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カテゴリ「艦船/〃擬人化」に属する投稿[115件](2ページ目)
2025年5月24日 この範囲を時系列順で読む
後ろ姿
「俺は生きることに愚直でありたかった」という言葉は、私の姉の言葉だった。
愚直であるということは即ち貴女の今の姿なの、という言葉を飲み込んだ私の顔はさぞ不美人だったに違いない。兄よりも凛々しい顔をした姉は、淡く笑って言った。「変な顔をしてる。護国丸は美人なんだからお止めよ」。
「やめてよ、美人だなんて言って。気持ち悪い」と、私は今度こそ姉に言った。気持ちが悪い。そうだ、この言葉、これこそが私の今の偽らざる感情だった。
本当に美人だと思っているんだが、と姉は嘯いて困っていたが、そんなことはどうでも良い。私は姉を――否、今は兄だった、その兄のことを「兄」とは認めたことはなかった。
私の姉は、報国丸型貨客船「愛国丸」は、特設巡洋艦になると共にそのうつし身を男の姿へと変えていた。前の戦争で特設艦になった先達の中にも同様に姿を変えた船たちはいたらしい。理由は分からず、特設艦への改装の具合や船のうつし身の気質などが影響するらしいと聞く。だから、その現象自体には驚きはなかった。
それでもそこにあった蟠りに名前を付けるとしたら、それは怒りかもしれない。姉は華やかな客船としての内装も、そのうつし身としての優れた容姿も、私にはない艶やかさも、奪われなかった名も、矜持も、美も、女として生きるに値する何かを、持っているはずだ。持っているはずだったのだ。
けれど私がその美貌を噂に聞き、密かに憧れていた姉に出会ったときには、彼女は既に無残にして完璧なる特設巡洋艦だった。竣工する前から彼女に貨客船としての生涯はないも同然だったのは私も承知している。彼女もまた奪われた者だったのだ、そう単純に割り切れれば良かったのだが、自分で自分を慰めてもこの怒りと失望は収まらなかった。姉の姉としての姿は、私の素晴らしいはずのもしもの未来の一つだったのだ。貨客船、としての。もしも。
「ねえ、なぜ、姉さんは、その姿じゃないとだめだったの」
「……今はお兄ちゃんって呼んでね」
「俺は生きることに愚直でありたかった」という言葉は、私の姉の言葉だった。
愚直であるということは即ち貴女の今の姿なの、という言葉を飲み込んだ私の顔はさぞ不美人だったに違いない。兄よりも凛々しい顔をした姉は、淡く笑って言った。「変な顔をしてる。護国丸は美人なんだからお止めよ」。
「やめてよ、美人だなんて言って。気持ち悪い」と、私は今度こそ姉に言った。気持ちが悪い。そうだ、この言葉、これこそが私の今の偽らざる感情だった。
本当に美人だと思っているんだが、と姉は嘯いて困っていたが、そんなことはどうでも良い。私は姉を――否、今は兄だった、その兄のことを「兄」とは認めたことはなかった。
私の姉は、報国丸型貨客船「愛国丸」は、特設巡洋艦になると共にそのうつし身を男の姿へと変えていた。前の戦争で特設艦になった先達の中にも同様に姿を変えた船たちはいたらしい。理由は分からず、特設艦への改装の具合や船のうつし身の気質などが影響するらしいと聞く。だから、その現象自体には驚きはなかった。
それでもそこにあった蟠りに名前を付けるとしたら、それは怒りかもしれない。姉は華やかな客船としての内装も、そのうつし身としての優れた容姿も、私にはない艶やかさも、奪われなかった名も、矜持も、美も、女として生きるに値する何かを、持っているはずだ。持っているはずだったのだ。
けれど私がその美貌を噂に聞き、密かに憧れていた姉に出会ったときには、彼女は既に無残にして完璧なる特設巡洋艦だった。竣工する前から彼女に貨客船としての生涯はないも同然だったのは私も承知している。彼女もまた奪われた者だったのだ、そう単純に割り切れれば良かったのだが、自分で自分を慰めてもこの怒りと失望は収まらなかった。姉の姉としての姿は、私の素晴らしいはずのもしもの未来の一つだったのだ。貨客船、としての。もしも。
「ねえ、なぜ、姉さんは、その姿じゃないとだめだったの」
「……今はお兄ちゃんって呼んでね」
無題
「そして私は船尾から長い航跡波を眺めていました。その時、突然一人の女の子が現れて『波の上に揺られるのって気持ちいいですよね』と私に話しかけてきたんです。彼女は笑って続けました、『赤子のゆりかごみたいです。私は人間じゃないので、そんなものを使われたことはないのですが』」
「そして私は船尾から長い航跡波を眺めていました。その時、突然一人の女の子が現れて『波の上に揺られるのって気持ちいいですよね』と私に話しかけてきたんです。彼女は笑って続けました、『赤子のゆりかごみたいです。私は人間じゃないので、そんなものを使われたことはないのですが』」
無題
手が離せない代筆してくれと言われ綴ろうとした寸前に気づいたのは今自分は特設艦であること、自分が綴るのは英語で書かれた航海日誌ではなく母語であり母国語で書かれた戦時日誌であること。でも愛する母国とやらは一体どこにあるのだろう?報国丸が愛を誓ったのは名に反して海だけであった。
手が離せない代筆してくれと言われ綴ろうとした寸前に気づいたのは今自分は特設艦であること、自分が綴るのは英語で書かれた航海日誌ではなく母語であり母国語で書かれた戦時日誌であること。でも愛する母国とやらは一体どこにあるのだろう?報国丸が愛を誓ったのは名に反して海だけであった。
無題
「神がご自身の姿に寄せて人間を造られたのなら」と、アメリカ海軍の航空母艦エンタープライズは言った。「俺たちもおなじ神の似姿。地上でも海上でもこの世ではおなじく平等だ、そうだろう?」
「神がご自身の姿に寄せて人間を造られたのなら」と、アメリカ海軍の航空母艦エンタープライズは言った。「俺たちもおなじ神の似姿。地上でも海上でもこの世ではおなじく平等だ、そうだろう?」
無題
一番戸惑ったのは、日の丸を船尾に掲げない世界に来てしまったことよ。愛着と恩義があったあの社旗を船首に掲げるのではなく、旭日を後ろに背負わねばならない世界。前と後ろが入れ替わったおかしな世界で生きていかなければならないんだって、そう考えたら涙が出てきてたまらなかったの。
一番戸惑ったのは、日の丸を船尾に掲げない世界に来てしまったことよ。愛着と恩義があったあの社旗を船首に掲げるのではなく、旭日を後ろに背負わねばならない世界。前と後ろが入れ替わったおかしな世界で生きていかなければならないんだって、そう考えたら涙が出てきてたまらなかったの。
潜水艦
「お魚さんたちが言っていたよ、最近は海のうえからあたらしい漁礁が落ちてこなくて残念だって」「藤壺さんたちが言っているよ、この海にいた軍艦たちのおおきなお腹がなつかしいって」「海星さんたちは、濃紺の天からきらきら光る爆雷が降ってこなくてさみしいってさ」
「お魚さんたちが言っていたよ、最近は海のうえからあたらしい漁礁が落ちてこなくて残念だって」「藤壺さんたちが言っているよ、この海にいた軍艦たちのおおきなお腹がなつかしいって」「海星さんたちは、濃紺の天からきらきら光る爆雷が降ってこなくてさみしいってさ」
サバイバー
その数十年後、氷川丸は周りの小さな船舶たちに、夜は絶対に明かりを灯さないようにと厳しく言った。夜に氷川丸を訪ねては、喫煙室にライトを照らすことを求める遊覧船やフェリー船たちに対して禁じ、懇願し、要求しては厳命した。彼らに事の理由が理解できないのはわかっていた。だが、知らないで済まされるのか?夜に明かりを灯す事がどれほど危険なのかなんて。あの暗闇の中からどれほどのアメリカの潜水艦がこちらを見ているか、いつ魚雷が飛んでくるかわからないじゃないか、どれほど一瞬の油断で全てが変わってしまうか、わかるわけないじゃないか。運命というものが。犠牲や生死が。愛する者たちが。自分の船生が。
その数十年後、氷川丸は周りの小さな船舶たちに、夜は絶対に明かりを灯さないようにと厳しく言った。夜に氷川丸を訪ねては、喫煙室にライトを照らすことを求める遊覧船やフェリー船たちに対して禁じ、懇願し、要求しては厳命した。彼らに事の理由が理解できないのはわかっていた。だが、知らないで済まされるのか?夜に明かりを灯す事がどれほど危険なのかなんて。あの暗闇の中からどれほどのアメリカの潜水艦がこちらを見ているか、いつ魚雷が飛んでくるかわからないじゃないか、どれほど一瞬の油断で全てが変わってしまうか、わかるわけないじゃないか。運命というものが。犠牲や生死が。愛する者たちが。自分の船生が。
無題
くろしおが語って聞かせたところによれば、太陽と星の違いは――まあ明らかに明らかっちゃ明らかなんだけど、太陽と違って、明るいときには見えないが、暗い夜空の上ではきらきらと一等輝くのがお星さまだという。えっだからなんなの話が見えないよおじいちゃん、とおやしおは彼に聞いたが、だれがおじいちゃんだこのバカと言った後の彼の答えとしては、星は暗い時に最も美しく輝く、という、かの国の星条旗を暗示して言った、ある種の自虐じみた祖国への回顧であり、また自分自身のかつてのあの国での精神的な未熟さの振り返りでもあり、艦歴22歳のおじいちゃんの説教じみたお話だった。あるいは、くろしおは人魚姫に若干飽き飽きしていて、なんとなーく別の寓話の話でもしたかったのかも知れない。星は暗い時に最も美しく輝く。星は暗い時代に最も美しく、輝やかしく見える。くろしおはその「暗い時代」を――戦争の短い40年代、太平洋戦争の束の間の艦生を指して言っていたのだが、おやしおはそんな小難しいことなんか全然聞いちゃいなかったしすぐに忘れた。
くろしおが語って聞かせたところによれば、太陽と星の違いは――まあ明らかに明らかっちゃ明らかなんだけど、太陽と違って、明るいときには見えないが、暗い夜空の上ではきらきらと一等輝くのがお星さまだという。えっだからなんなの話が見えないよおじいちゃん、とおやしおは彼に聞いたが、だれがおじいちゃんだこのバカと言った後の彼の答えとしては、星は暗い時に最も美しく輝く、という、かの国の星条旗を暗示して言った、ある種の自虐じみた祖国への回顧であり、また自分自身のかつてのあの国での精神的な未熟さの振り返りでもあり、艦歴22歳のおじいちゃんの説教じみたお話だった。あるいは、くろしおは人魚姫に若干飽き飽きしていて、なんとなーく別の寓話の話でもしたかったのかも知れない。星は暗い時に最も美しく輝く。星は暗い時代に最も美しく、輝やかしく見える。くろしおはその「暗い時代」を――戦争の短い40年代、太平洋戦争の束の間の艦生を指して言っていたのだが、おやしおはそんな小難しいことなんか全然聞いちゃいなかったしすぐに忘れた。
いっとう耀うもの
己の現身たる潜水艦の中で手持ち無沙汰に読んだ本の中の世界は、だんだんと毒が回るように核の汚染で破滅していって、最後は南半球のオーストラリアの車の中で薬を飲んで安楽死するところで話は終わった。あーこの自堕落で緩慢になっていく感じ、どっかでぼくも体験したことがあるぞと興奮したけれど、どこで体験したのかは遂に思い出せなかった。どこだっけ。そんなに遠くじゃないと思うんだけど。最近の話だった気もするし。ぼくはうんうん唸ってあれこれ思案したけれど、自堕落で緩慢になって死に至る感覚なんて、努めて思い出しても楽しくはないと気づいて思い出すのはやめた。
夜遅くのヴェルニー公園を歩くと、対岸に見えるのはおなじみの海上自衛隊の横須賀の潜水艦基地だ。打ちつける波の音は小さく、ぼくが踏みつけるデッキが軋む音だけが大きく響いた。B1バースには、ぼくとずいくんとおやしお型の一隻が留まっている。普段はあちらからこちらを見るのに慣れているので、なんだか不思議な景色だった。こっちは日本で娑婆で、あちらはアメリカ合衆国の基地アンド海上自衛隊の潜水艦の基地がある。近くて遠い。時折潜水艦乗員の家族たちが、このデッキから潜水艦たちを見つめているのをぼくは知っていた。うーん、やっぱり遠い。
汐入桟橋には、横須賀軍港めぐりのアイドル・シーフレンド7ちゃんが留まっている。とっくに彼女のおうちは閉店がらがら本日は終了しましたのようだった。彼女の喫水は心なしか浅い。白抜きで数字の描かれた赤地のおなかがチラと見えている。あの子が夜に横須賀の街を歩いているのを見たことがないということに、ぼくは今更ながら気づいたのだった。箱入り娘なので夜の外出は禁じられているのか、それとも就寝時間が早いのか。夜更ける星空の下、あの子はもうすでにベッドのなかで夢を見ているのだろうか。小さな遊覧船が行けるはずのない、果てしない海の夢を。
ぼんやり思いに耽っていたけど帰らないと本当に怒られてしまうぞ、そう思いヴェルニー公園のデッキをぎしぎしと踏み鳴らし急ぎ足で歩いていたら、前から突如現れたのは三人組の黒い忍者、強力な攻撃型潜水艦たちだった。まずい、不覚。
「ちょっとごめんね~。今、大丈夫かな?」
「あっ……はい」
「君は何をしてるの?帰宅途中?」
「はい、そうです。へへ」
「申し訳ないんだけどさ~、学生証とか持ってる?」
「あっ学生じゃないんです……」
「働いてるの?」
「そうです」
「身分証明書って持ってるかな?」
慌ててこそこそと海上自衛官身分証明書(艦霊特別仕様)を出す。この身分証明書は海上自衛隊内で使うものというより、こうして外でトラブル――ここでは予期せぬおっちゃん警官三人の群狼作戦での補導――があったときに提示するためのものだ。書かれている年齢は、基本的にどの艦も十八歳以上になっている。ぼくも十八歳だ。ちょっと無理があるんじゃないかと自分でも思っている。十八歳て。この見た目で。
「自衛隊に勤めてるの!?へー!」
「です」
「ふーん、すごいね~。海上自衛隊なんだ。すぐそこじゃん」
「です~」
「………………十八歳なんだ?」
「ですです~」
「なんのお仕事してるの?」
「せんすいかんをやっている……?」
「潜水艦?潜水艦に乗ってるの?すごーい」
「へへっ」
「知ってる~潜水艦の乗組員ってお給料いいんでしょ?沈むの大変だもんね」
「へへへ」
「まあいいや。夜遅くにあまり歩かないようにね。邪魔はしないけど。とりあえず気をつけて帰ってね」
「この国のことよろしくね~。おじさんたちもがんばるからね。ピース!」
「ピース!」
二本指でピースをしながら警官三人を見送る。束の間の対潜爆弾攻撃は、どうやら終わったようだった。
それをすぐに意識から追いやって急いで基地内の私室に帰ると、そこで待っていたのは若干不機嫌そうな顔をしたずいくんだった。遅いよお心配しちゃったじゃんかあカツアゲにでもあってるのかもって思ってえ~ごめんねえカツアゲにあってないけどなんか似たような絡まれ方はしちゃって遅れちゃったんだよお~ええええ大丈夫だったあ~みたいな、いつも通りともいえる応酬をして、しばらく一緒にNintendo Switchで遊んだ後、いそいそとベッドにもぐりこんだ。電灯を消す。真っ暗だ。静寂。それでも夜の横須賀からはあまり星は見えない。暗闇の部屋の中でぼそぼそと会話をしながら、だんだんと眠りに引き込まれていく瞬間がぼくは好きだ。ずいくんのさわさわしたこそばゆい囁き声が好きだ。今日はすこし寒かったねえ明日は晴れると良いねえ、今度一緒に鎌倉にでも行こうよ、きっと楽しいよ。一瞬のまどろみのなかでぼくは気づく。あ、これだ、自堕落に緩慢していく感じって。なんか好きだなあ。今日はもうおやすみ
己の現身たる潜水艦の中で手持ち無沙汰に読んだ本の中の世界は、だんだんと毒が回るように核の汚染で破滅していって、最後は南半球のオーストラリアの車の中で薬を飲んで安楽死するところで話は終わった。あーこの自堕落で緩慢になっていく感じ、どっかでぼくも体験したことがあるぞと興奮したけれど、どこで体験したのかは遂に思い出せなかった。どこだっけ。そんなに遠くじゃないと思うんだけど。最近の話だった気もするし。ぼくはうんうん唸ってあれこれ思案したけれど、自堕落で緩慢になって死に至る感覚なんて、努めて思い出しても楽しくはないと気づいて思い出すのはやめた。
夜遅くのヴェルニー公園を歩くと、対岸に見えるのはおなじみの海上自衛隊の横須賀の潜水艦基地だ。打ちつける波の音は小さく、ぼくが踏みつけるデッキが軋む音だけが大きく響いた。B1バースには、ぼくとずいくんとおやしお型の一隻が留まっている。普段はあちらからこちらを見るのに慣れているので、なんだか不思議な景色だった。こっちは日本で娑婆で、あちらはアメリカ合衆国の基地アンド海上自衛隊の潜水艦の基地がある。近くて遠い。時折潜水艦乗員の家族たちが、このデッキから潜水艦たちを見つめているのをぼくは知っていた。うーん、やっぱり遠い。
汐入桟橋には、横須賀軍港めぐりのアイドル・シーフレンド7ちゃんが留まっている。とっくに彼女のおうちは閉店がらがら本日は終了しましたのようだった。彼女の喫水は心なしか浅い。白抜きで数字の描かれた赤地のおなかがチラと見えている。あの子が夜に横須賀の街を歩いているのを見たことがないということに、ぼくは今更ながら気づいたのだった。箱入り娘なので夜の外出は禁じられているのか、それとも就寝時間が早いのか。夜更ける星空の下、あの子はもうすでにベッドのなかで夢を見ているのだろうか。小さな遊覧船が行けるはずのない、果てしない海の夢を。
ぼんやり思いに耽っていたけど帰らないと本当に怒られてしまうぞ、そう思いヴェルニー公園のデッキをぎしぎしと踏み鳴らし急ぎ足で歩いていたら、前から突如現れたのは三人組の黒い忍者、強力な攻撃型潜水艦たちだった。まずい、不覚。
「ちょっとごめんね~。今、大丈夫かな?」
「あっ……はい」
「君は何をしてるの?帰宅途中?」
「はい、そうです。へへ」
「申し訳ないんだけどさ~、学生証とか持ってる?」
「あっ学生じゃないんです……」
「働いてるの?」
「そうです」
「身分証明書って持ってるかな?」
慌ててこそこそと海上自衛官身分証明書(艦霊特別仕様)を出す。この身分証明書は海上自衛隊内で使うものというより、こうして外でトラブル――ここでは予期せぬおっちゃん警官三人の群狼作戦での補導――があったときに提示するためのものだ。書かれている年齢は、基本的にどの艦も十八歳以上になっている。ぼくも十八歳だ。ちょっと無理があるんじゃないかと自分でも思っている。十八歳て。この見た目で。
「自衛隊に勤めてるの!?へー!」
「です」
「ふーん、すごいね~。海上自衛隊なんだ。すぐそこじゃん」
「です~」
「………………十八歳なんだ?」
「ですです~」
「なんのお仕事してるの?」
「せんすいかんをやっている……?」
「潜水艦?潜水艦に乗ってるの?すごーい」
「へへっ」
「知ってる~潜水艦の乗組員ってお給料いいんでしょ?沈むの大変だもんね」
「へへへ」
「まあいいや。夜遅くにあまり歩かないようにね。邪魔はしないけど。とりあえず気をつけて帰ってね」
「この国のことよろしくね~。おじさんたちもがんばるからね。ピース!」
「ピース!」
二本指でピースをしながら警官三人を見送る。束の間の対潜爆弾攻撃は、どうやら終わったようだった。
それをすぐに意識から追いやって急いで基地内の私室に帰ると、そこで待っていたのは若干不機嫌そうな顔をしたずいくんだった。遅いよお心配しちゃったじゃんかあカツアゲにでもあってるのかもって思ってえ~ごめんねえカツアゲにあってないけどなんか似たような絡まれ方はしちゃって遅れちゃったんだよお~ええええ大丈夫だったあ~みたいな、いつも通りともいえる応酬をして、しばらく一緒にNintendo Switchで遊んだ後、いそいそとベッドにもぐりこんだ。電灯を消す。真っ暗だ。静寂。それでも夜の横須賀からはあまり星は見えない。暗闇の部屋の中でぼそぼそと会話をしながら、だんだんと眠りに引き込まれていく瞬間がぼくは好きだ。ずいくんのさわさわしたこそばゆい囁き声が好きだ。今日はすこし寒かったねえ明日は晴れると良いねえ、今度一緒に鎌倉にでも行こうよ、きっと楽しいよ。一瞬のまどろみのなかでぼくは気づく。あ、これだ、自堕落に緩慢していく感じって。なんか好きだなあ。今日はもうおやすみ
生来からの縁
第二に、その人に潜水艦乗員の適性があるかはとても重要だ。根気づよく粘れるが神経質ではない、独立心があると同時に周りとうまく協調できる、普段はうるさく立ち振る舞っていてもいざという時に黙ることができる。孤独になれるのは必要だが孤立しないこと。あと、体格が大柄でないと良いのは旧軍時代からの事実である。個人の努力では体格なんてどうしようもならないと言われようと仕方ないのだ。体格も性格も適性も生来のものだ、という事実を理解できる頭脳があること。その生来の抗えない事実をカバーできる精神力と努力があること。
海底の中で孤立した集団社会では、必要とされるものは自ずと増えてくる。あなたが二十四時間いるのは快適な家ではなく、艦という職場なのだ。おまけに周りは海水で包まれている。そこから無理やりにでも逃げたくなったら、どうぞ深海救難艇でもご検討ください。
横須賀の潜水艦の基地はアメリカ海軍の基地と同居しているから、一般人が入るには結構なチェックを受けることになる。身分証明書はあるか。不審物を所持していないか。どんな目的で来たのか。誰が招待したのか。前もっての申請はあるか。
そんなわけでただでさえ情報機密のせいで難しい潜水艦の艦内見学は、前もって募集したあと、手紙やはがきでの案内から始まることが多い。決行の日時を提示して、同時に持ち物や注意などを書き添えて送るのだ。
なんだか招待状みたいでわくわくするよね、とそうりゅう型潜水艦六番艦のこくりゅうに言ったのは、五番艦ずいりゅうである。
「潜水艦見学ってわくわくするんだよね~。いつも同じ顔しか艦内では見ないじゃんか。小さい子が潜水艦に興奮しているのを見ると、ぼくもドヤドヤってなる」
「わかる!思わず椅子の下の野菜とか見せちゃったりね」
「つたない梯子の昇降にウフフってなるんだよ」
ずいりゅうは乗員が置いていったはがきの束を矯めつ眇めつしていたが、とうとうはがきを手に取って「どうせなら念を入れておこ」と言いながらその紙にキスをしはじめた。ちょっとおマジすぎて怖いんですけどぉとこくりゅうが止めてもキスをやめないずいりゅうは、こくちゃんも手伝ってよと言い出す。隣にいたこくりゅうはひぃと悲鳴を上げて思わず大声で尋ね返した。
「えっはがきにちゅーするんですか!?」
「念でもいいよ、念でも。テレパステレパス」
「何の念?」
そう尋ねたこくりゅうに、ずいりゅうはためらいもなくあっさりと言った。そりゃあ、当たり前でしょうに……。
「潜水艦に興味がある子が縁あって潜水艦乗員になれますように、って念を……」
「あーんすてき~!イケメンな発言~!艦と書いて漢と読む!」
きゃあきゃあ騒ぐこくりゅうにも照れず、ずいりゅうが手に持つはがきを裏返して見つめているのは、書いてある宛先の名前だった。
「ほら、この子とか女の子だよ。女の子も潜水艦乗員になれる時代だしねぇ」
「わりとしみじみ言うね!マジな念なんだね!茶化してごめんね……。……ああでも、女の子の潜水艦乗員かぁ」
「昔、潜水艦乗員になりたかったけどなれなかったから護衛艦に行ったっていう女の人に会ったことがあるよ」
「そっかぁ……」
性別という「適性」によって潜水艦に乗ることができないということを、こくりゅうはうーんと考える。
いまだに女性のことも、人間のことすらもよくわからないままだった。これからも乗れない女性の気持ちも、乗せられないと決めた人間の気持ちもわかるはずあるまい。艦、なのだ。己は。
潜水艦乗員って選り好み激しすぎるんですよ、とこくりゅうが言った。選り好みしないとやっていけない集団だしね、とずいりゅうも言う。繊細に調整したうえでの精強な艦隊なのだ。
己を構成する艦という物体、それを運用する人間たちが能力やコストパフォーマンスで選りすぐられること。そうして効率を良くして成果を出そうとすること。そして「いざという時」に備えること。艦として。潜水艦として。自衛艦として。
それはきっと喜ぶべきことなのだろう。頼もしいと思うべきなのだろう。ぼくら、モノとしての効率化を。
でも、とずいりゅうは続けた。
「潜水艦乗員になりたい人が潜水艦乗員になってくれるとうれしい。……ぼくは潜水艦として間違っているだろうか。感情的すぎるだろうか」
「いいと思うよ。……効率だけで人間は動けないから。たぶん。ぼくは知りえないんだけど」
第一に、潜水艦が好きであること。興味を持っているこということ。ぼくはそれが潜水艦の乗員には重要な資格だと思うのだ。
第二に、その人に潜水艦乗員の適性があるかはとても重要だ。根気づよく粘れるが神経質ではない、独立心があると同時に周りとうまく協調できる、普段はうるさく立ち振る舞っていてもいざという時に黙ることができる。孤独になれるのは必要だが孤立しないこと。あと、体格が大柄でないと良いのは旧軍時代からの事実である。個人の努力では体格なんてどうしようもならないと言われようと仕方ないのだ。体格も性格も適性も生来のものだ、という事実を理解できる頭脳があること。その生来の抗えない事実をカバーできる精神力と努力があること。
海底の中で孤立した集団社会では、必要とされるものは自ずと増えてくる。あなたが二十四時間いるのは快適な家ではなく、艦という職場なのだ。おまけに周りは海水で包まれている。そこから無理やりにでも逃げたくなったら、どうぞ深海救難艇でもご検討ください。
横須賀の潜水艦の基地はアメリカ海軍の基地と同居しているから、一般人が入るには結構なチェックを受けることになる。身分証明書はあるか。不審物を所持していないか。どんな目的で来たのか。誰が招待したのか。前もっての申請はあるか。
そんなわけでただでさえ情報機密のせいで難しい潜水艦の艦内見学は、前もって募集したあと、手紙やはがきでの案内から始まることが多い。決行の日時を提示して、同時に持ち物や注意などを書き添えて送るのだ。
なんだか招待状みたいでわくわくするよね、とそうりゅう型潜水艦六番艦のこくりゅうに言ったのは、五番艦ずいりゅうである。
「潜水艦見学ってわくわくするんだよね~。いつも同じ顔しか艦内では見ないじゃんか。小さい子が潜水艦に興奮しているのを見ると、ぼくもドヤドヤってなる」
「わかる!思わず椅子の下の野菜とか見せちゃったりね」
「つたない梯子の昇降にウフフってなるんだよ」
ずいりゅうは乗員が置いていったはがきの束を矯めつ眇めつしていたが、とうとうはがきを手に取って「どうせなら念を入れておこ」と言いながらその紙にキスをしはじめた。ちょっとおマジすぎて怖いんですけどぉとこくりゅうが止めてもキスをやめないずいりゅうは、こくちゃんも手伝ってよと言い出す。隣にいたこくりゅうはひぃと悲鳴を上げて思わず大声で尋ね返した。
「えっはがきにちゅーするんですか!?」
「念でもいいよ、念でも。テレパステレパス」
「何の念?」
そう尋ねたこくりゅうに、ずいりゅうはためらいもなくあっさりと言った。そりゃあ、当たり前でしょうに……。
「潜水艦に興味がある子が縁あって潜水艦乗員になれますように、って念を……」
「あーんすてき~!イケメンな発言~!艦と書いて漢と読む!」
きゃあきゃあ騒ぐこくりゅうにも照れず、ずいりゅうが手に持つはがきを裏返して見つめているのは、書いてある宛先の名前だった。
「ほら、この子とか女の子だよ。女の子も潜水艦乗員になれる時代だしねぇ」
「わりとしみじみ言うね!マジな念なんだね!茶化してごめんね……。……ああでも、女の子の潜水艦乗員かぁ」
「昔、潜水艦乗員になりたかったけどなれなかったから護衛艦に行ったっていう女の人に会ったことがあるよ」
「そっかぁ……」
性別という「適性」によって潜水艦に乗ることができないということを、こくりゅうはうーんと考える。
いまだに女性のことも、人間のことすらもよくわからないままだった。これからも乗れない女性の気持ちも、乗せられないと決めた人間の気持ちもわかるはずあるまい。艦、なのだ。己は。
潜水艦乗員って選り好み激しすぎるんですよ、とこくりゅうが言った。選り好みしないとやっていけない集団だしね、とずいりゅうも言う。繊細に調整したうえでの精強な艦隊なのだ。
己を構成する艦という物体、それを運用する人間たちが能力やコストパフォーマンスで選りすぐられること。そうして効率を良くして成果を出そうとすること。そして「いざという時」に備えること。艦として。潜水艦として。自衛艦として。
それはきっと喜ぶべきことなのだろう。頼もしいと思うべきなのだろう。ぼくら、モノとしての効率化を。
でも、とずいりゅうは続けた。
「潜水艦乗員になりたい人が潜水艦乗員になってくれるとうれしい。……ぼくは潜水艦として間違っているだろうか。感情的すぎるだろうか」
「いいと思うよ。……効率だけで人間は動けないから。たぶん。ぼくは知りえないんだけど」
第一に、潜水艦が好きであること。興味を持っているこということ。ぼくはそれが潜水艦の乗員には重要な資格だと思うのだ。
仮装巡洋艦
「オペラを愛しオペラの音色に酔いしれながら出撃奔放し殺戮する悪趣味な特設巡洋艦、未だ貨客船の身を忘れられぬが船を狩る行動は戦闘艦そのもの」と自身を評され、愛国丸は心外だと憤慨した。オペラも戦争も、両方とも確かに芸術ではないか。技巧が全てを言うのだ。
「オペラを愛しオペラの音色に酔いしれながら出撃奔放し殺戮する悪趣味な特設巡洋艦、未だ貨客船の身を忘れられぬが船を狩る行動は戦闘艦そのもの」と自身を評され、愛国丸は心外だと憤慨した。オペラも戦争も、両方とも確かに芸術ではないか。技巧が全てを言うのだ。
軍艦
「戦争そのものが、わたしたちの道具としての存在意義です。政治は人間が考えることであって、わたしたちが考えることは自分の放った弾が魚雷が爆雷が、ちゃんとあたるかどうかだけ。言ってしまえば、戦局ですらそうです。マレー作戦の勝利もミッドウェー作戦の敗北もわたしたちには関係ない。勝利も敗北もわたしたちの存在意義は変えられない。魚雷が刺さる、沈んだらそれで終わり、沈まなかったら次の戦場まで己を温存するまでです。次の海戦で敵の艦――人間の定義する敵です、わたしにとってはわたし以外のふね――に、砲弾を浴びせるだけのこと。艦艇であること。いくさぶねであるということはそういうことであって、愛だとか恋だとか、悲しいだの悔しいだのなんだの、そんな人間の真似事みたいなものは変わり者のやることでした。少なくともわたしはそう思っています。」
(高雄)
「戦争そのものが、わたしたちの道具としての存在意義です。政治は人間が考えることであって、わたしたちが考えることは自分の放った弾が魚雷が爆雷が、ちゃんとあたるかどうかだけ。言ってしまえば、戦局ですらそうです。マレー作戦の勝利もミッドウェー作戦の敗北もわたしたちには関係ない。勝利も敗北もわたしたちの存在意義は変えられない。魚雷が刺さる、沈んだらそれで終わり、沈まなかったら次の戦場まで己を温存するまでです。次の海戦で敵の艦――人間の定義する敵です、わたしにとってはわたし以外のふね――に、砲弾を浴びせるだけのこと。艦艇であること。いくさぶねであるということはそういうことであって、愛だとか恋だとか、悲しいだの悔しいだのなんだの、そんな人間の真似事みたいなものは変わり者のやることでした。少なくともわたしはそう思っています。」
(高雄)
深海の世界
「海の底の潜水艦の中でずっとごはんを食べていると、海の底から帰れなくなる気がしてきませんか?」と、弟のうんりゅうが水平線を見つめながら言った。そうかな、気にしたこともなかった、とぼくは返す。「海の底の潜水艦、なんて詩的なことを言ったって、しょせんは食堂の中でしょ?明るい電灯とカラーテレビと、おまけに小さな電子レンジつき」
「でも、まぎれもない別世界ですよ、海の底は。地上とはすこし違う」
そう彼は言った。海を見つめる彼の表情は、まるで何かが眩しそうに少し歪んでいた。一瞬黙った後、こちらを見て、小さく囁く。
「きっとぼくらは、黄泉戸喫をしては無理矢理この世界に帰ってきてるんだ」
「海の底の潜水艦の中でずっとごはんを食べていると、海の底から帰れなくなる気がしてきませんか?」と、弟のうんりゅうが水平線を見つめながら言った。そうかな、気にしたこともなかった、とぼくは返す。「海の底の潜水艦、なんて詩的なことを言ったって、しょせんは食堂の中でしょ?明るい電灯とカラーテレビと、おまけに小さな電子レンジつき」
「でも、まぎれもない別世界ですよ、海の底は。地上とはすこし違う」
そう彼は言った。海を見つめる彼の表情は、まるで何かが眩しそうに少し歪んでいた。一瞬黙った後、こちらを見て、小さく囁く。
「きっとぼくらは、黄泉戸喫をしては無理矢理この世界に帰ってきてるんだ」
セカンドハンドの名前
あの人はいつも一瞬の沈黙をおいてから、そうっとぼくの名前を呼ぶ。「お菓子があるよ、なるしお。……くろしおも」そうチョコレート菓子を差し出すおやしおを、「おじいちゃん~」と茶化すのは、ぼくと同じうずしお型潜水艦であり、一つ上の兄のなるしおだった。
「じゃあいらないか、なるしお」
「いらないとは言ってないよ、チョコレートちょうだいよ。……くろしおももらうよね?」
うん、もらうよ、そう言っておやしおからチョコレートをかすめとるように貰い、すかさず二人で頬張ると、おやしおは嬉しそうに、そしてすこし寂しそうに笑った。その笑みの昏さに気付いていないなるしおが、彼に尋ねる。
「六月の接触事故は大丈夫だった?」
「え?ああ、うん。大丈夫だよ。よくあることだし。……よくあることだった、かな?」
君たちの代では減るだろうね、最新鋭の涙滴型さん。それは皮肉な言い方ではなかった。純粋な、歳をとった者が次の世代に込めた期待の念だった。なるしおは得意げに胸をそらす(口にすこしチョコレートがついていたのをぼくは認めた)。変わらずそれを寂しそうに笑うおやしおは、前よりすこし老いた気がした。除籍が、もうそれほど遠くないからかもしれない。戦後初の国産潜水艦の、来たる最期の日。……戦後初の日本潜水艦の最期は、どんなだったんだろう?
「今日はもうお帰り、なるしお。……くろしお」
あの人はいつも一瞬の沈黙をおいてから、そうっとぼくの名前を呼ぶ。「お菓子があるよ、なるしお。……くろしおも」そうチョコレート菓子を差し出すおやしおを、「おじいちゃん~」と茶化すのは、ぼくと同じうずしお型潜水艦であり、一つ上の兄のなるしおだった。
「じゃあいらないか、なるしお」
「いらないとは言ってないよ、チョコレートちょうだいよ。……くろしおももらうよね?」
うん、もらうよ、そう言っておやしおからチョコレートをかすめとるように貰い、すかさず二人で頬張ると、おやしおは嬉しそうに、そしてすこし寂しそうに笑った。その笑みの昏さに気付いていないなるしおが、彼に尋ねる。
「六月の接触事故は大丈夫だった?」
「え?ああ、うん。大丈夫だよ。よくあることだし。……よくあることだった、かな?」
君たちの代では減るだろうね、最新鋭の涙滴型さん。それは皮肉な言い方ではなかった。純粋な、歳をとった者が次の世代に込めた期待の念だった。なるしおは得意げに胸をそらす(口にすこしチョコレートがついていたのをぼくは認めた)。変わらずそれを寂しそうに笑うおやしおは、前よりすこし老いた気がした。除籍が、もうそれほど遠くないからかもしれない。戦後初の国産潜水艦の、来たる最期の日。……戦後初の日本潜水艦の最期は、どんなだったんだろう?
「今日はもうお帰り、なるしお。……くろしお」
海
ぼくがまだ海という言葉を覚えていなかったころ、遠くにあるあのうつくしいものを指差して「あれはなに?」と兄に尋ねたことがある。「あのきらきらきらした、とびはねているきれいなものはなんていうの」
兄は「ふねのこと?」と答えた。
「ふね?」
「うん。ぼくたちと違って海に浮かんでるやつでしょ?」
兄はそう笑った。「海」と呟き、それをじっと見つめたぼくのことなんてつゆ知らず、兄は愉快そうに笑ながら小さく歌いはじめた。
「うーみーは、ひろいーな、おおきーいーなー……って、もしかして『とびはねてるきれいなもの』って海のこと?」兄はおどろいてぼくに尋ねた。ぼくは”海”という言葉に魅入られ、呆然とただそれを眺めていた。「海……」
「……うん。綺麗でしょ。海って言うんだよ。でも、その綺麗な水面はぼくたちの生きる場所じゃないから」
ぼくがまだ海という言葉を覚えていなかったころ、遠くにあるあのうつくしいものを指差して「あれはなに?」と兄に尋ねたことがある。「あのきらきらきらした、とびはねているきれいなものはなんていうの」
兄は「ふねのこと?」と答えた。
「ふね?」
「うん。ぼくたちと違って海に浮かんでるやつでしょ?」
兄はそう笑った。「海」と呟き、それをじっと見つめたぼくのことなんてつゆ知らず、兄は愉快そうに笑ながら小さく歌いはじめた。
「うーみーは、ひろいーな、おおきーいーなー……って、もしかして『とびはねてるきれいなもの』って海のこと?」兄はおどろいてぼくに尋ねた。ぼくは”海”という言葉に魅入られ、呆然とただそれを眺めていた。「海……」
「……うん。綺麗でしょ。海って言うんだよ。でも、その綺麗な水面はぼくたちの生きる場所じゃないから」
水面にいちばんちかいフネ
「大きいふねになりたいな」
と、友達のえい船がぽつりと洩らした。「水平線しか見えない大海原を、一人で泳いでみたくない?」
わかるよ、ともう一人のえい船が会話を繋いだ。「果てしない海を渡って、外国の綺麗な港で旗を上げてみたくない?」
「ぼくは海賊をやっつけたい!」と、さらにもう一人の別のえい船が朗々と叫んだ。それに対し、やっつけてるんじゃないんでしょ?よくわかんないけど、とまた別のえい船がつっこみ、言葉を続けた。
「ぼくは海の中でお魚とおしゃべりしながら、みんなで一緒に泳ぎたいな」この前、なんちゃらりゅうくんが、海の中は賑やかでキラキラしていて、とても素敵なところだよって言ってたんだ。
ここまで語ること四人。黙っていたぼくを、彼らはそっと見つめる。「君はなんの艦になりたい?」
「……ぼくは、……ぼくは、えい船のままがいい」
そうぽつりと言うと、みんなはええーっと驚いたように叫んだ。なんでなんで、とみんなは大合唱する。君は縁の下の力持ちのままでいいの、かっこいい写真を撮られてみたくないの、自分の名前を覚えられたくないの。
だってだって、とぼくは反論した。えい船の上で当たる風が、いちばん気持ちがいいんだもん。ぼくのその言葉に、みんなはきょとんとしている。ぼくは続けた。
「護衛艦や補助艦艇はおおきなお城みたいだ、水面のちかくで体いっぱいに風にあたれない。潜水艦はいつも海の中でひとりぼっちだし。……ぼくは知ってるよ、えい船の上で味わえる風の、いちばんの気持ちよさを」
そんなぼくの言葉に、みんなはびっくりしてただ押し黙る。そして互いに目を合わせ、さらに数秒黙った後、うんうん、そっかそっか、と頷きあい、そうだねたしかにね、と言いあった。
「じゃあぼくもえい船のままでいよう」
「ぼくもそうする」
「小さいふねも、結構楽しいもんね」
君はいい子だなあと、友達のえい船が言った。みんなはないものねだりなんだよ、とぼくは小さく呟いた。
「大きいふねになりたいな」
と、友達のえい船がぽつりと洩らした。「水平線しか見えない大海原を、一人で泳いでみたくない?」
わかるよ、ともう一人のえい船が会話を繋いだ。「果てしない海を渡って、外国の綺麗な港で旗を上げてみたくない?」
「ぼくは海賊をやっつけたい!」と、さらにもう一人の別のえい船が朗々と叫んだ。それに対し、やっつけてるんじゃないんでしょ?よくわかんないけど、とまた別のえい船がつっこみ、言葉を続けた。
「ぼくは海の中でお魚とおしゃべりしながら、みんなで一緒に泳ぎたいな」この前、なんちゃらりゅうくんが、海の中は賑やかでキラキラしていて、とても素敵なところだよって言ってたんだ。
ここまで語ること四人。黙っていたぼくを、彼らはそっと見つめる。「君はなんの艦になりたい?」
「……ぼくは、……ぼくは、えい船のままがいい」
そうぽつりと言うと、みんなはええーっと驚いたように叫んだ。なんでなんで、とみんなは大合唱する。君は縁の下の力持ちのままでいいの、かっこいい写真を撮られてみたくないの、自分の名前を覚えられたくないの。
だってだって、とぼくは反論した。えい船の上で当たる風が、いちばん気持ちがいいんだもん。ぼくのその言葉に、みんなはきょとんとしている。ぼくは続けた。
「護衛艦や補助艦艇はおおきなお城みたいだ、水面のちかくで体いっぱいに風にあたれない。潜水艦はいつも海の中でひとりぼっちだし。……ぼくは知ってるよ、えい船の上で味わえる風の、いちばんの気持ちよさを」
そんなぼくの言葉に、みんなはびっくりしてただ押し黙る。そして互いに目を合わせ、さらに数秒黙った後、うんうん、そっかそっか、と頷きあい、そうだねたしかにね、と言いあった。
「じゃあぼくもえい船のままでいよう」
「ぼくもそうする」
「小さいふねも、結構楽しいもんね」
君はいい子だなあと、友達のえい船が言った。みんなはないものねだりなんだよ、とぼくは小さく呟いた。
愛国丸の愛国論
彼らがまっとうに老いていく快感を知らないのは酷く残念なことだ、と私は思った。
この時、私は三十六歳の少佐だった。私は人生を老いるということに慣れ、楽しむ余裕が出てきた頃だった。戦場で死ぬのが惜しいかもしれない、そう錯覚することもしばしばあった。早くに伴侶を亡くしたことに今更に寂しさを感じ、子息がいないということはすなわち私の証を残すものがいないことであることに気づいたのは、ここ数年のことだったか。帝国海軍に身を捧げ戦で名前を残すことに情熱を掛けたのも、はるか昔のことに思えた。
特設巡洋艦「愛国丸」に乗艦していたのは丁度そのような心境の頃であった。既に情熱とも愛国とも程遠い頃だったから、周りの乗組員たちの太平洋戦争開戦の熱狂についていけずにいた。もっとも戦艦での砲撃戦が至上と言われる連合艦隊は、日米戦争自体には熱狂こそしていたものの、船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で、通商破壊を行うこと自体はそこまで熱狂はしていなかった。通商破壊はみみっちい任務だと思われている節があったのだ。数隻の小さな貨物船を捕まえて何になる、そういう心境だったのだろう。船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で通商破壊をするのってみみっちい任務ですよねえ、小さな貨物船を捕まえて何になるんでしょうかね、そう私に語り掛けてきたのが、特設巡洋艦愛国丸、その艦自身だった。
愛国丸は報国・愛国・護国の気概があまりなかった私を気に入ったのか、しばしば艦内で私に話しかけてきた。「皆さん根性と情熱あって『愛国丸』って感じですよね、あ、ここでの『愛国丸』っていうのは『愛国男児』っていう意味の勝手に俺が付けた綽名です」とか、「護国丸が護国したくないみたいで本当に困ってます、まだ自分のこと貨客船だって信じてます」とか。大体は国に身を報じることについての話だったように思う。飄々とした軽薄な男児で、人間に生まれれば愛国とは程遠かっただろうに、その身に戴いた名前ゆえに彼は「愛国丸」だった。ここでの「愛国丸」は「愛国男児」という、彼が勝手につけた綽名での意味だ。
国を愛するということ、彼はそのことに悩んでいた。愛国って通商破壊で示せるんですかね、とも言っていた。私に愛国の意味を問うていたように思う。私が諭せるのは、それは時間が経てば解決するであろう難題だということ、それだけだったが、彼らは私と同じように歳は経ることはないのだった。三十六歳まで生きることもないだろう。この戦争で数歳の歳を経て、国を愛することに苦悩したまま沈んでいくのだ。彼らがまっとうに老いていく快感を知らないまま、愛国しか語れずに死ぬのは酷く残念なことだ。人間である私は思った。
彼らがまっとうに老いていく快感を知らないのは酷く残念なことだ、と私は思った。
この時、私は三十六歳の少佐だった。私は人生を老いるということに慣れ、楽しむ余裕が出てきた頃だった。戦場で死ぬのが惜しいかもしれない、そう錯覚することもしばしばあった。早くに伴侶を亡くしたことに今更に寂しさを感じ、子息がいないということはすなわち私の証を残すものがいないことであることに気づいたのは、ここ数年のことだったか。帝国海軍に身を捧げ戦で名前を残すことに情熱を掛けたのも、はるか昔のことに思えた。
特設巡洋艦「愛国丸」に乗艦していたのは丁度そのような心境の頃であった。既に情熱とも愛国とも程遠い頃だったから、周りの乗組員たちの太平洋戦争開戦の熱狂についていけずにいた。もっとも戦艦での砲撃戦が至上と言われる連合艦隊は、日米戦争自体には熱狂こそしていたものの、船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で、通商破壊を行うこと自体はそこまで熱狂はしていなかった。通商破壊はみみっちい任務だと思われている節があったのだ。数隻の小さな貨物船を捕まえて何になる、そういう心境だったのだろう。船だか特設艦だか巡洋艦だかわからないような艦艇で通商破壊をするのってみみっちい任務ですよねえ、小さな貨物船を捕まえて何になるんでしょうかね、そう私に語り掛けてきたのが、特設巡洋艦愛国丸、その艦自身だった。
愛国丸は報国・愛国・護国の気概があまりなかった私を気に入ったのか、しばしば艦内で私に話しかけてきた。「皆さん根性と情熱あって『愛国丸』って感じですよね、あ、ここでの『愛国丸』っていうのは『愛国男児』っていう意味の勝手に俺が付けた綽名です」とか、「護国丸が護国したくないみたいで本当に困ってます、まだ自分のこと貨客船だって信じてます」とか。大体は国に身を報じることについての話だったように思う。飄々とした軽薄な男児で、人間に生まれれば愛国とは程遠かっただろうに、その身に戴いた名前ゆえに彼は「愛国丸」だった。ここでの「愛国丸」は「愛国男児」という、彼が勝手につけた綽名での意味だ。
国を愛するということ、彼はそのことに悩んでいた。愛国って通商破壊で示せるんですかね、とも言っていた。私に愛国の意味を問うていたように思う。私が諭せるのは、それは時間が経てば解決するであろう難題だということ、それだけだったが、彼らは私と同じように歳は経ることはないのだった。三十六歳まで生きることもないだろう。この戦争で数歳の歳を経て、国を愛することに苦悩したまま沈んでいくのだ。彼らがまっとうに老いていく快感を知らないまま、愛国しか語れずに死ぬのは酷く残念なことだ。人間である私は思った。
時代流転
その波の上の社交界はそれはそれは鮮やかで、皆が憧れる世界であった。
そしてその舞台であった彼女も皆の華だった。
貨客船「浅間丸」。彼女の誇っていた美しさは時代の象徴そのものだった。一等社交室はイギリスの早期ジョージアン様式による古典的な装飾で、二層の吹き抜けの高い天井ドームの側面には大壁画が飾られている。ガラス張りのスカイライトから淡く光が差し込んではその壁画の色彩を乱反射させる。美しい内装に似合うのは美しい人々で、乗客たちは上品に装い、控えめに微笑み合い、自分達の慎ましくない裕福さを慎ましく誇示するのだった。
浅間丸が初めて見た舞台上の演奏会でとりわけ感動したのは、その演奏自体ではなく、演奏者の隣を彩る緞帳の天鵞絨の艶めかしい青色だった。吾を彩る美しき青色。船の、自身の装いの青。先達の貨客船の一人は「鏡を見た時に己に見惚れることが大切」と言っていて、竣工直後の浅間丸はそれに笑ったものだった。しかし、自分を彩る天鵞絨の青に見惚れたのは彼女と同種の誇りではなかったか。そう、この自惚れはナルシシズムなどではなく、客船としての誇りだった。
美しくあるということ。
美しく見せるということ。
彼らに夢を見せるために自身がまず夢を見るということ。海と海を結び先進の文化を担うということ。貨物を運び祖国へ利益をもたらすということ。貨客船として。
でも、いつまで貨客船としてこの我を保っていられるのだろう?
「浅間丸」
は、と気づくと、おじさまが私を見ていた。不安そうな表情でこちらを見る我が日本郵船の重役の一人。なんでもありませんわ、と私が曖昧に笑って答えると、それでも怪訝そうな顔をして彼は黙った。お前は具合が悪いのか、何か不安なことがあるのか、お前に手を差し伸べればいいのか――そのように彼は私に問い詰めたいのだろう。けれどそのどれもを放棄し、彼はただ押し黙っていた。時代がそうさせたのだった。海運会社は己らの船たちを救ってやることはできない。
独逸の波蘭への侵攻。日独伊三国同盟。船員徴用令、大政翼賛会。そんな人間たちの騒乱で、浅間丸が居たはずの鮮やかな海は急激に色褪せていった。いま必要とされているのは、船の運ぶ絹やテーブルマナーではなく、艦の担う石油や砲撃戦なのだ。
その波の上の社交界はそれはそれは鮮やかで、皆が憧れる世界であった。
そしてその舞台であった彼女も皆の華だった。
貨客船「浅間丸」。彼女の誇っていた美しさは時代の象徴そのものだった。一等社交室はイギリスの早期ジョージアン様式による古典的な装飾で、二層の吹き抜けの高い天井ドームの側面には大壁画が飾られている。ガラス張りのスカイライトから淡く光が差し込んではその壁画の色彩を乱反射させる。美しい内装に似合うのは美しい人々で、乗客たちは上品に装い、控えめに微笑み合い、自分達の慎ましくない裕福さを慎ましく誇示するのだった。
浅間丸が初めて見た舞台上の演奏会でとりわけ感動したのは、その演奏自体ではなく、演奏者の隣を彩る緞帳の天鵞絨の艶めかしい青色だった。吾を彩る美しき青色。船の、自身の装いの青。先達の貨客船の一人は「鏡を見た時に己に見惚れることが大切」と言っていて、竣工直後の浅間丸はそれに笑ったものだった。しかし、自分を彩る天鵞絨の青に見惚れたのは彼女と同種の誇りではなかったか。そう、この自惚れはナルシシズムなどではなく、客船としての誇りだった。
美しくあるということ。
美しく見せるということ。
彼らに夢を見せるために自身がまず夢を見るということ。海と海を結び先進の文化を担うということ。貨物を運び祖国へ利益をもたらすということ。貨客船として。
でも、いつまで貨客船としてこの我を保っていられるのだろう?
「浅間丸」
は、と気づくと、おじさまが私を見ていた。不安そうな表情でこちらを見る我が日本郵船の重役の一人。なんでもありませんわ、と私が曖昧に笑って答えると、それでも怪訝そうな顔をして彼は黙った。お前は具合が悪いのか、何か不安なことがあるのか、お前に手を差し伸べればいいのか――そのように彼は私に問い詰めたいのだろう。けれどそのどれもを放棄し、彼はただ押し黙っていた。時代がそうさせたのだった。海運会社は己らの船たちを救ってやることはできない。
独逸の波蘭への侵攻。日独伊三国同盟。船員徴用令、大政翼賛会。そんな人間たちの騒乱で、浅間丸が居たはずの鮮やかな海は急激に色褪せていった。いま必要とされているのは、船の運ぶ絹やテーブルマナーではなく、艦の担う石油や砲撃戦なのだ。
「よい遊覧船だったと思います」「艦艇なのに戦闘を経験しなかったの、そう望まれた生き方だったのよ」「処女航海で緊張していてワインをお洋服に零しちゃったの」「ほかの水上艦と一緒に満艦飾をしてみたかったなぁ、進水式でしかできない掟だったんです」「名前を覚えられることすらなかった小さな船生だったし、この先もみんな知らないままだろうと思います」「あとに残していく弟たちが心残りです、未だにあいつらに海のいろはも教えられていないのに」「いつでも海は優しいと教えてくれた社の人たちには感謝しきれないです」「私の艦は気風が厳しいと泣いてるひとがいた」「船に関わる人たちすべてを笑顔にできたわ、誓って言えます」「皆がぼくの写真を撮ってくれた」「愛されていたわ」「怖がられていたの」
某にて
「さっきぼくは夢を見ました」「夢」「オーストラリアに行く夢です」「すごーい!こくちゃんもついに輸出されちゃったの?」「そうかもしれない!しれない!」「で?」「オーストラリアのひとと仲良くなったり」「うん」「オーストラリアのお酒を飲んだり騒いだり」「いいね~」「ちょっと日本にも帰ってきて」「うんうん」「『横須賀市民の皆さんへ!こちら海上自衛隊潜水艦こくりゅう!もし聴こえている方がいたら海岸まで出てきてください!』って海から呼びかけるんだけど」「うん?」「誰もいないワケ」「……」「で、そのうち乗員が勝手に陸に上がっちゃって、『みんな死んでる、両親も娘も』って言うんだけど――」「それ僚艦は南米にいるやつでしょ?知ってる」
「さっきぼくは夢を見ました」「夢」「オーストラリアに行く夢です」「すごーい!こくちゃんもついに輸出されちゃったの?」「そうかもしれない!しれない!」「で?」「オーストラリアのひとと仲良くなったり」「うん」「オーストラリアのお酒を飲んだり騒いだり」「いいね~」「ちょっと日本にも帰ってきて」「うんうん」「『横須賀市民の皆さんへ!こちら海上自衛隊潜水艦こくりゅう!もし聴こえている方がいたら海岸まで出てきてください!』って海から呼びかけるんだけど」「うん?」「誰もいないワケ」「……」「で、そのうち乗員が勝手に陸に上がっちゃって、『みんな死んでる、両親も娘も』って言うんだけど――」「それ僚艦は南米にいるやつでしょ?知ってる」
2025年5月23日 この範囲を時系列順で読む
もはやなにものにもなれぬ
[※未完成の小説の切れ端]
バン、と音鳴り響いて倒れた椅子はかろうじて壊れなかった。
彼のその怒気迫る表情に身が凍ったのは清澄丸だけではあるまい。
椅子が大音を立てて倒れたのは、愛国丸がなりふり構わず猛然と立ち上がったからである。もともと軽薄な出で立ちが目立つふねであったから、その蛮行には清澄丸だけでなく周りの軍人達も驚き固まっていた。
愛国丸はそんな周りの多少の困惑と嫌悪の視線を気にすることもなく、なんなんだよ、と小さく呻いた。その声を耳に拾えた人間はわずかだった。清澄丸は確かに拾っていた。まるでこの世のすべてを憎んでいるような、低い声色だった。
「……なんなんだよ……。通商破壊なんて……っ、通商破壊なんて、粘り強くやらんと意味がないでしょう!船は一朝一夜で狩れるもんじゃないんだ!そんなこともわからんのですか!」
大日本帝国海軍の特設巡洋艦愛国丸は、通商破壊戦について人間たちに――己の運用者たる乗組員と軍上部に――一言物申したいのだった。否、特設巡洋艦だったもの、か。愛国丸は特設巡洋艦の任を解かれ特設運送船となる。いまがまさにこれからの特設運送船としての任務についての会議だったから、愛国丸もその己の未来と新しい使命とを受け入れていたと思っていた、のだが。
「やれますよ!俺にもう一度軍服を着させてくださいよ!なんでもいいから砲を、……砲を、兵装をくださいよ!」
と愛国丸は身を取り繕うもなく叫んだ。それは半ば悲鳴に近かったのかもしれなかった。特設巡洋艦としての蛮声なのか貨客船としての悲鳴だったのか、それはもう清澄丸には判別はつかなかった。
会議室の空気が急激に冷たくなっていくのを清澄丸は感じた。この状況は危険だ、と清澄丸は思った。乗組員はともかく軍の人間を怒らせることはできない。
立ち上がり彼を制止しようとしたが、彼より背の低い清澄丸が肩を掴む程度で止められるのなら元から騒ぐはずもない。
「愛国丸止めろ、」
「船を狩らせてくださいよ!俺になら出来るんだ!!やらせてください!!」
「愛国丸!!」
後ろから羽交い絞めにして制止する清澄丸をまったく眼中に入れず、しかし強く押し留められた愛国丸は、言葉にならない言葉を呟いてそのまま床に項垂れた。かろうじて聞こえた言葉は「にいさん」と「いまさら」だった。
清澄丸はふと思い出す。船の現身たるこの愛国丸は、特設巡洋艦の擬装を受けるまえは女性の姿をしていた、と言っていたことを。麗しきわが身を今更惜しいと彼は思うのか。そうではあるまい。愛国丸は一度も貨客船としての航跡を往かなかったし、いまさらそんなことに憧れているとも思えない。
「特設巡洋艦なんだ……頼むから……」
彼が憧れていたのは軍服を着続けること、軍隊で地位があること、屠られるよりも屠る側に居続けることなのかもしれなかった。
「落ち着けよ愛国丸……」
[※未完成の小説の切れ端]
バン、と音鳴り響いて倒れた椅子はかろうじて壊れなかった。
彼のその怒気迫る表情に身が凍ったのは清澄丸だけではあるまい。
椅子が大音を立てて倒れたのは、愛国丸がなりふり構わず猛然と立ち上がったからである。もともと軽薄な出で立ちが目立つふねであったから、その蛮行には清澄丸だけでなく周りの軍人達も驚き固まっていた。
愛国丸はそんな周りの多少の困惑と嫌悪の視線を気にすることもなく、なんなんだよ、と小さく呻いた。その声を耳に拾えた人間はわずかだった。清澄丸は確かに拾っていた。まるでこの世のすべてを憎んでいるような、低い声色だった。
「……なんなんだよ……。通商破壊なんて……っ、通商破壊なんて、粘り強くやらんと意味がないでしょう!船は一朝一夜で狩れるもんじゃないんだ!そんなこともわからんのですか!」
大日本帝国海軍の特設巡洋艦愛国丸は、通商破壊戦について人間たちに――己の運用者たる乗組員と軍上部に――一言物申したいのだった。否、特設巡洋艦だったもの、か。愛国丸は特設巡洋艦の任を解かれ特設運送船となる。いまがまさにこれからの特設運送船としての任務についての会議だったから、愛国丸もその己の未来と新しい使命とを受け入れていたと思っていた、のだが。
「やれますよ!俺にもう一度軍服を着させてくださいよ!なんでもいいから砲を、……砲を、兵装をくださいよ!」
と愛国丸は身を取り繕うもなく叫んだ。それは半ば悲鳴に近かったのかもしれなかった。特設巡洋艦としての蛮声なのか貨客船としての悲鳴だったのか、それはもう清澄丸には判別はつかなかった。
会議室の空気が急激に冷たくなっていくのを清澄丸は感じた。この状況は危険だ、と清澄丸は思った。乗組員はともかく軍の人間を怒らせることはできない。
立ち上がり彼を制止しようとしたが、彼より背の低い清澄丸が肩を掴む程度で止められるのなら元から騒ぐはずもない。
「愛国丸止めろ、」
「船を狩らせてくださいよ!俺になら出来るんだ!!やらせてください!!」
「愛国丸!!」
後ろから羽交い絞めにして制止する清澄丸をまったく眼中に入れず、しかし強く押し留められた愛国丸は、言葉にならない言葉を呟いてそのまま床に項垂れた。かろうじて聞こえた言葉は「にいさん」と「いまさら」だった。
清澄丸はふと思い出す。船の現身たるこの愛国丸は、特設巡洋艦の擬装を受けるまえは女性の姿をしていた、と言っていたことを。麗しきわが身を今更惜しいと彼は思うのか。そうではあるまい。愛国丸は一度も貨客船としての航跡を往かなかったし、いまさらそんなことに憧れているとも思えない。
「特設巡洋艦なんだ……頼むから……」
彼が憧れていたのは軍服を着続けること、軍隊で地位があること、屠られるよりも屠る側に居続けることなのかもしれなかった。
「落ち着けよ愛国丸……」
2025年4月11日 この範囲を時系列順で読む
2025年4月9日 この範囲を時系列順で読む
2025年3月31日 この範囲を時系列順で読む
2025年3月29日 この範囲を時系列順で読む
兄の存在に奪われた名前、姉の陰に隠れる美貌、兄姉の貨客船たる均整美を持たず、その影もとどめず、姿は戦時体制急ごしらえの特設巡洋艦、実際は特設運送船、しかしわが身のそのままをわが美しさと思いただその海にある、護国丸……
2025年3月25日 この範囲を時系列順で読む
2025年3月23日 この範囲を時系列順で読む
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#おふねニュース
2024年12月1日 この範囲を時系列順で読む
優男風の企業擬某の設定、「女を風呂に沈めていそうな男」と同輩企業たちから思われており、そしてまた企業たちは企業たちで、はたしてそれを彼にだけ言えるのかと自問自答している、多くの人間を苦海に沈めた近代資本の申し子たち…
まあ石炭を輸出して儲けていて、その石炭を運ぶ船でからゆきさんを運んでいたので……
まあ石炭を輸出して儲けていて、その石炭を運ぶ船でからゆきさんを運んでいたので……
2024年11月16日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月12日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月11日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月6日 この範囲を時系列順で読む
ある種の侵犯行為が身体性を持って迫ってくる話が欲しくて、それは特設艦船に欲しくて、なぜなら彼ら(彼女ら)は身を改造されて軍隊に統合されるからで、でも侵犯行為が身体性を持って身に迫ってくる話というべきものは性的なものとは分離し難く、しかしふね擬で性的なものなど描く気がない、という話
軍隊でのなじめなさ、性的な緊張感、自分は人間でないこと(それが特権であり孤独であること)、生理があること、子どもは産めないこと、それでも生きなければならないこと、死と沈没の区別がつくこと、人間にそれを混同されること、血を被ること、かつての華やかな航路、ドロッとした海、生臭い潮の匂い、改造時にどこかへ行ってしまった鮮やかな梅色のソファ、戦闘詳報と航海日誌のあいだ……
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
#おふねニュース
どうでもいい話なのですが、フリーフォントをひたすらダウンロードしていた時、「ドクト(独島)」という名前のフォントがありフフッとなりました。良いフォントなので時折使ってます。
2024年11月5日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月1日 この範囲を時系列順で読む
2024年10月30日 この範囲を時系列順で読む
2024年10月29日 この範囲を時系列順で読む
- 「渺渺録」(企業擬人化)(169)
- 『マーダーボット・ダイアリー』(33)
- おふねニュース(23)
- 「大脱走」(企業擬人化)(20)
- 「ノスタルジア 標準語批判序説」(二次創作)(18)
- 実況:初読『天冥の標』(16)
- きになる(13)
- 読んでる(13)
- 「海にありて思うもの」(艦船擬人化)(13)
- 企業・組織(12)
- 読了(8)
- 「蛇道の蛇」(一次創作)(8)
- 書籍情報(7)
- 展示会情報(7)
- 「時代の横顔」(企業・組織擬人化)(6)
- 「空想傾星」(『マーダーボット・ダイアリー』)(6)
- 御注文(5)
- 「徴用船の収支決算」(一次創作)(5)
- おふね(5)
- SNSの投稿(3)
- 感想『日本郵船戦時船史』(3)
- 入手(2)
- 『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』(2)
- 「『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』」(艦船擬人化)(2)
- 「人間たちのはなし」(艦船擬人化)(2)
- 『青春鉄道』(2)
- 「病院船の顛狂室」(艦船擬人化)(1)
- 「テクニカラー」/「白黒に濡れて」(艦船擬人化)(1)
- 「かれら深き波底より」(一次創作)(1)
「南下するといえばなんだかオモシロイし、祖国にぶらぶらとぶらさがってそうっと下へとおりていくみたいだけれど、地図をまっ逆さにして、太平洋をうえにしてみたのなら、そう、海ってこんなにひろいのね、って……。思っちゃって。びっくりしちゃって。私、その時まだ内航船だったんですよ」「『はあ……シナではなくてこの大海に行くかもしれないんですか』とききましたよ、でもわかんないって、みんな先のことなんかわかんないよ戦争なんだから、っていわれちゃいました。そうお、じゃあ仕方ないわね、って私も黙って……。船の往くさきもわからないなんて人間たちもどうかしちゃったのねって」「人間が羅針儀にとまどっちゃうのはよくない時って私、知ってたんです。航海の羅針儀もそうだけど、いきなり航路を開きたいだの、意味のない船をつくりたいだの、あと人間たちのいうコムズカシイ政治とかも、……行き先のことです。戦争の往く先にどんな羅針儀をとってるのか、不安にね、なっちゃって」