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喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。最下部にカテゴリー・タグ一覧あり。

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No.1946

#「ノスタルジア 標準語批判序説」(二次創作)

――なぜ夢小説になったのか?
津崎飛鳥(以下、津崎):第一に、私が二次創作で物語を書くのが得意ではないからではないか。具体的にいえば、筆者があえて描かなかった物語の余白を私の拙い描写で埋めることに冒涜と嫌悪を感じる時がある。また、それを感じない時もある。前者と後者には明確な違いがあり、おそらくそれは物語における「視座」の違いのはずだが、これを言語化することに未だ成功はしていない。そのため前者も後者も含まれた二次創作全般に苦手意識がある。
 ただ、その苦手な二次創作を描くための明快な解決方法はある。それは原作枠では確実に存在しないし、これからもあり得ない話を描く事だ。たとえば『マーダーボット・ダイアリー』で言うのならば「マルウェアに感染した警備ユニットがグラシンに一目ぼれする」とか、同シリーズの『ネットワーク・エフェクト』時に「ラッティとティアゴが不倫をしていて警備ユニットが満を持して『眼を潰す』」話とか、そんな話を描けばいいのだ。それは筆者があえてえがかなかった余白と余情を勝手に埋める行為でも、筆者のえがく素敵な話に勝手にらくがきを足しているとかでもなく、完全な二次時点での創作だ。それが二次創作というものだ。二次創作をする者はその両者を明確に区別し、自覚的に描くべきではないか、と感じている。また、この提言は筆者の物語にらくがきを描き出す行為が悪だと断じているのではないとは明言しておきたい。この点、夢小説は潔いほど「ありえない話」である。
 第二に、「ノスタルジア 標準語批判序説」はいわゆる夢小説というよりは『マーダーボット・ダイアリー』の世界観への所感の文章だ。いくつかのところに記載したが、あれはあの惑星の行政や「福祉」の文章が主体となって構成されているのであって、「推し」キャラと自己が投影されたであるらしい架空キャラとの愉快な関係性の物語ではない。正直そんなものはどうでもいい。いわゆる純粋な「難民」といわれる立場に置かれている登場人物がマーダーボット以外に不在であったために、「福祉」を明瞭化することが二次創作では困難だった。警備ユニットは人間の福利厚生など享受しない。医療福祉は人間のものであり、人間的な話でもある。病や貧困の話である。だから結果としてこのような形に落ち着いたまでだ。いわば夢小説とは氾濫した理論と形式のスケープゴートだ。この氾濫は命名により調停される。視座を失い、着地点が曖昧となった物語がたまたま夢小説と名づけられたにすぎない。
――着地点が曖昧となりつつも、物語で目指したものは何か?何度か指し示している「福祉」と関係があるのだろうか?
津崎:この物語は、ある種の難題的人生が社会用語へ収斂されていくさま、一個人の文学的ともいえる体験が行政に障害として認定されるさまを想定してえがいた。太宰治の破滅的人生と鬱鬱とした文学的思考が現代の精神医学へ繋がれたときそれは五六文字程度のただの病名として収斂される。収斂までのそれまでの経過は一言で断言しきられる。診断書などによって。あるいは素人の無邪気なレッテル貼りによって。
 この物語は「経過」が主題だ。昔の-1から現在の0への移行の間を経過と呼ぶ。0地点から見たその経過を、過去とか、追想とか、栄光とか、思い出とか、昨日の世界などと呼ぶ。それぞれがそれぞれの想いで名前をつけて過去を呼ぶ。主人公は過去を苦々しいベル・エポックと解釈していただろうし、アンは長期間の被虐待経験と呼ぶだろう。企業に雇われていた、灼熱の採掘施設で労働していた、選別台を動かしていた、同僚が殴られていた、集鉱機に落ちて死んでいった、働くことは辛くて熱くて苦しかった、誰かが泣いていた……だがそこには小さな石ころみたいな幸せがあったのだ、労働と幸福が奇妙に結びついていたのだ……という企業リムの世界は、プリザベーション・ステーション警備局の上級局員のインダーによって「企業の奴隷労働者収容所」と定義される。ここで私はヴィクトール・フランクルを想起する。ナチに囚われたユダヤ人の絶対的な強制収容所体験を喚起させる。彼には収容所においての経験がある。そこでも彼は点呼場の前で仲間たちと見た夕暮れの空の美しさを忘れなかった。彼は労働苦役で壕を掘っていた最中でも、外に見た絵画的情景を憶えていた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でも収容者たちは「感動する」という人間的感情を捨てなかったのだ。「奴隷労働者」が「収容所」で見た世界の美しさを、どうしてインダーが否定できよう。精神病既往歴や虐待経験歴を診断書に書かれたとき、誰にかれが「ただの不幸な人間」「かわいそうな人間」だと断定する権利があるだろう。それは他人に対する越権行為である。その行為に対して、自身も理由は分からないが一つの執着を感じている。人間の体験はそのように矮小化されてはならないと感じる。それが個人の負の時代であろうとも。いや負であるからこそ、なのか。
 また、この物語を完結させようとしたきっかけは今回の参議院選挙であったために、初期計画であった「福祉」のほか、いわゆる「難民」、移民の物語という色も濃く現れた。「ファースト」と呼ばれる人種が存在する、という思想が存在する、という一つの共同体が存在する、ということも念頭に置いて書いた。また、日本語=標準語と生存の関係については、李良枝の愛読者を自負する者として一定の考慮をしたつもりだ。
――内容の出来に自信はあるか?
津崎:夢小説マニアではないので夢小説みを達成しているのかわからないが、一つの小説としては正直、多少なら面白いと思う。
――正直疲れてる?
津崎:普段やってないことをやっている自覚はある。この夢小説もそのひとつにすぎない。いずれにせよ、それを自覚し、自省し、ここから跛行し出発するしかないように、私は思うのだ。

(『文学通 2025年8月号』「『 ノスタルジア 標準語批判序説 』完結にあたって・著者インタビュー」より一部抜粋)

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