2 孤独の極北#「海にありて思うもの」(艦船擬人化) 「私はもう軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ軍属」 軍艦冲鷹が、特設運送船あるぜんちな丸の隣の特設運送船某へ放ったこの言葉に、その場は北方海域より寒い空気が漂った。 少々装いが貧相なれども濃紺色の織物で統一された会議室、その窓の外からは、眩しく白い陽が差し込んでいる。あるぜんちな丸はぼんやりと、その白々しい美しさを見つめていた。「……冲鷹、」と冲鷹をたしなめたのは大鷹型航空母艦のネームシップ、”長兄”たる大鷹であった。「下らない揶揄は止せ」「揶揄ではない」「なら尚更止めろ」 冲鷹を呼ぶ大鷹が一瞬言葉を言い淀んだのは、長女だった元姉に本当は何と呼びかけるつもりだったからなのかな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。 苛立ちを隠そうともしない冲鷹の不興の理由は、隣の特設運送船が何気なく、しかし必死に縋るように護衛艦艇の有無を尋ねたからだ。またそれらの具体的な艦種や艦名や、任務の内容なども。あのう、あたしたちにはどのくらいの護衛がつくのでしょうか、強い艦ですか、船団の形はどんなでしょうか、遅い船はいっしょに居ますか、航路は島沿いですか、何ノットで走るんですか、あたし……。 それが自身を救う祈りの言葉になるかのようにぶつぶつと言いつのった彼女に、大鷹は明快にまた冷淡に、「海防艦が付くと聞く。貴船の監督官の説明を待て」 と言い切り、一方的に話を打ち切った。 でも、でも、それに……と、なおも彼女は話を続けようとし、救いを求めるように大鷹の隣の冲鷹を見遣った。 そこで話は、冒頭へと戻るわけだ。 あるぜんちな丸は一つの陳腐な演劇を見ているような白けた気持ちになっていた。下らないやり取りを続ける三者三様に気づかれないように机の下で、つまらない気持ちで爪先の汚れを擦り取って、演技の続きを待っている。 誰もが次の台詞を忘れたような苦しい沈黙のなかで、この劇一番の花形であった軍艦冲鷹は、いらいらとした様子で押し黙っていた。白手袋をつけた両手の親指を、神経質に動かしている。彼女は異常潔癖のきらいがある。神経質に手口の洗浄を好むのだ。 軍隊という場に潔癖を感じるのか、元々の性なのか。両方かも知れない。きっと軍属云々だって関係はないのだ。あるぜんちな丸は、冲鷹が貨客船時代の己を愛していたことを知っていた。というより、わかっていた。わかってしまうのだ。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。この特設運送船の口調が民間船の、というより平民のそれだったことが、冲鷹の神経を逆なでしたことの一因かもしれない。 私はもう、軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ、軍属。 このあっさり放られた言葉に含まれる、戦時下の軍隊のふねたちの見事な政治性!元貨客船新田丸は無邪気で哀れ、愚かな軍艦役者だが、彼女のこの言葉の鮮やかさは手放しで褒めてやりたくなった。すなわち、未だ商船の名残を留めたる特設運送船に対し、すでに商船でない商船改造空母が軍艦であることで優越を誇る海軍という場の、露骨なまでの軍隊ざま、すさまじき地獄ぶりである。 ここではそうあることでしか我々は生きれない、という今一度の確認を、あるぜんちな丸は冲鷹から賜ったのだ。そしておそらく、大鷹も。隣の特設運送船も。「……隼鷹に引けを取ってはならない、戦闘に繰り出すだけが戦ではないんだ、我らは為すべきことを成さねばならない」 隠し切れない屈辱と羨望とをその声に孕ませ航空母艦隼鷹の名を呼んだ冲鷹は、忸怩たる己の現状を直視できていないのだろう。あるいはあえて無視しているのか。 護衛空母あるいは航空機の輸送という職務は、その貨客船の美しい身を捨てさせ、わざわざ航空母艦として改造させてまで必要だったのだろうか。航空母艦としてはまるで宝の持ち腐れだ。だがしかし、小型の商船改造空母として成しえる任務は、せいぜいそれくらいが限界だった。改造された結果の二流空母だ。正直、あるぜんちな丸はそう思っていたし、日本海軍の人間たちもそう思っているかもしれない。おそらく大鷹は思っているだろう。冲鷹だってほんとうはわかってるはずだ。「だから……!」 これも哀れなふねなのだ、とあるぜんちな丸は思った。あるぜんちな丸の妹同様、かつて受けた愛を忘れられないでいる。再びあの愛情を得られないからこそ積極的に捨て去ろうとしている。自ら進んで捨てることで主体性を確保しようとしている。足掻き、苦しみ、悶えている。今持ちえている(ので、あろう)軍艦の威容を誇ろうとする。わが妹とは違い、貨客船新田丸の姿を留めたまま沈没するという栄誉を得ることはなかった航空母艦、冲鷹。 もし彼女に日本郵船の客船浅間丸を話をしたら、大日本帝国海軍お得意の木棒で打擲されるだろうか。それともむざむざと泣きはじめるかもしれないな。どちらにせよただの特設運送船に出すぎた真似は禁物だ。 だから、という冲鷹の、続きの言葉は聞けずに終わった。 彼女は数秒沈黙し、この場に耐えきれないように荒々しく椅子から立ちあがり、会議室から走り去ってしまった。 時間切れかもな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。あれはたぶん、手を洗いに行っただけだ。口かもしれないが。あるぜんちな丸は冲鷹の、あの種の奇行を数度目撃したことがある。そして興味本位で追いかけてみたことも一度だけある。何かに耐えられないように執拗に手口を洗っていた。あるぜんちな丸は、軍艦冲鷹が貨客船新田丸を愛していたことを知っていた。というより、わかってしまった。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。だからなおさら追いかけてまで見に行ってしまう。確認してしまう。 私のゆくすえは、あんななのか?「……以上、明朝を待って任務に当たる。詳細は監督官の指示を仰ぐように、と艦長が仰っていた」 気づいたら、大鷹の説明は終わったようだ。というか巻き上げて終わらせた。元姉であり今は妹の冲鷹を追いかけるために。 情けない、士気に関わる、とあるぜんちな丸は鼻白んだ。隣の特設運送船もなおさら不安だろうに。まあ、仕方ないのだろうか。誰しも自分を一番大切に精一杯やっている。明日沈んでいるかもしれないのだ。大鷹が言うように、監督官、人間に話を聞いた方がよっぽどいい。生還の計画の具体性は増すだろう。 だいたい、どうして私が彼女を責められよう、とあるぜんちな丸は思った。……この泣きそうな特設運送船の船名も、私は最後まで覚えられなかったのに。 そのことにふと気づき、あるぜんちな丸は、他の特設運送船や一般徴用船に続いて呆然と椅子から立った。 わたしたちのしろいたいよう、という意味のない言葉があるぜんちな丸の脳裏に浮かんだ。 私たちの白い太陽。 それははたして、いったいどこに? 2024.9.14(Sat) 00:30:01 小説,艦船擬人化
#「海にありて思うもの」(艦船擬人化)
「私はもう軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ軍属」
軍艦冲鷹が、特設運送船あるぜんちな丸の隣の特設運送船某へ放ったこの言葉に、その場は北方海域より寒い空気が漂った。
少々装いが貧相なれども濃紺色の織物で統一された会議室、その窓の外からは、眩しく白い陽が差し込んでいる。あるぜんちな丸はぼんやりと、その白々しい美しさを見つめていた。
「……冲鷹、」と冲鷹をたしなめたのは大鷹型航空母艦のネームシップ、”長兄”たる大鷹であった。
「下らない揶揄は止せ」
「揶揄ではない」
「なら尚更止めろ」
冲鷹を呼ぶ大鷹が一瞬言葉を言い淀んだのは、長女だった元姉に本当は何と呼びかけるつもりだったからなのかな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。
苛立ちを隠そうともしない冲鷹の不興の理由は、隣の特設運送船が何気なく、しかし必死に縋るように護衛艦艇の有無を尋ねたからだ。またそれらの具体的な艦種や艦名や、任務の内容なども。あのう、あたしたちにはどのくらいの護衛がつくのでしょうか、強い艦ですか、船団の形はどんなでしょうか、遅い船はいっしょに居ますか、航路は島沿いですか、何ノットで走るんですか、あたし……。
それが自身を救う祈りの言葉になるかのようにぶつぶつと言いつのった彼女に、大鷹は明快にまた冷淡に、
「海防艦が付くと聞く。貴船の監督官の説明を待て」
と言い切り、一方的に話を打ち切った。
でも、でも、それに……と、なおも彼女は話を続けようとし、救いを求めるように大鷹の隣の冲鷹を見遣った。
そこで話は、冒頭へと戻るわけだ。
あるぜんちな丸は一つの陳腐な演劇を見ているような白けた気持ちになっていた。下らないやり取りを続ける三者三様に気づかれないように机の下で、つまらない気持ちで爪先の汚れを擦り取って、演技の続きを待っている。
誰もが次の台詞を忘れたような苦しい沈黙のなかで、この劇一番の花形であった軍艦冲鷹は、いらいらとした様子で押し黙っていた。白手袋をつけた両手の親指を、神経質に動かしている。彼女は異常潔癖のきらいがある。神経質に手口の洗浄を好むのだ。
軍隊という場に潔癖を感じるのか、元々の性なのか。両方かも知れない。きっと軍属云々だって関係はないのだ。あるぜんちな丸は、冲鷹が貨客船時代の己を愛していたことを知っていた。というより、わかっていた。わかってしまうのだ。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。この特設運送船の口調が民間船の、というより平民のそれだったことが、冲鷹の神経を逆なでしたことの一因かもしれない。
私はもう、軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ、軍属。
このあっさり放られた言葉に含まれる、戦時下の軍隊のふねたちの見事な政治性!元貨客船新田丸は無邪気で哀れ、愚かな軍艦役者だが、彼女のこの言葉の鮮やかさは手放しで褒めてやりたくなった。すなわち、未だ商船の名残を留めたる特設運送船に対し、すでに商船でない商船改造空母が軍艦であることで優越を誇る海軍という場の、露骨なまでの軍隊ざま、すさまじき地獄ぶりである。
ここではそうあることでしか我々は生きれない、という今一度の確認を、あるぜんちな丸は冲鷹から賜ったのだ。そしておそらく、大鷹も。隣の特設運送船も。
「……隼鷹に引けを取ってはならない、戦闘に繰り出すだけが戦ではないんだ、我らは為すべきことを成さねばならない」
隠し切れない屈辱と羨望とをその声に孕ませ航空母艦隼鷹の名を呼んだ冲鷹は、忸怩たる己の現状を直視できていないのだろう。あるいはあえて無視しているのか。
護衛空母あるいは航空機の輸送という職務は、その貨客船の美しい身を捨てさせ、わざわざ航空母艦として改造させてまで必要だったのだろうか。航空母艦としてはまるで宝の持ち腐れだ。だがしかし、小型の商船改造空母として成しえる任務は、せいぜいそれくらいが限界だった。改造された結果の二流空母だ。正直、あるぜんちな丸はそう思っていたし、日本海軍の人間たちもそう思っているかもしれない。おそらく大鷹は思っているだろう。冲鷹だってほんとうはわかってるはずだ。
「だから……!」
これも哀れなふねなのだ、とあるぜんちな丸は思った。あるぜんちな丸の妹同様、かつて受けた愛を忘れられないでいる。再びあの愛情を得られないからこそ積極的に捨て去ろうとしている。自ら進んで捨てることで主体性を確保しようとしている。足掻き、苦しみ、悶えている。今持ちえている(ので、あろう)軍艦の威容を誇ろうとする。わが妹とは違い、貨客船新田丸の姿を留めたまま沈没するという栄誉を得ることはなかった航空母艦、冲鷹。
もし彼女に日本郵船の客船浅間丸を話をしたら、大日本帝国海軍お得意の木棒で打擲されるだろうか。それともむざむざと泣きはじめるかもしれないな。どちらにせよただの特設運送船に出すぎた真似は禁物だ。
だから、という冲鷹の、続きの言葉は聞けずに終わった。
彼女は数秒沈黙し、この場に耐えきれないように荒々しく椅子から立ちあがり、会議室から走り去ってしまった。
時間切れかもな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。あれはたぶん、手を洗いに行っただけだ。口かもしれないが。あるぜんちな丸は冲鷹の、あの種の奇行を数度目撃したことがある。そして興味本位で追いかけてみたことも一度だけある。何かに耐えられないように執拗に手口を洗っていた。あるぜんちな丸は、軍艦冲鷹が貨客船新田丸を愛していたことを知っていた。というより、わかってしまった。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。だからなおさら追いかけてまで見に行ってしまう。確認してしまう。
私のゆくすえは、あんななのか?
「……以上、明朝を待って任務に当たる。詳細は監督官の指示を仰ぐように、と艦長が仰っていた」
気づいたら、大鷹の説明は終わったようだ。というか巻き上げて終わらせた。元姉であり今は妹の冲鷹を追いかけるために。
情けない、士気に関わる、とあるぜんちな丸は鼻白んだ。隣の特設運送船もなおさら不安だろうに。まあ、仕方ないのだろうか。誰しも自分を一番大切に精一杯やっている。明日沈んでいるかもしれないのだ。大鷹が言うように、監督官、人間に話を聞いた方がよっぽどいい。生還の計画の具体性は増すだろう。
だいたい、どうして私が彼女を責められよう、とあるぜんちな丸は思った。……この泣きそうな特設運送船の船名も、私は最後まで覚えられなかったのに。
そのことにふと気づき、あるぜんちな丸は、他の特設運送船や一般徴用船に続いて呆然と椅子から立った。
わたしたちのしろいたいよう、という意味のない言葉があるぜんちな丸の脳裏に浮かんだ。
私たちの白い太陽。
それははたして、いったいどこに?