※未完です。早めに完成させます。特に3部が未完です。
この三篇を、あるぜんちな丸ではなく貨客船新田丸に謹んで捧げる。汝こそ特設艦船の極北たりき。また一編「孤独の極北」をとり、李良枝「かずきめ」に憚りながら付す。
1「南洋の追想」
「ふねなんだから使ってナンボだ。貨客船も運送船も何も変わらん。そうだろう、あるぜんちな丸」
そうです、と答えた特設運送船あるぜんちな丸の口調は柔らかかった。たおやかな乙女、それに近かった。
それが海軍さんにとっておかしかったらしい。陸戦隊のお偉い人間の一人が小さく笑った。
「いつまでも貨客船意識を持つんじゃないぞ」
「こいつは箱入り娘でしたから、相すみません」
貨客船時代からの乗組員が、慎重に腰を低く保ちながら言った。
長年付き合ってきた経験から、その声に苦渋と反発が隠れていることがわかった。あるぜんちな丸はこれからの航海の行く先を思った。長く続く一引きの航跡を想った。
*
祖国と南洋の間の海に、その船はあった。
日本の国土で見あげる空よりも、ひろい青色の下に彼女はいた。一引きの航跡が、荒々しく碧い波を攪乱させる。
特設運送船あるぜんちな丸は、船尾から呆けたようにその航跡を覗き込んでいた。
湿度を含んだ生温い風がきもちわるい、と思った。
ふねのえがく航跡は、艦種も船種も関係なくどれも同じ様相をしている。船尾にかき乱された海に立つ波は、どの艦船も同じだ。もっともそんな認識は、実際を詳しく知らない者が抱きがちな、自分勝手なこじつけか、ただの印象論なのかもしれない。
特設航空母艦、そして航空母艦になっても、私はおなじ航跡をえがくのだろうか。あるぜんちな丸はなんとなく、そんな感傷にとらわれた。自分らしくないと思った。特設運送船としての任務で海を右往左往していて、すこし疲れているのかもしれなかった。
ふう、と一つため息をつき、あるぜんちな丸は航跡に背を向け船尾にしゃがみこんだ。することがなかった。自分は船の依り代でしかなく、人間の女の身とまるでおなじで輸送任務の乗り込みの一つすら手伝うことができない。任務の目的、向かう場所、具体的な情報などは聞かされるが、それすら時折忘れられて聞かされないことがあった。
人間たちは戦争で忙しく、船は物資を運べればそれでよく、われら依り代はそこにいればいいだけなのだ。
あるぜんちな丸の頭上に翻るのは、大日本帝国海軍の軍用船旗だ。これもなんとなく気に食わなかった。彼女は、船客には絶対に向けなかった品のない目つきでその旗を見上げた。
過去と未来に期待も失望もしないことが自分の美点であり優れた点だとあるぜんちな丸は認めていた。だからなおさらその感傷を人間みたいな情念だと感じた。あるいは人間みたいな、ではなく、この時代の海に浮かぶすべての貨客船たちのような恨み、というべきか。
社旗と日章旗ではなく、日章旗と軍艦旗あるいは軍用船旗を掲げなければならなくなった世界を、その日章旗の位置の前後の逆転を示して「前と後ろが狂ったおかしな世界」と罵ったのは、彼女の妹だった。
「見よ東海の空あけて、旭日高く輝けば……」
あるぜんちな丸は人間たちに愛されている一曲を呟く。
人間たちはもう、あの世界を忘れてしまったのだろうか。
うつくしく舞う五色のテープ。翻る日章旗。解纜のときの浮ついた幸福感。身の寄り辺である祖国との離別。たとえその船の行く先が、草も生えない開拓地だろうが未開の地だろうが、そのうつくしさは誰にも犯せない。それを一番近くで見てきたこと。一番近くで感じてきたこと。
多くの貨客船たちは、そのことを忘れられずにいる。
たとえば、大阪商船の貨客船ぶら志”る丸もその一隻だった。
船であることというよりも貨客船であることにつよく誇りと自負があったわが妹、ぶら志”る丸は、航空母艦としての誉れを受ける前にその身を海深くへと没していた。あれは亜米利加軍の雷撃がなくとも、たとえ一隻でも自ら死を選んだに違いない、というのが彼女の姉たるあるぜんちな丸の見解である。わが身を帝国海軍の航空母艦何鷹云々に成すなんて、あの子は決して許さなかっただろう。
実際、特設運送船ぶらじる丸になったあたりからあれは明らかに精神的不調を抱えていたし、その不調はその当時の軍隊での疲労や苦痛というよりもむしろ、それ以前に持ちえた過去が問題なのだった。
貨客船として人間達に愛されすぎたのだ、と海鷹は思った。妹はその愛情溢れる過去を過去であると捨て去ることができなかったのだ。そうしてわが身いっぱいに重い思い出を抱えた彼女は米潜の雷撃で沈んでいった。過去と共に。船の身と共に。誇りと共に。愛しき船長と共に。
人間全般にも特定の人間にも貨客船としての自分にも、あるいは海に浮くことにすらつよい愛着を持たなかったことが特設輸送船あるぜんちな丸を海へと沈めなかった要因なのかもしれない。
「あるぜんちな丸!ここに居たか」
そう言いながら船尾に現れたのは特設運送船あるぜんちな丸の監督官である。
海軍の中佐たる彼はいつも堂々としていて、これが軍隊の人間なのだな、とあるぜんちな丸はいつも感じていた。もちろんわが船乗りたちが堂々としていないわけではないのだが。戦争中の軍人たちはとりわけ威勢がいいものだ。
「やることがないのはわかるが無意味にうろつくな」
「申し訳ございません。船内に居ても邪魔になるだけかと思いました」
感情を一切表に出さず、あるぜんちな丸は応えた。
ふう、と監督官は一つ小さなため息をついた。あるぜんちな丸を見据え、なおはっきりとした口調で言う。よくよく言い聞かせようとしたらしい。
「あるぜんちな丸。海軍はふねを悪いようには扱わない。特にお前は航空母艦になる船だ」
目と目が合う。
どちらも先に逸らした方が負けだと思っている、そのようにあるぜんちな丸は感じた。なおさら目線を逸らすわけにはいかなかった。
「今は耐え忍べ。沈まないことを考えろ。海軍はお前に価値があるうちは悪くしない」
「私の乗組員はどうなりますか」
「人間様だって一緒さ」
肩を竦めて大日本帝国海軍中佐たる監督官様は言った。
ふねとしての価値。
だいたい私たち元貨客船が戦闘詳報で自らの栄光を語れるかどうかが問題なのだ。航海日誌の横文字の英語の綴りなど捨て去れねばならないのだ。
人間にほんとうにその気持ちがわかるのだろうか。
元貨客船のなかには、艦梯を登る際に大きくだぼついた軍袴の横部をドレスを引くように掴んで笑われた者もいるというのだから、その身に宿すふねの性[さが]は深いものだ。人間たちは、そのことを都合よく忘れている気がする。ふねは皆ふねでしかない、という幻想が人間たちの思惑の間いっぱいに漂っている。特設艦艇という身に貨客船たちが容易に適応できると思っている。もちろんそうある船はいる。そうじゃない船もいる。人間たちの国家や国籍や民族名を統合したり分割したりしても、容易にその心情までは追いついてこないのとおなじだ。もっとも本土に閉じこもっている偉い人間たちがそれに気づくとも思えない。あるぜんちな丸は外国が好きだった。外国や外国人、外国にいる、外国に行く日本人が好きだった。本土の人間は小さくて適わん、という言葉は船長から三等客までに、そして船底の唐行きたちにさえも聞かせられる囁きだった。
航空母艦になるための船じゃないんだけどな、という思いと、生まれた時から航空母艦としての計画を備えた船だった、という事実が、あるぜんちな丸の身と心を縛った。この時代に生まれたという事実がいけなかったのかもしれなかった。
あるいは、私が私自身として生まれたことが。
「航空母艦になれば、とりあえず私は船尾をうろつくことがなくなりますね」
「そうだな、どこでも引っ張りだこだ。海軍で航空母艦をやるというのはそういうことだ。忙しくなるぞ」
船底がどれだけ奥深く薄暗くても白粉姿の貨客船はいつもうつくしかった。そのうつくしさで多くの人間を惹き寄せ、惑わせてきた。そのつけが自身にも回ってきたのかもしれなかった。連れて行くのではなく連れて行かれる側に回ったということ。ただそれだけのこと。
航空母艦何鷹か、変な名前だったら嫌だなあ。
あるぜんちな丸はそう思った。もっとも名前なんぞ、軍の一兵として忙しくなればすぐに忘れるものなのかもしれなかった。軍隊というのはそういう場所だというのは、特設運送船でもすでにわかりつつあったのだ。
2「孤独の極北」
「私はもう軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ軍属」
軍艦冲鷹が、特設運送船あるぜんちな丸の隣の特設運送船某へ放ったこの言葉に、その場は北方海域より寒い空気が漂った。
少々装いが貧相なれども濃紺色の織物で統一された会議室、その窓の外からは、眩しく白い陽が差し込んでいる。あるぜんちな丸はぼんやりと、その白々しい美しさを見つめていた。
「……冲鷹、」と冲鷹をたしなめたのは大鷹型航空母艦のネームシップ、”長兄”たる大鷹であった。
「下らない揶揄は止せ」
「揶揄ではない」
「なら尚更止めろ」
冲鷹を呼ぶ大鷹が一瞬言葉を言い淀んだのは、長女だった元姉に本当は何と呼びかけるつもりだったからなのかな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。
苛立ちを隠そうともしない冲鷹の不興の理由は、隣の特設運送船が何気なく、しかし必死に縋るように護衛艦艇の有無を尋ねたからだ。またそれらの具体的な艦種や艦名や、任務の内容なども。あのう、あたしたちにはどのくらいの護衛がつくのでしょうか、強い艦ですか、船団の形はどんなでしょうか、遅い船はいっしょに居ますか、航路は島沿いですか、何ノットで走るんですか、あたし……。
それが自身を救う祈りの言葉になるかのようにぶつぶつと言いつのった彼女に、大鷹は明快にまた冷淡に、
「海防艦が付くと聞く。貴船の監督官の説明を待て」
と言い切り、一方的に話を打ち切った。
でも、でも、それに……と、なおも彼女は話を続けようとし、救いを求めるように大鷹の隣の冲鷹を見遣った。
そこで話は、冒頭へと戻るわけだ。
あるぜんちな丸は一つの陳腐な演劇を見ているような白けた気持ちになっていた。下らないやり取りを続ける三者三様に気づかれないように机の下で、つまらない気持ちで爪先の汚れを擦り取って、演技の続きを待っている。
誰もが次の台詞を忘れたような苦しい沈黙のなかで、この劇一番の花形であった軍艦冲鷹は、いらいらとした様子で押し黙っていた。白手袋をつけた両手の親指を、神経質に動かしている。彼女は異常潔癖のきらいがある。神経質に手口の洗浄を好むのだ。
軍隊という場に潔癖を感じるのか、元々の性なのか。両方かも知れない。きっと軍属云々だって関係はないのだ。あるぜんちな丸は、冲鷹が貨客船時代の己を愛していたことを知っていた。というより、わかっていた。わかってしまうのだ。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。この特設運送船の口調が民間船の、というより平民のそれだったことが、冲鷹の神経を逆なでしたことの一因かもしれない。
私はもう、軍艦なんだから、気軽に話しかけるなよ、軍属。
このあっさり放られた言葉に含まれる、戦時下の軍隊のふねたちの見事な政治性!元貨客船新田丸は無邪気で哀れ、愚かな軍艦役者だが、彼女のこの言葉の鮮やかさは手放しで褒めてやりたくなった。すなわち、未だ商船の名残を留めたる特設運送船に対し、すでに商船でない商船改造空母が軍艦であることで優越を誇る海軍という場の、露骨なまでの軍隊ざま、すさまじき地獄ぶりである。
ここではそうあることでしか我々は生きれない、という今一度の確認を、あるぜんちな丸は冲鷹から賜ったのだ。そしておそらく、大鷹も。隣の特設運送船も。
「……隼鷹に引けを取ってはならない、戦闘に繰り出すだけが戦ではないんだ、我らは為すべきことを成さねばならない」
隠し切れない屈辱と羨望とをその声に孕ませ航空母艦隼鷹の名を呼んだ冲鷹は、忸怩たる己の現状を直視できていないのだろう。あるいはあえて無視しているのか。
護衛空母あるいは航空機の輸送という職務は、その貨客船の美しい身を捨てさせ、わざわざ航空母艦として改造させてまで必要だったのだろうか。航空母艦としてはまるで宝の持ち腐れだ。だがしかし、小型の商船改造空母として成しえる任務は、せいぜいそれくらいが限界だった。改造された結果の二流空母だ。正直、あるぜんちな丸はそう思っていたし、日本海軍の人間たちもそう思っているかもしれない。おそらく大鷹は思っているだろう。冲鷹だってほんとうはわかってるはずだ。
「だから……!」
これも哀れなふねなのだ、とあるぜんちな丸は思った。あるぜんちな丸の妹同様、かつて受けた愛を忘れられないでいる。再びあの愛情を得られないからこそ積極的に捨て去ろうとしている。自ら進んで捨てることで主体性を確保しようとしている。足掻き、苦しみ、悶えている。今持ちえている(ので、あろう)軍艦の威容を誇ろうとする。わが妹とは違い、貨客船新田丸の姿を留めたまま沈没するという栄誉を得ることはなかった航空母艦、冲鷹。
もし彼女に日本郵船の客船浅間丸を話をしたら、大日本帝国海軍お得意の木棒で打擲されるだろうか。それともむざむざと泣きはじめるかもしれないな。どちらにせよただの特設運送船に出すぎた真似は禁物だ。
だから、という冲鷹の、続きの言葉は聞けずに終わった。
彼女は数秒沈黙し、この場に耐えきれないように荒々しく椅子から立ちあがり、会議室から走り去ってしまった。
時間切れかもな、とあるぜんちな丸はぼんやりと思った。あれはたぶん、手を洗いに行っただけだ。口かもしれないが。あるぜんちな丸は冲鷹の、あの種の奇行を数度目撃したことがある。そして興味本位で追いかけてみたことも一度だけある。何かに耐えられないように執拗に手口を洗っていた。あるぜんちな丸は、軍艦冲鷹が貨客船新田丸を愛していたことを知っていた。というより、わかってしまった。彼女のいらだちは今生の、軍艦としての生と理想との乖離から来ているのは見ているだけでわかった。だからなおさら追いかけてまで見に行ってしまう。確認してしまう。
私のゆくすえは、あんななのか?
「……以上、明朝を待って任務に当たる。詳細は監督官の指示を仰ぐように、と艦長が仰っていた」
気づいたら、大鷹の説明は終わったようだ。というか巻き上げて終わらせた。元姉であり今は妹の冲鷹を追いかけるために。
情けない、士気に関わる、とあるぜんちな丸は鼻白んだ。隣の特設運送船もなおさら不安だろうに。まあ、仕方ないのだろうか。誰しも自分を一番大切に精一杯やっている。明日沈んでいるかもしれないのだ。大鷹が言うように、監督官、人間に話を聞いた方がよっぽどいい。生還の計画の具体性は増すだろう。
だいたい、どうして私が彼女を責められよう、とあるぜんちな丸は思った。……この泣きそうな特設運送船の船名も、私は最後まで覚えられなかったのに。
そのことにふと気づき、あるぜんちな丸は、他の特設運送船や一般徴用船に続いて呆然と椅子から立った。
わたしたちのしろいたいよう、という意味のない言葉があるぜんちな丸の脳裏に浮かんだ。
私たちの白い太陽。
それははたして、いったいどこに?
3「極東の客死」
空は淡く薄暗い。
小雨がこの地にも降るかもしれない。
窓を開けると見えるのは、海と港とわが現身たる艦体だ。
冴えない小型の大日本帝国海軍の航空母艦が二隻。空母海鷹と神鷹である。軍港の建物に隠れながらも身を晒すわが現身を、すこし顔を顰めて海鷹は見遣った。
相変わらず無骨で無様だ、と思わなかったと言えば嘘になる。
だが、商船改造空母が無様とは?華の艦艇様に失礼ではないか。元が贋由来でも改造してしまえば立派な航空母艦である。灰色の艦体こそをわが美学として生きる――航空母艦海鷹の使命はこれだ。
煙突の縁をうつくしくせい丸くせいと言いつのり、挙句の果てに造船所とわが船主とを不仲にまで発展させたあるぜんちな丸の父は、生粋の船狂いだ。今の海鷹の姿を見たらなんというだろう。無様だ、とその冷静な審美眼でそう下すだろうか。
そうはいっても、軍艦には軍艦の美学と美しさがあるものだし。
…海鷹たち商船改造空母は、その中途半端な船体のために主戦場を征く軍艦にも成れず、飛行甲板に航空機を括りつけての輸送というまことに面目のない任務へと振り分けられていった。
華の連合艦隊とは程遠く、さりとて今更かつての南米航路にも帰れない海鷹はただの奇形で奇怪なふねであった。
海軍というひとごろし集団をこそ船主であり親だと思え、と大阪商船の人間たちに言われて送り出されたのが、あるぜんちな丸が貨客船として最後に受けた餞であり愛を込めた警句であった。
…元同朋であった大阪商船の徴用船、その黒塗りされたファンネルの下にはあの大の字の姿形が残っていた。軍艦海鷹はおぞましさを感じ、気が遠くなった。叫びたかった。わたしにも、わたしにもあれがあったのに!あのマークが!!あの船主の餞が!!
勿論、海軍艦艇である海鷹はそのようなみっともない真似はできない。海鷹にはファンネルマークではなく、燦爛たる十六条の旭日があるのだ。
その旗の威容は一隻の船だけのものではなく、艦船の、大日本帝国海軍の、国家の威信へと連なっていた。
私は国家なのだ。国家の顔なのだ。
それは貨客船時代からも変わらぬ、わが使命と宿命そのものであった。
……生きる為に外洋で春をひさぐおんなたちを唐行き天竺行きのおんなたちを船底に隠して運んでやるのだ、彼女たちは外地で簡単にくたばるし孤独だし石炭のように使い潰される、その前にわが船底で溺れ死ぬこともすくなくないのだ、おんなと船員の共犯者でありただの船である俺はそれを止めることができないのだ、けどもいつしか彼女たちを日本へと帰してやりたいのだ、迎えてあげたい、もしかしたら送り出したおんなたちは南洋でたくさんの富を築いていて、一等船客として貨客船の船友に乗りこの日本へ戻ってくるかもしれぬ、俺はおなじ海で、おなじ船としてそれを見届けるのだ……とある知り合いの船はいった。彼はどこの船だったかな。
…つねに海鷹の船生は国策とともにあり、その生と国家とのわずかなずれと隙間に、楽しさや、きらめきや、美しいものや、人間たちとの情愛や僚船とのふれあいをやさしく敷き詰めてきた。戦争により船と国家とが完全に一体となったことでその緩衝地帯はなくなり、貨客船あるぜんちな丸は航空母艦海鷹となる。
…「貴艦の艦長に聞く」
「そうしろ」
冲鷹を失って以来覇気も威勢もない大鷹は挨拶もほどほどに、足早に去っていった。
大鷹型航空母艦は、大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹で構成されている。とはいえ、貨客船時代からのほんとうの同級型というのは新田丸級貨客船たちだけであったし、海鷹には別の、そしてほんとうの妹が、おそらく神鷹にもほんとうのきょうだいがほんとうの故郷の海にいるはずだ。沈んでいるか解体されていなければ。彼女は祖国の、ふるさとの話をしたがらない、というのは”長兄”たる大鷹の言であった。
…彼女と旧新田丸級たちは、仲が良くなかった。
もちろん軍隊の艦艇に仲も不仲もない。が、両者の間に張り巡らせられた空気は姉妹的な甘さや温かさからはひどく遠かった。
シャルンホルスト級貨客船に対抗するために造られたのが、他の何物でもない日本郵船株式会社の新田丸級貨客船であったことが不仲の一因だったろう。美しき欧州航路の好敵手同士は、何の因果であろうかこの極東の帝国が開拓する戦火の中の海で同型航空母艦として相括られた。同じ海に浮く宿命であった、といえば苛烈な皮肉になってしまうだろう。
だから、海鷹と神鷹が触れ合うことが多かったのは必然だったのかもしれない。余りもので構成された大鷹型航空母艦、その余りものたちの、語るに下らない馴れ合いである。
「タバコは要りますか?神鷹」
「いいえ。結構よ、海鷹」
まるで軍隊の粗野さ、あるいは帝国海軍の実直さからは程遠く、かつての貨客船時代の一等客すら彷彿とさせる典雅な響きをもって、元国策豪華船と元独逸優秀貨客船であった軍艦両者の会話は始まり、終わった。
艦長に聞かれでもしたらきつぅく窘められそうな言葉遣いになってしまったな、と海鷹は思った。
…こういう時、大鷹だったらなんて言うのかなと、海鷹は下らない感慨にふけった。
姉妹船が兄弟姉妹を名乗るのは人間達の因習と儀礼の延長上のもので、常に船は一隻の船それ以上でも以下でもなかったし、船と船との関係も同様だった。それでもやはり大鷹と雲鷹の一種の「馴れ馴れしさ」は、周りから品のない揶揄と軽蔑を呼んでいたのだった。
ほんとうは大鷹は冲鷹を愛していたのだ、というのが、商船改造空母や、航空機輸送・護衛任務についていた艦艇たちの公的見解であった。だからなおさら彼らの得体が知れなかった。傷の舐めあい、という言葉に収まらない粘着質な心情が両者間のそこにはあった。
…ここは貨客船の墓場というより、滅茶苦茶な事故現場だと海鷹は感じる。完了済みの死、その跡かたではなく、今も続く屈辱的な苦しみ。
父と妹は轢かれて死んでしまって、母は生き残ったけれど精神的に病んでしまって。娘は、疲労と悲しみと義務感を抱えながら家を守るために身をやつして働き続けて。不運な人間に起こる、そんな状況に似ている。厳粛に死を祀る場所より、もっとひどい。事故の見物に来た群衆がいなくなったら、もうここは何でもないただの凪いだ海なのだ。
娘、改造された船たち、それ以外の皆にとっては、ただの美しい海。
この海では、誰もが自分の故郷の話をしたがらない。特に空母神鷹は、二重の意味で――貨客船としての平時の海と、独逸船としての欧州の海とで――故郷を喪失していたから、その沈黙はことさら鈍く、深かった。
…「さあ、私は返品不可の商品ですから」と海鷹は言った。
…「極東の海は、灰色なのですね」
「あなたの海はどんなでした?」
「赤と黒の海。人間の理念にまみれた旗が翻っていた。でも私には上等な餞だった。」
国策に踊らされたのは海鷹だけではない。船舶は国土の延長なり、という言葉はこの時の、この戦争を往く全ての船へと降りかかっていた。
…そこに、私の孤独は私だけのものだ、という言外の主張を感じ取らなかったと言えば、嘘になる。
「北欧神話の女神Frejaのことを考えていました」
「ふれいや」
ふれいやではなくFrejaという、日本語とは趣の異なる言語の特有の発音は、彼女が持ちえた唯一の遺産だった。
「衣を持っていて、纏うと鷹になれるのです」
女神のごとき黄金の髪を持つ異邦人と異貌の女神の話をするまでの、己の長い因果と宿命のことを海鷹は考えた。
……鷹の名を冠した女神フレイヤ、美しさからは程遠い。
「タバコ、ほんとうに要りませんか?神鷹」
「いいえ。結構よ、海鷹。有難う」
貨客船も航空母艦もないのだ。ふねとして海をゆくこと以外の何を求めよう。
軍艦海鷹は、軍帽を被り、うつくしかった過去とその未練の一切を捨て、ただ前を見据え、歩みはじめた。
艦船擬人化>「海にありて思うもの」