山崎貴「ゴジラ-1.0」

「けっして悪くない」のだけどところどころ突っ込んでしまう、というのも扱う時代上どうしても歴史観や国家観に厳しくなってしまう、具体的には歴史の見方と、それを映画で描写することで史観を回収する時の歴史への理解が合わないのだが、「いやこの類の映画に変なツッコミを入れるのは野暮」「それはそれ、これはこれ、福井晴敏文学で鍛えた『分別』を今見せる時」「こうやってヒステリックに説教じみたまま解釈バトルに参加してしまった…」みたいな自己嫌悪に陥りつつ、やはりあの「シン・ゴジラ」が面白かった、しかしあの映画もまた同様の歪みは抱えていた、と想起し、いや「シン・ゴジラ」は私にとって歴史観や国家観の歪みを抱えた映画であったが、物語としてのひずみはほとんどなく、また一貫してブレていなかった映画であった、荒い回収はしなかった、その点で「ゴジラ-1.0」は若干のブレと荒さを抱えていた映画だった……みたいな、徹底した逡巡を語らせられる映画だった、が、駄目な映画だったの?と聞かれるとダメじゃないよ、良かったよ、なんかいろいろと良かった、それは本当、と言いたくなるような、とにかく感想の発露に逡巡する映画だった。

 

 ところで、映画「男たちの大和/YAMATO」に対して、戦艦大和の凄惨な戦いがまるで「チーム日本」が捨て身で戦った「さわやか」な「スポ根ドラマ」のように見える、という指摘をしたのは、『自衛隊協力映画』の著者・須藤遥子であった。

 須藤は「男たちの大和/YAMATO」に対し、対米戦争ばかりを扱っておりアジアへの戦争は描かれていないこと、海上特攻を目前にして上官に立てついた一人がたった一度「天皇のため」という以外は国家や天皇等の存在に言及せず、まるで戦争を「運命」としているような印象があること、しかしながら、その中でクローズアップされているのは家族への愛や友情と言った個人の感情であることを指摘した。

 特別な思想を誇示しない「普通」の人間が、家族や恋人のため、あるいは個人的なプライドや達成感のために、かなりあっけなく、簡単に命を投げだし、それが結果的に国家の利益となるという特徴、いわば非ナショナルなナショナリズムを、須藤は「ジコチュー・ナショナリズム」と呼んで『自衛隊協力映画』(第Ⅲ部第12章「自衛隊協力映画にみる『ジコチュー・ナショナリズム』」)で考察している。

 戦争映画と自衛隊のキャッチコピーにありがちで合言葉的な「守りたい」、これは具体的にいつ、なにから、誰を?という疑問は前々からあったので、興味深く読んだ。

 のちのことになるが、『占領下の女性たち』の著者の後記にある「「満洲引揚げ」について書くことになろうとは思ってもいなかった。長年女性史をやりながらも避けてきたのは、その悲惨さに言葉を失う一方で、証言の多くが「ある日、突然、ソ連兵の襲撃に遭い、命からがら逃げてきた」という犠牲者意識ナショナリズムにあふれていることに辟易としていたこともある」という言葉と一緒に想起するのが『自衛隊協力映画』である。

 なので私は、国からの指示が気に食わないんでしょ、と聞かれた時に秋津が「誰かが貧乏くじを引かなきゃなんねえんだよ」と答えた時に、ちょっとだけ可能性を見出したのは事実である。なぜなら彼がゴジラを倒そうとする理由は少なくとも「家族や恋人を守るため」ではなかったからだ。

 その既存の「自衛隊協力映画」からすれば未知の(かもしれない)姿勢は、一貫してこのゴジラ映画に貫かれるのだろうか、と思いながら観ていたので、水島が「国を守りたい!」と叫んだ時はわりとガッカリしたし、物資を運びあげる旧海軍の皆さんの横顔から滲み出るのは「スポ根ドラマ」そのものであった。「今度は役にたてるかもしれないのが嬉しいんだよ」というシーンは「ジコチュー・ナショナリズム」の極致であった。「ゴジラ-1.0」は『自衛隊協力映画』の格好な研究対象になりうる映画なんだよな……という噛みしめをしていて映画から若干意識が逸れていたのは事実だった。

 その意味で「ゴジラ-1.0」は既存の「自衛隊協力映画」の系譜に連なる「古典的」な映画だったし、「シン・ゴジラ」のほうがまだ「真新しさ」があった。それは3.11を絡めたこともあるし、なにより国家というものを(「属国」というビビッドでキャッチーでセンシティブな言い方であったが)大枠を見据えて描いていたからだ。あの映画には徹底したエスタブリッシング・ショットがあったと思う。それは映画の物語の内容や構成にもあった。

 「ゴジラ-1.0」には国家と動機が不在がちだったように思える。そのせいで根底がブレている・抜けているように見える。なんでみんなあんなに軽々しく命を張ってゴジラを倒そうとしていたのだろう?どう見ても命がけなのに「皆で生きて帰りましょう」という精神論だった。

 悪口みたいになってるけど、なかなかいい映画だと思ったし好きな映画です。本当です……。なぜか話しているうちにシンゴジのはなしになるんだけど、これは老人会(7年前の映画なんですよみなさん!)というよりも、初代「ゴジラ」に立ち返った、数少ない映画たちが「シン・ゴジラ」と「ゴジラ-1.0」なんじゃないか。

 また、小型の船にスポットライトが当たっていた映画でよかった(当て方はともかく…)。途中、特設監視艇映画でも見せつけられているのかと思った。良い意味で。

 あと航空機がゴジラに向かっていった瞬間、の、映画の静寂、私も沈黙を破るまいと必死で銀幕を観た感覚、は滅多にない良い機会だった。

 全体的にCGがすごい。山崎映画だった。

 

 

 のちのちいろいろ追記すると思います。

追記1・
 映画「シン・ゴジラ」の最後の終わりの”不穏”が好きなんだけど、それを鑑みた時の「ゴジラ-1.0」の最後の”不穏”な典子さんの終わり方は……
・「シン・ゴジラ」の最後の終わり、つまり凍結された、人型(小型)に進化したゴジラ新形態が現れた瞬間に終わるのが好き。
 →なぜなら、私はあれを「ゴジラは凍結させないと死滅しなかった」「仮にアメリカが核爆弾が落としても殺しきれなかった」「なのでヤシオリ作戦を決行したのは正しかった」という理由を、視覚的な提示を持って、鮮やかに回収していると理解しているため(解釈はいろいろあるだろうけど)。
 →→あれは娯楽的な「”不穏”な終わり」ではなく、「不幸な結末の可能性」の提示と回収であった。
・それに対して「ゴジラ-1.0」の終わりの”不穏”は何かを回収できたのだろうか……。まだ典子さんが生きていて、幸せな結末を終えたほうが物語への礼儀やしきたり、マナーとしては正しかったのではないかと思ってしまった。
 →消化不良を起こしている。もしかしたら私の読解不足なだけで何かを回収している可能性はある。ただ、こちらは”不穏”な終わりだと感じた。

追記2・

 映画「ゴジラ-1.0」はつよく自衛隊が協力した映画ではないだろうけど(一応クレジットに名前はあったようだ)、「自衛隊協力映画」あるいは戦後日本の戦争系の映画ではあった。

※過去記事(2023/11/11)
※2023/11/11に映画館にて鑑賞。