喫水はまだ甘くまだ浅くある

津崎のメモ帳です。兼ログ置き場(新しめの作品はここに掲載してあります)。

No.295, No.294, No.293, No.292, No.291, No.290, No.2897件]

物語を構成する時に「何を描かないか」は、何を描くかと同じくらい重要なんだな~と""理解り""(わかり)始めた

擬人化、実在性を詰めていくと「基本は人間(human)とばかり一緒に居るはずで、一堂に会することはほぼないのでは…」と思ってしまい、ただのモブではないキャラ性を持った架空の人間と一緒にいる話を描いてしまう 軽率に時空を歪めて擬人化を一堂に会したい

創作 刺身の切り身みたいにラディカルな主義主張を示すのではなく、脱主義化された日常的領土から市井の生活と庶民の言葉を持って、なにかを、間接的な優しさを持ってもの語っていきたいきもち

今日マチ子『cocoon』一周回って「あの戦争を体験しなかった/できなかった人間が戦争を描くということ」「『戦争を描ききれる』というあり得もしない自惚れへの疑問」「そもそも『戦争を体験した』と言い切れるのは誰なのか(銃後でも上手く楽々と生きていた人間も最前線にいた兵もいる)」みたいなことに、全く回答していないし取り組んでいないと見せかけて、実は「答られないものに対して答えるべきではない」的な確固たる意志があるのではと感じ始めた

そしてマユとサンのひたすら閉じられた2人の世界が、それを描くことがそれを象徴しているようにも思える

感想

『随筆 船』に村田省蔵が「大阪商船は"小便会社"と呼ばれていた」と書いている…とあるのでデジコレで「大阪商船 小便会社」で検索したらちゃんと『村田省蔵追想録』の該当頁が出てくる 本当にデジコレはすごいな

擬人化は東京都なら東京都、横浜市なら横浜市、みたいに、都市でいえば都市(名)で括られて擬人化されるのが多くの常だけど、市町村の括りは近代になって「人間が」決定したものだから、「土地」として考えた時に必ずしも都市の区切りで擬人化する必要もないのかな~という思いと、いや人間が決めたの"だからこそ"都市で括られるのだろう、という思いが…
→何が言いたいのかというと、企業擬人化の時に「三井・玉造船所」といわれると頭が痛くなってくる……
企業としての三井にするのか、造船所にするのか延々と悩む おそらく後者だろうが
→ふねはともかく人間の集団を擬人化をする時に、その集団が重複してもおかしくはないのよね…人間の集団なので
企業擬もこの精神で行くか
→「擬人化もの」というよりもそこがSFの様相すら帯びた「擬人化世界線」だったとして、"人間の集団の具現化としての擬人化"(擬人化と呼んでおくがその世界線では擬人化とは呼ばれてすらいない)と、それの元となる「集団」がどこまでを指し示すのか、どこまで自覚的なのか
ここを明確にしないと「合併」「改名」の世界では、詰む…
→企業擬(など人間の集団擬)でどちらか片方が消えゆくことを「別れ」や「悲劇」として描こうとした時、その「消え」があまりに多いことに今さら気づいた 落としどころが分からない

企業・組織擬人化