いまは見えない星1:「ぼくの小さな神さま」

 潜水艦の任務とは如何なるものか?深海の使者のさだめとは?アメリカ海軍のガトー級潜水艦ミンゴは、他の兄弟艦よりそういった哲学的な思想に囚われがちなフネであった。それは戦闘中潜航し、敵を潜望鏡で見据え狙いを定めた時にさらに顕著になった。なぜぼくはこうして深海で息をひそめているのだろうか?どうして黄色人種(イエロー)とはいえ―― 日本人(ジャップ)とはいえ、同じ潜水艦と人間を殺すのだろうか。あるいは殺されそうになるのか。こうして息を止めながら、苦しい空気に耐えて戦争を生きている。息を止めて苦しい思いをしているのならここはあの世(ヘル)なのだろうか?そうした思考に陥るあまり、ミンゴは海の中では常に頭がぼんやりと浮ついている状態だった。これを戦争(ライジング)(・オブ)昂揚(ザ・ウォー)と呼ぶのなら、あまりにも残念で不快な感覚だった。
 一九四四年一一月二五日の五時三五分、ボルネオ島北西沖合の〇五-四二N/一一三-一五Eの地点に差し掛かった時、アメリカ潜水艦のおいしいエサだった輸送船の一つ、日本陸軍徴用船「まにら丸」はミンゴに狙われていた。大阪商船が明治四十二年七月に「ぱなま丸」クラス六隻で開設した香港~タコマ間の北米航路の増強のために、造船奨励法が適用されて作られた「ぱなま丸」の拡大改良版が、「まにら丸」(三菱長崎造船所建造)と姉妹船「はわい丸」(神戸川崎造船所建造)である。彼女は昭和一六年一一月に日本陸軍に徴用され、開戦当時は日本内地と中国各港を往復していたが、昭和一九年になるとフィリピン戦局の悪化のため増援部隊・物資の輸送任務に就いていた。商船特有の優美な船体はなだらかに線を描き、勇壮たる一本煙突は轟々と黒煙を吹いている。風になびく大きな旗は女性のアイシャドウのようにわずかな彩りを彼女に添えていた。
 彼女は戦争という誰にでも、人間にも艦船にも平等に訪れた不幸が無かったら、とても素晴らしい船生を送っていたのだろう。マニラどころか世界中を航海できたかもしれない。果ての無い美しい世界を目にしただろうと思う。彼女は凛々しいどこかの艦船に見初められていたかもしれないな。
 そんな不幸な彼女はきっと魔の五時三五分、右舷七〇度五〇〇メートル先に雷跡を発見したはず(・・)だ。きっと悲鳴のような汽笛を上げて、彼女は面舵一杯したと思う(・・)。前進全速命令を出したようだ(・・・)が、舵効の出ぬまま四番艙右舷に魚雷が命中したんだろう(・・・)。そして二番艙右舷におそらく(・・・・)二発目が。船橋の前後に鮮やかな火柱が一〇〇メートルは舞い上がったと思う(・・)。耳をつんざくような大爆発を起こし船は右舷に二〇度傾斜したはず(・・)。多分。おそらくだけど。実行犯であるミンゴにこうした憶測の曖昧な言葉が多い理由は、ミンゴがこれらの事実を、この戦闘の一七年後のすでに日本にいた時、午後の陽が差し込む寂れた資料室で知ったからであって、彼がその時に実際に感じたのは、地獄の業火のようなボルドー色の火柱の放つ熱さ、激しくかき乱されているがなお真っ黒な深海の色、爆雷の轟音に残念な例の不快感だけだったからだ。艦船という仲間が海の底へ沈んでいく音だけがソナー越しに聞こえる。それは轟々という音を立て何かが――誰かが、死んでいく音だった。それは砂を噛んだようなざらりとした感触に似ていた。
 けれど。
 それは気持ちのいい仕事ではなかったが、決してつまらなくはなかった。それは暇つぶしのゲームのようなものだったからだ。日本輸送船団の中には護衛艦もなければ船砲すら積んでいない丸腰の輸送船もいて、それらは浮上して直接砲撃したものだった。潜水艦が潜航せずに攻撃。そんなことがあり得るだろうか?末期の太平洋戦争ではあり得たのだった。それはただ楽勝なゲームだった。ただ惜しくも「まにら丸」には砲撃隊がついていたので、彼らは雷跡方向に狙いを定めて砲撃を開始した(多分)。報復とばかりにミンゴは一分半後に一番艙に目掛けて三発目をお見舞いした(確実)。
「まにら丸」は満身創痍で、五六番艙積載のガソリンの引火により全船が炎に包まれ、周囲の海面は火の海と化した。炎は空をスカーレット色に染めそうだ。このような時、身を優しく包んでくれる深い海というものは有難いものだ。水面一枚下は天国*。
 彼女の最後は看取ることができなかった。なにしろ「ミンゴ」は海防艦「倉橋」の爆雷攻撃から逃れるために、バタバタと逃げ回るのに必死だったので。爆雷攻撃は艦体を大きく揺らしたが、かろうじて致命傷は与えていない。
 潜航深度が深まり酸素はだんだんと減っていき、さらにミンゴの頭を混乱させた。ミンゴの乗組員たちは昂揚と動揺で顔を赤く染めている。沈黙の中の熱気と無言の興奮。ミンゴは茫漠とした頭で、己の戦果とこれからも続く定めを淡々と計算し、だんだんと諦観に似たやるせなさを感じていた。
 その時、己の化身たる艦に一際大きな衝撃が走った。
「倉橋」の爆雷がどうやらうまく近くに投下されたようだった。身体が艦内側面に強く叩きつけられる。
 ああ、どうやらぼくはこのまま沈むらしい。
 目の前が真っ赤になり、轟音がいつまでも鳴り響き激しく身が揺さぶられるような感覚に陥る。艦内の灯りは見分けがつかないほど容易にふらつくだけだった。ミンゴはあまりはっきりとしない意識の中で、真っ暗で雑多な走馬灯のようなもの――走馬灯と呼ぶには遠ざかりすぎていた――を多少は見た。ミッドナイトブルーの夜空と夜光虫はただ騒めいている。進水した瞬間の、生まれた瞬間に身を貫いた綺麗なオリエンタルブルー色の血飛沫は、きらきらといつまでもいつまでも輝いていた。進水式に出席していたヘンリー・L・ペンス夫人はいつものように魚の名前通りの物まねをしたままだった。これはミンゴが決して手放さなかった誇りと星条旗。好きな行進曲は「雷神」だった。バラオとその他の有象無象の潜水艦たちは、ハンカチを振りこちらを笑顔で見つめている。それからほどなくしてこちらを見たミンゴの艦長は、彼を褒めるような、とても幸福そうな表情。お前(ユー・アー・)(ザ・)愛国者(パトリオット)だ、貴方は素晴らしいと手放しに喚声を上げているのを、ミンゴが気恥ずかしそうにはにかみ喜んでいる姿。
 クリーム色の淡い日が東の窓から差し込んでいた。まだ黎明を少しすぎたころだろう。アメリカから貸与された元ガトー級潜水艦「ミンゴ」にして、海上自衛隊初で唯一の潜水艦「くろしお」は、一九五八年の日本でいつも通り目覚めたところだった。彼は自分のパールグレーのパジャマをきつく握りしめていることに気づく。寝汗がひどいのを見るとどうやら自分は悪夢を見ていたらしい。
 だがその夢の内容を、彼は全く思い出せなかった。

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*「板子(いたご)一枚下は地獄」のオマージュ。

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