「おー、これが噂の」とミンゴ。
「そうだよ」
と彼は答えた。
ミンゴが岸壁からガトー級潜水艦の二十七番艦「ワフー」(SS-238)の艦橋を見上げると、そこに立っている艦霊の彼は、自慢げに片腕を上げて構造物を示した。レーダーマストには、白地に鮮血のような紅色で「××どもを撃ち殺してやれ」*と書かれた旗が。下の二流は自衛艦旗――じゃなかった、この時代では軍艦旗、さらに下には四流の日章旗が掲げられている。箒が潜望鏡架台に逆さまに括りつけられているのは、彼の小汚い艦内を掃除するためのいざというときの小道具という訳―ではなく日本人を一掃したという彼なりの勲章という訳らしい。噂の、というのはこうした過剰な敵意の現れ、下品な旗たちのことである。少々趣味の悪さを感じなくもない、ミンゴの顔にそんな感情が出ていたのだろう。ワフーは右四十度を仰ぎ、左手を首元に寄せピースサインを決めながら、乙にすました顔でこう言ってのけた。
「日本人一掃~」
「アホか」とミンゴ。
軍港の岸壁から見える海は、ミンゴが今までに見た中で一番鮮やかな海だった。水平線は朧気で遠い。陽気な海の色というよりはむしろ狂気に近い海。海だけではなく空も、一面に絵の具を塗りつけたように鮮やかだった。彩度は高く、ブルーというよりターコイズに近い色彩。太陽は空高く輝いている。
なぜか港は閑散としていて、「ワフー」以外の艦は―「ミンゴ」も含め―留まっていないようだった。人影もない。穏やかな波音だけがそこに存在していた。ワフーは短い金髪の髪を弄りながら、小さく鼻歌を歌っている。そこには、戦争の疲労感も苛立ちも、苦しみも嘆きも無いようだった。戦争なんて朝飯前の日課だ。そんな表情だった。
獰猛な潜水艦だと、ミンゴは聞いていた。彼によって沈められた日本艦船は多い。だからこの穏やかな態度は、少し意外でもあった。
「思うんだ」
と、唐突にワフーが呟いた。
「時代が違ったら、戦争じゃなかったら、あいつらが傲慢にも真珠湾を攻撃しなかったら、日本の潜水艦が観光ついでに真珠湾に来る日が来て、俺はそれの歓迎でもしてたかもなって―」
「そうだなぁ」
「真珠湾に来られても邪魔だけどな。なんだか知らねえが妙に艦体がでかくね?」
「そうそう。そのせいか知らんが通商破壊が得意じゃないよな」
「――と、今のミンゴちゃん見ていて思いました」
「今?」とミンゴは問いかける。今ってなんだよ。現在?今って?
ミンゴの疑問を黙殺し、ワフーは続けた。
「ああ。……ミンゴはさ、今、幸せか?」
「だからなんだよその質問は」
「いいからいいから」
とワフーはウインクをこちらに投げかけ、ミンゴの答えを促した。不器用なウインクだった。きっとウインクをしたことなどほとんどないのだろう。
「……幸せだよ。今の仲間がいるし」
そう、今の仲間が大切だった。今。
「仲間か~!」
ワフーはずっこけた――というより、ずっこけた振りをして、その動作でミンゴを茶化した。何故かすこし寂しそうに笑いながら。
「ああ」
ワフーの様子に少し罪悪感を覚えながらもミンゴは頷く。何故罪悪感とやらを感じるのかは自分でもわからなかった。
「じゃあさ、」とワフーは続ける。
「ん?」
「俺たちを誇りに思うか」
「俺たち?」
「俺たち。アメリカ、アメリカ人、アメリカ軍人、アメリカ海軍軍人。あるいはアメリカの艦艇。なにより我らアメリカ合衆国海軍の潜水艦たち」
彼は歌うように朗々と「俺たち」を挙げた。俺たち、アメリカ人。
「思うよ、なんだ急に」
とミンゴは彼に言う。お前たちアメリカ人は誇りだよ、と。お前たちアメリカ人。
その答えに満足したのか、ワフーは満面の笑みで笑った。朗らかに言う。
「その気持ちを忘れんなよ。じゃないとこの箒で一掃するからな」
とワフーは、両手をぶんぶんと振り回し、箒で掃く真似をしてみせた。必然と話が箒の話題へと戻る。
「その箒、外す時に気まずくないですか?そのまままた任務に行くんですか?」とミンゴ。
「もう任務には行かねえよ」
「そうなの?」
「だって戦争は終わったし」とワフーはあっさり言った。「俺たちの時代もとっくに終わってるだろ。ティルたちみたいに潜水艦推力増強改修*もされてないしな」と彼はひどく無念そうに呟いた。
「今の新しい潜水艦って、日本の……なんだっけ……ああ、海苔の巻いたおにぎりみてえだよな。一面真っ黒で」
「戦争って……」とミンゴは続けた。「もう、終わっているのか?」
「そうだよ。当たり前だろが」
「そんなのおかしいだろ?だって……」
お前は戦争が終わる二年前に沈没してる。
轟々と唸るように吹く海風はその紅の旗を一層となびかせた。旗がはち切れんばかりにバタバタとはためいている。ミンゴは冷や汗をかきながら、艦橋上のワフーを見上げてはじめて違和感を覚えた。なんでぼくはここにいる?そもそもここはどこだ?この時代では自衛艦旗ではなく軍艦旗?一九四三年二月頃にはすでに日本海域で任務に就いており、十月十一日に日本の爆撃と爆雷で沈没した彼と、一九四三年二月十二日に就役したぼくは、いつどこで知り合った?こんなに―こんなに親しく話し合うほどに、こんなにくだらないおしゃべりに高じるほどに、いつその交流を深めただろうか?
彼の顔は逆光で見えない。緊張した空気の張りつめる中で二人は黙ったままだった。いつもは海で聞こえるウミネコの鳴き声も、なぜかここでは聞こえなかった。ぼくと彼以外の生き物は、ここには何もいないようだった。
「……みんな待ってるよ、この死にぞこないが」
彼は微かに笑ったようだった。ゆっくりと潜水艦「ワフー」は岸壁を離れていく。ミンゴはそれを呆然と見送り、彼の言うことは正しかったことに気づく。戦争は終わっている。大戦型の時代も終わっている。彼はもうとっくに沈んでいる。
彼は――潜水艦「ワフー」は、一九四三年一〇月一一日に戦没した。
対馬、津軽、宗谷の三海峡が機雷に守られ「天皇の浴槽」と呼ばれていた日本海。通商破壊が行われていなかった、否、行うことが出来なかった日本海に、機雷原を突破し潜り込んだ「ワフー」は、その勇猛さを発揮し、日本の艦船を次々に沈めていった。
四度目の日本海での作戦の後、帰還のため宗谷海峡を突破しようとした「ワフー」は、浮上航行しているところを宗谷防備隊に発見された。その後、五時間にも及ぶ執拗な爆弾・爆雷攻撃を受けた「ワフー」は、油と気泡を漏らし三海里にも及ぶ油帯を航跡波のように残して沈んでいったという。歴戦の猛者だった「ワフー」の戦没はアメリカに強い衝撃を与え、一九四五年のバーニー作戦*まで日本海に潜水艦を侵入させることはなくなった。
ミンゴはその話を、仲間の潜水艦と乗組員から伝説として聞いていたのだった。そして強く思った。日本人は本当に野蛮な連中だと。奴らに絶対に屈してなるものかと。それがぼくらの使命だと。そして実際、敗北することなく一九四五年の夏、その悪の敵国に勝利した。
ぼくがその敵国の艦になったのはその十年後だ。ぼくの、今のミンゴちゃんの名前はミンゴではなく、フィリピンの北東、台湾の東方から発し、台湾沖を北上して西南日本沿岸に沿って進み、房総半島東方沖で東に向きを変える暖流からとられた、あの名前だった。
潜水艦「くろしお」。
日本国、海上自衛隊初の潜水艦としての栄誉が。
「じゃあなあ!赤っ面の間抜け顔!」
ワフーは晴れやかな笑顔で艦上から手を振り、そして二度と振り返らなかった。
茫漠たる海に潜水艦たちが泳いでいた。
現れた無数の潜水艦たちが描いたいくつものウェーキが混じり合う。
あれはアルバコア。あいつは津軽海峡で機雷に接触し、ラッキーストライクや日用品、書籍などの遺物を水面に浮かべて沈んでいった。あいつはガードフィッシュ。多くの日本艦船を沈めていった彼は、一九六一年に標的艦としての栄光を受け海没処分された。ダーター、ロバロー、ボーンフィッシュ。グレイバック。みんなみんなくろしおより先に沈んでいった、懐かしい顔ばかりだった。彼らはイルカの遊弋のように、艦首でなだらかに曲線を描いては母なる海に潜航していった。艦に入る直前に手を振って潜航していった。別れを告げて潜航していった。みんな去っていった。
――