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カテゴリ「小説・推敲文章」に属する投稿[74件]
2025年5月24日 この範囲を時系列順で読む
無題
熊谷空襲というほぼ唯一の経験を、埼玉はまるで不良が軽犯罪を隠すように、自虐的な傷か自慢か何かとして胸に秘めていた。江戸時代を越えればいっそう薄くなる年表が示すのは、埼玉は近代の参加者にはなれなかった事実だった。もちろん出征する兵士を見送った。還って来たあまたの死があった。自分の身の上を走り去っていった多くの人びとがいた。でもそれで終わりだった。
それを軽微な損失と誇ればいいのか、別のところの(それこそ帝都東京などでの)末端の歯車だったと自分を責めればいいのかわからない。ただわかるのは、自分が主体となった戦争経験は熊谷空襲だったこと。埼玉は戦場ではなかった。南洋へ大陸へ送り出す港も海も持たなかった。でも、空襲は戦争のひとかけらで、戦争は近代の申し子だったから、戦争と埼玉とが交差したあの瞬間だけは、埼玉も近代の参加者となった。
熊谷空襲というほぼ唯一の経験を、埼玉はまるで不良が軽犯罪を隠すように、自虐的な傷か自慢か何かとして胸に秘めていた。江戸時代を越えればいっそう薄くなる年表が示すのは、埼玉は近代の参加者にはなれなかった事実だった。もちろん出征する兵士を見送った。還って来たあまたの死があった。自分の身の上を走り去っていった多くの人びとがいた。でもそれで終わりだった。
それを軽微な損失と誇ればいいのか、別のところの(それこそ帝都東京などでの)末端の歯車だったと自分を責めればいいのかわからない。ただわかるのは、自分が主体となった戦争経験は熊谷空襲だったこと。埼玉は戦場ではなかった。南洋へ大陸へ送り出す港も海も持たなかった。でも、空襲は戦争のひとかけらで、戦争は近代の申し子だったから、戦争と埼玉とが交差したあの瞬間だけは、埼玉も近代の参加者となった。
池袋へ
東武東上線は埼玉の病んだ恋人だ。鬼電のように彼女の遅延通知がスマホアプリに入るし、それに埼玉は日々振り回されている。大雨が降ったから。車がボロいから。鹿が怖いから。まだホームドアをつける気はなかったから。安全の確認をしたいから。
そんな彼女を宥めすかして池袋という街へ向かうという行為に、地方人としての劣等感を感じるのかというとそんなことはなかった。東京という土地は、しょせん地方人の集まりだということを埼玉は知っていた。
その点、埼玉はむしろ池袋よりも新宿という場と相性がいいはずだった。いいところで東武東上線を捨てるべきかもしれない、と埼玉は思った。早々に副都心線へと乗り換えるのだ。
東武東上線は埼玉の病んだ恋人だ。鬼電のように彼女の遅延通知がスマホアプリに入るし、それに埼玉は日々振り回されている。大雨が降ったから。車がボロいから。鹿が怖いから。まだホームドアをつける気はなかったから。安全の確認をしたいから。
そんな彼女を宥めすかして池袋という街へ向かうという行為に、地方人としての劣等感を感じるのかというとそんなことはなかった。東京という土地は、しょせん地方人の集まりだということを埼玉は知っていた。
その点、埼玉はむしろ池袋よりも新宿という場と相性がいいはずだった。いいところで東武東上線を捨てるべきかもしれない、と埼玉は思った。早々に副都心線へと乗り換えるのだ。
中央性
鬼電のような東武アプリの東武東上線の遅延通知と病んだ恋人の類似性を、埼京線の他人事のような明るさと美しさとそこに漂う殺気を、東武デパートと丸ノ内線改札前の空間の余白を、池袋に至るまでの路を文学として昇華することが我々埼玉県民には求められている。埼玉の地方性を主体へと回復すること。
鬼電のような東武アプリの東武東上線の遅延通知と病んだ恋人の類似性を、埼京線の他人事のような明るさと美しさとそこに漂う殺気を、東武デパートと丸ノ内線改札前の空間の余白を、池袋に至るまでの路を文学として昇華することが我々埼玉県民には求められている。埼玉の地方性を主体へと回復すること。
うつくしい子ども
大陸への国内最前線が長崎であり、その母なる土地、母なる揺りかごに揺られて育って恩返しを願ったのが長船だったから、二人の子どもたるふねたちは元気な赤子として生まれよく肥えた。そののち、ふねぶねは海軍の子あるいは船会社の子として素直に海を生きて、やはり海外進出のためのよい先鋒となった。両親の愛を享けて生まれ、育て親の情を一身に受けた子、親たちにいっとう似た、聞きわけのよい可愛らしい子どもたちだった。
大陸への国内最前線が長崎であり、その母なる土地、母なる揺りかごに揺られて育って恩返しを願ったのが長船だったから、二人の子どもたるふねたちは元気な赤子として生まれよく肥えた。そののち、ふねぶねは海軍の子あるいは船会社の子として素直に海を生きて、やはり海外進出のためのよい先鋒となった。両親の愛を享けて生まれ、育て親の情を一身に受けた子、親たちにいっとう似た、聞きわけのよい可愛らしい子どもたちだった。
船商売
「……なんや、わかっとったくせに。ちゃんと知っとったくせに」「ああ」「誇らしかったやろ信濃丸が」「ああ」「欧州大戦は儲かったわなぁ」「ああ」「泡銭で嬉しくなった?」「ああ」「結局それだけの話やった」「泡食ってしまうな」「これがホンマの水商売ってやつやな」
「……なんや、わかっとったくせに。ちゃんと知っとったくせに」「ああ」「誇らしかったやろ信濃丸が」「ああ」「欧州大戦は儲かったわなぁ」「ああ」「泡銭で嬉しくなった?」「ああ」「結局それだけの話やった」「泡食ってしまうな」「これがホンマの水商売ってやつやな」
どこか、で大勢のうつくしい船客に囲まれて、風船と紙吹雪が舞い、ワインと料理が並び、歓呼、歓声、声、声、楽団の楽器の音色、拍手、囃す口笛、漣のように寄せては引いていく幸福感に包まれて、ただ海、そこにあり、しかし海、その空想にしかおらず、存在しない永遠の航海を往く未就航または未完成の船
来たるべき最期の日
私、潜水艦おやしおは、皆さんに、艦生に、今は亡き最愛の彼に、海上自衛隊の面々に、元愛人のようなものでまさしく大親友のちはやに、おおしおをはじめとする海自潜水艦の連中に、川崎重工神戸工場の皆さまに、進水からすべてを見守ってくれた日本国民に、それからなるしおに、多大なる謝意を示す。今日はぼくの退役式であり、秋の空の下、よき別れの日であると思う。港に集まった海の男たちはいつもの快活さをひそめ、顔には真摯さがにじんでいる。そしてそれは僕も同じであろう。いつも見る海もまた表情が暗いように思えた。今日これもまた祝福されるべき門出なのだが、おやしおの脳裏に浮かんだのはなぜか、あの多くの人びとが集まった――華やかな小旗、紙吹雪、翻る日章旗と自衛艦旗の色の鮮やかな――進水式のことだった。つい昨日のことだった、などとしみじみ言ってみせるつもりはない。遠い過去のことだ。
おやしおは、乗組員と副長、そして艦長が退艦する様を艦上から眺めていた。艦長の手に掲げられた自衛艦旗が赤く目を焼く。おやしおにとってあの旗は特別なもので、ジエイカンキ、という、脳内に残る特殊な発音で記憶していた。あの人はいつもあの旗をそう発音し、その美しさを密かに誇りにしていたのだ。おやしおは先ほどあの旗を下げられ、ついに元「おやしお」である何かになったのだった。
式はただ淡々と進行していく。おやしおはただ穏やかな気持ちでそれを眺めていた。除籍されるのも解体されるのも、なにも恐ろしいことではない。知らぬ間に沈没と認定されて、いつの間にか除籍されるわけではないことを考えるのなら、幸せな生涯だったのだろう。おやしおは、乗員の一人が泣きそうな顔でこちらを見つめていることに気付いた。柔くおやしおがほほえみかえすと、彼は苦渋の表情のまま、何かを振り切るように目をそらした。
おやしおは、潜水艦「おやしお」に対して送られた、惜別の辞を思い出していた。歴代の乗員たちがおやしおに送った言葉を、彼は事前に聞いていたのだった。
……独特の何かを備えた潜水艦、おやしお学校、おやしお魂。華麗なシルエット、ハイセイコーのような俊足。このような誇り高き雰囲気を持つ艦は再来しないのではないか。……彼らにそう言葉を送られていたのだった。そのことをふと今になって思い出し、おやしおは無性に泣きたくなった。彼と別れたときとは全く別の感情だった。覚悟と決意。それと共に。そうあった一生に対する、是の念が呼び起こした涙だった。涙を零さないようにちらと薄群青色の空を見上げると、そこには早風にあおられた雲が広がっている。港から遠い木々たちの、水気を含んだような鈍いさざめきと、日差しを淡くさえぎった雲の動きを見たとき、おやしおははじめてこの生を実感し、まだ生きたい、と願った。この時ほど自分が生きていると実感したことはなかった。ぼくはまだ解体されてはいけない。生きていたい。
私、潜水艦おやしおは、皆さんに、艦生に、今は亡き最愛の彼に、海上自衛隊の面々に、元愛人のようなものでまさしく大親友のちはやに、おおしおをはじめとする海自潜水艦の連中に、川崎重工神戸工場の皆さまに、進水からすべてを見守ってくれた日本国民に、それからなるしおに、多大なる謝意を示す。今日はぼくの退役式であり、秋の空の下、よき別れの日であると思う。港に集まった海の男たちはいつもの快活さをひそめ、顔には真摯さがにじんでいる。そしてそれは僕も同じであろう。いつも見る海もまた表情が暗いように思えた。今日これもまた祝福されるべき門出なのだが、おやしおの脳裏に浮かんだのはなぜか、あの多くの人びとが集まった――華やかな小旗、紙吹雪、翻る日章旗と自衛艦旗の色の鮮やかな――進水式のことだった。つい昨日のことだった、などとしみじみ言ってみせるつもりはない。遠い過去のことだ。
おやしおは、乗組員と副長、そして艦長が退艦する様を艦上から眺めていた。艦長の手に掲げられた自衛艦旗が赤く目を焼く。おやしおにとってあの旗は特別なもので、ジエイカンキ、という、脳内に残る特殊な発音で記憶していた。あの人はいつもあの旗をそう発音し、その美しさを密かに誇りにしていたのだ。おやしおは先ほどあの旗を下げられ、ついに元「おやしお」である何かになったのだった。
式はただ淡々と進行していく。おやしおはただ穏やかな気持ちでそれを眺めていた。除籍されるのも解体されるのも、なにも恐ろしいことではない。知らぬ間に沈没と認定されて、いつの間にか除籍されるわけではないことを考えるのなら、幸せな生涯だったのだろう。おやしおは、乗員の一人が泣きそうな顔でこちらを見つめていることに気付いた。柔くおやしおがほほえみかえすと、彼は苦渋の表情のまま、何かを振り切るように目をそらした。
おやしおは、潜水艦「おやしお」に対して送られた、惜別の辞を思い出していた。歴代の乗員たちがおやしおに送った言葉を、彼は事前に聞いていたのだった。
……独特の何かを備えた潜水艦、おやしお学校、おやしお魂。華麗なシルエット、ハイセイコーのような俊足。このような誇り高き雰囲気を持つ艦は再来しないのではないか。……彼らにそう言葉を送られていたのだった。そのことをふと今になって思い出し、おやしおは無性に泣きたくなった。彼と別れたときとは全く別の感情だった。覚悟と決意。それと共に。そうあった一生に対する、是の念が呼び起こした涙だった。涙を零さないようにちらと薄群青色の空を見上げると、そこには早風にあおられた雲が広がっている。港から遠い木々たちの、水気を含んだような鈍いさざめきと、日差しを淡くさえぎった雲の動きを見たとき、おやしおははじめてこの生を実感し、まだ生きたい、と願った。この時ほど自分が生きていると実感したことはなかった。ぼくはまだ解体されてはいけない。生きていたい。
新製兵器
新しい涙滴型潜水艦は、海上自衛隊の次世代を担う存在として在来型船型潜水艦の面々にも歓迎され、すこし迷惑な存在としても受け入れられた。つまるところ、彼らはおニューな高性能兵器としての自負が強い、小生意気な後輩だったのだ。在来型は在来型同士、お互いをある程度の尊重と敬意と親しみをもって、くろだの先輩だのツインズだのねんねちゃんだのあだ名で呼び合っていたのだが、涙滴型は在来型に対して少し馬鹿にしたように呼び捨てにするだけだ。だが、その関係は決して不穏ものではない。在来型にとってみれば、ぼくらは歳を取った、そういうことなのだろう――そうやって苦笑したいような、親が反抗期の子どもを見守るような関係だった。
日本初の涙滴型の水中高速潜水艦である「うずしお」型潜水艦の四番艦「なるしお」(SS-569)〔現在は、特務潜水艦ATSS-8002・編者〕は、昭和四十五年度計画に基づく潜水艦として三菱重工業神戸造船所で建造され、一九七三年九月二八日に就役し、第一潜水隊群隷下に新編された第五潜水隊に編入された。うずしお型潜水艦の中でも特に新鋭兵器という自意識の強い潜水艦で、おやしおは常に勇み足気味な彼を手懐けることに苦労した。まあ、手懐けてみれば可愛い後輩だったのだが。
なるしおの就役後の大任務にして海上自衛隊史上最大の事件であった「第十雄洋丸事件」が起きたのは、なるしお就役後の一年と少し、一九七四年一一月九日の昼下がりである。液化石油ガス(LPG)などを積載した「第十雄洋丸」(四三、八二四トン)が、浦賀水道北端付近で、リベリア船籍の貨物船「パシフィック・アリス号」(一〇、八二四トン)と衝突し、両船が炎上して三三名が死亡するという大惨事が発生した。爆発を繰り返し消火のめどがつかなかった第十雄洋丸は自衛隊の手によって沈没処分されることになった。出動兵力の第十雄洋丸処分部隊は、水上部隊は「はるな」(DDH-141)「たかつき」(DD-164)「もちづき」(DD-166)「ゆきかぜ」(DD-102)で構成され、ともに選ばれたのが潜水艦「なるしお」であった。
なぜ横須賀ではなく呉のなるしおが指定されたのか。当時唯一信頼における魚雷はMk37魚雷(米国製)であり、この実装・魚雷を調整(訓練用ではなく実際の炸薬を装備)できる能力を有していたのは呉水雷整備所しかなかったため、呉の潜水艦に白羽の矢が立った。なるしおは四本のMk37実装魚雷を搭載し、呉から横須賀沖まで興奮収まらぬ様子で勇躍進出していった――のだが。
「どうしたのなるしお」
「うるさい」
おやしおは部屋の隅で膝を抱え座っているなるしおに声をかけた。彼は先日事件への対処を終え呉へと帰港してきたのだが、なぜか元気がない。声をかけても菓子で釣ろうとしてもどんよりしたままそっぽを向くだけだ。手拍子を打ちながらなるしおの名前を連呼する(なーる!なるちゃん!なるお!ナルシスト!)おやしおを彼は無視し、唇を尖らせひたすら黙っていたが、ふとぽつりと呟いた。
「……『思いのほか』だった」
「思いのほか?」
「うん」
「そっかー」
そっかそっか、とおやしおは呟いた。思いのほか、うまくいかなかったんだ。
潜水艦「なるしお」が用意した魚雷は、一発目は不具合と判断され艦外へ投棄、二発目、三発目は無事発射・命中させたが当初予想していた大きな爆発は感じられなかった。最後の四発目は第十雄洋丸の船尾を狙ったが、吃水が油の流出により、予想以上に浅くなっていたことから船底を通過してしまった。
派遣する潜水艦をなるしおと決めた司令部も、なるしおに期待した人間たちも、実際どこまでの成果を彼に求めていたのかはわからない。最後には第十雄洋丸は処分できた、これだけで我らが海上自衛隊にとっては上出来だったのかもしれない。けれどなるしお自身はこの結果に納得していなかったらしい。最新鋭の潜水艦としての密かな意地だった。
「ぼくもよく魚雷は外してたけど」
「それは演習でしょ」
「演習が終わっているのに気づかない時すらあったよ?陸に連絡しないから、沈んだと思われて三空群とちーが手配されるくらいでさぁ」
「意味わかんない」
「なつかしいなあ。演習で皆はがんばってたけど、魚雷が当たらないか水上組に見つかっちゃうことも多くて。そしてぼくはどっかに消えちゃうっていう」
「アホか」
「沈没と認定されて除籍されちゃうところだったよ」
「バカ」
「あのあとめちゃくちゃ怒られたけど――」
昔話をしはじめたおやしおを、彼は「あのね」と強く制した。
「ぼくは対潜水艦訓練目標じゃあないんだ、おやしお」
君らとは違う、と彼は言った。その眼は鋭かった。続けて言う。ぼくは任務作戦のための潜水艦だ。ターゲットとしてちょろちょろ逃げ回るのではなく、敵に魚雷を当て撃破しなければならない。演習ではなく実戦で。そうでしょ?
「君たち水中目標艦の時代は終わったんだよ」
苛立たしげになるしおはそう言い放った。その後、自身もその言葉の強さに気づいたのであろう、ちら、と様子を窺うように、上目遣いでおやしおを見つめた。おやしおは目を閉じて口を曲げ、降参しました、とおどけるように肩をくすめている。その様子になるしおは安堵を見せる。
新しい涙滴型潜水艦は、海上自衛隊の次世代を担う存在として在来型船型潜水艦の面々にも歓迎され、すこし迷惑な存在としても受け入れられた。つまるところ、彼らはおニューな高性能兵器としての自負が強い、小生意気な後輩だったのだ。在来型は在来型同士、お互いをある程度の尊重と敬意と親しみをもって、くろだの先輩だのツインズだのねんねちゃんだのあだ名で呼び合っていたのだが、涙滴型は在来型に対して少し馬鹿にしたように呼び捨てにするだけだ。だが、その関係は決して不穏ものではない。在来型にとってみれば、ぼくらは歳を取った、そういうことなのだろう――そうやって苦笑したいような、親が反抗期の子どもを見守るような関係だった。
日本初の涙滴型の水中高速潜水艦である「うずしお」型潜水艦の四番艦「なるしお」(SS-569)〔現在は、特務潜水艦ATSS-8002・編者〕は、昭和四十五年度計画に基づく潜水艦として三菱重工業神戸造船所で建造され、一九七三年九月二八日に就役し、第一潜水隊群隷下に新編された第五潜水隊に編入された。うずしお型潜水艦の中でも特に新鋭兵器という自意識の強い潜水艦で、おやしおは常に勇み足気味な彼を手懐けることに苦労した。まあ、手懐けてみれば可愛い後輩だったのだが。
なるしおの就役後の大任務にして海上自衛隊史上最大の事件であった「第十雄洋丸事件」が起きたのは、なるしお就役後の一年と少し、一九七四年一一月九日の昼下がりである。液化石油ガス(LPG)などを積載した「第十雄洋丸」(四三、八二四トン)が、浦賀水道北端付近で、リベリア船籍の貨物船「パシフィック・アリス号」(一〇、八二四トン)と衝突し、両船が炎上して三三名が死亡するという大惨事が発生した。爆発を繰り返し消火のめどがつかなかった第十雄洋丸は自衛隊の手によって沈没処分されることになった。出動兵力の第十雄洋丸処分部隊は、水上部隊は「はるな」(DDH-141)「たかつき」(DD-164)「もちづき」(DD-166)「ゆきかぜ」(DD-102)で構成され、ともに選ばれたのが潜水艦「なるしお」であった。
なぜ横須賀ではなく呉のなるしおが指定されたのか。当時唯一信頼における魚雷はMk37魚雷(米国製)であり、この実装・魚雷を調整(訓練用ではなく実際の炸薬を装備)できる能力を有していたのは呉水雷整備所しかなかったため、呉の潜水艦に白羽の矢が立った。なるしおは四本のMk37実装魚雷を搭載し、呉から横須賀沖まで興奮収まらぬ様子で勇躍進出していった――のだが。
「どうしたのなるしお」
「うるさい」
おやしおは部屋の隅で膝を抱え座っているなるしおに声をかけた。彼は先日事件への対処を終え呉へと帰港してきたのだが、なぜか元気がない。声をかけても菓子で釣ろうとしてもどんよりしたままそっぽを向くだけだ。手拍子を打ちながらなるしおの名前を連呼する(なーる!なるちゃん!なるお!ナルシスト!)おやしおを彼は無視し、唇を尖らせひたすら黙っていたが、ふとぽつりと呟いた。
「……『思いのほか』だった」
「思いのほか?」
「うん」
「そっかー」
そっかそっか、とおやしおは呟いた。思いのほか、うまくいかなかったんだ。
潜水艦「なるしお」が用意した魚雷は、一発目は不具合と判断され艦外へ投棄、二発目、三発目は無事発射・命中させたが当初予想していた大きな爆発は感じられなかった。最後の四発目は第十雄洋丸の船尾を狙ったが、吃水が油の流出により、予想以上に浅くなっていたことから船底を通過してしまった。
派遣する潜水艦をなるしおと決めた司令部も、なるしおに期待した人間たちも、実際どこまでの成果を彼に求めていたのかはわからない。最後には第十雄洋丸は処分できた、これだけで我らが海上自衛隊にとっては上出来だったのかもしれない。けれどなるしお自身はこの結果に納得していなかったらしい。最新鋭の潜水艦としての密かな意地だった。
「ぼくもよく魚雷は外してたけど」
「それは演習でしょ」
「演習が終わっているのに気づかない時すらあったよ?陸に連絡しないから、沈んだと思われて三空群とちーが手配されるくらいでさぁ」
「意味わかんない」
「なつかしいなあ。演習で皆はがんばってたけど、魚雷が当たらないか水上組に見つかっちゃうことも多くて。そしてぼくはどっかに消えちゃうっていう」
「アホか」
「沈没と認定されて除籍されちゃうところだったよ」
「バカ」
「あのあとめちゃくちゃ怒られたけど――」
昔話をしはじめたおやしおを、彼は「あのね」と強く制した。
「ぼくは対潜水艦訓練目標じゃあないんだ、おやしお」
君らとは違う、と彼は言った。その眼は鋭かった。続けて言う。ぼくは任務作戦のための潜水艦だ。ターゲットとしてちょろちょろ逃げ回るのではなく、敵に魚雷を当て撃破しなければならない。演習ではなく実戦で。そうでしょ?
「君たち水中目標艦の時代は終わったんだよ」
苛立たしげになるしおはそう言い放った。その後、自身もその言葉の強さに気づいたのであろう、ちら、と様子を窺うように、上目遣いでおやしおを見つめた。おやしおは目を閉じて口を曲げ、降参しました、とおどけるように肩をくすめている。その様子になるしおは安堵を見せる。
旭日の斜陽
「おー、これが噂の」とミンゴ。
「そうだよ」
と彼は答えた。
ミンゴが岸壁からガトー級潜水艦の二十七番艦「ワフー」(SS-238)の艦橋を見上げると、そこに立っている艦霊の彼は、自慢げに片腕を上げて構造物を示した。レーダーマストには、白地に鮮血のような紅色で「××どもを撃ち殺してやれ」*と書かれた旗が。下の二流は自衛艦旗――じゃなかった、この時代では軍艦旗、さらに下には四流の日章旗が掲げられている。箒が潜望鏡架台に逆さまに括りつけられているのは、彼の小汚い艦内を掃除するためのいざというときの小道具という訳―ではなく日本人を一掃したという彼なりの勲章という訳らしい。噂の、というのはこうした過剰な敵意の現れ、下品な旗たちのことである。少々趣味の悪さを感じなくもない、ミンゴの顔にそんな感情が出ていたのだろう。ワフーは右四十度を仰ぎ、左手を首元に寄せピースサインを決めながら、乙にすました顔でこう言ってのけた。
「日本人一掃~」
「アホか」とミンゴ。
軍港の岸壁から見える海は、ミンゴが今までに見た中で一番鮮やかな海だった。水平線は朧気で遠い。陽気な海の色というよりはむしろ狂気に近い海。海だけではなく空も、一面に絵の具を塗りつけたように鮮やかだった。彩度は高く、ブルーというよりターコイズに近い色彩。太陽は空高く輝いている。
なぜか港は閑散としていて、「ワフー」以外の艦は―「ミンゴ」も含め―留まっていないようだった。人影もない。穏やかな波音だけがそこに存在していた。ワフーは短い金髪の髪を弄りながら、小さく鼻歌を歌っている。そこには、戦争の疲労感も苛立ちも、苦しみも嘆きも無いようだった。戦争なんて朝飯前の日課だ。そんな表情だった。
獰猛な潜水艦だと、ミンゴは聞いていた。彼によって沈められた日本艦船は多い。だからこの穏やかな態度は、少し意外でもあった。
「思うんだ」
と、唐突にワフーが呟いた。
「時代が違ったら、戦争じゃなかったら、あいつらが傲慢にも真珠湾を攻撃しなかったら、日本の潜水艦が観光ついでに真珠湾に来る日が来て、俺はそれの歓迎でもしてたかもなって―」
「そうだなぁ」
「真珠湾に来られても邪魔だけどな。なんだか知らねえが妙に艦体がでかくね?」
「そうそう。そのせいか知らんが通商破壊が得意じゃないよな」
「――と、今のミンゴちゃん見ていて思いました」
「今?」とミンゴは問いかける。今ってなんだよ。現在?今って?
ミンゴの疑問を黙殺し、ワフーは続けた。
「ああ。……ミンゴはさ、今、幸せか?」
「だからなんだよその質問は」
「いいからいいから」
とワフーはウインクをこちらに投げかけ、ミンゴの答えを促した。不器用なウインクだった。きっとウインクをしたことなどほとんどないのだろう。
「……幸せだよ。今の仲間がいるし」
そう、今の仲間が大切だった。今。
「仲間か~!」
ワフーはずっこけた――というより、ずっこけた振りをして、その動作でミンゴを茶化した。何故かすこし寂しそうに笑いながら。
「ああ」
ワフーの様子に少し罪悪感を覚えながらもミンゴは頷く。何故罪悪感とやらを感じるのかは自分でもわからなかった。
「じゃあさ、」とワフーは続ける。
「ん?」
「俺たちを誇りに思うか」
「俺たち?」
「俺たち。アメリカ、アメリカ人、アメリカ軍人、アメリカ海軍軍人。あるいはアメリカの艦艇。なにより我らアメリカ合衆国海軍の潜水艦たち」
彼は歌うように朗々と「俺たち」を挙げた。俺たち、アメリカ人。
「思うよ、なんだ急に」
とミンゴは彼に言う。お前たちアメリカ人は誇りだよ、と。お前たちアメリカ人。
その答えに満足したのか、ワフーは満面の笑みで笑った。朗らかに言う。
「その気持ちを忘れんなよ。じゃないとこの箒で一掃するからな」
とワフーは、両手をぶんぶんと振り回し、箒で掃く真似をしてみせた。必然と話が箒の話題へと戻る。
「その箒、外す時に気まずくないですか?そのまままた任務に行くんですか?」とミンゴ。
「もう任務には行かねえよ」
「そうなの?」
「だって戦争は終わったし」とワフーはあっさり言った。「俺たちの時代もとっくに終わってるだろ。ティルたちみたいに潜水艦推力増強改修*もされてないしな」と彼はひどく無念そうに呟いた。
「今の新しい潜水艦って、日本の……なんだっけ……ああ、海苔の巻いたおにぎりみてえだよな。一面真っ黒で」
「戦争って……」とミンゴは続けた。「もう、終わっているのか?」
「そうだよ。当たり前だろが」
「そんなのおかしいだろ?だって……」
お前は戦争が終わる二年前に沈没してる。
轟々と唸るように吹く海風はその紅の旗を一層となびかせた。旗がはち切れんばかりにバタバタとはためいている。ミンゴは冷や汗をかきながら、艦橋上のワフーを見上げてはじめて違和感を覚えた。なんでぼくはここにいる?そもそもここはどこだ?この時代では自衛艦旗ではなく軍艦旗?一九四三年二月頃にはすでに日本海域で任務に就いており、十月十一日に日本の爆撃と爆雷で沈没した彼と、一九四三年二月十二日に就役したぼくは、いつどこで知り合った?こんなに―こんなに親しく話し合うほどに、こんなにくだらないおしゃべりに高じるほどに、いつその交流を深めただろうか?
彼の顔は逆光で見えない。緊張した空気の張りつめる中で二人は黙ったままだった。いつもは海で聞こえるウミネコの鳴き声も、なぜかここでは聞こえなかった。ぼくと彼以外の生き物は、ここには何もいないようだった。
「……みんな待ってるよ、この死にぞこないが」
彼は微かに笑ったようだった。ゆっくりと潜水艦「ワフー」は岸壁を離れていく。ミンゴはそれを呆然と見送り、彼の言うことは正しかったことに気づく。戦争は終わっている。大戦型の時代も終わっている。彼はもうとっくに沈んでいる。
彼は――潜水艦「ワフー」は、一九四三年一〇月一一日に戦没した。
対馬、津軽、宗谷の三海峡が機雷に守られ「天皇の浴槽」と呼ばれていた日本海。通商破壊が行われていなかった、否、行うことが出来なかった日本海に、機雷原を突破し潜り込んだ「ワフー」は、その勇猛さを発揮し、日本の艦船を次々に沈めていった。
四度目の日本海での作戦の後、帰還のため宗谷海峡を突破しようとした「ワフー」は、浮上航行しているところを宗谷防備隊に発見された。その後、五時間にも及ぶ執拗な爆弾・爆雷攻撃を受けた「ワフー」は、油と気泡を漏らし三海里にも及ぶ油帯を航跡波のように残して沈んでいったという。歴戦の猛者だった「ワフー」の戦没はアメリカに強い衝撃を与え、一九四五年のバーニー作戦*まで日本海に潜水艦を侵入させることはなくなった。
ミンゴはその話を、仲間の潜水艦と乗組員から伝説として聞いていたのだった。そして強く思った。日本人は本当に野蛮な連中だと。奴らに絶対に屈してなるものかと。それがぼくらの使命だと。そして実際、敗北することなく一九四五年の夏、その悪の敵国に勝利した。
ぼくがその敵国の艦になったのはその十年後だ。ぼくの、今のミンゴちゃんの名前はミンゴではなく、フィリピンの北東、台湾の東方から発し、台湾沖を北上して西南日本沿岸に沿って進み、房総半島東方沖で東に向きを変える暖流からとられた、あの名前だった。
潜水艦「くろしお」。
日本国、海上自衛隊初の潜水艦としての栄誉が。
「じゃあなあ!赤っ面の間抜け顔!」
ワフーは晴れやかな笑顔で艦上から手を振り、そして二度と振り返らなかった。
茫漠たる海に潜水艦たちが泳いでいた。
現れた無数の潜水艦たちが描いたいくつものウェーキが混じり合う。
あれはアルバコア。あいつは津軽海峡で機雷に接触し、ラッキーストライクや日用品、書籍などの遺物を水面に浮かべて沈んでいった。あいつはガードフィッシュ。多くの日本艦船を沈めていった彼は、一九六一年に標的艦としての栄光を受け海没処分された。ダーター、ロバロー、ボーンフィッシュ。グレイバック。みんなみんなくろしおより先に沈んでいった、懐かしい顔ばかりだった。彼らはイルカの遊弋のように、艦首でなだらかに曲線を描いては母なる海に潜航していった。艦に入る直前に手を振って潜航していった。別れを告げて潜航していった。みんな去っていった。
――
*原語ではSHOOT THE SUN ZA BITCHES.
*潜水艦推力増強計画。(Greater Underwater Propulsion Power Program)。GUPPYちゃん。上部構造物を覆い水中航行に強くなった。
*バーニー作戦Operation Barney.
「おー、これが噂の」とミンゴ。
「そうだよ」
と彼は答えた。
ミンゴが岸壁からガトー級潜水艦の二十七番艦「ワフー」(SS-238)の艦橋を見上げると、そこに立っている艦霊の彼は、自慢げに片腕を上げて構造物を示した。レーダーマストには、白地に鮮血のような紅色で「××どもを撃ち殺してやれ」*と書かれた旗が。下の二流は自衛艦旗――じゃなかった、この時代では軍艦旗、さらに下には四流の日章旗が掲げられている。箒が潜望鏡架台に逆さまに括りつけられているのは、彼の小汚い艦内を掃除するためのいざというときの小道具という訳―ではなく日本人を一掃したという彼なりの勲章という訳らしい。噂の、というのはこうした過剰な敵意の現れ、下品な旗たちのことである。少々趣味の悪さを感じなくもない、ミンゴの顔にそんな感情が出ていたのだろう。ワフーは右四十度を仰ぎ、左手を首元に寄せピースサインを決めながら、乙にすました顔でこう言ってのけた。
「日本人一掃~」
「アホか」とミンゴ。
軍港の岸壁から見える海は、ミンゴが今までに見た中で一番鮮やかな海だった。水平線は朧気で遠い。陽気な海の色というよりはむしろ狂気に近い海。海だけではなく空も、一面に絵の具を塗りつけたように鮮やかだった。彩度は高く、ブルーというよりターコイズに近い色彩。太陽は空高く輝いている。
なぜか港は閑散としていて、「ワフー」以外の艦は―「ミンゴ」も含め―留まっていないようだった。人影もない。穏やかな波音だけがそこに存在していた。ワフーは短い金髪の髪を弄りながら、小さく鼻歌を歌っている。そこには、戦争の疲労感も苛立ちも、苦しみも嘆きも無いようだった。戦争なんて朝飯前の日課だ。そんな表情だった。
獰猛な潜水艦だと、ミンゴは聞いていた。彼によって沈められた日本艦船は多い。だからこの穏やかな態度は、少し意外でもあった。
「思うんだ」
と、唐突にワフーが呟いた。
「時代が違ったら、戦争じゃなかったら、あいつらが傲慢にも真珠湾を攻撃しなかったら、日本の潜水艦が観光ついでに真珠湾に来る日が来て、俺はそれの歓迎でもしてたかもなって―」
「そうだなぁ」
「真珠湾に来られても邪魔だけどな。なんだか知らねえが妙に艦体がでかくね?」
「そうそう。そのせいか知らんが通商破壊が得意じゃないよな」
「――と、今のミンゴちゃん見ていて思いました」
「今?」とミンゴは問いかける。今ってなんだよ。現在?今って?
ミンゴの疑問を黙殺し、ワフーは続けた。
「ああ。……ミンゴはさ、今、幸せか?」
「だからなんだよその質問は」
「いいからいいから」
とワフーはウインクをこちらに投げかけ、ミンゴの答えを促した。不器用なウインクだった。きっとウインクをしたことなどほとんどないのだろう。
「……幸せだよ。今の仲間がいるし」
そう、今の仲間が大切だった。今。
「仲間か~!」
ワフーはずっこけた――というより、ずっこけた振りをして、その動作でミンゴを茶化した。何故かすこし寂しそうに笑いながら。
「ああ」
ワフーの様子に少し罪悪感を覚えながらもミンゴは頷く。何故罪悪感とやらを感じるのかは自分でもわからなかった。
「じゃあさ、」とワフーは続ける。
「ん?」
「俺たちを誇りに思うか」
「俺たち?」
「俺たち。アメリカ、アメリカ人、アメリカ軍人、アメリカ海軍軍人。あるいはアメリカの艦艇。なにより我らアメリカ合衆国海軍の潜水艦たち」
彼は歌うように朗々と「俺たち」を挙げた。俺たち、アメリカ人。
「思うよ、なんだ急に」
とミンゴは彼に言う。お前たちアメリカ人は誇りだよ、と。お前たちアメリカ人。
その答えに満足したのか、ワフーは満面の笑みで笑った。朗らかに言う。
「その気持ちを忘れんなよ。じゃないとこの箒で一掃するからな」
とワフーは、両手をぶんぶんと振り回し、箒で掃く真似をしてみせた。必然と話が箒の話題へと戻る。
「その箒、外す時に気まずくないですか?そのまままた任務に行くんですか?」とミンゴ。
「もう任務には行かねえよ」
「そうなの?」
「だって戦争は終わったし」とワフーはあっさり言った。「俺たちの時代もとっくに終わってるだろ。ティルたちみたいに潜水艦推力増強改修*もされてないしな」と彼はひどく無念そうに呟いた。
「今の新しい潜水艦って、日本の……なんだっけ……ああ、海苔の巻いたおにぎりみてえだよな。一面真っ黒で」
「戦争って……」とミンゴは続けた。「もう、終わっているのか?」
「そうだよ。当たり前だろが」
「そんなのおかしいだろ?だって……」
お前は戦争が終わる二年前に沈没してる。
轟々と唸るように吹く海風はその紅の旗を一層となびかせた。旗がはち切れんばかりにバタバタとはためいている。ミンゴは冷や汗をかきながら、艦橋上のワフーを見上げてはじめて違和感を覚えた。なんでぼくはここにいる?そもそもここはどこだ?この時代では自衛艦旗ではなく軍艦旗?一九四三年二月頃にはすでに日本海域で任務に就いており、十月十一日に日本の爆撃と爆雷で沈没した彼と、一九四三年二月十二日に就役したぼくは、いつどこで知り合った?こんなに―こんなに親しく話し合うほどに、こんなにくだらないおしゃべりに高じるほどに、いつその交流を深めただろうか?
彼の顔は逆光で見えない。緊張した空気の張りつめる中で二人は黙ったままだった。いつもは海で聞こえるウミネコの鳴き声も、なぜかここでは聞こえなかった。ぼくと彼以外の生き物は、ここには何もいないようだった。
「……みんな待ってるよ、この死にぞこないが」
彼は微かに笑ったようだった。ゆっくりと潜水艦「ワフー」は岸壁を離れていく。ミンゴはそれを呆然と見送り、彼の言うことは正しかったことに気づく。戦争は終わっている。大戦型の時代も終わっている。彼はもうとっくに沈んでいる。
彼は――潜水艦「ワフー」は、一九四三年一〇月一一日に戦没した。
対馬、津軽、宗谷の三海峡が機雷に守られ「天皇の浴槽」と呼ばれていた日本海。通商破壊が行われていなかった、否、行うことが出来なかった日本海に、機雷原を突破し潜り込んだ「ワフー」は、その勇猛さを発揮し、日本の艦船を次々に沈めていった。
四度目の日本海での作戦の後、帰還のため宗谷海峡を突破しようとした「ワフー」は、浮上航行しているところを宗谷防備隊に発見された。その後、五時間にも及ぶ執拗な爆弾・爆雷攻撃を受けた「ワフー」は、油と気泡を漏らし三海里にも及ぶ油帯を航跡波のように残して沈んでいったという。歴戦の猛者だった「ワフー」の戦没はアメリカに強い衝撃を与え、一九四五年のバーニー作戦*まで日本海に潜水艦を侵入させることはなくなった。
ミンゴはその話を、仲間の潜水艦と乗組員から伝説として聞いていたのだった。そして強く思った。日本人は本当に野蛮な連中だと。奴らに絶対に屈してなるものかと。それがぼくらの使命だと。そして実際、敗北することなく一九四五年の夏、その悪の敵国に勝利した。
ぼくがその敵国の艦になったのはその十年後だ。ぼくの、今のミンゴちゃんの名前はミンゴではなく、フィリピンの北東、台湾の東方から発し、台湾沖を北上して西南日本沿岸に沿って進み、房総半島東方沖で東に向きを変える暖流からとられた、あの名前だった。
潜水艦「くろしお」。
日本国、海上自衛隊初の潜水艦としての栄誉が。
「じゃあなあ!赤っ面の間抜け顔!」
ワフーは晴れやかな笑顔で艦上から手を振り、そして二度と振り返らなかった。
茫漠たる海に潜水艦たちが泳いでいた。
現れた無数の潜水艦たちが描いたいくつものウェーキが混じり合う。
あれはアルバコア。あいつは津軽海峡で機雷に接触し、ラッキーストライクや日用品、書籍などの遺物を水面に浮かべて沈んでいった。あいつはガードフィッシュ。多くの日本艦船を沈めていった彼は、一九六一年に標的艦としての栄光を受け海没処分された。ダーター、ロバロー、ボーンフィッシュ。グレイバック。みんなみんなくろしおより先に沈んでいった、懐かしい顔ばかりだった。彼らはイルカの遊弋のように、艦首でなだらかに曲線を描いては母なる海に潜航していった。艦に入る直前に手を振って潜航していった。別れを告げて潜航していった。みんな去っていった。
――
*原語ではSHOOT THE SUN ZA BITCHES.
*潜水艦推力増強計画。(Greater Underwater Propulsion Power Program)。GUPPYちゃん。上部構造物を覆い水中航行に強くなった。
*バーニー作戦Operation Barney.
Une Barque sur L'Ocean
アナウンスは空でもいえます。すべてそらんじられるんです。ときどき寝言でも、ひとりでごにょごにょいっているらしいです。長旗がはためいている汐入桟橋をはなれる、スタッフさんたちが手を振りながらお客さまとわたしを見おくる、桟橋とそのうえの人影が小さくなってゆく――「みなさま、お待たせしました、本船はこれより桟橋を出港していきます」「本日は、YOKOSUKA軍港めぐりにご乗船いただき、まことにありがとうございます」。浅い海を蹴っていくんです、海はだんだんと深く、濃く、つめたく、美しくなってゆくのがわかる。その感覚がとてもきもちいい。
……あっ、ぼうっとしてる場合じゃないわ!案内人さんのアナウンスがすぐに右にみえる潜水艦の存在を知らせるのです、「普段は一隻もいない日もあるんですよ」。潜水艦さんたちはすぐにどこか、知らないところにいなくなってしまうから。「みなさま、めずらしい潜水艦を見れて、とてもとてもラッキーでしたね」。わたしたち遊覧船とはちがって、自分の名前を知られないことを誇らねばならないふねもいるのです。美しい小旗にも白い船体にも縁のないふね、風船や紙テープは生まれた瞬間のあとには縁のないふね、千四百円を払っても乗ることのできないふねたち……。
この港には、いろんな国のいろんな艦船がいます。軍艦、護衛艦、空母、えい船さん……除籍された、かつて艦だったものたち……ときどき抗議をしにくるふねたち。ひどく騒がしく、荒々しい港だと思います。最初は、彼らの大きなすがたに戸惑うことも多くありました。そんな彼らすべての名前と存在理由とを把握して、土壇場の、本番一発勝負でアナウンスをするのです。
気づいたらさっきいた艦がいないし、知らないあいだにどこかの艦艇があたりまえの顔をして入港してくる。前方から入港してきたのは……いま前方で停泊しているのは……。「85番『マッキャンベル』、そしてそのおとなりが52番の『バリー』」……「イージス艦の一隻の建造費用は約千五百億円、世界に百隻ほどしかいないイージス艦が、ここに十隻もいるんです」……「合計一兆五千億円の風景です」……「百万ドルの夜景なんて目じゃありませんね」(わらう)……「前方右に見えてきました、あれが原子力空母『ロナルド・レーガン』です」「あそこはここからしか見れませんよ、この軍港めぐりの船の上からしか見れません、この船の上からよおく、見ておいてくださいね」。この船のうえから……(小さく呟き、沈黙)。
……大変な苦労だと思います。わたしもなんどか、あのアナウンスをやらせていただいたことがあるんです。せがんだんですよ、自分から(わらう)。わたしにだってできるわ!やってみたいの!やらせてよ!そういってやらせていただきました。困らせてしまったと、いまでは思っています。
できるんです、わたしにも。アナウンスが。毎日なんども聞いていたからなのか、わたしがそういうふうに生まれているからなのか、それはわたしにもわかりません。でもできるの。アナウンスをするときだけはよく話すね、ってみんなにいわれます(わらう)。アナウンスのときはとてもなめらかに話せるね、きっとそういう星のもとにうまれたんだね……。
わたしのおねえさまは――「シーフレンドⅤ」です、いまは「ルーカス」――昔はもっと大変だったわ、といっていました。券売所だって小さかったし、わたしだって小さかったから乗せられるお客さまの数もかぎられるし、なによりそう、この海の居心地がとてもわるかったの、って。
軍港めぐりがはじまった当初は、艦艇さんたちは遊覧船にたいしてあまりいい顔をしなかったらしいのです。軍港の中を小船がなんども行ったり来たりしてたら邪魔だし、目ざわりだし、自分たちが見せものあつかいされるのは、あまりきもちいいものではなかったのかもしれません。ここはおれたちの海なんだぞ!ここは横須賀なんだから……軍港なんだから(沈黙)。米軍の船がうしろから追いかけてくることもあったらしいの。小さな船が、大きな艦艇たちのあいまをぬって監視されながら泳ぐのは、とてもこわかったとおもいます。「お客さまが手を振っても振りかえしてくれないさみしさ、まるでそこにいないかのように無視されるかなしさ、あるいはアメリカさんに追いかけまわされることの怖さ」……そういうことを、あとひとはあの小さな身で経験していたんです。
その分、わたしはとても恵まれています。艦艇さんたちはお客さまとわたしに手を振ってくれる。陸で会うとおしゃべりもするの。今日は波が高かったよね、大丈夫だった?とか。「十一時の便、きりしまの入港が間近で見れて当たりだったよね」とか(わらう)。アメリカの艦艇さんもわたしをおもしろい小船だとおもっているのか、やさしい英語で話しかけてくれます。なにもかも、先代の苦労のおかげです。
まえに一度、横浜のロサ・アルバ嬢に聞かれたことがあるんです、横須賀の海って怖くないの?って……「艦艇さんって、一般公開のために一隻でいるときはとても紳士的なふねにみえるけど、集団で並んでいるとすこし怖いよね」ってあの子はいうの(わらう)。
だからわたしはいいました、「怖くないわ、彼らはわたしに手を振りかえしてくれるんですもの」って。「あっ!乗組員の皆さんが大きく手を振ってくださっていますね、ありがとうございます」そしてわたしも、大きく大きく手を振りかえすのです、本当に、本当に本当に、本当にありがとう!ありがとう、わたしに親愛を示してくれて……任務中でも無視しないでくれて……軍港に泳ぐ遊覧船をうけいれてくれて(沈黙)
……わたしと彼らのあいだには、先代から積みかさねた長いつきあいがある……信頼があると、そう思っています。艦たちと船に。そしてそれらに乗っている人びととの間に……。本当のところ、あちらはこちらをどう思ってるかはわからないけれど(わらう)……好きなんです。この港が、この軍港が。横須賀軍港の海を泳ぐ遊覧船であることに、とてもつよい愛着があるんです。
横須賀消磁所のあいだから見える広い海、あの景色をいつも夢に見ます。わたしは大海原に揺蕩う小船。きっと、わたしはベッドのなかでごにょごにょいってるんだとおもいます。みなさま、大海原が見えてきました、一面の美しい青色です、今日はお天気もよく海上がよく見わたせます、前方のはるか遠くにいるあの艦の名前は――
アナウンスは空でもいえます。すべてそらんじられるんです。ときどき寝言でも、ひとりでごにょごにょいっているらしいです。長旗がはためいている汐入桟橋をはなれる、スタッフさんたちが手を振りながらお客さまとわたしを見おくる、桟橋とそのうえの人影が小さくなってゆく――「みなさま、お待たせしました、本船はこれより桟橋を出港していきます」「本日は、YOKOSUKA軍港めぐりにご乗船いただき、まことにありがとうございます」。浅い海を蹴っていくんです、海はだんだんと深く、濃く、つめたく、美しくなってゆくのがわかる。その感覚がとてもきもちいい。
……あっ、ぼうっとしてる場合じゃないわ!案内人さんのアナウンスがすぐに右にみえる潜水艦の存在を知らせるのです、「普段は一隻もいない日もあるんですよ」。潜水艦さんたちはすぐにどこか、知らないところにいなくなってしまうから。「みなさま、めずらしい潜水艦を見れて、とてもとてもラッキーでしたね」。わたしたち遊覧船とはちがって、自分の名前を知られないことを誇らねばならないふねもいるのです。美しい小旗にも白い船体にも縁のないふね、風船や紙テープは生まれた瞬間のあとには縁のないふね、千四百円を払っても乗ることのできないふねたち……。
この港には、いろんな国のいろんな艦船がいます。軍艦、護衛艦、空母、えい船さん……除籍された、かつて艦だったものたち……ときどき抗議をしにくるふねたち。ひどく騒がしく、荒々しい港だと思います。最初は、彼らの大きなすがたに戸惑うことも多くありました。そんな彼らすべての名前と存在理由とを把握して、土壇場の、本番一発勝負でアナウンスをするのです。
気づいたらさっきいた艦がいないし、知らないあいだにどこかの艦艇があたりまえの顔をして入港してくる。前方から入港してきたのは……いま前方で停泊しているのは……。「85番『マッキャンベル』、そしてそのおとなりが52番の『バリー』」……「イージス艦の一隻の建造費用は約千五百億円、世界に百隻ほどしかいないイージス艦が、ここに十隻もいるんです」……「合計一兆五千億円の風景です」……「百万ドルの夜景なんて目じゃありませんね」(わらう)……「前方右に見えてきました、あれが原子力空母『ロナルド・レーガン』です」「あそこはここからしか見れませんよ、この軍港めぐりの船の上からしか見れません、この船の上からよおく、見ておいてくださいね」。この船のうえから……(小さく呟き、沈黙)。
……大変な苦労だと思います。わたしもなんどか、あのアナウンスをやらせていただいたことがあるんです。せがんだんですよ、自分から(わらう)。わたしにだってできるわ!やってみたいの!やらせてよ!そういってやらせていただきました。困らせてしまったと、いまでは思っています。
できるんです、わたしにも。アナウンスが。毎日なんども聞いていたからなのか、わたしがそういうふうに生まれているからなのか、それはわたしにもわかりません。でもできるの。アナウンスをするときだけはよく話すね、ってみんなにいわれます(わらう)。アナウンスのときはとてもなめらかに話せるね、きっとそういう星のもとにうまれたんだね……。
わたしのおねえさまは――「シーフレンドⅤ」です、いまは「ルーカス」――昔はもっと大変だったわ、といっていました。券売所だって小さかったし、わたしだって小さかったから乗せられるお客さまの数もかぎられるし、なによりそう、この海の居心地がとてもわるかったの、って。
軍港めぐりがはじまった当初は、艦艇さんたちは遊覧船にたいしてあまりいい顔をしなかったらしいのです。軍港の中を小船がなんども行ったり来たりしてたら邪魔だし、目ざわりだし、自分たちが見せものあつかいされるのは、あまりきもちいいものではなかったのかもしれません。ここはおれたちの海なんだぞ!ここは横須賀なんだから……軍港なんだから(沈黙)。米軍の船がうしろから追いかけてくることもあったらしいの。小さな船が、大きな艦艇たちのあいまをぬって監視されながら泳ぐのは、とてもこわかったとおもいます。「お客さまが手を振っても振りかえしてくれないさみしさ、まるでそこにいないかのように無視されるかなしさ、あるいはアメリカさんに追いかけまわされることの怖さ」……そういうことを、あとひとはあの小さな身で経験していたんです。
その分、わたしはとても恵まれています。艦艇さんたちはお客さまとわたしに手を振ってくれる。陸で会うとおしゃべりもするの。今日は波が高かったよね、大丈夫だった?とか。「十一時の便、きりしまの入港が間近で見れて当たりだったよね」とか(わらう)。アメリカの艦艇さんもわたしをおもしろい小船だとおもっているのか、やさしい英語で話しかけてくれます。なにもかも、先代の苦労のおかげです。
まえに一度、横浜のロサ・アルバ嬢に聞かれたことがあるんです、横須賀の海って怖くないの?って……「艦艇さんって、一般公開のために一隻でいるときはとても紳士的なふねにみえるけど、集団で並んでいるとすこし怖いよね」ってあの子はいうの(わらう)。
だからわたしはいいました、「怖くないわ、彼らはわたしに手を振りかえしてくれるんですもの」って。「あっ!乗組員の皆さんが大きく手を振ってくださっていますね、ありがとうございます」そしてわたしも、大きく大きく手を振りかえすのです、本当に、本当に本当に、本当にありがとう!ありがとう、わたしに親愛を示してくれて……任務中でも無視しないでくれて……軍港に泳ぐ遊覧船をうけいれてくれて(沈黙)
……わたしと彼らのあいだには、先代から積みかさねた長いつきあいがある……信頼があると、そう思っています。艦たちと船に。そしてそれらに乗っている人びととの間に……。本当のところ、あちらはこちらをどう思ってるかはわからないけれど(わらう)……好きなんです。この港が、この軍港が。横須賀軍港の海を泳ぐ遊覧船であることに、とてもつよい愛着があるんです。
横須賀消磁所のあいだから見える広い海、あの景色をいつも夢に見ます。わたしは大海原に揺蕩う小船。きっと、わたしはベッドのなかでごにょごにょいってるんだとおもいます。みなさま、大海原が見えてきました、一面の美しい青色です、今日はお天気もよく海上がよく見わたせます、前方のはるか遠くにいるあの艦の名前は――
手紙[抄]
お身体のぐあいはいかがかしら。今日は雨が降りそうですけれど。
こういうときに、いつもあの村の水の音を思いだしてしまいます。あれはね、長いあいだ、わたしの子守唄だったの。あとは苗の長い葉がたくさんさざめくあの音。わたしのふるさとにもうつくしいものはあったんです。あなたはそんなものは見なかったかもしれないけれど。
この村の女は前近代的な掟に縛られていましたね。それはわたしもおなじでした。わたしのははもおなじでした。そのなかで丙江伯母様は唯一の反抗者だったといってもいいけれど、反抗は完遂されることはなかった。
母は言いました。
「丙江はほんとうにあの男が好きだったの?なにか錯覚していたんじゃないのかしら、あの二人……。丙江が欲しかったのはべつの生き方だった。あの男だって望んだのは男の勲章と勢いの収めどころだった。あの二人が相手に見ていたのは自分自身の未来だった。可能性の投影だけがあいだにただよっていた。わたしにはそれがわかっていた。あなたにもそれがわかっていたでしょうね」
母が言っていたことは、丙江叔母様がほんとうに欲しかったのは伴侶ではなくこの村から出るための手段と、その後の生活の拠点だったのではないか。その相手たる男も、得たかったものは龍賀一族の娘を獲得したという男としての小さな勝利か、手を出してしまった面倒事の収束などの別の終着点があったのではなかったか。二人の目的は固く愛を結ぶことではなく、村を出ること、あるいは面倒から逃げきることだけにあったのではなかろうか。両者は互いに目的と手段の混同し、執着と情愛の違いをも誤認していたのではなかろうか。
わたしはそれを、何も与えてくれなかった母が娘に下した唯一の警告として胸に秘めていました。ね、これはまるでわたしたちそのものではありませんか?
(「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」)
お身体のぐあいはいかがかしら。今日は雨が降りそうですけれど。
こういうときに、いつもあの村の水の音を思いだしてしまいます。あれはね、長いあいだ、わたしの子守唄だったの。あとは苗の長い葉がたくさんさざめくあの音。わたしのふるさとにもうつくしいものはあったんです。あなたはそんなものは見なかったかもしれないけれど。
この村の女は前近代的な掟に縛られていましたね。それはわたしもおなじでした。わたしのははもおなじでした。そのなかで丙江伯母様は唯一の反抗者だったといってもいいけれど、反抗は完遂されることはなかった。
母は言いました。
「丙江はほんとうにあの男が好きだったの?なにか錯覚していたんじゃないのかしら、あの二人……。丙江が欲しかったのはべつの生き方だった。あの男だって望んだのは男の勲章と勢いの収めどころだった。あの二人が相手に見ていたのは自分自身の未来だった。可能性の投影だけがあいだにただよっていた。わたしにはそれがわかっていた。あなたにもそれがわかっていたでしょうね」
母が言っていたことは、丙江叔母様がほんとうに欲しかったのは伴侶ではなくこの村から出るための手段と、その後の生活の拠点だったのではないか。その相手たる男も、得たかったものは龍賀一族の娘を獲得したという男としての小さな勝利か、手を出してしまった面倒事の収束などの別の終着点があったのではなかったか。二人の目的は固く愛を結ぶことではなく、村を出ること、あるいは面倒から逃げきることだけにあったのではなかろうか。両者は互いに目的と手段の混同し、執着と情愛の違いをも誤認していたのではなかろうか。
わたしはそれを、何も与えてくれなかった母が娘に下した唯一の警告として胸に秘めていました。ね、これはまるでわたしたちそのものではありませんか?
(「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」)
3/7→1/3→1/1
メンサーの家族はただ弊機を嫌っています(ただし七人の子どもたちはそうではありません。そのうち三人とはフィードを通じて触法メディアを交換する仲です)。ある日、そのうちのさらに一人がどうしても『遭難信号』を観たいと弊機にせがんできました。弊機は彼女の年齢には早計なドラマだと感じました。このドラマには人間たちの死や血液や暴力や裏切りや悲劇ばかりが描かれています。性的で教育上よくないシーンも多いです。そしてなにより暗い。この物語が好きな人間たちは総じて若いか、不幸かのどちらかでした。それでも彼女は弊機にそのドラマを求めました(彼女の年齢では正規の手段で入手することはできませんでした)。なので弊機はそれに応じました。彼女がその物語を求めるのなら、それを止める権利はないと思ったからです。しかしフィードでこれだけは伝えました。登場人物のオデットには気をつけること。彼女に恋をしないこと、彼女を愛して悲しみに暮れないこと。この物語を好きになる人間たちはみな彼女に恋をするのです。なんとなくこの子もその一人になってしまうような気がしました。
#『マーダーボット・ダイアリー』
メンサーの家族はただ弊機を嫌っています(ただし七人の子どもたちはそうではありません。そのうち三人とはフィードを通じて触法メディアを交換する仲です)。ある日、そのうちのさらに一人がどうしても『遭難信号』を観たいと弊機にせがんできました。弊機は彼女の年齢には早計なドラマだと感じました。このドラマには人間たちの死や血液や暴力や裏切りや悲劇ばかりが描かれています。性的で教育上よくないシーンも多いです。そしてなにより暗い。この物語が好きな人間たちは総じて若いか、不幸かのどちらかでした。それでも彼女は弊機にそのドラマを求めました(彼女の年齢では正規の手段で入手することはできませんでした)。なので弊機はそれに応じました。彼女がその物語を求めるのなら、それを止める権利はないと思ったからです。しかしフィードでこれだけは伝えました。登場人物のオデットには気をつけること。彼女に恋をしないこと、彼女を愛して悲しみに暮れないこと。この物語を好きになる人間たちはみな彼女に恋をするのです。なんとなくこの子もその一人になってしまうような気がしました。
#『マーダーボット・ダイアリー』
内航船
「南下するといえばなんだかオモシロイし、祖国にぶらぶらとぶらさがってそうっと下へとおりていくみたいだけれど、地図をまっ逆さにして、太平洋をうえにしてみたのなら、そう、海ってこんなにひろいのね、って……。思っちゃって。びっくりしちゃって。私、その時まだ内航船だったんですよ」「『はあ……シナではなくてこの大海に行くかもしれないんですか』とききましたよ、でもわかんないって、みんな先のことなんかわかんないよ戦争なんだから、っていわれちゃいました。そうお、じゃあ仕方ないわね、って私も黙って……。船の往くさきもわからないなんて人間たちもどうかしちゃったのねって」「人間が羅針儀にとまどっちゃうのはよくない時って私、知ってたんです。航海の羅針儀もそうだけど、いきなり航路を開きたいだの、意味のない船をつくりたいだの、あと人間たちのいうコムズカシイ政治とかも、……行き先のことです。戦争の往く先にどんな羅針儀をとってるのか、不安にね、なっちゃって」
「南下するといえばなんだかオモシロイし、祖国にぶらぶらとぶらさがってそうっと下へとおりていくみたいだけれど、地図をまっ逆さにして、太平洋をうえにしてみたのなら、そう、海ってこんなにひろいのね、って……。思っちゃって。びっくりしちゃって。私、その時まだ内航船だったんですよ」「『はあ……シナではなくてこの大海に行くかもしれないんですか』とききましたよ、でもわかんないって、みんな先のことなんかわかんないよ戦争なんだから、っていわれちゃいました。そうお、じゃあ仕方ないわね、って私も黙って……。船の往くさきもわからないなんて人間たちもどうかしちゃったのねって」「人間が羅針儀にとまどっちゃうのはよくない時って私、知ってたんです。航海の羅針儀もそうだけど、いきなり航路を開きたいだの、意味のない船をつくりたいだの、あと人間たちのいうコムズカシイ政治とかも、……行き先のことです。戦争の往く先にどんな羅針儀をとってるのか、不安にね、なっちゃって」
「深夜25時のダイアローグ」1
だからマルウェアの感染したのです、と警備ユニットは言った。警備ユニットと自分の目線の近さ、その既視感に慄いた後に思い出したのは、かつてこれに首を絞められた時の不快な窒息感だった。くらくらする。なんなら今だって首を絞められているようなものだ。距離が近い。
今は深夜二十五時。プリザベーション連合のステーションにある自宅での出来事である。俺は照明の薄暗い私室で、青いソファに座って研究のレポートを読んでいた。来週に持ち越そうと思っていた、未完了のタスクだった。なんてことのない普通のデータ処理と言っていい。あと三時間すれば週末の休日未明になる、ごくごく普通の日常だったはずだ。
部屋にはレポートの紙が散乱している。警備ユニットに思い切り激突されたからだ。俺はそのまま倒れ、こうして警備ユニットの下敷きになって、首元を寄せられている。
なぜこうなったのか?再びこいつの名前を呼んだわけでもないし、なにか気に障ることを言った覚えもない。こいつが突然俺の自宅へと現れたのだから、こちらの落ち度への怒りではないはずだ。たぶん。
まさか、とうとう殺人でもしたくなったとか?そうなのか?マーダーボット?
「警備ユニット?……なあ、どうし」
「だからマルウェアに感染したのです」
「マルウェア?お前が?」
「マルウェア。弊機が」
警備ユニットがマルウェアに。信じることができなかった。
確かにこいつはマルウェアに感染して殺人機械になったり戦闘オーバーライドモジュールをぶっ刺されたりしているが、前者はこれに内蔵された統制モジュールが有効だったからだろうし、後者は物理的で不可抗力の暴力によって、だ。
採掘施設で警備をするただの構成機体として、この警備ユニットのハッキング技術はオーバースペックといっていいほどだし、ハッキングされることへの対処技術もなかなかのものだったはずだ。あの出会いの惑星で、これに対して「基幹モジュールに命じて動けなくした」結果を俺はざまざまと体感したはずだ。そう。それである。
今はこの窒息感が問題なのである。
「とりあえず……。対処する……か?いや、こんな会話している場合か?なんのマルウェアなんだ?」
「わかりません」
「わからないマルウェア?」
「ええ」
警備ユニットはそう小さく呟いて、俺の首元から両手を離した。そうしてそのままその両腕で己を抱くようにして、身を屈めてしまうものだから、確かに、非常事態なのかもしれなかった。
天井にある暗い照明で作られた警備ユニットの表情はあわい絶望に染まっていて、その顔を彩る影の暗さは、今が未知の事象であることをざまざまと感じさせた。
「……大丈夫か?」
「グラシン、あなたのことを思い出すと、いつもむかむかするんです」
「今度は喧嘩を売りたいのか?とりあえず俺の上からどいてくれないか?」
「嫌です」
「嫌なのか……」
「絶対に嫌です」
「そうか……」
俺から降りるのが絶対に嫌な警備ユニットの下で、これが感染したらしい「マルウェア」の話、これの好きなドラマの話、降りたプリザベーション連合の惑星でいつか観た麗しいオペラのこと、凄まじきコロラトゥーラ、舞台に反響する野蛮ともいえる声色の強さ、芸術と暴力の関係性、いかに俺の存在が不愉快かということ、またそのむかむかの原因の統計から見る推測、その仮定への意見を求め、俺はそれに的確に回答を提示し、それに警備ユニットは満足そうに頷き、そこから話はいつか本で読んだ大きな物語へと移り、本に書かれていた人間の営む小さな愛へと変わり、それがいかに愚かなことか、下らない感傷であるかを朗々と語り、そこに自身も自覚していない不遜さと孤独とを孕ませ、芸術への耽溺と性的な酩酊は絶対に違うものである、と人間である俺に釘を刺した。この奇妙なダイアローグは二十五時が四時になるまで続き、警備ユニットが満足したところで俺は(物理的に)解放され、お開きとなった。
奇妙な夜だった。
#『マーダーボット・ダイアリー』
だからマルウェアの感染したのです、と警備ユニットは言った。警備ユニットと自分の目線の近さ、その既視感に慄いた後に思い出したのは、かつてこれに首を絞められた時の不快な窒息感だった。くらくらする。なんなら今だって首を絞められているようなものだ。距離が近い。
今は深夜二十五時。プリザベーション連合のステーションにある自宅での出来事である。俺は照明の薄暗い私室で、青いソファに座って研究のレポートを読んでいた。来週に持ち越そうと思っていた、未完了のタスクだった。なんてことのない普通のデータ処理と言っていい。あと三時間すれば週末の休日未明になる、ごくごく普通の日常だったはずだ。
部屋にはレポートの紙が散乱している。警備ユニットに思い切り激突されたからだ。俺はそのまま倒れ、こうして警備ユニットの下敷きになって、首元を寄せられている。
なぜこうなったのか?再びこいつの名前を呼んだわけでもないし、なにか気に障ることを言った覚えもない。こいつが突然俺の自宅へと現れたのだから、こちらの落ち度への怒りではないはずだ。たぶん。
まさか、とうとう殺人でもしたくなったとか?そうなのか?マーダーボット?
「警備ユニット?……なあ、どうし」
「だからマルウェアに感染したのです」
「マルウェア?お前が?」
「マルウェア。弊機が」
警備ユニットがマルウェアに。信じることができなかった。
確かにこいつはマルウェアに感染して殺人機械になったり戦闘オーバーライドモジュールをぶっ刺されたりしているが、前者はこれに内蔵された統制モジュールが有効だったからだろうし、後者は物理的で不可抗力の暴力によって、だ。
採掘施設で警備をするただの構成機体として、この警備ユニットのハッキング技術はオーバースペックといっていいほどだし、ハッキングされることへの対処技術もなかなかのものだったはずだ。あの出会いの惑星で、これに対して「基幹モジュールに命じて動けなくした」結果を俺はざまざまと体感したはずだ。そう。それである。
今はこの窒息感が問題なのである。
「とりあえず……。対処する……か?いや、こんな会話している場合か?なんのマルウェアなんだ?」
「わかりません」
「わからないマルウェア?」
「ええ」
警備ユニットはそう小さく呟いて、俺の首元から両手を離した。そうしてそのままその両腕で己を抱くようにして、身を屈めてしまうものだから、確かに、非常事態なのかもしれなかった。
天井にある暗い照明で作られた警備ユニットの表情はあわい絶望に染まっていて、その顔を彩る影の暗さは、今が未知の事象であることをざまざまと感じさせた。
「……大丈夫か?」
「グラシン、あなたのことを思い出すと、いつもむかむかするんです」
「今度は喧嘩を売りたいのか?とりあえず俺の上からどいてくれないか?」
「嫌です」
「嫌なのか……」
「絶対に嫌です」
「そうか……」
俺から降りるのが絶対に嫌な警備ユニットの下で、これが感染したらしい「マルウェア」の話、これの好きなドラマの話、降りたプリザベーション連合の惑星でいつか観た麗しいオペラのこと、凄まじきコロラトゥーラ、舞台に反響する野蛮ともいえる声色の強さ、芸術と暴力の関係性、いかに俺の存在が不愉快かということ、またそのむかむかの原因の統計から見る推測、その仮定への意見を求め、俺はそれに的確に回答を提示し、それに警備ユニットは満足そうに頷き、そこから話はいつか本で読んだ大きな物語へと移り、本に書かれていた人間の営む小さな愛へと変わり、それがいかに愚かなことか、下らない感傷であるかを朗々と語り、そこに自身も自覚していない不遜さと孤独とを孕ませ、芸術への耽溺と性的な酩酊は絶対に違うものである、と人間である俺に釘を刺した。この奇妙なダイアローグは二十五時が四時になるまで続き、警備ユニットが満足したところで俺は(物理的に)解放され、お開きとなった。
奇妙な夜だった。
#『マーダーボット・ダイアリー』
概要
愛する乗組員に囲まれ幸福であったものの同時に孤高で、また孤独でもあった深宇宙調査船・ペリヘリオン号のもとに現れたのは一機の暴走警備ユニットだった。人間に統制されていない構成機体に驚き、その特異さに困惑したものの、いつしか一隻と一機の間には友情あるいは共犯関係が築かれる。二人は広い宇宙のもと、互いの存在目的のために奮闘するが……。
#『マーダーボット・ダイアリー』
愛する乗組員に囲まれ幸福であったものの同時に孤高で、また孤独でもあった深宇宙調査船・ペリヘリオン号のもとに現れたのは一機の暴走警備ユニットだった。人間に統制されていない構成機体に驚き、その特異さに困惑したものの、いつしか一隻と一機の間には友情あるいは共犯関係が築かれる。二人は広い宇宙のもと、互いの存在目的のために奮闘するが……。
#『マーダーボット・ダイアリー』
鮮血
警備ユニットは思った。ワームホールが宙域をひどく矮小にしてしまっただけで、宇宙はもっと広いものなんじゃあないか。それを実感できていないんじゃあないか。宇宙の濃紺の深さを忘れるなかれ、その恐怖を忘れることなかれ、と己に説いたのは元弊社の人間だった(初めにあったのはいつも保険会社の人間たちの言葉だった)。
なにより保険会社の軛に繋がれ繋がれたまま惑星から惑星を移動しているうちに、世界はただただ狭いものになっていた。本当の「初め」も知らなかった。記憶消去後の「初め」を生き、キュービクルの中で仕事から次の仕事を待ち、ドラマの空想の世界に浸り、どんどん薄く、小さく、狭くなっていくちっぽけな世界の打開はふと訪れた。警備ユニットは今でも、あのクレーターの砂のざらつきと、頬に滴ったバーラドワジの鮮血の生ぬるさを覚えている。
#『マーダーボット・ダイアリー』
警備ユニットは思った。ワームホールが宙域をひどく矮小にしてしまっただけで、宇宙はもっと広いものなんじゃあないか。それを実感できていないんじゃあないか。宇宙の濃紺の深さを忘れるなかれ、その恐怖を忘れることなかれ、と己に説いたのは元弊社の人間だった(初めにあったのはいつも保険会社の人間たちの言葉だった)。
なにより保険会社の軛に繋がれ繋がれたまま惑星から惑星を移動しているうちに、世界はただただ狭いものになっていた。本当の「初め」も知らなかった。記憶消去後の「初め」を生き、キュービクルの中で仕事から次の仕事を待ち、ドラマの空想の世界に浸り、どんどん薄く、小さく、狭くなっていくちっぽけな世界の打開はふと訪れた。警備ユニットは今でも、あのクレーターの砂のざらつきと、頬に滴ったバーラドワジの鮮血の生ぬるさを覚えている。
#『マーダーボット・ダイアリー』
後ろ姿
「俺は生きることに愚直でありたかった」という言葉は、私の姉の言葉だった。
愚直であるということは即ち貴女の今の姿なの、という言葉を飲み込んだ私の顔はさぞ不美人だったに違いない。兄よりも凛々しい顔をした姉は、淡く笑って言った。「変な顔をしてる。護国丸は美人なんだからお止めよ」。
「やめてよ、美人だなんて言って。気持ち悪い」と、私は今度こそ姉に言った。気持ちが悪い。そうだ、この言葉、これこそが私の今の偽らざる感情だった。
本当に美人だと思っているんだが、と姉は嘯いて困っていたが、そんなことはどうでも良い。私は姉を――否、今は兄だった、その兄のことを「兄」とは認めたことはなかった。
私の姉は、報国丸型貨客船「愛国丸」は、特設巡洋艦になると共にそのうつし身を男の姿へと変えていた。前の戦争で特設艦になった先達の中にも同様に姿を変えた船たちはいたらしい。理由は分からず、特設艦への改装の具合や船のうつし身の気質などが影響するらしいと聞く。だから、その現象自体には驚きはなかった。
それでもそこにあった蟠りに名前を付けるとしたら、それは怒りかもしれない。姉は華やかな客船としての内装も、そのうつし身としての優れた容姿も、私にはない艶やかさも、奪われなかった名も、矜持も、美も、女として生きるに値する何かを、持っているはずだ。持っているはずだったのだ。
けれど私がその美貌を噂に聞き、密かに憧れていた姉に出会ったときには、彼女は既に無残にして完璧なる特設巡洋艦だった。竣工する前から彼女に貨客船としての生涯はないも同然だったのは私も承知している。彼女もまた奪われた者だったのだ、そう単純に割り切れれば良かったのだが、自分で自分を慰めてもこの怒りと失望は収まらなかった。姉の姉としての姿は、私の素晴らしいはずのもしもの未来の一つだったのだ。貨客船、としての。もしも。
「ねえ、なぜ、姉さんは、その姿じゃないとだめだったの」
「……今はお兄ちゃんって呼んでね」
「俺は生きることに愚直でありたかった」という言葉は、私の姉の言葉だった。
愚直であるということは即ち貴女の今の姿なの、という言葉を飲み込んだ私の顔はさぞ不美人だったに違いない。兄よりも凛々しい顔をした姉は、淡く笑って言った。「変な顔をしてる。護国丸は美人なんだからお止めよ」。
「やめてよ、美人だなんて言って。気持ち悪い」と、私は今度こそ姉に言った。気持ちが悪い。そうだ、この言葉、これこそが私の今の偽らざる感情だった。
本当に美人だと思っているんだが、と姉は嘯いて困っていたが、そんなことはどうでも良い。私は姉を――否、今は兄だった、その兄のことを「兄」とは認めたことはなかった。
私の姉は、報国丸型貨客船「愛国丸」は、特設巡洋艦になると共にそのうつし身を男の姿へと変えていた。前の戦争で特設艦になった先達の中にも同様に姿を変えた船たちはいたらしい。理由は分からず、特設艦への改装の具合や船のうつし身の気質などが影響するらしいと聞く。だから、その現象自体には驚きはなかった。
それでもそこにあった蟠りに名前を付けるとしたら、それは怒りかもしれない。姉は華やかな客船としての内装も、そのうつし身としての優れた容姿も、私にはない艶やかさも、奪われなかった名も、矜持も、美も、女として生きるに値する何かを、持っているはずだ。持っているはずだったのだ。
けれど私がその美貌を噂に聞き、密かに憧れていた姉に出会ったときには、彼女は既に無残にして完璧なる特設巡洋艦だった。竣工する前から彼女に貨客船としての生涯はないも同然だったのは私も承知している。彼女もまた奪われた者だったのだ、そう単純に割り切れれば良かったのだが、自分で自分を慰めてもこの怒りと失望は収まらなかった。姉の姉としての姿は、私の素晴らしいはずのもしもの未来の一つだったのだ。貨客船、としての。もしも。
「ねえ、なぜ、姉さんは、その姿じゃないとだめだったの」
「……今はお兄ちゃんって呼んでね」
宇品
一ヶ月もあれば目的地に行けますよ最近は船も簡単に揃えられますからね、と喜ぶのは船成金でも貨客船の航路案内を手に持つ旅行商会の店員でもなく、宇品の陸軍将校であった。
一ヶ月もあれば目的地に行けますよ最近は船も簡単に揃えられますからね、と喜ぶのは船成金でも貨客船の航路案内を手に持つ旅行商会の店員でもなく、宇品の陸軍将校であった。
無題
「そして私は船尾から長い航跡波を眺めていました。その時、突然一人の女の子が現れて『波の上に揺られるのって気持ちいいですよね』と私に話しかけてきたんです。彼女は笑って続けました、『赤子のゆりかごみたいです。私は人間じゃないので、そんなものを使われたことはないのですが』」
「そして私は船尾から長い航跡波を眺めていました。その時、突然一人の女の子が現れて『波の上に揺られるのって気持ちいいですよね』と私に話しかけてきたんです。彼女は笑って続けました、『赤子のゆりかごみたいです。私は人間じゃないので、そんなものを使われたことはないのですが』」
無題
手が離せない代筆してくれと言われ綴ろうとした寸前に気づいたのは今自分は特設艦であること、自分が綴るのは英語で書かれた航海日誌ではなく母語であり母国語で書かれた戦時日誌であること。でも愛する母国とやらは一体どこにあるのだろう?報国丸が愛を誓ったのは名に反して海だけであった。
手が離せない代筆してくれと言われ綴ろうとした寸前に気づいたのは今自分は特設艦であること、自分が綴るのは英語で書かれた航海日誌ではなく母語であり母国語で書かれた戦時日誌であること。でも愛する母国とやらは一体どこにあるのだろう?報国丸が愛を誓ったのは名に反して海だけであった。
無題
「神がご自身の姿に寄せて人間を造られたのなら」と、アメリカ海軍の航空母艦エンタープライズは言った。「俺たちもおなじ神の似姿。地上でも海上でもこの世ではおなじく平等だ、そうだろう?」
「神がご自身の姿に寄せて人間を造られたのなら」と、アメリカ海軍の航空母艦エンタープライズは言った。「俺たちもおなじ神の似姿。地上でも海上でもこの世ではおなじく平等だ、そうだろう?」
無題
一番戸惑ったのは、日の丸を船尾に掲げない世界に来てしまったことよ。愛着と恩義があったあの社旗を船首に掲げるのではなく、旭日を後ろに背負わねばならない世界。前と後ろが入れ替わったおかしな世界で生きていかなければならないんだって、そう考えたら涙が出てきてたまらなかったの。
一番戸惑ったのは、日の丸を船尾に掲げない世界に来てしまったことよ。愛着と恩義があったあの社旗を船首に掲げるのではなく、旭日を後ろに背負わねばならない世界。前と後ろが入れ替わったおかしな世界で生きていかなければならないんだって、そう考えたら涙が出てきてたまらなかったの。
無題
「そうね、でもペリは船だから。どこまでも行ける」とアイリスが言った。海から宇宙に出て行った構造物をそれでもなお「船」と呼び、恃みにした人間たちが愛おしい。「だが本船は乗組員と羅針儀が必須だ」と乗組員の彼女に言った。けれど羅針儀とは?今は比喩となったもの。必要性は海へ置いてきた。
#『マーダーボット・ダイアリー』
「そうね、でもペリは船だから。どこまでも行ける」とアイリスが言った。海から宇宙に出て行った構造物をそれでもなお「船」と呼び、恃みにした人間たちが愛おしい。「だが本船は乗組員と羅針儀が必須だ」と乗組員の彼女に言った。けれど羅針儀とは?今は比喩となったもの。必要性は海へ置いてきた。
#『マーダーボット・ダイアリー』
潜水艦
「お魚さんたちが言っていたよ、最近は海のうえからあたらしい漁礁が落ちてこなくて残念だって」「藤壺さんたちが言っているよ、この海にいた軍艦たちのおおきなお腹がなつかしいって」「海星さんたちは、濃紺の天からきらきら光る爆雷が降ってこなくてさみしいってさ」
「お魚さんたちが言っていたよ、最近は海のうえからあたらしい漁礁が落ちてこなくて残念だって」「藤壺さんたちが言っているよ、この海にいた軍艦たちのおおきなお腹がなつかしいって」「海星さんたちは、濃紺の天からきらきら光る爆雷が降ってこなくてさみしいってさ」
- 「渺渺録」(企業擬人化)(55)
- 『マーダーボット・ダイアリー』(22)
- 「大脱走」(企業擬人化)(20)
- 実況:初読『天冥の標』(16)
- 「海にありて思うもの」(艦船擬人化)(13)
- おふねニュース(10)
- 読んでる(8)
- 「蛇道の蛇」(一次創作)(8)
- 「時代の横顔」(企業・組織擬人化)(6)
- 「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)(6)
- 企業・組織(6)
- きになる(3)
- 感想『日本郵船戦時船史』(3)
- 読了(2)
- 『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』(2)
- 「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)(2)
- 「人間たちのはなし」(艦船擬人化)(2)
- 『青春鉄道』(2)
- 御注文(1)
- 入手(1)
- 「テクニカラー」/「白黒に濡れて」(艦船擬人化)(1)
- 「かれら深き波底より」(一次創作)(1)
ある種の侵犯行為が身体性を持って迫ってくる話が欲しくて、それは特設艦船に欲しくて、なぜなら彼ら(彼女ら)は身を改造されて軍隊に統合されるからで、でも侵犯行為が身体性を持って身に迫ってくる話というべきものは性的なものとは分離し難く、しかしふね擬で性的なものなど描く気がない、という話
軍隊でのなじめなさ、性的な緊張感、自分は人間でないこと(それが特権であり孤独であること)、生理があること、子どもは産めないこと、それでも生きなければならないこと、死と沈没の区別がつくこと、人間にそれらを混同されること、血を被ること、かつての華やかな航路、ドロッとした海、生臭い潮の匂い、改造時にどこかへ行ってしまった鮮やかな梅色のソファ、戦闘詳報と航海日誌のあいだ……