喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。兼ログ置き場(新しめの作品はここに掲載してあります)。

No.441, No.440, No.439, No.438, No.437, No.436, No.4357件]



2026年10月に郵船博物館が再開館予定だったので、やはりずれ込んでいる模様。

waveboxぱちぱちありがとうございます。メッセージも返信いたしました。

この辺りもいつか書き留めておきたいです(思念を書くことを目的にしているわけではないけれど)

太平洋戦争の日本の立ち位置に肯定的な人間ではないため、必然と自省的な物語になってしまうのだけど、かといってこの物語の主題となる戦時下のふなのりの話にその「自省」を安易に転写させるべきなのか、それは正しいことなのか、正しいのか逡巡すること自体がほんとうは正しくないのか…という悩みを
→延々と持ち続けているし、私は関係者じゃないからなおさら「外部からの失礼な説教」みたいにならないようにしたいな~と思いつつ
→→とはいえ、擬人化が長い歴史を俯瞰していたら興味深いな、とは思っている それは一つの主題になっている
どこに「私は属している」という意識を置くか、は地味に悩ましい 関係者ではないというのなら、軍隊にいた先祖の話を聞いたことがない(聞いたことがない≠先祖に居ないではないのだが)
→祖父が軍人だったら戦争のはなしを当事者性を持って描く特権があるのか、日本人だから第二次大戦全般に当事者意識があって良いのか わからん
正直「大脱走」は一種の踏み込みと踏み越えを行っている気がしてならず、そのことに自己嫌悪を感じることもある
→けど『歴史の風景』に「歴史意識というものは過去から距離を置くことを要求すると同時に、謙遜と制覇の間を行ったり来たりできる能力を要求すること」ともあり…

#「大脱走」(企業擬人化)

企業・組織擬人化

私は日本人だけども、海運会社や海員戦没それ自体は当事者ではなく、しかし日本の戦争としてあの事象を扱い、擬人化がまごうことなく自省している話になり、それは無礼なんじゃないか、無理解を内包しながら無理のある論理で他人に自省を促してしまっているんじゃないか…みたいな逡巡があり、ほんとうに難しいよな…と感じる
罪の跳ねっかえりとしての戦没、という描き方であってはならないとは感じている
そう描くには私の定義する「罪」が観念的だし、ふわふわしているし、無知な部分も多いので

#「大脱走」(企業擬人化)

企業・組織擬人化

「大脱走」番外編1話「ゲイシャ・ボーイ」今週末あたりに上げられるかも。頑張ります。