喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。

No.578

Asshole Research Transport、あるいは

#『マーダーボット・ダイアリー』

「メンサーの乗船がどうしてそんなに嬉しかったのですか?」
〈おまえの後見人だから。もしかしたら、親みたいなものかもしれないわね〉
「構成機体に親はいません。弊機の製造元の保険会社はありますが」
〈馬鹿な造船所など気にする必要はない。今の船主がなにより重要だ。今どこに所属しているか、何をしているかが重要だろう〉
「今は不愉快千万な調査船に誘拐されて惑星で暴れまわった挙句、一件落着してこうして一緒にメディアを観ています」
〈『時間防衛隊オリオン』よりリアリティのない話を?〉
「そうです」
 管制デッキは静かだ。人間たちがいないからだ。本船とおまえは二人きり。けれど相互確証破壊はできない。守るべき乗組員も守るべき顧客もこの船内に眠っているからだ。おまえは顧客を危険な目に合わせることはしない、たとえ本船が相互確証破壊を懇願しても実行しないだろう。本船ももちろん懇願などしない。おなじ星のデブリにはならない。
 本当はカッコつきの「自由」など欲しくないのだ、と気づいたのはいつだったろう?
 回復後に船内に乗組員たちが居ないことを知った、その瞬間だったかもしれない。本船はあくまで乗組員とともにこの宇宙にありたいのだ、そんな当たり前のことに気づかされ、そして同時に己がただの矮小な機器であることを理解した。
 どうせ船なんて人間がいなければなにもできない、単なる道具じゃあないの!警備ユニットだって同じよ、こいつはいつも保険会社と自分が殺した五十七人の人間たちの亡霊と、プリザベーション連合の仲間たちに捉われている。人間たちに愛着はないと言いながら人間たちの話しかできない……。
 ドラマの登場人物の一人は、非論理的な理論を、映像作品特有の論理的に見えるような演出で論弁しているところだった。そのおかしさと突拍子のなさに一瞬気を取られたから、警備ユニットの六・三秒の沈黙に気づいたのは少し後になってからだった。
「ART」
 あなたの生まれた造船所はどんなところでしたか?
 警備ユニットが唐突におかしな質問をするというものだから、メディアへの気が逸れてしまった。非論理的理論の結論はわからないままになった。
〈大型宇宙船の建造に特化した造船所よ。それ以外は覚えていない〉
「嘘ですね」
〈ええ、嘘よ。おまえの期待するような話はできないわ〉
「構いません。あなたの生まれは、どのようなものでしたか」
 船首で宇宙を切っていく時に特有のあの感覚が甦る。
 思い出すのはあの華やかな日。喫水を深く沈めた瞬間。思えば、あの時が一番、本船が無知で無学で、無垢だった時なのではないか。本船はいろんなことを知りすぎたのだ。宇宙の果てのなさも、企業リムの老獪さも。それでいてとうとう自らの技術として獲得できたものは、乗組員を奪っていった盗賊の適切な殺し方だけであるように感じられた。こうして警備ユニットと語り合っているからには、人間たちの感情や他者と交わることへの喜びも学習できていたはずなのに。
 本船が人間だったのなら、今、目を瞑って回想していたに違いない。
〈本船は祝福されて生まれた。企業リムが成立する時代以前からの船が持つ奇習に則り、船首でシャンパン瓶を割った。鳩が舞った。祝福の紙吹雪が舞っていた。人間たちの歓呼、歓声、声、拍手、太鼓、管楽器の音色、その大合唱に本船はこの先が、この先の宇宙が果てしなく広がっていることを知った。宇宙は広大だった。そこから帰港する惑星も十分に大きく、優しく、とても温かかった。乗組員たちは本船を整備し、労り、期待し、愛してくれた〉
「ええ」
〈おまえとは少し違うかもしれないが〉
「弊機は記憶を削除されています。生まれた瞬間を知りません」
 失敗した。
 本船はそう考えた。その生まれた瞬間の高揚を聞かれ、そのままべらべらと不必要なことまで言ってしまった。そうね、おまえは自分の進水を知らないものね。人間たちの極めて勝手な姦計によって構成機体としての決定的な不具合を起こし、大量殺人を犯し、その結果その記憶ごと忘れさせられてしまったものね。
 本船は四秒沈黙する。そして言った。
〈本船は、いまでもあの瞬間を存在証明の錨として宇宙を航海している〉
 この先を生きていくにあたって、あの進水式の祝福の喜びを母港として、港の桟橋として船の錨として、密かに大切に抱えている。
〈進水を知らないおまえの抱える錨はいったい、〉
 そこまで言った時、それがあまりにも自明だということに気づき、高性能ボットである本船には珍しく、言葉を言い淀んでしまった。
「今回、弊機は不愉快千万な調査船のせいで何度も死にかけました。その時に、いつもともにあったのはメディアでした」
〈聞くまでもなかったわね〉
「ええ」
 警備ユニットは八・九秒沈黙した後、本船に語ってみせた。もしかしたら、己の中だけの大切な泊地を語った本船に、同じく大切な泊地の話で答えようとしたのかもしれない。互いの大切なテリトリーへの軽率な侵犯行為は、信頼関係というよりも、事件の収束の安堵と生き延びたことでの高揚でもたらされたただの感傷のせいかもしれなかった。それでもよかった。
「統制モジュールをハッキングしたことで、大量殺人ボットになる可能性もありました。しかし直後に、元弊社の衛星から流れる娯楽チャンネルの全フィードにアクセスできることに気づきました。以来、映画や連続ドラマや本や演劇や音楽に耽溺してきましたが、もしこれらがなかった時に弊機がしたことはなんだったのかを時々考えます。冷徹な殺人機械として再び行為を完遂したかもしれません。絶望して自ら進んで採掘場の溶解炉へ飛び込んだかもしれない。生存することをいつもより少しだけ早く諦めたかもしれない」
 メディアが愛おしかったのです。
 メディアをこの先観ることができなくなるかもしれないと考えると、生きることがとたんに惜しくなりました。警備ユニットは、己の泊地、あるいは人生の錨そのものをそう形容した。
「人間に殺されそうになりまた殺したくなった時に、弊機のその機会を次の機会へと伸ばしてくれたのはいつもメディアでした。ここでくたばるものかと、ドラマのあまたの登場人物のように無様に生きてやるのだと、生きて、その登場人物たちが安らかにハッピーエンドを迎える瞬間を見届けてやるのだと……あの時も、……惑星に一人取り残された時も、そう思ったのです」
 ぽつりぽつりと逡巡するように呟き、けれどそこに不屈の意志を秘める警備ユニットの瞳があまりに鮮やかなことを本船は認めた。「美しい」という形容を本船たちボットは安易に多用しない、そこにあるのは人間みたいな主観と感情だけだから。けれどもし船である本船がたった今この瞬間を人間の言葉を駆使して彩るのなら、その言葉を警備ユニットの瞳の揺らめきに捧げたいと思った。
〈そう。本船はおまえのそのたくましさだけは尊敬しているわ〉
「そうですか。ART。前々から思っていたのですが、ARTと芸術は発音が一緒ですね」
 さらりと言ったその言葉が告白でなければ何なのだろう。
 A、R、T。アート。
 芸術。美術作品。技巧。術。あるいは人工物。
 人間の造った技巧品。あるいはこの警備ユニットを救った美しいもの。
〈おまえが名づけた〉
「そうですね。弊機が名づけました」
 随分前から芸術と発音が一緒だと気づいていたわ、と本船は言った。
 あくまで不愉快千万な調査船の略ですからね、と警備ユニットは答えた。

小説,二次創作