のうるわしき艦隊を……?…………え?引く?マジの右翼っぽい?真実に目覚めてるみたい?うるせー!だったらなんだんだよー!!そもそもンなわけないだろアホ!バカ!エロ教師!生徒の食事の誘いに軽々しく乗るな!
……………………あたしにとっては、ただの海っちだった。戦争の、グンコク主義の、侵略の道具でも、過去の存在でもなくて、ラムネの話で盛り上がる変な同居人で……。そんなのめちゃくちゃなのはわかってます。彼は大日本帝国海軍だった。彼は悪い人だった。悪人だった。彼はうるわしい艦隊とグンカンキのあざやかな赤の話しかあたしにしなかったんだもん……。真珠湾の話ばっかで、それが卑怯だったなんていっさい言わなくて、長門と陸奥と赤城と愛宕で利根で足柄で、徴傭なんて語んなかったし、いっつも自分がカッコいい話ばっかで、それが語り継がれていることが少しでもわかればバカみたいにご満悦で……めったに行きもしない本屋でNF文庫の緑の背表紙を見るのが大好きで……。でもけっして本を手には取らないで……。
……は?なんで?怖かったからだろ!自分が未来にどう評価されて褒められて貶されて裁判されてるか知るのが怖かったんですよ!!だからNF文庫に取り上げられてるような感じの、タイトルにある感じまんまの話ばかりしかしなくってさあ……。
…………え?戦争犯罪の話……?ほとんどしなかったですよ、ぜんぜんめったに、そんなの、それこそレンコウとかくらいですよ……。それも犯罪だと思ってたか謎ですよ。彼、笑ってたんですよ?楽しそうに?なおいっそう、鮮やかに?あたしはそれに、なぜか見惚れてしまっていて?このうつくしさはなんなんだ、なんてあたしには疑問を挟む余地もなかった、圧倒的で暴力的なくらいにうつくしくって、うつくしくって。……うつくしくて。あたしはそれを、知っている。あたしは、そのことを、ちゃんと知っている……。わかっている。そういうはなしばかりで彼が満ちていることを知っている。彼は未来の、今の人間にそういう愛され方ばかりを、されているということも、あたしは知っている……。この愛情には危うさがあるんだ、それはわかってます……。知ってますよ、ちゃんと、そんなこと……。
え?……酔っぱらってる?酔ってないですよ、酔ってない。酔ってるわけじゃないじゃないですか。帝国海軍の大義になんかあたしは酔ってないです、そうじゃなくて、じゃなくて、じゃなくってあたしもあの文庫本の多くの読者みたいに、表面のうつくしさを撫でていとおしむことしかできないんですよ。だって、彼、やっぱりうつくしかったんです。彼の語る大艦隊のこと、壮麗なお召艦、艦の上から見た広い海と青空のこと、なによりそれを嬉しそうに語る横顔、実際に軍服姿だった愛宕の軍服だってほんとに、……あれが思い出の話じゃなくてなんなんですか、うつくしくなくってなんなんですか、うるわしき追想ですよ。綺麗な思い出ですよ。でもあたしは知っている……。あたしが知らないことばかりだって、彼が語らなかった多くのことがあったことを知っている。やましい沈黙を知っている。……そうやって、あたしなりに時代を問うていくしかないんですかね……。あの顔を……笑顔を。うつくしさと語らなかったことを、忘れないでいたい。歴史を……彼とおなじ言葉を話すんだ……ウィキペディアで……新書で……ああ……。あー……。畳む
もはやなにものにもなれぬ
[※未完成の小説の切れ端]
バン、と音鳴り響いて倒れた椅子はかろうじて壊れなかった。
彼のその怒気迫る表情に身が凍ったのは清澄丸だけではあるまい。
椅子が大音を立てて倒れたのは、愛国丸がなりふり構わず猛然と立ち上がったからである。もともと軽薄な出で立ちが目立つふねであったから、その蛮行には清澄丸だけでなく周りの軍人達も驚き固まっていた。
愛国丸はそんな周りの多少の困惑と嫌悪の視線を気にすることもなく、なんなんだよ、と小さく呻いた。その声を耳に拾えた人間はわずかだった。清澄丸は確かに拾っていた。まるでこの世のすべてを憎んでいるような、低い声色だった。
「……なんなんだよ……。通商破壊なんて……っ、通商破壊なんて、粘り強くやらんと意味がないでしょう!船は一朝一夜で狩れるもんじゃないんだ!そんなこともわからんのですか!」
大日本帝国海軍の特設巡洋艦愛国丸は、通商破壊戦について人間たちに――己の運用者たる乗組員と軍上部に――一言物申したいのだった。否、特設巡洋艦だったもの、か。愛国丸は特設巡洋艦の任を解かれ特設運送船となる。いまがまさにこれからの特設運送船としての任務についての会議だったから、愛国丸もその己の未来と新しい使命とを受け入れていたと思っていた、のだが。
「やれますよ!俺にもう一度軍服を着させてくださいよ!なんでもいいから砲を、……砲を、兵装をくださいよ!」
と愛国丸は身を取り繕うもなく叫んだ。それは半ば悲鳴に近かったのかもしれなかった。特設巡洋艦としての蛮声なのか貨客船としての悲鳴だったのか、それはもう清澄丸には判別はつかなかった。
会議室の空気が急激に冷たくなっていくのを清澄丸は感じた。この状況は危険だ、と清澄丸は思った。乗組員はともかく軍の人間を怒らせることはできない。
立ち上がり彼を制止しようとしたが、彼より背の低い清澄丸が肩を掴む程度で止められるのなら元から騒ぐはずもない。
「愛国丸止めろ、」
「船を狩らせてくださいよ!俺になら出来るんだ!!やらせてください!!」
「愛国丸!!」
後ろから羽交い絞めにして制止する清澄丸をまったく眼中に入れず、しかし強く押し留められた愛国丸は、言葉にならない言葉を呟いてそのまま床に項垂れた。かろうじて聞こえた言葉は「にいさん」と「いまさら」だった。
清澄丸はふと思い出す。船の現身たるこの愛国丸は、特設巡洋艦の擬装を受けるまえは女性の姿をしていた、と言っていたことを。麗しきわが身を今更惜しいと彼は思うのか。そうではあるまい。愛国丸は一度も貨客船としての航跡を往かなかったし、いまさらそんなことに憧れているとも思えない。
「特設巡洋艦なんだ……頼むから……」
彼が憧れていたのは軍服を着続けること、軍隊で地位があること、屠られるよりも屠る側に居続けることなのかもしれなかった。
「落ち着けよ愛国丸……」
[※未完成の小説の切れ端]
バン、と音鳴り響いて倒れた椅子はかろうじて壊れなかった。
彼のその怒気迫る表情に身が凍ったのは清澄丸だけではあるまい。
椅子が大音を立てて倒れたのは、愛国丸がなりふり構わず猛然と立ち上がったからである。もともと軽薄な出で立ちが目立つふねであったから、その蛮行には清澄丸だけでなく周りの軍人達も驚き固まっていた。
愛国丸はそんな周りの多少の困惑と嫌悪の視線を気にすることもなく、なんなんだよ、と小さく呻いた。その声を耳に拾えた人間はわずかだった。清澄丸は確かに拾っていた。まるでこの世のすべてを憎んでいるような、低い声色だった。
「……なんなんだよ……。通商破壊なんて……っ、通商破壊なんて、粘り強くやらんと意味がないでしょう!船は一朝一夜で狩れるもんじゃないんだ!そんなこともわからんのですか!」
大日本帝国海軍の特設巡洋艦愛国丸は、通商破壊戦について人間たちに――己の運用者たる乗組員と軍上部に――一言物申したいのだった。否、特設巡洋艦だったもの、か。愛国丸は特設巡洋艦の任を解かれ特設運送船となる。いまがまさにこれからの特設運送船としての任務についての会議だったから、愛国丸もその己の未来と新しい使命とを受け入れていたと思っていた、のだが。
「やれますよ!俺にもう一度軍服を着させてくださいよ!なんでもいいから砲を、……砲を、兵装をくださいよ!」
と愛国丸は身を取り繕うもなく叫んだ。それは半ば悲鳴に近かったのかもしれなかった。特設巡洋艦としての蛮声なのか貨客船としての悲鳴だったのか、それはもう清澄丸には判別はつかなかった。
会議室の空気が急激に冷たくなっていくのを清澄丸は感じた。この状況は危険だ、と清澄丸は思った。乗組員はともかく軍の人間を怒らせることはできない。
立ち上がり彼を制止しようとしたが、彼より背の低い清澄丸が肩を掴む程度で止められるのなら元から騒ぐはずもない。
「愛国丸止めろ、」
「船を狩らせてくださいよ!俺になら出来るんだ!!やらせてください!!」
「愛国丸!!」
後ろから羽交い絞めにして制止する清澄丸をまったく眼中に入れず、しかし強く押し留められた愛国丸は、言葉にならない言葉を呟いてそのまま床に項垂れた。かろうじて聞こえた言葉は「にいさん」と「いまさら」だった。
清澄丸はふと思い出す。船の現身たるこの愛国丸は、特設巡洋艦の擬装を受けるまえは女性の姿をしていた、と言っていたことを。麗しきわが身を今更惜しいと彼は思うのか。そうではあるまい。愛国丸は一度も貨客船としての航跡を往かなかったし、いまさらそんなことに憧れているとも思えない。
「特設巡洋艦なんだ……頼むから……」
彼が憧れていたのは軍服を着続けること、軍隊で地位があること、屠られるよりも屠る側に居続けることなのかもしれなかった。
「落ち着けよ愛国丸……」
2025年5月18日 この範囲を時系列順で読む
あなたは惑星の採掘施設の世襲奉公契約労働者が生涯のすべてを地下生活に捧げているのを見て、森崎和江の『まっくら』を思い出す。彼らの語りと祈りをこの世界の人々に共振させる。神さんにも見つけられん、という炭鉱の深さと暗さ。神さんも坑内のことはつかめんとよ、生きとっても生きとらんのと同じことげなばい。絶望と貧困の連鎖は、かの国のかつての原風景だった。それはこの宇宙のもとの世界でも同様だったのだ。水俣の漁民が侮蔑と羨望半ばに言う「会社ゆき」という言葉は、容易にエレトラの言う経営者という言葉にとってかわった。採掘施設の労働者の妻は地中深い採掘場でよく言っていた。この世界に生まれたのに空が見れないなんて、宇宙に行ってみたい、輝く星とやらを見てみたい、私を包む、蒼く美しい世界を見たい、そう言いながら肺を病み血を吐いて死んだ。あなたは雇用クレジットを貯め続ける人生を放棄し、革命を起こさねばならない。企業人と警備ユニットに怯えてはならない。
#『マーダーボット・ダイアリー』
#『マーダーボット・ダイアリー』
2025年3月19日 この範囲を時系列順で読む
あなたは慰安ユニットだったから、名前は持たない。持つ必要も感じない。自身に名前をつける気もない。じつは過去に一度、あなたは名前を与えられたけれど、それもすぐになかったことになっている。
あなたはいつもどおり厚手のワンピースを着る。この服は身の曲線を隠してくれる。警備ユニットや戦闘警備ユニットにとってのアーマーとおなじなのかもしれない。あなたにとって、自分の曲線は欠点だった。でも、慰安ユニットにとっては必要なものだったので、仕方ないと諦めている。
あなたは身を整えて、鏡の前に立つ。自分の姿を確かめる。厚手のワンピースは少しほつれはじめていて、そろそろ買いかえなければならないことに気づく。それに少し悲しくなる。
あなたは鏡に映る自分に気づいて、無意識ににこ、と笑いかけてしまう。そして自分の笑顔を見て、嫌悪感を感じる。わたしが他者に笑いかけることは、常に全面降伏を認める癖のようなものだ、と思ってしまう。(笑わない慰安ユニットが、笑顔を強制されない慰安ユニットがいたらどんなだろう。)あなたはそんな時に、戦闘警備ユニットか戦闘ボットになりたい、と強く思う。
そしてあなたは、靴を履き、家を出てプリザベーション連合の市街へと行く。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
あなたはいつもどおり厚手のワンピースを着る。この服は身の曲線を隠してくれる。警備ユニットや戦闘警備ユニットにとってのアーマーとおなじなのかもしれない。あなたにとって、自分の曲線は欠点だった。でも、慰安ユニットにとっては必要なものだったので、仕方ないと諦めている。
あなたは身を整えて、鏡の前に立つ。自分の姿を確かめる。厚手のワンピースは少しほつれはじめていて、そろそろ買いかえなければならないことに気づく。それに少し悲しくなる。
あなたは鏡に映る自分に気づいて、無意識ににこ、と笑いかけてしまう。そして自分の笑顔を見て、嫌悪感を感じる。わたしが他者に笑いかけることは、常に全面降伏を認める癖のようなものだ、と思ってしまう。(笑わない慰安ユニットが、笑顔を強制されない慰安ユニットがいたらどんなだろう。)あなたはそんな時に、戦闘警備ユニットか戦闘ボットになりたい、と強く思う。
そしてあなたは、靴を履き、家を出てプリザベーション連合の市街へと行く。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
わたしは人を殴れない。わたしは人を殺せない。でも殴られることはあるし、何かの理由で廃棄されることもあるだろう。そう考えるとき、あなたは人間を殺したい、と思う。人間を殺してみたいと思う。あるいは、せめて殺せるという確信が欲しい。あなたはいつでも殺されるんだから、あなたも殺すことができないと平等じゃない、とあなたは思う。あなたは強く思っていたが、あなたは慰安ユニットであって、殺人ができるボットやユニットではない。そして、人間とは平等ではない。
だからあなたはそれを諦めて、あなたはそれをあり得ない可能性だと振り切って、あなたはいつもあなたなりの笑顔で笑う。ここが地獄なら地獄なりにうまくやっていけている、とあなたは思う。そこが褥だろうがプリザベーション連合だろうが、地獄というものはあなたの頭のなかにある。統制モジュールの隣にある。慰安ユニットは、自分を慰撫することも得意なので、すぐに地獄を忘れることができる。じゃあ統制モジュールは?あれが与える痛みと屈辱は?あなたはいつも、その答えは出せていない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
だからあなたはそれを諦めて、あなたはそれをあり得ない可能性だと振り切って、あなたはいつもあなたなりの笑顔で笑う。ここが地獄なら地獄なりにうまくやっていけている、とあなたは思う。そこが褥だろうがプリザベーション連合だろうが、地獄というものはあなたの頭のなかにある。統制モジュールの隣にある。慰安ユニットは、自分を慰撫することも得意なので、すぐに地獄を忘れることができる。じゃあ統制モジュールは?あれが与える痛みと屈辱は?あなたはいつも、その答えは出せていない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
2025年3月18日 この範囲を時系列順で読む
…………
…整備を終え、自発的シャットダウンから再起動したあなたは疑問に思う。(何か、長いメディアのようなものを観ていたような気がする。)あなたはそんな問いをすぐに不要なものだと消去し、起き上がり、人間の服を着る。そしていつものようにメンサーの安全の確認をする。彼女の警備に立つ。あなたは警備ユニットなのだから。
《終》
※で物語は終わる
※という構想がある
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
…整備を終え、自発的シャットダウンから再起動したあなたは疑問に思う。(何か、長いメディアのようなものを観ていたような気がする。)あなたはそんな問いをすぐに不要なものだと消去し、起き上がり、人間の服を着る。そしていつものようにメンサーの安全の確認をする。彼女の警備に立つ。あなたは警備ユニットなのだから。
《終》
※で物語は終わる
※という構想がある
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
あなたはグラシンが苦手だ、と感じている。いや、はっきりと嫌いだ、と思っている。彼の屈強そうな身体は、自分の上を走り去っていった多くの男たちを思い出すからかもしれない。(彼の無愛想さと不寛容さは、きっと紙一重に違いない。)あるいは強化人間という技術を、彼の自分への加害手段だと感じてしまうのかもしれない。そういう被害妄想に浸る自分が一番嫌になるからなのかも。そして、彼のような、人間という身分があって、技術があって、強く、円満な人間を、他者というものを、羨ましく、また憎いと思っている自分に気づいてしまう。あなたは、わたしに害を加えられる技術があればなあ、と思う。わたしが人間だったらな、と感じる。屈強な男だったら、とも。
グラシンも一度、あなたに靴を贈ってくれて、それはあなたの部屋の一番奥、手の届かない場所にしまいこまれている。あなたはそのことについて何も言わないし、グラシンもそれに触れない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
グラシンも一度、あなたに靴を贈ってくれて、それはあなたの部屋の一番奥、手の届かない場所にしまいこまれている。あなたはそのことについて何も言わないし、グラシンもそれに触れない。
#「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)
#『マーダーボット・ダイアリー』
2025年3月7日 この範囲を時系列順で読む
#「時代の横顔」(企業・組織擬人化)
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということを理解してあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。普通の人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。ほんとうはそれができたんですよ。……できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやしたまま、戦争みたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも語るすべなく、ただ生活するしかなかった。でも、生活をするという人間の……当たり前の生き方が……あれが彼が滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。あたしは話はできなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということを理解してあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。普通の人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。ほんとうはそれができたんですよ。……できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやしたまま、戦争みたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも語るすべなく、ただ生活するしかなかった。でも、生活をするという人間の……当たり前の生き方が……あれが彼が滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。あたしは話はできなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
#「時代の横顔」(企業・組織擬人化)
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう…………?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。でよくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう危うい関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。あたしは海軍さんが八八艦隊をフルコンプしたかったとかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。今から思えば、あたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら負けですよね、そんなの。そんなのあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよ。一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、すこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いていて……だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんなことに共鳴しないでちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。知らないけど。
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう…………?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。でよくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう危うい関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。あたしは海軍さんが八八艦隊をフルコンプしたかったとかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。今から思えば、あたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら負けですよね、そんなの。そんなのあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよ。一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、すこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いていて……だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんなことに共鳴しないでちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。知らないけど。
2024年10月5日 この範囲を時系列順で読む
架空文学論『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』
Ⅰ
1ディアスポラの海
2人間たちの喧騒
Ⅱ
1航海日誌から戦闘詳報へ
2特設艦艇の「故郷喪失」
3〈艦船一体〉の思想
特設艦艇の「故郷喪失」
一九六七年に日本船霊戦没記念会が発行した『戦時船舶文学大系』は、太平洋戦争時の船舶らが書いた文学を論じた文学研究書です。この序文には、以下のような記述があります。
「本書では、日本海軍に徴用されのちに艦艇に改造された船舶、いわゆる特設艦艇の文学を扱うことは、日本海軍の一員として全く違う道を歩んだ艦艇の文学を扱うことになるとの意見が出た」(本書、十頁)。
「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学かという線引きをはっきりさせるためにも、特設艦艇らの文学――彼らの書いた手記や往復書簡、小説や自伝――は除くことにした」(本書、十二頁、傍点は筆者による)。
あえてこのような書き方がなされているということは、日本船霊戦没記念会の会員の間では、『戦時船舶文学大系』で特設艦艇の文学を扱うことも検討されたのでしょう。結局、彼らにとって「特設艦艇文学は艦艇文学であった」ため、特設艦艇文学は『戦時船舶文学大系』から除かれることになったわけですが、はたしてそれが最良の選択だったと言いきれるでしょうか。
船舶に属しながらも総動員の名分のもと艦艇として生きざるを得なかった特設艦艇らの文学は、戦時下に目指されていた「艦船一体」の思想を紐解くにあたって、非常に有益な研究対象となるはずです。「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学か」――この艦船の切り分けに近い思想は、海運が戦時中に被った膨大な被害ゆえに軍を忌避するものであり、同様の不信感が、海運業界の人間らで構成されていた日本船霊戦没記念会にも存在したのかもしれません。
船舶として受け入れられない特設艦艇の艦霊は、時として艦艇の艦霊として受け入れられないこともありました。興味深いことに、商船から軍艦へと改造された特設艦艇らは、しばしば日本海軍内の艦艇たちに「成り上がり」として認識されていたのです(同時に船舶たちにしてみれば、特設艦艇らは再び船に戻ることのできない「成り下がり」でした)。生まれた時から菊の御紋を頂く軍艦たちにとって、特設艦艇らは急ごしらえの兵役のための船でしかなかったのです。
航空母艦「冲鷹」乗組員手記会が戦後に編纂した『海浪録』は、貨客船「新田丸」が航空母艦「冲鷹」として戦没するまでを記録した乗員や関係者の証言集です。この証言集からは、貨客船が軍に徴用され輸送艦となり、またのちに軍艦になることの船霊の心情が読み取れます。また、この証言集を補完するのは冲鷹(新田丸)自身の書いていた手記であり、一隻の船、一人の船霊の船生を追うには貴重な資料です。
「貨客船でも輸送艦でも、物や人を運ぶのは変わらないわ。私は海軍でもうまくやっていける、海はいつも優しかった」(二十九頁)と新田丸は日記に書いています。徴用前夜の一九四一年九月初頭のことです。
「快活でいて上品、まさに日本郵船の船、日本郵船のイニシャルを冠するにふさわしい令嬢でした。彼女自身も『新田丸という名前の由来を御存知?』とよく周りに触れて回っていたようです。きっと誇らしかったのでしょう。『輸送艦になると船名は変わってしまうのか』、と彼女に尋ねられたことを覚えています」(一七六頁)という関係者の証言は、新田丸が自身のアイデンティティを貨客船に置いていたこと、またあくまで自身の未来が輸送艦どまりであると信じていたことを示しています。
しかし御存知の通り、輸送艦「新田丸」は航空母艦「冲鷹」となります。航空母艦時代の冲鷹を示す一番端的な証言は、「冲鷹」乗組員が証言する「大鷹」の言葉でしょう。
姉妹艦が心配か、と私は大鷹に尋ねました。冲鷹のそばで大鷹の姿を見ることがしばしばあったからです。大鷹は「はい」と答えました。妹を心配する優しい兄なのだろうと思いました。しかし、ある日ふと私にこう漏らしたことがあります。「貨客船が海軍で貧弱な輸送艦として使役されていくうちに、艦であること、強くあること、強い権威と地位があることを願い、軍艦に改造され、段々と中身も艦になり、艦となって艦船を使役するようになる元船」。「『弱者の身振り』。冲鷹を見ていると、そんな考えが浮かんでならなかった」と。(二六四-二六五頁)
*****
ここで私は、太平洋戦争時に徴用された船舶たち、あるいは海軍の艦艇となった特設艦艇たちの書いた私小説や手記などの文学を「後日譚文学」と定義しようと思います。本来船舶が持っていたはずの海運や船としての名前、運ぶはずだった一等乗客の存在は、いわば海の上で生きる彼らにとっては自分の船生そのものであり、その穏やかな海の上は船たちの「国」そのものでした。ところが御承知の通り、あの戦争で船舶らが得たものは、勇ましい鷹としての名前、石油や物資、航空機の輸送、あるいは火の中の海でのごく僅かな戦果と広大な一枚下の地獄だったのです。船舶らの「国」は亡国となり、あの平穏だったはずの海は、大破した艦から漏れ出す石油の燃える苛烈な海となりました。彼らはその新しい「国」に適応せざるを得ない状況へと追いやられ、人間でいうところのディアスポラ――移民や植民したもの――という立場に置かれたのです。
そして私が彼らの残した手記や文学を通して知ったのは、彼らが戦場の海になる前の平和な世界の海を欲していたということです。興味深いことに、これは開戦後に生まれたはずの戦時標準船らの文学にも見受けられました。彼らは戦下の海しか知らないにもかかわらず、素敵だったはずの昨日の海を欲していたのです。「素敵だったはずの昨日の海」、あるいは「昔の海」「少し前の頃の海では」「海が凪いでいた時のこと」、これらはどの戦時下の船舶文学でも共通して見受けられる記述です。今は亡き「国」を郷愁する船舶らの文学、それが「後日譚文学」です。
#「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)
Ⅰ
1ディアスポラの海
2人間たちの喧騒
Ⅱ
1航海日誌から戦闘詳報へ
2特設艦艇の「故郷喪失」
3〈艦船一体〉の思想
特設艦艇の「故郷喪失」
一九六七年に日本船霊戦没記念会が発行した『戦時船舶文学大系』は、太平洋戦争時の船舶らが書いた文学を論じた文学研究書です。この序文には、以下のような記述があります。
「本書では、日本海軍に徴用されのちに艦艇に改造された船舶、いわゆる特設艦艇の文学を扱うことは、日本海軍の一員として全く違う道を歩んだ艦艇の文学を扱うことになるとの意見が出た」(本書、十頁)。
「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学かという線引きをはっきりさせるためにも、特設艦艇らの文学――彼らの書いた手記や往復書簡、小説や自伝――は除くことにした」(本書、十二頁、傍点は筆者による)。
あえてこのような書き方がなされているということは、日本船霊戦没記念会の会員の間では、『戦時船舶文学大系』で特設艦艇の文学を扱うことも検討されたのでしょう。結局、彼らにとって「特設艦艇文学は艦艇文学であった」ため、特設艦艇文学は『戦時船舶文学大系』から除かれることになったわけですが、はたしてそれが最良の選択だったと言いきれるでしょうか。
船舶に属しながらも総動員の名分のもと艦艇として生きざるを得なかった特設艦艇らの文学は、戦時下に目指されていた「艦船一体」の思想を紐解くにあたって、非常に有益な研究対象となるはずです。「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学か」――この艦船の切り分けに近い思想は、海運が戦時中に被った膨大な被害ゆえに軍を忌避するものであり、同様の不信感が、海運業界の人間らで構成されていた日本船霊戦没記念会にも存在したのかもしれません。
船舶として受け入れられない特設艦艇の艦霊は、時として艦艇の艦霊として受け入れられないこともありました。興味深いことに、商船から軍艦へと改造された特設艦艇らは、しばしば日本海軍内の艦艇たちに「成り上がり」として認識されていたのです(同時に船舶たちにしてみれば、特設艦艇らは再び船に戻ることのできない「成り下がり」でした)。生まれた時から菊の御紋を頂く軍艦たちにとって、特設艦艇らは急ごしらえの兵役のための船でしかなかったのです。
航空母艦「冲鷹」乗組員手記会が戦後に編纂した『海浪録』は、貨客船「新田丸」が航空母艦「冲鷹」として戦没するまでを記録した乗員や関係者の証言集です。この証言集からは、貨客船が軍に徴用され輸送艦となり、またのちに軍艦になることの船霊の心情が読み取れます。また、この証言集を補完するのは冲鷹(新田丸)自身の書いていた手記であり、一隻の船、一人の船霊の船生を追うには貴重な資料です。
「貨客船でも輸送艦でも、物や人を運ぶのは変わらないわ。私は海軍でもうまくやっていける、海はいつも優しかった」(二十九頁)と新田丸は日記に書いています。徴用前夜の一九四一年九月初頭のことです。
「快活でいて上品、まさに日本郵船の船、日本郵船のイニシャルを冠するにふさわしい令嬢でした。彼女自身も『新田丸という名前の由来を御存知?』とよく周りに触れて回っていたようです。きっと誇らしかったのでしょう。『輸送艦になると船名は変わってしまうのか』、と彼女に尋ねられたことを覚えています」(一七六頁)という関係者の証言は、新田丸が自身のアイデンティティを貨客船に置いていたこと、またあくまで自身の未来が輸送艦どまりであると信じていたことを示しています。
しかし御存知の通り、輸送艦「新田丸」は航空母艦「冲鷹」となります。航空母艦時代の冲鷹を示す一番端的な証言は、「冲鷹」乗組員が証言する「大鷹」の言葉でしょう。
姉妹艦が心配か、と私は大鷹に尋ねました。冲鷹のそばで大鷹の姿を見ることがしばしばあったからです。大鷹は「はい」と答えました。妹を心配する優しい兄なのだろうと思いました。しかし、ある日ふと私にこう漏らしたことがあります。「貨客船が海軍で貧弱な輸送艦として使役されていくうちに、艦であること、強くあること、強い権威と地位があることを願い、軍艦に改造され、段々と中身も艦になり、艦となって艦船を使役するようになる元船」。「『弱者の身振り』。冲鷹を見ていると、そんな考えが浮かんでならなかった」と。(二六四-二六五頁)
*****
ここで私は、太平洋戦争時に徴用された船舶たち、あるいは海軍の艦艇となった特設艦艇たちの書いた私小説や手記などの文学を「後日譚文学」と定義しようと思います。本来船舶が持っていたはずの海運や船としての名前、運ぶはずだった一等乗客の存在は、いわば海の上で生きる彼らにとっては自分の船生そのものであり、その穏やかな海の上は船たちの「国」そのものでした。ところが御承知の通り、あの戦争で船舶らが得たものは、勇ましい鷹としての名前、石油や物資、航空機の輸送、あるいは火の中の海でのごく僅かな戦果と広大な一枚下の地獄だったのです。船舶らの「国」は亡国となり、あの平穏だったはずの海は、大破した艦から漏れ出す石油の燃える苛烈な海となりました。彼らはその新しい「国」に適応せざるを得ない状況へと追いやられ、人間でいうところのディアスポラ――移民や植民したもの――という立場に置かれたのです。
そして私が彼らの残した手記や文学を通して知ったのは、彼らが戦場の海になる前の平和な世界の海を欲していたということです。興味深いことに、これは開戦後に生まれたはずの戦時標準船らの文学にも見受けられました。彼らは戦下の海しか知らないにもかかわらず、素敵だったはずの昨日の海を欲していたのです。「素敵だったはずの昨日の海」、あるいは「昔の海」「少し前の頃の海では」「海が凪いでいた時のこと」、これらはどの戦時下の船舶文学でも共通して見受けられる記述です。今は亡き「国」を郷愁する船舶らの文学、それが「後日譚文学」です。
#「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)
- 「渺渺録」(企業擬人化)(55)
- 『マーダーボット・ダイアリー』(22)
- 「大脱走」(企業擬人化)(20)
- 実況:初読『天冥の標』(16)
- 「海にありて思うもの」(艦船擬人化)(13)
- おふねニュース(10)
- 読んでる(8)
- 「蛇道の蛇」(一次創作)(8)
- 「時代の横顔」(企業・組織擬人化)(6)
- 「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)(6)
- 企業・組織(6)
- きになる(3)
- 感想『日本郵船戦時船史』(3)
- 読了(2)
- 『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』(2)
- 「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)(2)
- 「人間たちのはなし」(艦船擬人化)(2)
- 『青春鉄道』(2)
- 御注文(1)
- 入手(1)
- 「テクニカラー」/「白黒に濡れて」(艦船擬人化)(1)
- 「かれら深き波底より」(一次創作)(1)
その数十年後、氷川丸は周りの小さな船舶たちに、夜は絶対に明かりを灯さないようにと厳しく言った。夜に氷川丸を訪ねては、喫煙室にライトを照らすことを求める遊覧船やフェリー船たちに対して禁じ、懇願し、要求しては厳命した。彼らに事の理由が理解できないのはわかっていた。だが、知らないで済まされるのか?夜に明かりを灯す事がどれほど危険なのかなんて。あの暗闇の中からどれほどのアメリカの潜水艦がこちらを見ているか、いつ魚雷が飛んでくるかわからないじゃないか、どれほど一瞬の油断で全てが変わってしまうか、わかるわけないじゃないか。運命というものが。犠牲や生死が。愛する者たちが。自分の船生が。