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喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。最下部にカテゴリー・タグ一覧あり。

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カテゴリ「引用」に属する投稿32件]2ページ目)

2024年3月7日 この範囲を時系列順で読む

「信仰問答」に関して、四五年五月に富田統理と村田教学局長がその内容を内示して諒解をうるため文部省を訪れた時のことである。

その草案の第二問の問い、日本基督教団の本領は何処にあるか、の答として本教団の本領は、皇国の道に則りて基督教立教の本義に基き、国民を教化し以て皇運を扶翼し奉るにあるとあり、さらに第四問の問い、皇国の道に則るとは如何なる意味であるか、の答にはイエス・キリストによって啓示せられ、聖書の中に証示せられ、教会に於て告白せられたる神を信じ、其の独子イエス・キリストを救主と仰ぎ、聖霊の指導に従ひ、心を尽して神と人とに仕へ、以て臣道を実践し皇国に報ずることである。教団はここまで譲歩したのであったが、文部省の教学局長は、次の二つの点を指摘して訂正を要求した。すなわち、一、創造神と天皇との関係現人神である天皇をキリスト教の神の被創造者として神とキリストとの下に置くことは、天皇の神聖を汚して天皇への不敬となる。天皇の神聖を認めなければ、キリスト教の日本化とは言えない。日本化しない宗教は日本では認められない。二、キリスト復活の信仰、復活信仰は幼稚で奇怪な迷信であるから、これを信仰問答から除外せよ。富田と村田はもとよりそうした要求に応ずることはできなかった。二人は真実を吐露して信仰の本質から説いてその意味を説明した。そして「私どもは今日まで日本国民として、心から日本を愛し、日本の非常時体制に即応し協力してきたのだが、信仰の最後の線から退くわけにはいかない。ですから、そこまで仰言るのでしたら、私どもにも最後の覚悟があります」という意味のことを言った。その時二人は心の中で殉教を覚悟していた。教学局長は、その気合いに押されたのか、いくらか折れたで、「では、こちらも考えておくから、そちらでもよく研究してくれ」といった。帰途、二人は「いよいよ殉教かも知れないね」と語り合った。

そして、この問題については文部省からは何の連絡もないままで敗戦となったのである。
一方的に追い立てられ、攻めたてられて、その最後の抵抗線まで破られようとしたその時、教団の執行部は、はじめて「殉教」という言葉を口にしたのである。

/『国家を超えられなかった教会』100頁

引用

2024年1月19日 この範囲を時系列順で読む

結局、若者たちを特攻という運命に赴かせてしまったものは、彼らの美的価値の希求、つまり彼らのロマン主義と理想主義であったのではなかろうか。彼らは読書を通じて自分たちの世界観と美的価値を作り上げた。もし政府が、軍国主義国家の政治的ナショナリズムをあからさまに正面切って提示していれば、若者たちはこれに反抗することができたであろう。

/『ねじ曲げられた桜 上』
#「渺渺録」(企業擬人化)

感想,引用

2023年10月1日 この範囲を時系列順で読む

私たちは――ローマ人のように――自らの記念碑を後に残した社会も、――多くの農民のように――記念碑を残さなかった社会も、描き出す。私たちは記念碑を持つ社会をその自称する偉大さから解き放つ。私たちは彼らがどのように見られたがっているかということと、実際に彼らがどうであったかということとを混同しないように努める。そして私たちは記念碑を残していない人々を、その結果として他人から、あるいは自分自身から、押しつけられた沈黙から解放するように努める。
 したがって私たちは叙述している人々や社会を、別の時代や場所から持ち込まれた判断の専制から解放しなければならないということになる。

それではもし歴史の重みが現在と未来にこれほど重くのしかかることがあるとすれば、歴史家の仕事の一部がその重みを解除しようとすることにあることはたしかである。すなわち、たいていの抑圧の形態は構築されたものであるから脱構築されることが可能であるということを示すこと、現在あるものが必ずしも過去にあったとは限らず、したがって未来にあるとも限らないということを示すこと、である。この意味で歴史家は社会批判者でなければならない。
/『歴史の風景』
#「渺渺録」(企業擬人化)

引用

2023年9月20日 この範囲を時系列順で読む

オウム真理教に帰依した何人かの人々にインタビューしたとき、僕は彼ら全員にひとつ共通の質問をした。「あなたは思春期に小説を熱心に読みましたか?」。答えはだいたい決まっていた。ノーだ。

彼らは物語というものの成り立ち方を十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を経過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。

/村上春樹「東京の地下のブラック・マジック」『村上春樹雑文集』

引用

2023年9月15日 この範囲を時系列順で読む

しかしこの快い広さはどうだろう。目をさえぎるもののない(あの気味の悪い鉄柱や煙突や、わずかにくずれ残った煉瓦造りの建物や監視塔が目にはいっても、そこに横たわる空間の広さに呑みこまれてしまえば、雑草の存在とかわらない)野の中に置かれると、私が享けるものは、自然ののびやかな恵みでしかない。人々の悲惨は通りすぎ、残されたものは錆び行く鉄塊と崩れゆく煉瓦でしかなく、 すべては土にかえってしまうことが定められている。ほろびるもののあいだにはさまれて、遠からずほろび行く自分をも私は遂につかみ得ないのである。虚無の陶酔が私の神経をしびらせていたろうか。 こんな広い土地を自分のものにしたい、というへんな考えがにぶい伴奏のように私の頭を覆っていた。 目をさえぎるもののない広漠たる土地の広がりは、そこで殺された何百万ものにんげんの血をにじませながら私のこころを屈託のない広がりの快さに誘いつづけていた。
/「ブジェジンカにて」『島尾敏雄全集 第9巻』

引用

2023年9月13日 この範囲を時系列順で読む

しかし、もっとも重要なことは、初期高揚以来ドーピング期まで――多少ともぼろぼろになりながらも――維持されてきた「誇大的全体性」と決別することである。ダーウィンの『種の起源』は数倍十数倍の大著の完成の夢想を断念することによって現実の完成をみた。収束とは「断念による現実化」である。執筆はなお進行しているが、もはや「展開による現実化」の過程でなくなりつつある。この二つの 「現実化」の交替がどこで起こるかによって著作の形態と性格と雰囲気とがある程度決まる。
/中井久夫「執筆過程の生理学」『中井久夫集5』

引用

2023年9月8日 この範囲を時系列順で読む

祖父(おおちち)の処刑のあした酔いしれて柘榴のごとく父はありたり
/「未完の手紙」『佐伯裕子歌集』


この美しげな最期の手紙をひたすら信じて、若い父と母は戦後を暮らしたように思う。ことに、「我欲、我執は貧、瞋り、愚痴と申す三毒が出て一家は正に修羅の巷となるべし」のおみくじのごとき箇所である。ここを、「戦犯の子孫は生涯を黙して暮らすべし」と解釈して、とにかく世間にものをいうことを恐れつづけていた。過度にものをいわなかった父は、世間を心底恐れているように見えた
/「墓石とワインボトル」『(同)』

引用

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