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うつくしき貨物を運べば共犯者なり

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。最下部にカテゴリー・タグ一覧あり。

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No.3425

 日本の報道は、パレスチナ問題を歴史的に説明するとなると、紀元前にユダ王国が滅ぼされてとかいった話になりがちですが、問題は近代の百年です。日本が近代国家になり、植民地支配と戦争を経て現在へと至るこの百年の問題です。それと重ねてイスラエル建国と民族浄化、六十年近くに及ぶ占領、十七年にわたる封鎖という歴史的暴力の実態を見る必要があります。
――日本には過去の植民地支配の責任があり、それに目を向けずに連帯することはできないということも、繰り返し書かれてきたと思います。
 日本の人たちは気の毒な状況に置かれている人に対する「かわいそう」という共感はすごくあるんですね。北陸地震であれ、ガザであれ。でも、政治的、歴史的不正の犠牲者に対する共感力が乏しいように感じます。私たちの身に起きてはならない不正は、誰の身にも起きてはならないという認識、それが連帯ですよね。気の毒な状況に置かれてかわいそうというのは同情であって連帯じゃない。寄付はしても、その現実を変えるために自分が行動する、ということにはなかなかつながらない。ガザで二〇〇八、九年に攻撃があったとき、私が知る限り日本で最初に抗議の声を上げたのは大阪の釜ヶ崎の労働者たちです。世界の無関心のなかで殺されるパレスチナ人に、彼らは自分たちを重ねたのです。南アフリカのネルソン・マンデラは、「パレスチナ人が解放されない限り、私たちの自由が不完全であることを私たちは熟知している」と語り、南アの人々はパレスチナと連帯し続けました。それが、国際司法裁判所へのイスラエルのジェノサイド提訴につながっています。
 日本には、アジアの国々を侵略した歴史を持つからこそ、占領や植民地支配の暴力を繰り返さない、繰り返させないというつながり方だってあり得る。かつてのベトナム反戦運動のように。けれども、政治的不正義を許してはいけないという価値観を社会的に育むことが、日本では意図的に阻害されているのではないか。「植民地主義」という言葉や日本の侵略は歴史の授業で習うけど、それが支配された側にとってどういう暴力だったのかは、きちんと習わないですよね。
 広島・長崎にしても東京にしても、一発の爆弾、一晩の空襲で十数万人が殺されている。大量破壊、大量殺戮です。でも、そのことが裁かれなかった。日本人自身がそれを裁くことができなかった。その暴力がアフガニスタン、イラク、そしていまガザにまで続いている。そこにつながりを見出せていないのは、日本人が自分たちの戦争犯罪に向きあってこなかったからです。
 裁判で裁かれた戦争犯罪は、敗戦国だけが犯したものです。だから、重慶に対する日本の都市戦略爆撃は裁かれなかった。戦勝国のアメリカやイギリスも同様のことをやっているからです。「原爆投下」と言われているものの実態は、アメリカの原爆攻撃による民間人の大量殺戮であり、戦争犯罪です。日本が中国で行った都市戦略爆撃を日本自身がしっかり裁いていれば、ベトナムもアフガニスタンもイラクも、そしてガザも、ぜんぜん他人事じゃない。
 原爆ドームの前で毎日スタンディングをしている方は、そこがつながっている。今回のガザへの攻撃が始まって一ヶ月の時点で、広島型原爆二個分の爆薬が使われています。核兵器こそ使われていませんが、破壊のすさまじさは広島以上です。広島・長崎の平和運動が、反核に特化してきたことも問い直す必要があると思います。二〇〇四年にイラクから、米軍に逮捕され、アブー・グレイブ刑務所に収容された男性と、女性ジャーナリストが来日し、原爆忌に広島を訪れました。二人は「広島に原爆攻撃した者たちがいま、イラクにミサイル攻撃をしている」と訴えました。アメリカの原爆の犠牲になった広島の人たちならわかってくれると期待して。でも、記者からの質問は「広島で何を学びましたか。イラクに帰ったら、広島の平和のメッセージとして何を伝えますか」ということばかりでした。女性ジャーナリストは途中でインタビューを拒否しました。この認識の分断をどう架橋するのか。詩人にせよ、小説家にせよ、文学に携わる者にはその責務があると思います。

/岡真理 インタビュー「「人間の物語」を伝える責務」『現代詩手帖 2024年5月号 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く』

引用

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