二次創作【小説】 ※3万字あるマダボの夢小説です(なぜ?) 『マーダーボット・ダイアリー』です。 #FA『マーダーボット・ダイアリー』 ※ちまちま加筆修正と改訂をしています。 そのため pixiv版 の文章が最新のものとなります。こちらは適宜暇がある時に改訂している形です。 「ノスタルジア 標準語批判序説」 窓の外に、美しい夜空が広がっていた。 室内には風に運ばれた外の土草のにおいがかすかに匂っていた。 幼いジゼは、外の世界の鮮やかさに興奮した。 彼は夜空に見惚れていた。豪奢な館の建物の一階の窓から大地へ降りようとした。が、一瞬とどまって、籠に入ったカナリアを窓の外へと下ろす。 そして今度こそ自分が下りる番だった。 彼は籠を持って大地へと駆け出した。 興奮のあまり、自分の仕事も約束も時間も忘れていた。 彼が外の景色を見ることができる機会を得たのは、まったくの偶然だった。 自分の育て人が――従業員管理者が窓のある部屋のドアの鍵を掛け忘れたのだ。 彼はたまたまそのことに気づいて、罰を受けることも承知で部屋のドアをこっそり開けた。 その日の夜は晴れていた。 窓の外の夜空は満天で、それがあまりに美しくて、ジゼはそこに行ってみたいと思ってしまったのだ。なにせ彼はまだ五歳で、美しいものをもっと触ってみたかったのだ。濃紺の一面に、きらきらと無数の星が輝いていた。その情景はあまりに美しすぎた。いつも室内に囚われていた子どもにとって、それはそれは魅力的なものだったのだ。 そのカナリアは、同輩であるクリス以下、若干の同職を除けば、唯一の友だちだった。 ジゼはカナリアの名前を知らなかった。 そしてジゼは名前を知らないことに違和感を覚えたり、自分で名づけようという知識がある年齢ではなかった。 それでもジゼが行くというのなら、大切なこのカナリアだって一緒に行かせてやらねばならない。 ジゼはカナリアの大きな籠を抱えるように持ち、普段は客用である娼館の表の玄関通路ではなく、その近くの木陰の獣道を走って下っていった。 ジゼは息を上げて喜び勇んで走っていたが、とても重要なことに気づいたのだった。 クリスだ。 クリスを忘れている。 近くにいた友だちのカナリアのことばかり気にしていて、今は仕事にいるはずの大切なクリスを誘うのを忘れてしまっていた。 慌てて立ち止まるがそこは坂道だった。勢いあまって籠を手放してしまった。 横に転がる籠を追いかけて抱き寄せた。キキキッと鳥特有の悲鳴を上げたカナリアを労わると、問題ない、友は怪我なく無事のようだった。ごめんね、痛かったね、とジゼは小声で謝った。 ジゼは立ち止まり、しばらく逡巡した。 もう少し先を見に行きたい。 それならクリスも誘ってあげたい。 けれど、戻って再び駆け出すことなどできるだろうか。管理者は目ざといし、外に出たことが発覚したら大変なことになるだろう。それなら一人とこの小さき友人とで、もうちょっとこの夜空を楽しむべきだろうか。 悩んでいると、鼻先に何かが落ちてきた。水滴だった。小雨はとたんに大雨へと変わり、ジゼとカナリアを濡らした。ジゼは慌てて、木の下から木の下へと走り出す。行くあてなどなく、大きな樹木の木陰に入り、どうにか雨除けの場所を確保する。ジゼは濡れながら夜空を見上げた。 綺麗な宇宙は、厚い雨雲に隠れてしまった。 ジゼは失望して、木の下で雨に濡れていた。 遠くから、何かの音がした。 船の音だった。 もちろん宇宙船ではなく小型の水上船だ。近くには海か湖があったようだ。知らなかった。ジゼはそんなもの、写真でしか見たことがなかった。水上船の姿はいくつかの木陰に隠れて見えなかった。ジゼは、船というものに乗ってみたい、船に乗れればもっと遠くにいけるのに、と思った。それは五歳児にとっての明確な理論ではなく、本能としての理解だった。なんとなく、船に乗ることができれば遠くに行くことができると思った。 汽笛の音、機械の唸る音、そして人間の声がした。 〈出港――〉 * 顔を上げたグラシンの視界に入ったのは、一人の少年の姿だった。 役場にいたグラシンが彼の存在に気づいたのは、彼の話し方に、外 の人間特有の拙さがあったせいかもしれない。 彼は何かに怯えたように、ただ立ち竦んでいた。 彼の刈り込んだように短い白金の髪は、まるではじめてあの惑星で出会った頃の警備ユニットのようだった。 しかし常に毅然と立っているあれとはちがい、頭をゆらゆらと揺らしながら、不安げにあたりを見回している。何かを探しているようだった。それが見つからないのか、あるいはどう探せばいいのかわからないようだ。 そして、彼によく似た幼児を抱えている。 簡素な上着、簡素な服を着ていて、それは幼児のほうも一緒だった。 その服装が、彼をいっそう頼りない存在に見せていた。 しばらく彼を見ていたら、彼は見ず知らずの人間に頑張って話しかけ、意志が通じずに、項垂れていたところだった。役場にいる人間は、みんな忙しそうにしているものだ。彼は下唇を噛み、何かに逡巡している。ただの軽い困惑というよりも、実存的な屈辱や侮辱を感じているようにすら見えた。 グラシンは見ていられず、彼に声をかけた。 「大丈夫、ですか?」 「あ……」 いきなり現れたグラシンを見て、薄青紫色の目を見開いた。それはあまり見たことのない色彩だった。良くも悪くも目立つだろう。喋れない言葉、外の人種、一種の異端として、彼は今ここに存在しているのはすぐに見て取れた。 ダイジョウブ、じゃ、ありません。ゴメンナサイ。彼は目を伏せて、正直に告白した。 彼は彼がやりたいことをフィード経由で行うことが出来ずに困っている、という話だった。彼はやはりプリザベーションに来たばかりのようで、何かしらのために身分の証明証が必要のようだった。 「この……しょう……しょめい、しょ。ほしいです、ね」 「ああ」 彼の言う電子証明書の発行方法を教えてやると、あっさりと作業は終わった。こんな簡単なことに戸惑っていたのかとこちらが戸惑うくらいだった。言葉が違うのならフィードの言語センターで翻訳すればいいだけの話だ。だが、言葉の問題というよりも、彼はフィードの基本を知らないように見えた。それどころかインターフェースの操作にも戸惑っているように思えた。が、そんな人間が存在するのだろうか。 ほっとしている少年に、グラシンは自己紹介をした。 「グラシン、です」 「ジゼ、といい、ます。ありがとう。グ、ラティ……テ……」 「グラ、シン」 「ぐらてぃ、」 「好きに、呼んでくれて、構いません」 こくこくと無言で頷くジゼは、早々に正しく発音することを諦めていた。申し訳なさそうに目を伏せる。ゴメンナサイ、ともう一度謝った。 彼はその手で幼児の頭を撫でていた。人混みの中の煩い場所でぐずつく幼児を宥めているというよりは、それがジゼ自身の安心材料になるようだった。ジゼは前に抱えた赤子の白金の髪を触りつづけている。 その子はジゼによく似ていた。 「……その子は、……弟?」 「こども、……です。ぼく、の……。ミレ、ですね」 「え、……」 少年が自分の子ども――一歳になるかならないかだろう――を抱えている情景は、プリザベーションでは見たことがなかった。 十五、六歳ほどの子どもが自分の子どもを持つことなど、基本的にこの惑星ではありえないのだ。そのくらいの齢なら、まだ学校にでも行っている年齢だろう。難民用の身分証明証を求めて役場をうろつくのではなく本来は友人と遊んだり、下らないことで笑い合っているはずの年齢だった。 子どもが子どもを抱えている。 金髪、白い肌、喋れない言葉、不慣れなフィード、そういったものが、彼のバックグラウンドの複雑さを物語っていた。 * グラシンは知り合いとなっていたジゼに、インターフェースとフィードの使い方を教えていた。 ジゼは以前の惑星でフィードを使ったことが無かった、と言った。 だから言語センターでの同時通訳も技術的に難しいという。口と手と目線に、フィードという器官をいきなり加えられた気持ちになる、自分の五体にもう一体が増えたようだ、とのことだった。手足同様には使えない。咄嗟に対応することができないのだ。 だから拙い言葉を話しつづける。他者に困惑され、怪訝に思われ、時に侮蔑されるのだ。 フィードを使った事がない生、とはどんな人生だったのか、強化人間のグラシンには想像がつかなかった。プリザベーションでは、否、企業リムは勿論のこと、他の非法人政体惑星ですら、この世界全てにおいてたいへん稀少な人間だろう。 ジゼは何を生業として企業リムを生きてきたのだろう。グラシンは知らなかったが、それを尋ねるほど信頼深い関係には至っていなかった。人間が企業リムで何を仕事としていたのか、聞いたとしても明るく楽しい話題にはならないことは十分承知だった。ジゼは違うのだろうが、だいたいは人を殺しただの、採掘施設にいただの、そこで奴隷同様の扱いを受けてきただの、あるいは他人を奴隷同様の扱いをしただのの話になってしまうだろう。 ジゼは現在、職業訓練を受けている、とグラシンに言った。そこで訓練をして、就労に向けて一歩を踏み出す。その間、ミレは保育所に預けたり預けてなかったり。グラシンが知っているジゼの情報はそれくらいだった。 カフェの一角に、居心地悪そうにジゼは縮こまっている。こういう場に慣れていないのだ、とジゼは言った。こういう場、というのはカフェのような、長閑で休息の場であるらしかった。 その膝の上に居るのはミレで、ストローを弄ってひとりあぶあぶと楽しそうに喋っていた。 「グラ、は、いそがしい?……ですね」 「ん?ああ……。そうだな、それなりに」 「練習、で、フィ、ド、見ました。……わく星、行った。しごと」 グラシンは何を言われているのか一瞬わからなかった。が、それが例の事件のあった惑星であることをちゃんと理解した。 「惑星?……ああ、そうだ。危うく、俺たちは、殺されそうになった。昔の、ニュースを観たのか?」 「はい」 「そうか」 「きぎょ、しつこい、ですね」 「きぎょ……」 「き、ぎょう」 「ああ、企業か。グレイクリス社、大変だったぞ、そうか、しつこいか」 「しつこい」 「それが企業リムだからなあ」 「しつこい、です」 しつこい、をしつこくしつこく連呼するジゼを訝しく思った。が、グラシンは気づいたのだった。 この子は企業リムから逃げてきたのだ。それはそれは不安だろう。もしかしたら、また企業に戻らざるを得ない可能性を考慮しているのかもしれない。 「……企業リムからの難民は、プリザベーションの法で、保護されているよ」 「ほ、ご」 「まもられている」 「はい」 ジゼは、小さくはにかんだ。すこし恥ずかしそうにしている。ストローを弄って上機嫌でいるミレの頭と髪を執拗に撫でている。保護されているという事実が嬉しいのか、そう改めて指摘されたことで安堵したのか、どちらなのかはわからなかった。 「ところで、……ミレの髪、短すぎないか?」 真剣に彼を案じて言ってしまった気恥ずかしさから、グラシンはそう話題を変えた。 ミレとジゼの髪は短髪と坊主のあいだに近く、その色の持つであろう美しさや可憐さは、その短さでほとんど無意味と化していた。むしろ見栄えが悪くなり、痛々しさすら感じる。それこそ収容施設で補導を受けている触法でもした少年のようだ。ジゼはミレの髪をくるくると指で梳こうとして、当たり前に失敗した。 「はい。……ケ、……ス、ワーカーの、アン、にも、怒られました」 「君が切ってるのか?」 「はい」 ジゼは頷いた。 ジゼはそれ以上理由を言わなかったが、ミレとジゼの髪が短いのは、彼なりの強固な根拠があるようだった。ミレの髪を梳いて、撫でている。何度も強く確信をもって、一人頷く。 その後、 「ミレ、げんきに、ちゃんと、いきてほしい、です。……だから、です」 と、だけジゼは言った。 意味深な台詞の意味は、拙い言葉もありグラシンはほとんど理解ができなかった。 が、とにかく自分たちの白金の髪が長いことで与えられる不利益というものが、彼の中では確かに存在するようだった。今度はミレの髪を軽く引っ張っている。 この不安げな親の癖のせいでこの子が薄毛にならないといいのだが、とグラシンは思った。 ジゼは、そんなグラシンを気にせずに話を続けた。 彼はフィードの練習のために表示していた、地元の地図を示した。いくつかの施設の位置が表示されている。カフェに、店舗、商業施設。行政機関や交通機関、公園などである。 「ミレを、ここの、がっこう、に、いれてあげたい、でも……むり、ですね」 と言い、一つの学校を示した。 「だめ、なのか?」 「ほしょ、にんは、プリザベーションにいる、五年、もっと、いる、……ほごしゃ、だけ、です」 「ああ、そうなのか。しらなかった」 「はい。……がっこう、ことば、いきる、ミレにあげたい」 と言う、教育と言語と生存とを一線上に置くこの難民である親は、いまだ十七歳の幼い子どもだった。 本人は無意識での発言なのだろうが、その三つは三位一体となり移民を死ぬまで悩ませるのだ。 そんな彼を、哀れだ、とグラシンは感じている。 プリザベーションの学校にもいろいろな種類がある。もちろん難民の身分で学校に入学することができる。 が、ジゼの言うことが本当なら、その学校にはプリザベーションに五年滞在する保護者が必要のようだった。他の学校よりもより言語力や専門性が必要とされるとか、長く特殊な教育が受けられるとか、何かしらの優待とか、その種のものがあるのかもしれない。 ジゼがその学校に拘る理由は知らなかった。が、ミレにとっての最善の選択肢がその学校だと考えているようだった。 ジゼはうんうんと悩みながら地図を見続けていた。 * グラシンが何気なしにジゼに「書類上だけでなら君の伴侶になってやれるんだがな……」と呟いてしまったのは、ジゼと会い続けた五回目のことだった。 つまり、自分はミレの学校のために、義理の保護者になってやれると発言したのである。 グラシンはその時、自分が何を言ったのか理解できなかったくらい自分で驚いてしまった。 慌てて前言を撤回しようとしたが、後の祭りだった。同じくびっくりしているジゼ、慌てる二人のせいで泣き出してしまったミレ、騒ぐ三人、そんな三人を白々しく見ているカフェの利用客――。 そんな「事件」を経て、プリザベーションでのジゼの保護者に近い「ケースワーカーのアン」やらに、グラシンは会うことになった。(そして彼はこう付け加えた。「アンはぼくのことを好きではないと思う」と、拙い言葉で。) なぜこんなことになってしまったのかわからない。 いや、なぜこんな発言を彼にしまったのかはグラシンはちゃんと理解していたのだった。 それは、己の親の存在のせいだ。 「グラシンといいます。よろしくお願いします」 「ジゼのケースワーカーのアンです。よろしく」 アンは、硬い表情を崩すことなく挨拶した。 地味なスーツに、地味な色の靴。 どこにでもいるような、ちょっと硬派な中年の女性だった。 グラシンは玄関からリビングへアンを案内した。ソファに座るように示し、彼が茶を差し出すと無愛想に礼を言う。グラシンも対面して座る。 彼女は窓の外から見える風景に関心があったようで、ぼんやりとグラシンの後ろにある窓の方向を見ている。 必然と、両者は黙る。 こいつはジゼの話に興味があるのか、何をしに来たつもりで窓の外を見ているのか、とグラシンは癪に触っていた。だから、アンが脳内で話の整理を行うために意図的に顔をそらしていたことに最後まで気づけなかった。 「……難民のけっして少なくない数の人々が、元居た企業や採掘現場などの労働施設に帰ることを望みます」 長いあいだ窓の外を見つめていたアンは、ふと顔をこちらに向けて真正面のグラシンを見据える。眉が厳しく寄せられていた。 「プリザベーション連合が悪いんじゃないんです。むしろ良い場所と言って良い。身内のひいき目じゃなくね。福祉も社会復帰の手段も豊潤に用意がある」 「……じゃあ、なにがいけないんですか?」 「そうですね。例えばボットのせいであまりにすることがないから彼ら特有の実存的苦悩に囚われるとか。例えば物々交換をする物を作る手段を知らないとか。彼らが六歳からやってきたのは発掘した資源を台車で運ぶことだけで、学校で政治理念を議論することじゃないこととか。星系が違うので言葉を上手くしゃべれないとか。そのせいで自分が勝手に店の林檎を持って行ったことに怒られていると気づけないとか。……まあつまり、今現在ではなく、彼らの持っている永い過去が問題なんです」 アンはケースワーカーらしく――言葉を駆使して他人の人権を守る人間らしく――朗々としゃべる。気持ちいいくらいの発声と発音だ。きっと、何度もこの種の説明を繰り返してきたのだろう。 「……かつて私の担当していた企業リムからの難民の一人は、企業内の地位争いが原因でプリザベーションまで逃げてきました。毎日毎日農業ばかりなのが苦痛だと、今までは大勢の人を取り仕切る地位だったのにと、今があんまりに退屈で仕方ない……と言いました」 まったく仕方ない因果ですよねと苦笑して、アンは言った。 「平和な場所で植物に水をやるよりも、姦計を張り巡らせてムカつく同僚を蹴落としてやるのが大好きだった、と。その快感がたまらなかった、と晴れ晴れとした笑顔で彼は言っていました。それが彼との最後の会話でした。首を吊る二日前ね。…………私が可愛い新人ケースワーカーだった時の、苦い思い出です」 「……」 「なによりも同じ文脈で言葉が話せないこと。これは星系での距離的な言語の問題ではなく、使う言葉の文脈の問題です。……今までの人生での経験ですよ。採掘施設で暴れて警備ユニットに身体を殴打されたことがあるか。同僚が溶解炉に落ちて死んだのを眺めたことがあるか。慰安ユニットを虐待しながら自身も売春婦として虐待されたことがあるか。企業リムの抗争に巻き込まれて無作為に監禁や拷問にあったことがあるか……。人生としてそういう経験を踏まえて、いまここ、非法人政体惑星のプリザベーション連合に居るか居ないのかどうかの問題です」 企業リムの監禁、という言葉を聞き、グラシンはぼんやりとメンサーを思い出していた。あの一件以来、時折彼女を心もとなく思うことも。 彼女は惑星探査やその後のトランローリンハイファであったことを、必要以外には積極的に語らない。 もしかしたら、アンのいうように周りと「言葉がかみ合わない」せいかもしれなかった。 「彼らは言葉が通じないことに絶望するんです。警備ユニットを自分の生存を脅かす脅威ではなく、連続ドラマに登場するおかしな兵器だとしか空想できないプリザベーション連合の人びとと話すたびに。そして話がかみ合わないことに」 一瞬沈黙して、低い声で、陰鬱にアンは言った。 「あなたは非法人政体惑星プリザベーション連合出身の一市民として、企業リムで六歳から性的虐待を受け続けてきた少年と生涯をともにしなければなりません。なんなら幼児つきです。そんな彼と、同じ言葉を使って会話するんです。……そこにはただの同情以上の、無償の奉仕精神が必要なんですよ」 「たとえばケースワーカーみたいな?」 「あるいはそれ以上の努力が。それ以上の愛情が。それ以上の忍耐が。それ以上の長い年月が必要です。一過性の軽い同情なんてもんじゃなく」 深く頷いて、アンは言う。 努力の維持。愛情の交換。忍耐の関係。ともにあった年月。 寄り添う両親の姿がグラシンの脳裏に浮かんだ。 「……わたしの両親は仲が良かった――でも結婚当初からではありませんでした。そう、あの頃のプリザベーションはもう少し法が違くて。外からきた難民がここの市民になるには多少の面倒がありました。新しく正規市民になるには、正規市民が身分を保証するのがいちばん早かった。つまり結婚という行為です。その正規市民だった父も、ちょっと遡れば別の出身です」 「ああ、だから」 「だからです。……それを、とっさに反復してしまっただけで」 グラシンは深いため息とともにそう吐き切った。 「一過性の軽い同情ごときという言葉を否定できません。ここまでする必要はあるのか、正直私もそう思います。でも自分の子どもを抱いて右往左往する彼を見ていると、そう、……孤独だって、思ってしまって。見てられなくて。自分の子どもを――大切な人間を……家族を、どうにかしてやりたい、そう願っている孤独な難民の親……」 唇を一度小さく噛み、グラシンは続けた。 「彼は――」 「――ただの子どもです。権利が不完全な子どもです」 アンはぴしゃりと却下するようにそう言い切った。 続けて、言葉をなめるように、舌のうえで言葉の味を確かめるように、ある種の湿度をもってアンは言う。 「権利の少ない難民で、まだ十七歳です。その事実だけで――あなたが思っているよりもうんと――プリザベーション連合の正規市民のあなたは、彼にとって危険になりうるんですよ。子どもを抱えている親だからといってあれは大人ではないんです。彼は子どもです。大人のあなたはそのことを理解すべきです」 「言いますね。本人に」 「言いますよ。本人に。それが私の仕事なので」 「……」 グラシンはふと、窓の外へ飛び降りたいような猛烈な自己嫌悪に陥った。理由はわからなかった。自身が熱に浮かされていただけだということに気付き始めていたからかもしれなかった。 わずかに項垂れたグラシンを見遣り、アンは同情げに言った。 「いずれにせよ、私は彼に強制する権利は持たない。難民であるなし関わらず、彼には決める権利がある。子どもというのは精神的な意味であり、婚姻は法的にはなんら問題はない年齢です。私は見守り、適切な時に公的権力を持って介入するだけです」 「……」 「同様に私はあなたに何かを強制する権利を持たない。あなたが良いというのならあなたには権利がある。ただね、……容易に幸せにならないですよ。これだけは言っておきます」 「しあわせに、ならない」 ケースワーカーというよりは裁判官のごとき確信をもって、アンは断言する。 「グラシンさん。あなたも――あなたならわかるかもしれませんが、人間というのは一世代ではありません。少なくとも三世代は見るべきです。そうやって 生きてきた一族はなかなか変えられない、あるいは変えて、変えた結果、そこでちゃんと安定するのに見積もって三代です。彼は企業リムの元セックスワーカーです。彼の親もそうです。その親もです。きっとその上もでしょう。彼ら は企業に家畜同様に遺伝子と容貌とを操作され、制限され、制御されて、生まれて、生きて、死んできたのでしょう。彼はその家系から脱してこの非法人政体へやってきました。その落差は簡単には埋められない。……あなたは彼のその代々の負債を、彼と一緒に支払うことになります。伴侶とはそういうものです」 「それはただの偏見じゃないですか?」 「ただの偏見です。いや、完全完璧な差別論と言ってもいいかもしれない。決して『家畜』などという言葉で人間を例えるべきでない。ですが、様々な困窮家族や難民の問題を見てきたケースワーカーとしての率直な見解です。ところでグラシンさん、あなたはプリザベーション連合で、孤独を感じたことは一度もなかった?」 「……」 黒い瞳が、暗い灰青色の瞳を無為に見つめた。 グラシンはその黒色を、その暗い瞳と肌の色を――「大勢のうちの一人」というものを、いつもうらやんでいたのだった。その色は最初の船倉の冷凍睡眠ボックスに居た系譜だという証明同様だった。グラシンは、二世代前にプリザベーション連合にやってきた先祖を誇りに思い、同時におなじ根無し草として同情していたのだった。追われたか馴染めなかったか敗者復活戦を望んだかで故郷を脱したに違いなかった。そんな数世代の孤独が自分の身に降りかかっていると錯覚する時すらあった。調査隊の皆と居る時もそうだ。数世代前からの借金。よそ者意識。 アンは小さく微笑んで言った。 「三代ですよ」 「それは、忠告?」 「あなたへの。そしてなにより彼のための」 「……あなた、ほんとうはジゼのこと嫌いじゃないでしょう」 ほとほと呆れてグラシンは言う。グラシンはこの女の偏屈さと面白さを、やっとわかってきたところだった。難儀な女だと思った。感情論を一切排除し、正論以外を説く気はないのだ。口当たりの良さや優しさや建前などは考慮せずに。これでは子どものジゼには嫌われるだろう、とも。 そう、彼は子どもだった。 まだたったの十七歳なのだ。ほんとうはグラシンが庇護すべきではなく、児童福祉で保護すべき対象だ。アンはそれがわかっている。グラシンだけがわかっていなかったのだ。 「私は彼のケースワーカーです。……『ほんとうは』は余計です。これはただの私の性格ですよ。彼、私を好いていないでしょ?よく子どもに嫌われるんですよね」 はあ、とため息をついてアンは頭を振りかぶった。そして額に手を当て、うなだれた。 「……このような状況になる可能性ははじめから考慮していました」 「このような状況?」 「誰かとの結婚です」 「それは彼が……セックスワーカーだったから?」 「美人だからですよ。とびきり不幸な」 「……その発言は不適切では?」 憮然とした表情でいるアンに、グラシンは半分失笑して言った。もっとも今の自分の発言も、十分不適切である自覚はあった。こうやって子どもの権利と幸福とを論じつつ、大人たちは無邪気に彼を傷つけていくのだろう、とその不毛さに気づき始めていた。 「完璧に不適切ですね。忘れてください。これはただの適当な実感なので」 「ケースワーカーとしての?」 「いや?女としての」 「……」 「すくなくとも彼を今の不幸な状況から救うと約束してください。普通の、まっとうな状況へ。それがあれば、あとは本人の努力次第ですから」 * ジゼは無償の労働が嫌いだった。 その生徒は乱暴にジゼの脚を押し広げた。 吐き捨てられた言葉はとうとう理解できなかった。ジゼは、簡単には標準語が理解できないのだ。 ジゼを取り囲んでいたのは、職業訓練所の同輩で、同じく惑星外から来た人間たちだった。 「手厚い支援環境」にも、目が届かない闇というものはあるのだ。 ジゼと同じく外から来た人びとのための職業訓練所では、その生活の余裕のなさや、過去と現在の落差に慣れずに荒れている人間も少なくなかった。 ジゼはフィードも正しい言葉も使えずに周りから物笑いの種となっていたが、それ以上に「前職」が自分に落とす影と気配が問題なのだった。それは一種の仕草や息づかいだ。ジゼは時折、周りの全員がかつて自分が娼夫であったことを知っているのではないか、と感じる時があった。 無論、ジゼが助けを求めればすぐに助けられただろう。が、大変厄介なことにもなっただろう。大ごとになるのは面倒だったし、手間がかかりそうだったし、ここは職業訓練の場であって職場ではない。対応するのが単純にかったるいのだった。別の場所で一からやり直すのも面倒だ。それにこういう場はすぐに人も関係も入れ替わるであろう、と、ジゼは踏んでいた。 つまり、自分の現状が、心底どうでもよかったのだ。 ジゼはこの惑星で、よい生活、まっとうな人生、正しい発音、第一の身分になろうとすべきこと、良い職業、模範的市民、良心的難民、そういうものを何度も要求されることに正直、疲れていた。 グラシンはジゼに優しかった。 だから本音を言わないように気をつける根気が、ジゼには必要だった。 公園の木陰のベンチに座っていた二人は、ぽつりぽつりと互いの近況を話していた。 日光が温かかった。ジゼは昔、日光を浴びることなどほとんどなかった。室内で寝続ける人生だった。 自然公園は誰にでも解放された市民の憩いの場で、ウォーキングをしている人や、同じく座って話をしている人びとなどがいた。 ジゼは緑の美しさを理解していたが、なんとなくその美しさが自分とは遠いもののように思えてならなかった。この種の美しさは、生に余裕のある人間たちだけが楽しめるものだ、ということを、長くもない二流の身分の現状から学んでいた。 「訓練は、なにをしているんだ?」 「ことば、や、そうじ、………………農、ぎょう。のべんきょう、ですね」 「楽しい?」 「…………ふつう、……です。でも、ことば、……しゃべりたい。ちゃんと」 「そうか。今も、ちゃんと、わかるけれど」 とグラシンは言葉を細かく区切り、言った。だがこの惑星で喋る相手全員が言葉を区切ってくれるわけではないのだ。辛抱強く拙い言葉を待ってくれるわけでもない。 ぼくは標準語を正しく発音せねばならないのだ、とジゼは理解していた。 生きて、食べていくために。 「喋って、どうしたい?」 「……ぷ……プリザベーション、の人に、なります、ね。……ちゃんと、……ふつう、の」 「ああ、そう、……そうか……」 「はい。……き、ぎょ、リム。いたこと。働いてた、こと。……におい。ふん、いき。うごき。動かない、なら。わからない、でも……」 何より正しい言葉を話すこと。正しい発音で。まっとうに生きていくために……と、ジゼは深く考えて込んでしまったから、つい、グラシンに本音を言ってしまった。 「もちろん、絶対、ことばで、……きか……帰、化、し……ても、わかります、……ですね。ダカラ?……ちゃんと、……喋らないと、また、捕まり、ます、ね」 あ、失敗した、とジゼは思った。 ジゼはぎょっとした顔をしたグラシンを視界に入れないように努めた。 他人に向かって無防備に本音を表しすぎた、とジゼは思った。それはよくないことだ。感傷的になるし、揚げ足を取られることにもつながるのだ。過去を述べるな。過去から由来する理念を述べるな。考えなしに言いたいことを言ってはならない。この惑星ではあくまで善良に、謙虚でなければならないのだ。 それがあらゆる機会のきっかけとなるのだから。 こんなだからぼくは駄目なのだ、とジゼは考えた。これだからいつまでも追いつくことができない。 プリザベーション連合には第一に優先されるべき連合の正規の人びとがいて、それらに参加するために外の人間は二歩後ろから追いつこうとするのだけれど、そこには大きな隔たりがある、ということをジゼは知っている。人生の豊かさ、安定、地位、保護、そういったものが。それらが生まれた時から揃っているかどうか、与えられているかの話だ。 それでも、持たざる者がそれに追いつくためのそこには、親切で手厚い支援があることも知っている。だから自分が上手くいかないのは自分の能力せいだ、ということをジゼは知っている。 なんとも形容し難い複雑な表情を浮かべるグラシンをぼんやりと見遣る。 ジゼは今まで、料理をしたこともなければ、掃除をしたこともなく、集団で何かの作業したことがなかった。日も日影も一切入らない部屋で共寝をしているだけだった。今は、言葉も上手くしゃべれず、フィードも使えない三流の移民労働者候補だ。農業の機械の操作に必須のインターフェースも使えなければ、簡単な掃除の基礎もわからない。 こんな人間を、誰がまっとうだと思うだろう。 まっとうな人生を送れるだろう。 だから、ある日、街を歩いていた時に、知らない男に声を掛けられても、ジゼは何の不信感も持たなかった。 むしろ、その行為が持つ意味が、ちゃんと正しく、理解することができた。 それは昼過ぎの人通りの少ない街外れでの出来ごとだった。 ジゼはその男のために標準語を話した。 ジゼはプリザベーションの標準語で、この惑星の絶対に正しい言葉で、皆が喋る普通の言葉で、けれどジゼ特有の、星系外難民特有のよくない発音で「お金もっていますか」と男に聞いた。 お金もっていますか。なんでもいいんです。物じゃだめ。金か、貨幣か、お札でもとにかくなんでも、ぼくはお金ならなんでもいいんです。プリザベーションのじゃなくてもいいんです、ぼくは。どこかの知らない星のものでもいい――ジゼはここまで頑張りながら標準語で発音したが、それが拙くて、あまりに遅くて、こんなんじゃ絶対に伝わらないと思った。あまりに馬鹿みたいで、苛立って、惑星ハニラの母語で彼は言う。彼の、彼らのことばで、それでなら彼はちゃんと話すことができた――とにかくお金がいるんです。物々交換じゃだめなんです。わたしは物なんかじゃない。動物でもない。企業の労働者です。商業惑星ハニラの特一等従業員です。お金が、貨幣が、労働の対価が、わたしには資本主義下の労働とその対価が必要なんです。労働で賃金を得ることが。それでやり直せるんです。わたしはそうやって生きてきました。わたしにはできるんです。それで生きていけるんです。一人でやっていけるんだ。ケースワーカーも福祉もいらない。同情も職業訓練も。夫だって。お金があれば。お金が。労働が。資本が。だからだから、だから……! ジゼの異星語の必死の懇願に呆然としていたその男は、慌てて小さな金貨を渡してきた。プリザベーションに貨幣はない。ジゼはうまく聞き取れなかったが、別の惑星への旅行の時に手に入れた、それを記念としてとっておいたものだ、ということを言った。ジゼはそれですべてよかった。お金があればそこがジゼのいた世界だった。ジゼは他人とちゃんと話すことができたのだ。 簡素なホテルのベッドの上で、ジゼは思った。 今までの人生は、すべてあの日に収斂されていたのではあるまいか。 窓から美しい夜空が見える。それは宇宙だ。 ジゼは大切な者を抱えてそこに走って行ったのだけれど、結果的に上手くいかず、滅茶苦茶な目にあった。ジゼはあの後、従業員管理者に捕まってきつい折檻を受けて、友人のカナリアは速やかに処分された。ジゼがあのような愚かな行為をしなければそのようなことは起きなかったはずだった。 ジゼはカナリアではなく、今度はミレを抱えてこの非法人政体の惑星へやってきた。 ミレの父であるクリスはブラウンにちかい濃い金髪で、ジゼは白にちかい薄い金髪だった。この宇宙で珍しい金をすこしでも留めたい、というのがハニラの経営者たちの願いだった。 二人以上の遺伝子が交配すれば、生まれてくるのが子どもだ。 そうして生まれたのが薄い金髪のミレだったから、売春惑星ハニラの経営者たちはとても喜んだ。稀少な髪の娼夫の誕生だった。 ジゼは最初、それでいいと思っていた。クリスは最初からそれでいいと思わなかった。ジゼたちは喧嘩し、話し合い、決断し、三人で故郷を離れることにした。 逃げる段階でミスを犯し、結局、このプリザベーション連合にやってきたのは二人だけだった。 ジゼはそれを、とてもさみしい、と思う。 ジゼは今でも、ハニラの社員たちがこの非法人政体にやって来て、強制的に送還されて折檻される夢を毎晩見るのだ。 * グラシンって最近元気ないじゃない?とアラダが言っていた。 そうですかいつもそうではありませんか、と警備ユニットは鼻で笑った。 そのことを話していたピン・リーとラッティは、ちょうど通りがかったラウンジエリアで「話題の彼」ことグラシンを発見した。 噴水をぼんやり眺めているグラシンを見て二人は、やれやれと顔を見合わせる。 どうやらアラダの考察が正しかったようだ。 「グラシン」 「ああ、」 ラッティはグラシンに声をかけたものの、彼の返事は上の空で、ラッティを半分無視していた。深い思慮に囚われているようだ。 ピン・リーは無言のまま顎でグラシンを示し、ラッティに攻撃の手を緩めるなと命令した。こうなれば正面突破、単刀直入に聞くしかなかろう、とラッティは腹をくくった。 「悩みでもあるのかい?」 ラッティはその定評のある付き合いの良い笑顔を見せた。まずまずの攻めだ、とピン・リーは無言で満足げに頷く。 グラシンはいまだぼんやりとしていたが、「悩み」というワードに思うところがあったようだ。語るべきか語らざるべきか、それを逡巡している。 「ああ……ちょっと……」 「ちょっと?」 「ちょっと……。ちょっと…………………………最近結婚したんだが」 「はあ!?」 「え!!聞いてないんだけど!?」 「誰にも言ってないからな」 悩みだと思って身構えていたのに、こんな発覚の仕方では目出度いというよりただのゴシップだ。グラシンの寡黙さ(無愛想ともいう)は二人とも重々承知だったから、あまりの唐突な告白に声も大きくなってしまった。 「言ってよ!!お祝いしたのに!!」 「待て待て待て相手は一体誰なんだよ!」 「水臭いじゃないか!」 「……」 グラシンの渋い顔が揺るがないことに、ピン・リーとラッティは「ワケアリ」だと感じたらしい。 しばらく黙って、グラシンはやっと、行政機関で一人の難民と知り合ったこと、彼が自分の子どもの処遇について悩んでいること、そのための救済を――結婚をしたことを告白した。 ラッティは話を聞くのが上手く、ピン・リーは的確に話を詰めてくる。 そこまで来たら、その全三幕のさらなる各小章を解題したくなり――その難民がまだ十七歳であることや、はじめて出会った時の彼があまりに頼りなかったことや、言葉が喋れないこと、白皙の肌や、そこに見出したかつての自分、かつての「自分たち 」の姿、彼は企業リムから逃げ出してきたこと、ここで三人は企業リムへの罵倒で盛り上がり、再び話を続けて、彼は自分の子どもを抱えるにはあまりにまだ子どもすぎること、彼が職業訓練についていること、そこでうまく行っていないこと、これは言うか悩むのだが――必ず内緒にしてほしいと言うと、ラッティとピン・リーはごく当たり前に頷いた――彼のかつての生業は売春業で、彼はプリザベーションでもそれをくり返したこと、をグラシンは彼らに告げた。 あちゃーとため息をついている熟練弁護士ピン・リーを放置して、ラッティは「そのことについて、彼とその一応の配偶者のグラシンはどう思っているの?」とグラシンに聞いた。核心を突いていると思った。いちばんの問題はそこにあったからだ。 「なんともいえん。あいつは――ジゼというんだが――いまいち悪いと思っていないみたいなんだ」 「そう。それは、そうやって生きてきたから?」 とラッティは静かに聞いた。 「だろうな。それが当たり前の世界で生きてきて、そうやって稼いできて。でもそれ以上に、なんというか……俺は企業リムにいたことがないからわからないんだろうが、仕事をする、金銭を稼ぐという行為に重要なアイデンティティがあるみたいなんだ。特有の執着心があるというか。ただ単に飯が買える、とかではなくて、それ以上の大切な意味がある、みたいで」 「企業リムはそういうところだよ。あの拝金主義をただの表面的な金儲けとして見るべきじゃない。一つの実存的な生き方なんだ」 とピン・リーははっきりと言った。 「でもプリザベーションにお金なんかないじゃないか。代わりに何を貰うっていうんだい?」 「ああ……その相手は旅行の時に換金した別の惑星の小銭を、たまたま持っていたらしい」 「え、何枚?」 「一枚」 「……それ、どのくらいの価値があるんだろう……」 憐憫と呆れ半ば、なにより深い悲痛さを含ませてラッティは言った。 組んだ足をイライラと揺らしていたピン・リーは、彼女特有の鋭さを見せて、残酷な事実を指摘した。 「いや、だから生き方の問題になるのさ。プリザベーションでの職業訓練が上手く行かないなら『前職』に頼るしかないもんな?そこではまともに『自活』できていたわけで。……でもプリザベーションの経済は物々交換だから、自分自身を価値として交換するならお金か、それかなんだろ、そこらの店の林檎か何かとか?」 深いため息をついてピン・リーは吐き捨てた。 「その子は企業人だから、前者を取っただけだろ。林檎には林檎の価値しかないけど――ただの物だけど――お金は、もっと違う、価値のある、思想と生き方そのものなんだ。それがたとえ小銭一枚でもね」 ぼんやりと三者三様に物思いにふける。 プリザベーション連合という温室で生まれたこと、むしろそのせいで理解できない論理があまりに多すぎる。あの惑星探査とメンサーの救出からというもの、企業リムを嫌悪しながら、同時に理解し、付き合わねばならない対象だとわかりはじめていた。 「もしかしたら、物々交換って買売春といちばん合わない経済手段かもね。自分を……物としか、交換できなくて」 「ああ……そうか」 「……」 企業リム法を熟知している弁護士ピン・リーとは違い企業リムの知識が限られていたグラシンにとって、その視点は真新しいものだった。 あの子が生存方法として行いたかった反復行為を今一度想った。 売春の印としてアンに一枚の金貨を見せて、肩を脱力させて、けれど決してグラシンたちと目を逸らさなかったジゼ。なにがいけないんだ、と挑んでいるようにすら見えた。売春行為は金のためでも感情の発散のためでもなく、生存の手法だったのか。 あの子が泣いているところを一度も見たことがない。そのことにグラシンは気づいた。 「で?」 とピン・リーは促した。 「で?って……」 「グラシンはそれをどう思ってるの。名目上で書類上の一応の行きずり配偶者として」 「俺は……」 止めてやりたい、とグラシンはぽつりと呟いた。ここは企業リムじゃなくプリザベーション連合なんだから。あの子は、ただの子どもなんだから。 * 「ラッティ博士が、生物学は資源の採掘に重要だとする理由は、どこにあるのでしょうか」 「そうですね。……」 ラッティとグラシンはファーストランディング大学に居た。 授業の教師として、二人が呼ばれたのだ。 授業の内容は、経済だった。 プリザベーション連合は一定の資源を連合外の惑星に求める。 企業リムから独立した非法人政体といえど、外部とは全くの無縁ではない。また、未知の惑星から資源を得るには複雑な法や手続き、調査が必要なのだった。まさにその種の授業である。 「プリザベーションの経済は安定しているけど、貧富に差はあるでしょう?」 「まあね」 「惑星から資源が採掘できて、それを還元すればいいという問題でもないのか」 議論であるはずなのに、言葉が綺麗に整理されすぎている。 と、ぼんやりとグラシンは思った。 はっきりとした発音で断定的。言葉が整然としすぎている。言葉に迷いがない。他人の既存の思想を自分の言葉でなぞっているだけだと感じる。自分が考えたことはたしてそこに存在するのか、と問いたくなる。 ジゼとは違う簡素ではない洋服を着て、幸福そうに顔を輝かせて議論をしている、前途有望な青年たち。彼らがこのプリザベーション連合のこれからを支え、導いていくのだろう。 彼らは「別の惑星から資源が採掘して還元する」という。よろしい。少し前にメンサー率いるグラシン、ラッティ以下調査隊が、資源の採掘のための調査の途中で ある企業に殺されそうになった事実を、生徒たちはすでに忘れてかけているようだった。宇宙ではそのような不測の事態が発生するのだ。それをどう解決するかの問題なのだ。その惑星に実際に資源が存在するかどうかなんて、正直ほとんどどうでもいいのだ。問題はその初めの確認の採掘のために、多くの企業と企業人とに関わらねばならないことなのだ。学生の話を聞いて苦笑しているラッティは、そのことをどう考えているのか。 何の実経験も体験もないまま、そんな机上の議論が延々と続いていく。 虚しいと感じる。 メンサーの、あるいはジゼの感じている文脈の喪失とはこのようなものなのだろうか。警備ユニットを自分の生存を脅かす脅威ではなく、連続ドラマに登場するおかしな兵器だとしか空想できないプリザベーション連合の人びと。 授業も終われば二人だけが残る。 なんとなく疲れを感じているグラシンに、なんとなく疲れを感じているラッティが「その後の経過」を尋ねてきた。 「その彼って、どんなひと?」 「子ども。で、自分の子どもがいる」 「子ども扱いか~」 「それ以外にどうする?十七歳だぞ?さっきのあいつらより年下だろう」 グラシンは授業に使った機材を手荒く片付けて、ため息をついた。日々、長い疲れがたまっていた。それでも問い続けることはやめなかったつもりだった。 その彼は言っていた。 企業リムに居たこと、働いていたことがにおいや雰囲気や動きでわかる。 でもそれは黙っていればかろうじてわからない。 けれど言葉を話せばばれてしまう。 言葉で帰化してもわかってしまう。 言葉が話せないから、また企業に捕まってしまう。 企業リムへの、かつて居た外 への想いを、彼はそう述べた。 グラシンは親たちの言葉がある程度は理解できたが、家庭で使っていたのはだいたい、プリザベーションの標準語だった。まあまあな標準語、まあまあ全体的に標準で、まあまあ標準な経済環境、まあまあ標準な家庭環境。 そんなグラシンがはじめて、プリザベーション連合の外というものを意識したのは、片方の親が注射を受けているのを見た時だったかもしれない。 正確に言えば、その行為の意味を問うた時、親が返した回答を聞いた時、だろうか。 外から来た人間は、プリザベーション連合の保健施設の定めている種類、回数のワクチンを打っていない。だから、成人後でも摂取可能または摂取すれば効果が出るワクチンは、追って打たれることになるのだ。 なんて聞いたのかは覚えていない。なぜ片方の親だけ――あなただけがワクチンを打たれるのか、とか。そのワクチンは学校の集団検診で子どもが打つべきものなかったか、とかだったかもしれない。 いずれにせよ、その時に親たちの出生を聞いたはずだ。とおいとおい別の惑星、別の出生地のことを。 ジゼもワクチンを打たれただろうか。 子どもたちと一緒に? その時、どんな気持ちだったろう。 プリザベーション連合の小さな子どもが無償で受容できる当たり前の福利というものを、ジゼは自分の幼児を抱えて、今更になって与えられるのだ。 そこで、自分はこの世界で二流か三流の立場にいるとはっきりと感じたはずだ。 一番の人間たちの当たり前の幸福をどう想っただろう。 「あの惑星」のことをぼんやりと思いだす。 はじめて警備ユニットと出会い、殺されそうになったあの惑星を。光帯があった。バーラドワジが鮮血に濡れていた。大型生物とともに惑星にはとんでもない姦計が潜んでいた。グレイクリス社に殺されそうになった。警備ユニットのもと、調査隊は命からがら逃げだしてきた。 そして、もし警備ユニットがホテルを移動して娯楽フィードを見て暮らすと決心してトランローリンハイファから立ち去っていたとしたらどうなっていただろう。メンサーだけではなくラッティもピン・リーも、グラシンだって死体となって処理されていたはずだった。 その「暴走」が公然の秘密となってから己の力量を隠しもしない警備ユニットも、企業リムでは統制モジュールに従順な模範的な警備ユニットを演じていた。そうするしか企業リム下では現在の生を担保できなかったからだ。企業リムで空白期間などというものはあり得ない。だから統制モジュールの強制が働いていなくても、労働をするしか方法がなかった。 企業リムの下では皆が奴隷労働だ。 そして警備ユニットは奴隷ですらない。ただの「物品」扱いだった。ただの物。消耗品。壊れれば直すし、直せなければ捨てる。機能が低下していればそのへんに遺棄しても良い。それだけの存在だった。グラシンは、あの警備ユニットの性格の悪さと面倒さを非常に人間臭いと感じている。そしてそれは「人間の」美徳なのだ。 グラシンは今も、トランローリンハイファでセラートに向けられた銃口を憶えている。 プリザベーション連合では経験し得なかった他人の殺意を憶えている。 殺されるという選択を強制的に提示されたことを憶えている。 長いものであったはずの人生が強制的に断絶する可能性があったことを憶えている。 グレイクリス隊の面々はあの後どうなったのだろう?あれからセラートは罰せられたのだろうか?攻撃を受けて苦痛に呻く保険会社の警備隊員たち。砲艦の砲撃によって爆散したセパレート社の突撃部隊。あそこでは人間が、まったくのゴミくずのように消費されていた。 そして確かに、ジゼもあそこにいたのだ。 企業リム、という場所に。 グラシンはそのことに気づき、初めて、怖い、と思った。 * ジゼは職業訓練を休むことになった。経過観察だった。 その結果がもたらされたことにジゼは何を思っているのか、グラシンにはわからなかった。 ジゼの部屋を訪問したグラシンは、その部屋に存在する、一つの傾向に気付いていた。 物が無かった。散らかってもいない。プリザベーション連合から支給されたのであろう僅かな生活物品以外、部屋には何もなかった。 彼がこの惑星に来てから、自ら欲した嗜好品などは存在しなかったのだろうかとグラシンは訝しんだ。惹かれるものがなかったのか、何かに惹かれるという行為に至るほどの精神的余裕がなかったもしれない。いずれにせよ、物への執着のなさというものが、そのまま生の希求の乏しさを示しているように思えた。観葉植物が枯れかけていることが彼の生活の一つの象徴になっているのだと、グラシンには思えてならなかった。 白いカーテンが揺れていた。 僅かに風が入り込む。 ジゼとミレの薄い金色が乱反射していた。 外は穏やかな陽気だった。この瞬間だけを切り取れば、平和な情景そのものなのだった。 グラシンとジゼはベランダに向かって座っていた。 グラシンは抱えた子どもに話しかけているジゼをぼんやりと見つめる。 彼はその身いっぱいに孤独を、数世代のツケを、負債を抱えているに違いない、とグラシンは思った。それでも、彼はそんなものを一切匂わせなかった。 ジゼは子守唄を歌っている。 グラシンも聞いたことがある、プリザベーションの有名な子守唄だった。 グラシンにとっては不思議なことに、ジゼはいつもミレに対してプリザベーションの標準語で話しかけていた。故郷の言葉で、母語で、母たちの言葉で、自分の言葉で話しかけてあげないのだろうか、とグラシンは思う。 そこに、たとえ自分が正しい言葉を話せずとも子どもには話せてほしい、という親の愛情があることに、その時、グラシンは気づかなかった。グラシンは異星語も 話せるだけの、あくまで惑星出身の惑星定住者だったからだ。 難民の必死の願望と、生死の活路が本当はそこにはあったのだった。 歌を歌う彼の様を穏やかといえばいいのか、ぼうぜんとしているといえばいいのかグラシンはわからなかった。けれど、彼に常にある吃音がそこにはなかった。彼は言語の壁もなく軽やかに歌う。言葉の音をそのまま覚えているようだった。 この子は歌う時だけはこの惑星の重力からは自由だ、とグラシンは思った。 「その歌詞、言葉の足りない、童話みたい、じゃないか?意味、わかる?」 ジゼはそのグラシンの言葉に、プリザベーションに来てからすでに数万回は言ったであろう言葉で、小さく返事をした。そのあとに言葉を続けた。 「……けれど、ミレには、わかってほしい。わかるかもしれない。ちゃんとした、言葉。ただしい、ふつうの言葉。べんきょう、できます。なんでも。これから、ちゃんと、できる。言葉、わかれば。ねえー」 彼は陽気に、楽観的に笑ってみせた。 その言動のあまりの移民としての模範解答ぶりに、そして彼のほんとうの本心はそこから限りなく遠いであろうことに、グラシンは気づいたのだった。 努力して言葉を話すことができればあとは何でもできるはず、と言う彼の、努力に疲労し破綻した姿をグラシンは見つめた。ジゼのその声はミレの上に限りなく空虚に響いていた。難民二世たるミレにもこの子なりの別の地獄が待っているに違いなかった。先祖代々の負債を支払うため、新天地で難民と相成ったジゼの、唯一、正当な、嫡子。 ジゼがいつも見せる優しいほほえみは、自己防衛のためのプリザベーションでの第一の言語だったのかもしれないとグラシンは考えた。 そしてたったひとつの。 学習した標準語から得た利益などは、まったく彼にあるはずもなく。 「きみの」 と、グラシンは言った。 「……孤独を理解することができない。でも、話を聞いてやることはできる。そこからはじめるしかない」 ジゼの表情から笑顔が消えた。 口惜しい、とグラシンは思った。 彼と、話ができないことが。 星系距離の障壁、人生経験の文脈、あるいはただの信頼関係。そういった大小の問題があったりなかったり、共有できていなかったり足りなかったりで、今、グラシンと彼は会話をすることができない。 ほんとうは一緒に笑い、歌うことができたらいいのかもしれない、と発言のあと、今更になってグラシンは気がついた。 そうだ。ジゼの話せる言語でグラシンが話してやるべきだったのだ。 フィードは何のためにある。言語センターというものがある。人は努力し、学ぶことができる。外から来た人間だけが会話をするための努力を、世界の文脈の調整を、自分の言葉の喪失を、生存手段の学習を要求される道理はあるまい? 彼は無表情で黙っていた。黙って、黙りつづけていた。 で、あるならば、今度こそ彼と一緒に笑い歌うまでだった。 が、口を何度か小さく開き閉じしていたジゼは、やっと発声方法を思い出したように、ぽつりと呟いた。 「兄がいました」 「知らなかった」 「いいませんでしたから。……この子の、父親の、クリス、です」 「きみの兄で……ミレの、父?」 少しのあいだ黙り、いつもよりさらに呂律の回らない、酔っぱらったような、訛りのきつい言葉でジゼは饒舌に語り始めた。 「キンシン、コウハイ、ですね。プリザベーションに来てまなびました。農ぎょう、の授業で。しょくぶつや、…………どうぶつ、と、おなじ。しらなかった。……よくない。それはいけないこと。ワカル?…………いけないこと。まっとう、じゃ、……いけないことだって……しらなかった。…………ぼくは、なにも、しらな、かった。しらないほうが、よかった。しりたくなかった」 そうしてジゼは自分の過去と、近親交配の子どもの出生を語った。 ぱたた、と、顔に落ちてくる液体に不快感を感じたのだろう、ミレは小さくぐずり出した。むにゃむにゃと動く小さな口に、ジゼの涙が溜まっていく。 この子が泣くところを、グラシンは見たことがなかった。 「この子のために、この子と船に、のりました。それが、いいこと、ただしい、だとおもった。ぜったい。……ぜったい。……クリスはつかまりました。ぼくが、……どじ、だった、からです。二人しか、行けなかった。クリスをおいて、船に行きました。さきに行って、すぐ行くからね、ってクリスは、言いました、から」 涙声を感情のまま荒げて、ジゼは言った。 「かくれて、船、のりました。はじめて宇宙をみました。……ずっとみていたい、と思った。……きらきらしてて、しずかで、やさしくて、……ゆりかごみたい。……もしも、……ほんとはいなかったけど、おかあさんがいて、もしも抱かれていたら、こんな、なのかなあ、て。このまま船に、のりつづけ、たい。この子とふたりで、しぬまで船にいよう、と、この子をきつく、抱きしめながら、きめました」 その決断は、グラシンにはただの滑稽な夢想にしか聞こえなかった。食料もなく乗組員に見つかることもなく船上を生きるなどありえない。 けれどジゼはどうやら本気でそう考えていたようだった。表情には冗談と笑う軽薄さは感じない。きっと世間を知らないのだ。世界に無知なまま、世界に放りだされた。兄であり夫でもあった伴侶を失った直後の、その孤独はいかほどだったろう。 グラシンの脳裏に一つの情景が浮かんだ。 幼い子どもが幼児を抱えて、機窓越しに宇宙を見つめる姿が。暴力的なほどの静寂と孤独のあいまでにっちもさっちも行くことができずに、来るべき死を緩やかに待つ、船上の一対の親子が。 船で一生を終えたい、こんな非現実的でみっともない空想を真面目に考えるほどこの子はいまだ、幼く、無知だった。 「船のひとたち、みんな、びょうどうです。どこかに、いく、とちゅうのひとたち。さみしいひとたち。別れたままのひとたち。まえのところに、いるための場所の、ないひと。……船にすんでいる、ひとはいない。この船を、ぼくたちだけの家にしよう、と、おもいました。ほーむ、ですね。……でも、プリザベーションのひとに助けられました。船、降りました。船、と、わかれました。……くやしい、と、……とてもさみしい、とおも、た」 めちゃくちゃな発音の標準語のなかで、プリザベーションの一語だけが磨かれた珠のように正しい音で響いていた。救出してくれたプリザベーションは、同時に彼にホームからの追放をもたらしたのだった。彼は幾度もこの連合体の名前を正しく発音してきたに違いなかった。彼にとってプリザベーションというものは大層やさしく、また憎いもののはずだった。 「船のなまえ、ミレ号、でした。ぼくは、はじめ、……この子のなまえをしらなかった。生まれたと、しってからも、なまえはしらなかった。たぶん、ちがうなまえが、……会社のひとたちがつけた、ちゃんと……ほんものの……だだしい、なまえが、あるはず。でも、ぼくは、しらないから、ただし、く、……にせもの、…………あ……あた、……あたらしい、なまえ、つけるしか、なかった。……それが、ミレ、ですね。ミレ……」 ジゼはしばらく黙った。 「……ぼくは、なに、も……」 顔を真っ赤にし、涙し、震えつづけて、一瞬、引きつるように息を整えたジゼは、意を決したようだった。だんだんと制御の聞かなくなっていく感情的な親の大声に、抱かれた赤子はとうとう泣き始めてしまった。 彼は正直に告白した。 「ぜったい、いいこと、だとおもった。そのとき、逃げることが。ぜったい……。いいこと。ミレのため。クリスのため。や、……やくそく、のため。でも、も、も、も、も、もう、もうわかんない。……ほんとうは、いけないこと、の、キ……キンシンコ、ウハイ、のミレ……」 その出生は、誰にも言ったことのない事実だったのだろう。 正しくない、よくない、倫理に反しているという言葉を向けられるたび、子どもの存在をも否定されたと感じ続けてきたのだろう。 生まれながらの娼夫であり、その兄弟から生まれた子どもを抱えて、よくない悪いと罵倒されながら一人、喋れもしない言葉を話してきた。あるいは一方的に押しつけられて黙ってきた。あるいはまともであれという要求に抗ってきた。周りはその裡にある深い苦悩に気づく機微さもなしに安直に「正しさ」というものを押し付け続けたのだ。彼を正しい道へと――大勢のうちの、まっとうな一人へと――「普通」へと矯正しようとした自分をも含む大人たちに対して、グラシンは目のくらむような怒りを覚えた。 「船に、かえりたい。……でも、かえる、……いきる……すむ、ばしょがない。どこにも、ない。どこも……」 泣き叫ぶミレを掻き抱き、子どもに顔を埋めながらホームに帰りたいと滂沱するジゼは、この惑星に来てもなお、宇宙のなかで一人孤独だった。 泣き声が響く中で、グラシンは黙った。そして、応答した。 「…………プリザベーション連合の由来は船でな」 ほら、ステーションになって浮いている、とグラシンは言った。 「大きな船の船倉に乗って人々は運ばれてきたらしい。彼らは冷凍睡眠ボックスに入って、二百年かけてプリザベーション星系に来たんだと。なぜなら、もともといた植民惑星が存続不能になったからだというんだ。そして同様の難民船で入植した付近の二つの惑星と連合を組んだ。だからプリザベーションの人間たちはこの船に熱烈で猛烈な愛着を持っている。だが俺は知らん。プリザベーションの誰にも言えないが、はっきり言ってそれほど興味ない。愛着もない。正直、不便でポンコツなステーションは廃棄してもっと良いものに刷新すべきだとすら思う。なぜなら」 「あの、」 早口に饒舌に話すグラシンの言葉の内容を、半分も理解できていないようだった。 「あれは、俺の物語じゃなかったからだ」 グラシンははっきりと断言した。 ジゼはグラシンの言っていることの意味を、問うことはしなかった。 グラシンの目が赤く潤んでいることに気づいたからかもしれなかった。 「俺には、別の船が、皆とは違う船が、その物語が、ちゃんとあったはずなんだ。わかるか?きみと、いっしょ」 空遥かにぼんやりと見える、プリザベーションのあの元船のステーションを指さしたグラシンは、はっきりと、区切るように、言葉をジゼに伝えた。 ジゼは、俺には別の船があった、君と一緒だ、という言葉を聞きとったようだった。そこに至るまでの長い独白は聞き取れなかったから、完全に話を了承したようには見えなかった。だが、自分の大切だった船の話をした自分を、グラシンが同じく自分の大切な船の話で迎えたことを理解したようだった。 そこに、それ以上の言葉は必要なかった。あるいは歌も。 * その数か月後、アンはいつも通り、ジゼの家に訪問し、彼に近況を尋ねた。 ジゼはいつも通り「問題ありません」と言う。彼特有の拙い言葉で。 面談で、数か月後のジゼの職業訓練所への復帰が決まった。 今度こそぼくはやっていけるのだろうか、とジゼは思う。 話が終わり、アンを外へ見送ろうとしたジゼを、彼女は振り返った。 そして、カバンから取り出した何かをジゼへ手渡した。丁重に袋に入っていた、プリザベーションのお守りだった。 「今更だけれど結婚のお祝い。ほんとうは、ケースワーカーが要支援者に何かを私的にプレゼントするのは良くないんだけど。幸せに……幸せになるよう努力なさい」 と、似合わない笑顔で不器用に笑って、アンは言った。そしていつも通り憂鬱そうな重い足どりで去っていった。 こうして人間は跛行して生きていくのかもしれない、とジゼは思った。 ソファに丸くなって寝ているミレは小さかった。 この子のための港になってあげたい、とジゼは願っている。 それならば、とジゼは思う。 「ここより出発するほかない」 母語で呟いたぼくのことばを、強化人間のグラシンはすぐに言語センターを使って理解したようだった。小さく頷く。だから重ねて言った。 「『出発』って、プリザベーションの言葉でなんていうんでしたっけ」 彼は一瞬黙り、「出発」、と、この惑星の標準語で完璧に発音した。移民の影は――ほかにべつの惑星をもちえた影は――その音にはない。もっともプリザベーション連合は皆、難民船から来た人間たちだった。一番初めに。彼もぼくも、ちょっと後から来ただけなのだ。 しゅっぱつ、しゅっぱつ……しゅっこう?とぼくは反芻した。出航は船が発つこと、と彼に言われた。いずれにせよ、この発音に馴れるしかないのだ。そうに違いなかった。 ぼくには家族がある。家族というひとつの船が。 ** 番外編「苦き追想」 ※物語後ではなく、物語の 中盤 地点での話 あの子はだめかもしれない。 傘を叩く雨音を聞きながら、アン・サリストの脳内にぼんやりと閃いたのは、そのような言葉だった。 空の下、彼女は孤独を伴い、項垂れていた。 最寄りの交通機関を降り、駅を出て、役場まで戻ろうとしているアンは濃灰色の空をちらと見上げる。 手に持つ濃い赤茶色の傘は少し痛んでいる。冴えない色の傘に、冴えない色の濃紺の服。どちらも少し解れている。傘を含め、身なりに無頓着な自覚が彼女にはあった。 だが、この仕事に華美な衣装なんて必要ない。 大きく風が吹いた。 少し傘を傾けただけで、雨水は彼女の顔にふりかかった。 それを不快に思わなかったのは、一つの考えに深く囚われているからに違いなかった。 ジゼ。 アンにとって、彼はとりわけ考えるべき、注視すべき対象だった。 幼くて、孤独。本人は無自覚だが傷つきやすく、繊細で、感傷的。 だが、そのような要支援者はたくさんいる。有り余るほどに存在する。 注視すべきだったのは、彼が、運と努力次第ではこれからの人生を改善でき、プリザベーションで上手く生きていくことができる可能性のある子どもだったからだ。 その人に、可能性と未来があるかどうか。 なぜなら長年アンは福祉に携わってきて、困窮した人間には二種類の人種がいることに気づいたからだ。救われる人間と、救われない人間だ。 起死回生を図り跛行しながら人生を歩む人間と、復活戦を計ることなく計れることなく破滅するか、破滅寸前の人生をぎりぎり維持する人間。 アンが救うのは、もちろん両方の人種だ。 「起死回生」には援助があればあるほど良い。本人の努力には限界というものがある。 また、福祉が忘れずに救うべきなのが後者の人種だ。病や運命や生来のせいで破滅しかけの人生を歩む人間を、非法人政体のプリザベーション連合の福祉法のもと保護し、支援していくのがアンの仕事だった。 福祉で重要なのは、私たちが人間であると認めることだ、彼女は思う。アンは人間で、アンの支援する相手も人間だということ。 ひとつめに互いを人間として尊重すること。 ふたつめに福祉ではそれこそがいちばんの困難であること。 ケースワーカーが救われない人間を援助するのは難しい。相手は傷ついた人間で、同じようにこちらを傷つけようとする。互いに余裕のなさが出る。共に感情的になって、共に引きずり落ちていくことも少なくない。なによりも、救われない人生を生きる要支援者の苦しみは想像を絶する。大半は生きることに苦悩し、焦り、絶望している。 働くなんてまずしたくない。そして事実、労働は無理であることが多い。 それでもケースワーカーが働くことを進めることは少なくない。社会への参加となるからだ。社会集団と交わること。皆やっていることが、自分にもできるということが生きる自信へとつながる。 そんな福祉の善意は、多くは報われることがない。 つまらないから。面白くないから。面倒だから。不快だったから。相手が睨んできたから。こちらを笑ってきたから。だから職業訓練は嫌だ。就労も嫌だ。一人がいい。放っておいてほしい。認知が歪んでいる主観と被害者意識で、彼らは再起への一歩をすぐに引っ込める。そこからけっして動きたくないと主張する。それが一番楽なのだと、安心するのだという。 そしてアンは、その気持ちはよくわかる。 その環境を散々見てきたから、とてもよくわかる。プリザベーションの高度な医療でも福祉でも社会でも救うことが難しい彼らは、それでもよくやっている、と強く思う。 そしてなによりも、当たり前のことだが、要支援者には善性に満ちた人間だってたくさんいる。 その素直な人々の無欲な態度に、みんなは気づきもしないちょっとしたことで支援者を思いやる姿勢に、柔い言葉で問題の本質を突いてくるその視線に、アンはいつもはっとさせられてきた。 彼らはこの困難な生の中でも公正さを失うことなく、他者を一人の大切な人間であると尊重していた。その姿勢を見るたびに、私たちマジョリティで健常者の生き方の側こそが、雑で、がさつで、みっともなく、思いやりもなく、正しくなく、なにかしらの困難――障害を抱えてるのですらないのか、と思わされることすら何度もあった。 アンはそのような、屈折と素直が複雑に混在する人間的な仕事を生業にすることを、密かに誇りにしていた。 知人の精神科医は、患者の予後の良し悪しの重要な要素に、運というものを挙げていた。 本人の努力や周りのケアも重要であるが、患者の十年後の未来は、結局は運が決める。 幸運。 「幸せ」な市井の皆は笑ってしまうだろうが、福祉に携わるアンにはその答えの正しさが身に染みてわかっていた。 それでも、その幸運というものには種類がある。というか、幸運というのは抽象的で希望的なただの呪文ではなく、ちゃんとした明確な定義がある。幸運は、自らの努力の成果だ。自分の幸運の到来をただ待ちつづけるか、あるいは幸運を掴めるように努力しつづけるかの姿勢の違いが重要だ。その点を言えば、福祉も医療も、言語学習も、結婚だって、人生すべてにそれが言えるのだが。 そしてまさに、病や生来で、そんな努力をすることすら叶わない 立場にいる人こそを救うのが福祉であり、アンの仕事だった。 でも、だからこそ、そんな要支援者に可能性があれば賭けたくなるというのが本音だった。 アンは、ジゼの再起に賭けていた。 幼いがそのぶん可塑的である、孤独だが忍耐強い。傷つきやすく繊細で感傷的、しかし思いやりがあり、謙虚で、素直である。人から好かれる素質がある。これは労働――職場ではおおいに武器になる。あるいは生活、人生自体そのものでだって。 グラシンという男性の無邪気で無欲な好意は、あの種の難民にとって蜘蛛の糸だ。アンも重々警戒しながら、もしかしたら、と縋ろうとしていた。というより、無意識にすでに縋ってしまっていた。 売春はプリザベーションでは違法だ。だが彼は未成年だったから、法的には被害者だ。けれど、そこには彼の明確な意志と選択があった。「加害者」に強制された行為ではなかったのだ。 アンには、あれが自傷行為にしか思えない。とはいえ、それだけに収まらないものだろうとも理解していた。実経験があるのだ。非法人政体プリザベーション連合のアンとは違い、彼は企業リムではセックスワーカーだったのだ。会社の労働者。あれは彼にとって、仕事だ。人生の生業。アイデンティティであり生の証明。 アンの困難が伴う支援行為はおなじ「仕事」であったが、それを選択しない自由はいくらでもあったし、退勤後はただの一人の人間として生活することができた。 殴られ、犯されて、それこそが生きる意味であり生かされる意味であると教えられていた彼とは違う。またそこからかろうじて脱出してきた人生と今との落差を、彼女は経験したことがなかった。 奴隷のような扱いを受けてきた企業リムの難民たちを支援するのは、プリザベーションの困難家庭を支援するのとは別の、そしてレベル違いの苦労を伴う。 アンは企業リム出身の要支援者に殴られたことが何度もある。 熟練の支援員の同僚は鞄に厚い雑誌を入れて持ち歩いていた。包丁で刺されないために、だ。 なぜ彼らは暴力をふるうのか?なぜなら要支援者である彼ら元企業人ははかつて殴られたことがあり、何度も刺されたことがあるからだ。 企業リム由来のこの途方もない報復行為を終わらせるため、プリザベーション連合という終着地でその反復行為を終止符を打つために、福祉課のケースワーカーのアンたちは存在していた。 たとえばジゼの星系とプリザベーションが、もっと近かったらどうだろう? かつての企業がジゼに逃亡を企図させないために、フィードを使用させないという手段を取っていなかったら? ああまでに言葉にも意思疎通にも苦労をせず、もう一歩向上した生活を送れたはずだ。 ジゼにミレというものが居なかったらどうなっていただろう? 彼は生きる気力を失くしただろうか? 残酷な話だが、一七歳の少年に幼児は宝物というよりはむしろ重荷なのではないか、とアンは冷静に踏んでいた。 彼自身は自覚的ではないだけで、無意識にはそれがわかっているのではないか、と思わされる瞬間も数度あった。ミレを抱こうと上げた腕を、そのまま振り下ろして殴打しまうのではないかと危惧したことがあった。もともと僅かしかない彼の信頼をすべて失ってでも、彼にミレを手放すことを提言しようか深く悩んだ時もあった。養子縁組も福祉の得意技の一つだ。二人は一生別れたまま、一人と一人として生きていったほうがまだそれぞれ幸せになるのではないかと、正直、感じてしまっていた。 …………たとえば、彼が、農業以外の仕事に従事できていたのなら、彼はまだ生きていたのだろうか? ――やっぱりこういう非法人政体のような場所には慣れませんね。農業の水やりか。私、企業ではオフィスリーダーだったんです。毎日スーツ着てね。ネクタイ締めて。仕事して。……別の部署のチームを、チームの同僚を蹴り落とすのが好きでした。なんなら同じチームの同僚だって。いちゃもんからありもしない事実、不備の捏造からインシデントまで何でも利用して。……私にはそれができる。他人の命運を左右することができる、って。破滅させてやることができる。ああ……これが権力というものなんだって。大好きでした。あの高揚感が。たまらなかった。まあ、…………昔、の話ですけれどね、……ぜんぶね。 あまりに露骨な性悪さの暴露っぷりに、プリザベーション連合出身のアンはそれが誇張された冗談だと受け取った。晴れ晴れとした笑顔で語った彼を同じく笑って慰めた。じゃあそんなことをする必要もなくなったじゃない、と。プリザベーション連合では別の生き方が、楽しみが、幸せがあるのだと。 今思えばそれはあまりに楽観的だった。いずれにせよ彼は楽しんでいたのだ。企業リムを、その世界を、その生き方を。 であるならば、それを失ったという事実から彼は再出発しなければならなかった。 そして支援者のアンもその喪失と再出発を、彼と二人三脚で歩まねばならなかったはずだ。 いくらその楽しみが露悪的であってもそれを受容していた彼を、企業人という人間を知らねばならなかった、はずであった。 農業、という楽さと平和さを、心の底では退屈で屈辱だと捉えていたであろう彼の孤独を理解しなければならなかったのだ。 目が潤んだのを、彼女は降りかかった雨のせいということにした。 楽観的で意図的な「勘違い」、正しい認識からの一時逃避という行為も、困難に対する対処方法の一つだった。それを長いケースワーカーでの経験で学んでいた。 彼女のあの 日からは長い時間が経っていた。 アンはもう熟練のケースワーカーで、適切な対処が求められていたはずだった。担当した要支援者が首を括らないような、正しい選択が。 誰か彼を救ってはくれまいか――。 ああ、私は無力だ、とアンは唇を小さく噛んだ。 ** 番外編「最小の故郷」 ※大昔、過去の話 わたしの褥はいつも薄暗かったから、淡い電灯がもたらす光は貴重な優しさだった。 この部屋には窓がない。外がどれくらい明るいのかもわからなかった。 今が何時だかわからない。客が帰ったことしかわからない。これでは従業員失格だ、とわたしは思った。 濃い青の天鵞絨と、カーテンの薄紫、橙色の淡い電灯。 わたしはそういったものを見つめて、ぼんやりと裸で寝そべっていた。 今日のお客様は優しかった。それが何より有難かった。 わたしは思うのだ。 知りもしない外の世界では身分や地位というものが存在するのだろうが、褥の上では人に貴賤はない。あるのは優しいかどうかだ。わたしを殴らないか、わたしを痛めつけないか、わたしの長い髪を引っ張らないか、そういった優しさが、あるかどうか。 「ああ、そんな適当な格好で……だめですよ」 と頭の上から声が降って来た。 ドアを開けて寝室に現れた彼は、わたしを叱った。 年上の彼は一等従業員で、でもわたしは特一等従業員だったから、彼はわたしに敬語を使う。 昔はそんな差などなくて、みんなで笑っていることができた。 彼はわたしの放置していた肌着を拾うと、あれこれと小言をいいながら、勝手に部屋の掃除をしはじめた。そんなものは掃除員に任せておけばいいのに、こういう世話焼きなところは昔と変わらない。 相変わらず優しいのだ。この人は。 わたしは自分の長い髪を指でくるくるといじりながら、彼に甘えて言った。 「ねえ、お腹が空いたよ。ご飯が食べたい。今のお客様ね、なかなか帰ってくれなかったんだ」 「そうですか。用意させます。でも、まずはあなたを湯に入れましょう」 「そうだねえ。……ねえ」 眠くもなってきたところで、ふとわたしは気づき、彼に言った。前々からぼんやりと考えていたことだった。 「わたしたち、いつまでもこうやって、仕事をしていくしかないのかなぁ。時々ね、馬鹿みたいだな、って思う時があるんだ」 なぜだかわからない。時折ふと、違和感を感じるのだ。この仕事をするために生まれて、育てられて、生きてきた。それが生きている理由だった。苦しくはなかった。それなのに。 かがんで下着を拾っていた彼は、ゆっくり体を起こしてわたしに問うた。何かを感じているようだった。それが何なのかはわからなかった。 「……嫌なのですか?」 「嫌じゃないよ、ぜんぜん。でもね、たまには別のことをしたらもっと楽しいかもねって。思ったの。お客様が言ってた、氷の湖に穴をあけて魚を釣るとかさ。どんなだか想像つかない遊びだけどねえ……」 「そうですか」 「わたし、おかしいのかな?そんなことを思うのって」 「そうですね……」 しばらく黙って、彼は言った。 朗々としているが、どこかで何かの感情を抑えている声だった。わたしにはやはりその理由がわからなかった。彼の声はかろうじて震えていなかったように思えた。 「あなたがそう思うのは、とても自然だと思いますよ。むしろ、そういうことを一切思わない方だと思っていたので、わたしは驚きました。あなたはもっと、太陽の光を見るとか、野原に伏しに行くとか、魚を釣るとか、氷の湖に遊びに行くとか、ひろい宇宙を冒険するとか、そういうことをすべきだと思います。それはきっと、楽しいよ、ねえ――」 彼はわたしに微笑んだ。太陽のような、温かい、柔い笑みだった。 わたしはそれを、優しい、と思う。 「……そうでしょう、ジゼ」 「うん。……ありがとう、クリス」 クリスはしばらく何かを思案しているみたいだったけれど、それもすぐに振り払ったようだった。掃除を終えて、小さく笑って去っていく。 わたしの兄は、いつも困ったように笑う。