喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。絵ログ、お知らせ、日常など。

No.590, No.589, No.588, No.587, No.585, No.584, No.5837件]

もう少し小説を書いていきたいと思い、まずは主要の作品を転載してきました。ほかの小説もありますが、サイトに掲載してあるので閲覧していただけると幸いです。

2 十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたい

#「人間たちのはなし」(艦船擬人化)

 十時便と十一時便、いつも迷ってしまいますね~。県外から越境して横須賀に来ると、大体着くのが九時過ぎになってしまいます。横須賀駅から券売所まで駆け足で行っても、横目で見る汐入桟橋にはすでに十時便の乗客がずらっと並んでいるんです。なのでまあ私が並ぶ頃には列も後方ですよね。これは痛いです。艦を撮るにもいい席が取れないので……。右前方の席に突進する権利を失ったも同然です。
 私がコースカベイサイドストアーズの二階入口付近で「う~ん……十時便と取ろうか、十一時便を取ろうか……」などとぼやいていたところ、赤いリボンをつけた可愛い女の子が通りがかって、「軍港めぐりに乗るんですか?」と尋ねてきました。クラスでいちばん可愛い女の子にオタバレしたような後ろめたさを感じたものの、「そうなんですよ~。どの時間帯がいちばんいいのか悩んでしまって……」とつい答えちゃって。で、その女の子は「十時便はもう結構な人が並んでますものね」なんて答えてくれて……。おおっわかってるな!と嬉しくなりました。「十時便を流して十一時便に並ぶのがいちばん良い写真が撮れるのかな」「でも十一時便だと逆光の強さが変わってくる」などと一方的にまくし立ててしまいました。でも私がふと「だけど十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたいんですよね……」と呟いたところ、その女の子はとても嬉しそうにうなずいていまして……。「写真を撮るのも楽しいですけど、船に乗ることも気持ちいいですよね」と彼女は笑っていて、そうだよなぁ、わたしはいつの間にか写真を撮ることばかりに気を取られていた気がする……ととたんに申し訳なさがつもってしまい……。誰に対して申し訳ないんだかわからなかったですけど(笑う)。
 そんなわけで十時便を選び、後方中央の席に座りながら艦艇たちを眺めておりました。こうして見ていると船上の人間たちも面白く眺められるというか、大砲のようなカメラを構えている人、デジカメで慎ましく写真を撮る人、アナウンスに頷く観光客も十分に軍港めぐりの情景でした。レンズ越しに海と艦を見ていると見落としがちなんですけど……。風と船に揺られる感覚がとても気持ちよかったです。
 いつも通り抽選は当たりませんでしたが、なにか良いものに当たった気がしました。思えばあの赤いリボンの女の子が、この船、シーフレンド7ちゃんだったんですかね?

(スターバックスコーヒー コースカベイサイドストアーズ店にて 原晴美)

小説,艦船擬人化

1「ロービジ・ハラスメント」

#「人間たちのはなし」(艦船擬人化)

 私の艦はアットホームな雰囲気のあるとても良い潜水艦ですよ!潜水艦部隊はどの艦も結束力が強いと言われていますが、私の乗っている潜水艦は殊更仲が良く、雰囲気も良い気がします。明るく冗談が飛び交うし。陸に上がったときもよく一緒に呑みに行ったりもします。艦内に「イケメン部」なんてものもありますね。私は所謂「イケメン」ではないので、どんな部なのか詳細は知りませんが……。
 B1バースから吉倉桟橋方面を見ていると、最近は艦番号がロービジになった艦が増えてきましたねえ。我が潜水艦部隊には全く関係のない話なんですけれど(笑う)。とはいえ長らく白色だった艦番号が変わっていくのは潜水艦たちも感慨深いと思っているのか、時たま彼らがロービジを話題にしているのを聞きます。この前は私の乗っている潜水艦こくりゅうが、水上艦艇たちの間で「ローハラ」なる言葉が流行っていることを教えてくれました。「ロービジ・ハラスメント」です。どうやらロービジ艦がロービジになっていない艦に対して、ロービジになっていないことを揶揄することを指す言葉らしく……。まあローハラが艦艇社会で社会問題になっているというよりも、それはローハラよぉ~!なんて冗談を言いながらお互いふざけている感じらしいです。「行き遅れ」とも揶揄されているらしいですが、どこに行ったつもりなんでしょう……。尋ねたところ「ドックに行き遅れ」という非常にストレートな答えでした。「へぇ、人間にはない感覚だ、艦艇たちの考えることはおもしろいなぁ」と彼に言ったところ、「いやそんなことで騒ぐのは水上艦艇部隊だけですから」とバッサリ切り捨てられてしまいました。
 あとはアメリカの艦艇たちが自衛艦に対して「どの艦番号がホワイトのままなのか」を賭けているらしく、こくりゅうもそれに乗じて賭けてしまったそうです。こくりゅうは自衛艦なのでアメリカ勢より情報の面で有利なはずですが……。そこは報酬の軽重で補っているとのことでした。
 アメリカ艦艇たちにはドルで賭けるのか円で賭けるのか問うたところ、CoCo壱番屋でカレーをおごってもらうのが賭けに勝った時の報酬らしいです。艦艇情勢は複雑怪奇なりですねえ……。

(第二潜水隊群基地にて 平沼一季 一等海曹)

小説,艦船擬人化

一人の舞踏会

 血と、泥と、波間に被る生臭い潮水と、腐肉の饐えたにおい。美しいワルツを踊った脚で千切れかけた人の手足を跨ぎ、血の海に滑りながらナチュラルターン、一瞬止まってアン、ドゥ、トロワ。リバースターン、小休止、小休止。半歩進んで足が留まる、小休止。小休止。小休止。休みたい。休んでいたい。一生休んでいたい、ほんとうは一生休んでいたいもうこんなところにいたくない、なにも感じずにいたいなにも感じていたくないすべて終わらせたい。でもなにも感じなくなるそれまで走らねばならない、すべて終わるまで進まなければならない僕はこの舞台を降りることはできない、僕はこの病院船を降りることなどできないここで止まったらしゃがみ込んだら諦めたら一生立てなくなる進めなくなる、また再びなるであろうなるに決まっているであろう麗しい貨客船に僕は戻れなくなる。そう己を奮い立たせて一歩おおきく脚を滑らせ、白い太陽の陽が射しこむプロムナード・デッキを狂ったように駆け回る。

(1944年3月 特設病院船 氷川丸)

小説,艦船擬人化

後ろ姿

「俺は生きることに愚直でありたかった」という言葉は、私の姉の言葉だった。
 愚直であるということは即ち貴女の今の姿なの、という言葉を飲み込んだ私の顔はさぞ不美人だったに違いない。兄よりも凛々しい顔をした姉は、淡く笑って言った。「変な顔をしてる。護国丸は美人なんだからお止めよ」。
「やめてよ、美人だなんて言って。気持ち悪い」と、私は今度こそ姉に言った。気持ちが悪い。そうだ、この言葉、これこそが私の今の偽らざる感情だった。
 本当に美人だと思っているんだが、と姉は嘯いて困っていたが、そんなことはどうでも良い。私は姉を――否、今は兄だった、その兄のことを「兄」とは認めたことはなかった。
 私の姉は、報国丸型貨客船「愛国丸」は、特設巡洋艦になると共にそのうつし身を男の姿へと変えていた。前の戦争で特設艦になった先達の中にも同様に姿を変えた船たちはいたらしい。理由は分からず、特設艦への改装の具合や船のうつし身の気質などが影響するらしいと聞く。だから、その現象自体には驚きはなかった。
 それでもそこにあった蟠りに名前を付けるとしたら、それは怒りかもしれない。姉は華やかな客船としての施設も、そのうつし身としての優れた容姿も、私にはない艶やかさも、奪われなかった名も、矜持も、美も、女として生きるに値する何かを、持っているはずだ。持っているはずだったのだ。
 けれど私がその美貌を噂に聞き、密かに憧れていた姉に出会ったときには、彼女は既に無残にして完璧なる特設巡洋艦だった。竣工する前から彼女に貨客船としての生涯はないも同然だったのは私も承知している。彼女もまた奪われた者だった、そう単純に割り切れれば良かったのだが、自分で自分を慰めてもこの怒りと失望は収まらなかった。姉の姉としての姿は、私の素晴らしいはずのもしもの未来の一つだったのだ。貨客船、としての。もしも。
「ねえ、なぜ、姉さんは、その姿じゃないとだめだったの」
「……今はお兄ちゃんって呼んでね」

小説,艦船擬人化

序文にかえて――編者より:ぼくの小さな神さま

 まずこの拙編年代記を完成させるために、非常に長い年月がかかってしまったことをお詫び申し上げておきたい。この年代記は書き直しを繰り返した第三版にあたる。この手記の構成はなるべく原本手記そのままに忠実であろうとしたものの、第一版はあまりに文章が乱雑としすぎ構成に無理が出た。その反省を踏まえた第二版も合格とは言い難かった。そうして試行錯誤を繰り返しながら原本手記を解読すること、それを編集しタイピングすることに多くの時間を割いてしまった。
 思えばこの原本手記を書いた人物も、その手記の編集を依頼した人物も除籍されたのは遠い昔である。いつの間にか私自身も特務潜水艦となりその最期を迎えようとしている。この年代記が私の除籍前にまとまったのは奇跡であるといえよう(まさしく神に感謝!)。
 年代記の原案者のある人物――もとい潜水艦の書いた手記は、一九七六年に呉の串山公園の木の根元から発掘された。この公園は彼らのささやかながらも重要な思い出の場所であり、この発見は偶然にめぐまれたものである――まあ、あの人に言わせれば「奇跡」、であったのだが。あの人、手記の編集を依頼した潜水艦は私に、原本手記を草案としてこの年代記の作成を依頼した。
 この年代記は、以下のように構成されている。第一章から第八章まではある貸与潜水艦の日記手記、第九章はその潜水艦に育てられた戦後初の国産潜水艦の付け足しの手記である。一章は日本の太平洋戦争の終戦から十年後の一九五五年から始まっている。前年の一九五四年には日本において我らの海上自衛隊が創立され、それにより貸与潜水艦はこの国にやってくることになった。正確に言えば一九五四年に締結された日米相互防衛協定に基づいて、DD二隻(「あさかぜ」(DD-181)、「はたかぜ」(DD-182))、DE二隻(「あさひ」(DE-262)、「はつひ」(DE-263))とともに一隻の潜水艦がアメリカ海軍から海上自衛隊へと貸与されたのである。みじめな敗戦によって完全に解体された日本潜水艦の歴史は、あるアメリカの貸与潜水艦から再始動したのであった。
 八章は一九七〇年の夏、その貸与潜水艦が保管船の任務すら解かれ除籍された時に終わっている。まさに世紀の超大作、彼の筆のまめまめしさにはいい意味でも悪い意味でも唸るばかりだった。
 彼ら対潜水艦訓練目標(ターゲット・サービス)の生きた時代は、ちょうど日本の高度経済成長期にあたる。様々な社会問題を無視していたとはいえ、日本が物質的にとても豊かな時代であり、狂騒的な面白さがこの国にはあった。東京オリンピックや日米安保闘争、ベトナム反戦運動。人々は生と感動、怒りと期待に満ち溢れていた。
 そんな時代の中で彼らは陸では後ろ指を差され(その当時、防衛に携わる人間は再軍備の象徴、大江健三郎が言うところの「一つの恥辱」だった)、海の下では汗と潮にまみれながら国防の支えになろうと日夜訓練に――それも作戦運用ではなく対潜水艦訓練目標という縁の下の力持ちとして――明け暮れていた。とりわけ彼ら潜水艦部隊は海上自衛隊でも「的」扱いを受けており、決して待遇のいいものではなかった。だが、彼らはそれに対しなんら後ろめたさも持っていなかった。そこにはただ海底に生きる者たちの誇りがあった。私はそのことに惜しみない敬意を払いたい。彼らへの敬意がこの年代記の編集を諦めなかった大きな理由にもなった。
 この年代記を書くにあたってお世話になった、私に関わった、そして彼らとも関わっていた多くの乗組員、元乗組員たちにお礼を申し上げる。彼らの証言がなければ、この先代たちの記録はぼんやりとした抽象的表現に終わっていただろう。また海上自衛隊の艦艇諸君にも多くの応援と冷やかしを送って頂いたこと、お礼を申し上げておきたい。
 またこの年代記を書くにあたって多くの支援をしてくれた、私の姉妹艦である海上自衛隊「うずしお」型潜水艦「くろしお」にこの本年代記を捧げる。君がいてくれたからぼくはすべてを全うできた。心からありがとうと言いたい。
 この年代記は、大幅な略字、アメリカ式のスラングや、手記が後半になるにしたがって増えている、感情的なものと思われる乱筆や解読不能な文字以外はなるべく手を加えないように心掛けた。手記の筆者が文章につけた注釈もそのままの状態である。
 なお、この年代記に出てくる編者である私、大勢の海上自衛隊の艦艇たち、数隻の船舶、若干の潜水艦を除けば、本書に名前の出てくる主要な艦艇は全員除籍・解体されている。

一九九二年  編者

小説,艦船擬人化

リルケの花

 或る日のこと、私の扉を誰かが叩く音がした。一人の兵士がかなりおずおずとした様子でそこに立っていた。次の瞬間私はびっくりした。リルケ――軍装したライナー・リルケだったのだ!彼は痛々しいほど不器用げに見えた。詰襟のために窮屈な思いをし、どの将校にも長靴をかちっとぶつけて敬礼せねばならないという考えのためにどぎまぎしていた。そして、完璧ということへの魔的な強迫にとらわれている彼だから、このような軍規の些細な形式をも模範的に正確に遂行しようと思っていたため、絶えず困惑の状態のなかにいた。「私は」と彼はあの低い声で私に言った、「この軍服というものを幼年学校以来きらっていました。もう永久に逃れたと思っていたのですが。今、ほとんど四十歳でもう一度着なくてはならないのです。」幸い彼を守る救いの手があって、彼はまもなく好意的な身体検査のおかげで免除となった。別れを告げるため、もう一度彼は――そのときはすでに私服にかえっていたが――私の部屋に入って来た。私はほとんど、風のように吹き込んで来た、と言いたいくらいである(そのように筆舌に表し難いほど音もなく、彼はいつでも歩くのだった)。彼は私になお礼を述べに来たのだ。私がロマン・ロランを通じて、彼のパリで没収された蔵書を救おうと試みたからである。初めて彼は、もう若くないように見えた。恐怖の思いが彼の精魂を使い果たしてしまったかのようであった。「外国に行きたい」と彼は言った、「外国に行けるのなら!戦争はいつも牢獄ですね」。そして彼は立ち去った。今や私はふたたび全く孤独となった。

   ――シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界 1』


 氷川丸のいた部屋の扉を叩く音がしたのは午後四時を過ぎた時だった。秋の夕暮れの訪れは早く、窓から見える空も濃紫に彩られて既に暗い。だれか自分に用件でもあったかな、と氷川丸は思い返してみたが思い当たる人物もなかった。この頃は船も人も忙しく、自分たちは自分のことだけに慌ただしく取り組むだけだった。忙しいといっても、航路を往くために忙しいのではない。航路は終わった。航路の先の亜米利加と戦争が始まるかもしれないのだ。
 どうぞ、と声をかけると扉が開いた。そこに立っていたのは帽を深くかぶった兵士だった。氷川丸は一瞬、顔の区別がつかずに戸惑う。
 平安丸だった。
「平安丸か?誰かと思ってびっくりしたよ」
 氷川丸が声をかけると、平安丸は肩をくすめて小さく笑い言った。
「今度は海軍さ。軍装が似合うか?」
「馬鹿」
 と咎めるように氷川丸が言うと、
「冗談だよ」
 と言って、あとはむっつりと黙った。
 姉妹船の貨客船平安丸は先日まで日本陸軍に期間徴用されていた。そして今度は日本海軍に徴用される。おそらく今度こそ何かしらの改装を受けるだろう。特設艦船――帝国海軍のふねになるのだ。
 それが特設水上機母艦なのか、特設潜水母艦なのか何なのかはわからない。特設航空母艦ではあるまい。自分たちは船体が小さく新造船でもないからだ。うまくいけば特設病院船かもしれない。めったにないだろうが。仮に「赤十字のもとに中立」の特設病院船でも戦場では地獄の海に変わりはあるまい。
 ぼくもどうなることやら、と氷川丸は思う。何に選ばれても変わりはないだろうとすら、思う。だが、それは戦場を実感できないだけのご都合のよい空想なのだろう。実感のない未来の選択肢の無い選択は、氷川丸に何をもたらすのか想像ができなかった。もっとも想像上の戦場が正しく想像通りだったことなんてないかもしれない。
 平安丸の軍装は似合っていた。もともと身なりがしっかりした貨客船だったから、かっちりとした軍装だって似合わないわけではない。軍装も一つの装いなのだ。それが担う意味と理由があり、それは視覚的に美しくなければならなかった。けれど平安丸がどこか居心地が悪そうなのは、その装いの担う文化への最後の抵抗だったのかもしれなかった。
 帝国海軍の威容。灰を彩り灰の海に紛れ、戦火に身を燃やすこと。美的価値はそれを経過して友好を結ぶためにあるのではなく武力を誇示するためにあるということ。それを是とする世界への、抗い。
 シアトル航路を忘れることができれば、その違和感もなくなるのだろうか、と氷川丸は思う。
 一八九六年より続いたシアトル航路は、一九四一年八月に日米関係の悪化によりあっけなく終航した。平安丸はシアトルに貨物を陸揚げし、空船のまま横浜に帰着したという。祝福もねぎらいもない、達成や終着や完了でもない、本当にただの終了だった。自分たち海運が担ったものは、こんなにも軽いものだったのかと悔しく思ったことを憶えている。航路を往き祖国と外国を結びつける生業も途絶えた。氷川丸たちが次に往く外国は、祖国の占領地か戦地の補給地かもしれなかった。
 氷川丸は覚えていた。赤道祭のことも、すき焼きの味も、船上運動会のことも。ディナーの質で議論したことも。海外客の愛嬌も日本人客のつつましさも。それらの社交をも。当時は本当に些細な貨客船としての仕事の一つだと思っていたものが、今思うとひどく鮮やかで美しいものに思える。そしてその思い出の鮮やかさが色褪せて、ただの灰色に変わる時になって、彼も自分も、特設艦としての名誉を受容するのかもしれない。
「ぼくは」
 と平安丸は低い声で氷川丸に言った。続きを促したが、彼は唇を小さく震わせ、ただ黙っているだけだった。

小説,艦船擬人化