あとがき、あるいは長い言い訳:「大脱走」あとがき

 この物語は未来への再起の話です。

 そうあった、敗戦を迎えた日本郵船を擬人化した漫画を描いています。

 精神的また物質的喪失から立ち直るまでの過程、を、同じくそうあった敗戦後の海運会社に投影してこの物語を描きました。

 戦時下の貨客船を思うとき、そのあとの戦時補償特別税のこと、そのあとの長い敗戦後をいつも考えてしまいます。

 幸せか悲しいかの二極化ではなくその波間を揺蕩うような話を目指しました。その曖昧さは、激烈なショックやトラウマが襲った時に呆然とするような、「空白」との類似を感じるからです。またその両者は似ているだけで明確に違うことも意識しました。

 また今作は意図をもって黄色人種を黄色に塗るよう努めました。戦争の終わりを特別な意図による以外は「敗戦」と表記し、またその事象をそのように扱いました。

 敗戦直後の彼らは戦争を総括できていなかったのではないかという見解に立ち、国策海運が惨禍と報復を招いたという苦痛と共にあった、「東京裁判は勝者の裁き」だという一定の日本人の解釈を反映することも忘れなかったつもりです。

 戦争を俯瞰できなかった者たちの群像劇を私自身も俯瞰せずに描こうと心掛けました。戦後80年という地点に立つ人間の感情に選別、あるいは裁きを加えないように努めました。また外野から他人事に、他人の会社に対して図々しく説教するような物語はなるべく避けようと一定の自律は行いました。

 敗戦という物質的に何もない状況を美術的に美しく描こうと努めました。またそれをあえて美しく描くことについての意味は弁えているつもりです。この状況を「全てを失った悲劇」とえがくか、「長くあった資本と帝国の末路」とえがくかを逡巡し、常に自問しながらえがきました。所々意図しなかった私の失敗も見えるでしょう。倫理的に美しくないはずなのに、感情的に「美しく」なってしまった部分も多々あります。

 自律したうえで自律しえなかった、多くの越権行為をこの物語では行ってしまいました。

 終戦の時、日本海運は多くのものを失いました。その再建を思えばいまは苦労話と「美談」の一つです。でもそのまま潰えて終わる可能性があったこともまたつよく思ってしまいます。

 その喪失に反発し、受容し、再起する過程の話を描きたかったのです。

 この物語の連載前後の2023年でサークル「高松堂通信」の活動が10周年でした。この10年間、いつ死んでも怖くなかったのですが、この漫画の連載中は死んだら「大脱走」が完結しないのだと思うととても怖かったです。これは初めてのことでした。そういう事なんだと思います。

 最近はいままでに失ってきた多くのものを思い出します。

津崎

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