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人間の愛し子 抄 #三菱重工業 #土佐

※この物語はフィクションです
この混乱期に長崎に向かうことができたのは幸運だったに違いない。
三菱重工業はそう己に言い聞かせていた。
祖国の敗戦を受けてたった三日後、彼は故郷であったその地に赴くことができた。本社の面倒を打ち捨て、一心不乱にただ長崎へと向かった。あとで社員や重役に露呈すれば怒られるにちがいなかった。それに失望されるだろう。この非常時に己の会社を捨ててくるうつしみがいるだろうか。
会社である義務を捨て矜持を捨て、まるで一人の人間のように、欲求のままその地へ赴いた。わが胎動の揺り籠。官営の長崎造船局を前身に戴き、三菱の長崎造船所として彼はその地で生まれた。彼は上海が間近なその地を恰好の稼ぎ場として愛し、八幡製鉄所の温かい膝元として愛し、端島炭坑と高島炭鉱の供給場所として愛していた。それ以上に、東京とはまた一味違う風情を愛していた。グラバー邸や中華街のような異国情緒を、長崎くんちの華やかさを、坂の多い街を、人びとを愛していた。まるで人間のように。人間のようにそれらを愛していることを実感する時に、自分が人間のようだと感じることを愛していた。彼は、長崎が好きだった。
汽車の中で彼はその「幸運」を己に言い聞かせていたが、もしまわりの人びとがそれを聞いたのなら正気を疑ったに違いない。
誰も故郷が爆心地となっているところを見たいとは思わないだろう、しかも自分のせいでそうなったのに、と。
長崎への原爆投下はたった数日前のことであった。
その状況の惨状は彼の耳にも入っていた。たくさんの人間が焼けただれ果てるとはどういうことなのか?東京の空襲とはどう違うのか?一面が更地になっているとはどんな情景なのか?すべてがすべて、空絵のように想像がつかなかった。だから直接見に行くしかなかった。
どうにか運行していた列車を乗りついだ。軍隊から解放された兵士や労働者や、朝鮮人。早くも復員につけた幸福な内地人。もう空襲が来ないことで堂々と町へ帰ることができる疎開した人びと。
泥と埃にまみれ、皆が皆疲れ果てた顔をしていた。敗戦に打ちひしがれているというよりも、ただ単純に、疲れているだけに見えた。そこにはお国や鬼畜米英や大東亜共栄圏などの栄えある大義がなかった。やつれた小さな人間たちがいるだけだった。
窓際の席に押し込まれるように座っていた重工は、ぼんやりと外の風景を眺めていた。なにもなかった。彼が気づかないうちに、この国はなにもなくなっていた。
「土佐は、どう思うかな」
ぽつりとつぶやいた自分の言葉に、重工は驚いた。ふいに大声で笑いそうになり、どうにか堪えた。
なんだ、やはり自分はあの子の処遇を気にしていたのだ、と今更に彼は気づかされたのだった。
ワシントン海軍軍縮条約下のもと、せっかく生んだにもかかわらず軍縮のためにそのまま沈めるしかなかった日本海軍発注の戦艦・土佐。三菱重工業にとっては第三三三番船たるふねの死を、とっくに乗り越えた――あるいはそもそもあまり気にしてもいなかった――と彼は思っていた。手渡しさえすればそれは発注相手の所有する製品なのだ。自分の物ではない。好きに自沈させればよい。それなのにいま思いだすのは未完のふねの容貌と、そのうつしみたるあの子の鮮明な眼差しだった。彼の脳裏の戦艦土佐は今、その視線で親の末路を問うていた。
あの海が見えれば、長崎も近い。彼は気持ちに急かされて、長崎造船所を訪れた。
長崎造船所だった場所を訪れた。
彼は「幸運」の結末をその地で見た。
瓦礫に埃、何が焼け焦げたのかわからない痕、死臭、死体、服の切れ端、そういったものすべてが、「かつてのもの」としてそこにあった。
浦上駅を降りた先に、浦上天主堂がある。彼は異教徒ではなかったが、その建築と意匠に密かに感銘を受けていた。人間の造る構造物が好きなのだ。それにキリスト者の人間たちが熱心に祈るその姿を、長崎特有の美徳として彼は認めていた。浦上天主堂はがらくたのように崩れ落ち、原型を留めていなかった。
そこには三菱長崎造船所幸町工場があった。三菱長崎製鋼所第一工場、三菱長崎製鋼所第二工場、三菱長崎製鋼所第三工場があった。三菱兵器茂里町工場が、三菱工業青年学校が三菱電機鋳造工場、三菱兵器半地下工場があった。多くの人間たちが居たはずだった。多くの人間たちが兵器を造り、それが飛び立ち駆り出され、戦地へと向かい、敵国人を殺戮していたはずだった。原爆の目的が自分の兵器工場であろうことを彼は理解していた。自分だったらそうするだろうからだ。
一機のB-29が飛んでいた。
その下には膨大な瓦礫があった。
瓦礫の上に立っていたのは、自分の「子ども」たる戦艦土佐だった。彼は親切に教えてやった。
「あれはB-29と言ってね。いろいろなものを日本へ運んできた。まあ、黒船のようなものだよ。でも砲をぶっ放している黒船だ。ボクたちはいつもアメリカの乗り物に手が届かずに、ぼんやり見つめているだけだねえ……」
土佐はにこりと笑って言った。悪戯に成功した子どものような笑みだった。
「もう少しで届いたかもしれませんよ」
「そうかもね。お前のようなふねをいっぱい生んで対抗したから」
「頼りなくて、ごめんなさい」
「そんなことはない。お前たちは上手くやったよ。ボクがそう造ったからね。悪いのは運用者だ」
「にんげん?」
「人間と、人間と同じような存在のボクだ。土佐」
すぐ近くに赤ん坊の死体が残されていた。この子にもこの世に生まれた理由あったに違いなかった。三菱重工業の兵器工場を狙った原爆に巻き込まれずに、生きる価値があったに違いなかった。まっすぐな親の愛情が、この生を生み育んていたに違いなかった。
だが重工はそれを無視して言った。今はただ自分の子どもである土佐に土佐だけに顔を向けた。土佐を見つめて、土佐の顔を懐かしく思い、それが狂おしいほど愛おしく思えた。彼は土佐の顔を覚えていた。記憶と寸分も違わぬあどけない顔だった。記憶が違わなかったことが嬉しく、また誇らしかった。彼は自分の製品の容貌と顔をひとつたりとも忘れたことがなかった。それが彼の誇りだった。
重工は背筋を伸ばし、それから頭を深く下げて土佐に言った。
「お前には、ほんとうにすまなかったね」
「そうしたくなくても、そうしなければならなかったのでしょう?」
「ただ金儲けしか考えてなかったのかもしれないよ」
その言葉を聞いて土佐は淡く笑った。すべてを知っている、わかっているというような笑みだった。受容、寛容、侮蔑、拒否、愛情、憎悪、離別、そのようなものをすべて含んだ横顔だった。土佐は殺すために自分を生んだ親を理解していた。その表情を見た瞬間、重工は灼熱の業火の中にいた。溶接の炎の中にいた。砲火の炎の中にいた。空襲の炎の中にいた。B-29が放った炎の中にいた。この炎が蜃気楼なのか夏の灼熱の幻影なのかも重工にはわからなかった。それでもその熱さを甘受するしかなかった。辛くはなかった。なぜなら空襲の戦火も、長崎の原爆も、艦砲射撃の砲火も、八幡製鉄所の鉄も、その熱さは重工とつねに共にあったからだ。この熱さをわが親とし、伴侶と決め、産屋と思い、揺り籠であると知っていた。だからこの熱さでボクはまだやっていける、まだ生きていけると重工は思った。すなわち此処こそが重工にさだめられた生業であり常態の地獄であるに違いなかった。
B-29が飛んでいく。
蜘蛛の糸のような白い飛行機雲をえがき飛んでいく。
自分の生んだ航空機と同じ音を立てて飛んでいく。
「綺麗ですね」
と土佐が言う。空を仰ぎ見る彼の眦が無垢に染められ、きらきらと光っていた。
戦艦土佐が笑う。
重工も晴れ晴れと笑った。
「うん」
八月十八日、三菱重工業は被爆した自分の誕生地で、戦禍と同じように自分が生んだふねであり沈ませたふねである戦艦土佐に、わが製品に、わがふねに、わが存在意義に、わが愛し子に、赦されたことを理解した。
#企業・組織擬人化「渺渺録」

※この物語はフィクションです
この混乱期に長崎に向かうことができたのは幸運だったに違いない。
三菱重工業はそう己に言い聞かせていた。
祖国の敗戦を受けてたった三日後、彼は故郷であったその地に赴くことができた。本社の面倒を打ち捨て、一心不乱にただ長崎へと向かった。あとで社員や重役に露呈すれば怒られるにちがいなかった。それに失望されるだろう。この非常時に己の会社を捨ててくるうつしみがいるだろうか。
会社である義務を捨て矜持を捨て、まるで一人の人間のように、欲求のままその地へ赴いた。わが胎動の揺り籠。官営の長崎造船局を前身に戴き、三菱の長崎造船所として彼はその地で生まれた。彼は上海が間近なその地を恰好の稼ぎ場として愛し、八幡製鉄所の温かい膝元として愛し、端島炭坑と高島炭鉱の供給場所として愛していた。それ以上に、東京とはまた一味違う風情を愛していた。グラバー邸や中華街のような異国情緒を、長崎くんちの華やかさを、坂の多い街を、人びとを愛していた。まるで人間のように。人間のようにそれらを愛していることを実感する時に、自分が人間のようだと感じることを愛していた。彼は、長崎が好きだった。
汽車の中で彼はその「幸運」を己に言い聞かせていたが、もしまわりの人びとがそれを聞いたのなら正気を疑ったに違いない。
誰も故郷が爆心地となっているところを見たいとは思わないだろう、しかも自分のせいでそうなったのに、と。
長崎への原爆投下はたった数日前のことであった。
その状況の惨状は彼の耳にも入っていた。たくさんの人間が焼けただれ果てるとはどういうことなのか?東京の空襲とはどう違うのか?一面が更地になっているとはどんな情景なのか?すべてがすべて、空絵のように想像がつかなかった。だから直接見に行くしかなかった。
どうにか運行していた列車を乗りついだ。軍隊から解放された兵士や労働者や、朝鮮人。早くも復員につけた幸福な内地人。もう空襲が来ないことで堂々と町へ帰ることができる疎開した人びと。
泥と埃にまみれ、皆が皆疲れ果てた顔をしていた。敗戦に打ちひしがれているというよりも、ただ単純に、疲れているだけに見えた。そこにはお国や鬼畜米英や大東亜共栄圏などの栄えある大義がなかった。やつれた小さな人間たちがいるだけだった。
窓際の席に押し込まれるように座っていた重工は、ぼんやりと外の風景を眺めていた。なにもなかった。彼が気づかないうちに、この国はなにもなくなっていた。
「土佐は、どう思うかな」
ぽつりとつぶやいた自分の言葉に、重工は驚いた。ふいに大声で笑いそうになり、どうにか堪えた。
なんだ、やはり自分はあの子の処遇を気にしていたのだ、と今更に彼は気づかされたのだった。
ワシントン海軍軍縮条約下のもと、せっかく生んだにもかかわらず軍縮のためにそのまま沈めるしかなかった日本海軍発注の戦艦・土佐。三菱重工業にとっては第三三三番船たるふねの死を、とっくに乗り越えた――あるいはそもそもあまり気にしてもいなかった――と彼は思っていた。手渡しさえすればそれは発注相手の所有する製品なのだ。自分の物ではない。好きに自沈させればよい。それなのにいま思いだすのは未完のふねの容貌と、そのうつしみたるあの子の鮮明な眼差しだった。彼の脳裏の戦艦土佐は今、その視線で親の末路を問うていた。
あの海が見えれば、長崎も近い。彼は気持ちに急かされて、長崎造船所を訪れた。
長崎造船所だった場所を訪れた。
彼は「幸運」の結末をその地で見た。
瓦礫に埃、何が焼け焦げたのかわからない痕、死臭、死体、服の切れ端、そういったものすべてが、「かつてのもの」としてそこにあった。
浦上駅を降りた先に、浦上天主堂がある。彼は異教徒ではなかったが、その建築と意匠に密かに感銘を受けていた。人間の造る構造物が好きなのだ。それにキリスト者の人間たちが熱心に祈るその姿を、長崎特有の美徳として彼は認めていた。浦上天主堂はがらくたのように崩れ落ち、原型を留めていなかった。
そこには三菱長崎造船所幸町工場があった。三菱長崎製鋼所第一工場、三菱長崎製鋼所第二工場、三菱長崎製鋼所第三工場があった。三菱兵器茂里町工場が、三菱工業青年学校が三菱電機鋳造工場、三菱兵器半地下工場があった。多くの人間たちが居たはずだった。多くの人間たちが兵器を造り、それが飛び立ち駆り出され、戦地へと向かい、敵国人を殺戮していたはずだった。原爆の目的が自分の兵器工場であろうことを彼は理解していた。自分だったらそうするだろうからだ。
一機のB-29が飛んでいた。
その下には膨大な瓦礫があった。
瓦礫の上に立っていたのは、自分の「子ども」たる戦艦土佐だった。彼は親切に教えてやった。
「あれはB-29と言ってね。いろいろなものを日本へ運んできた。まあ、黒船のようなものだよ。でも砲をぶっ放している黒船だ。ボクたちはいつもアメリカの乗り物に手が届かずに、ぼんやり見つめているだけだねえ……」
土佐はにこりと笑って言った。悪戯に成功した子どものような笑みだった。
「もう少しで届いたかもしれませんよ」
「そうかもね。お前のようなふねをいっぱい生んで対抗したから」
「頼りなくて、ごめんなさい」
「そんなことはない。お前たちは上手くやったよ。ボクがそう造ったからね。悪いのは運用者だ」
「にんげん?」
「人間と、人間と同じような存在のボクだ。土佐」
すぐ近くに赤ん坊の死体が残されていた。この子にもこの世に生まれた理由あったに違いなかった。三菱重工業の兵器工場を狙った原爆に巻き込まれずに、生きる価値があったに違いなかった。まっすぐな親の愛情が、この生を生み育んていたに違いなかった。
だが重工はそれを無視して言った。今はただ自分の子どもである土佐に土佐だけに顔を向けた。土佐を見つめて、土佐の顔を懐かしく思い、それが狂おしいほど愛おしく思えた。彼は土佐の顔を覚えていた。記憶と寸分も違わぬあどけない顔だった。記憶が違わなかったことが嬉しく、また誇らしかった。彼は自分の製品の容貌と顔をひとつたりとも忘れたことがなかった。それが彼の誇りだった。
重工は背筋を伸ばし、それから頭を深く下げて土佐に言った。
「お前には、ほんとうにすまなかったね」
「そうしたくなくても、そうしなければならなかったのでしょう?」
「ただ金儲けしか考えてなかったのかもしれないよ」
その言葉を聞いて土佐は淡く笑った。すべてを知っている、わかっているというような笑みだった。受容、寛容、侮蔑、拒否、愛情、憎悪、離別、そのようなものをすべて含んだ横顔だった。土佐は殺すために自分を生んだ親を理解していた。その表情を見た瞬間、重工は灼熱の業火の中にいた。溶接の炎の中にいた。砲火の炎の中にいた。空襲の炎の中にいた。B-29が放った炎の中にいた。この炎が蜃気楼なのか夏の灼熱の幻影なのかも重工にはわからなかった。それでもその熱さを甘受するしかなかった。辛くはなかった。なぜなら空襲の戦火も、長崎の原爆も、艦砲射撃の砲火も、八幡製鉄所の鉄も、その熱さは重工とつねに共にあったからだ。この熱さをわが親とし、伴侶と決め、産屋と思い、揺り籠であると知っていた。だからこの熱さでボクはまだやっていける、まだ生きていけると重工は思った。すなわち此処こそが重工にさだめられた生業であり常態の地獄であるに違いなかった。
B-29が飛んでいく。
蜘蛛の糸のような白い飛行機雲をえがき飛んでいく。
自分の生んだ航空機と同じ音を立てて飛んでいく。
「綺麗ですね」
と土佐が言う。空を仰ぎ見る彼の眦が無垢に染められ、きらきらと光っていた。
戦艦土佐が笑う。
重工も晴れ晴れと笑った。
「うん」
八月十八日、三菱重工業は被爆した自分の誕生地で、戦禍と同じように自分が生んだふねであり沈ませたふねである戦艦土佐に、わが製品に、わがふねに、わが存在意義に、わが愛し子に、赦されたことを理解した。
#企業・組織擬人化「渺渺録」
SS「船商売」#日本郵船 #大阪商船/商船三井

「……なんや、わかっとったくせに。ちゃんと知っとったくせに」「ああ」「誇らしかったやろ信濃丸が」「ああ」「欧州大戦は儲かったわなぁ」「ああ」「泡銭で嬉しくなった?」「ああ」「結局それだけの話やった」「泡食ってしまうな」「これがホンマの水商売ってやつやな」

「……なんや、わかっとったくせに。ちゃんと知っとったくせに」「ああ」「誇らしかったやろ信濃丸が」「ああ」「欧州大戦は儲かったわなぁ」「ああ」「泡銭で嬉しくなった?」「ああ」「結局それだけの話やった」「泡食ってしまうな」「これがホンマの水商売ってやつやな」
小説「時代の横顔」 #日本海軍

あのう……ですね……。その、先生を、先生を今日、お呼びしたのは、というか、ごはんに誘ったのは、中学校時代の教師である先生を食事に誘ったのには、ほんとうに……別に深い意味はないんですからね。ほんと。いやそれなりの意味はあるんですけど、学生時代にあたしとセンセはそれなりに交流はあったし、その延長上に今日のこのごはん会があるだけですからね。……え?いや、会社じゃあちゃんと「わたし」って言ってますよう。大学卒業のときに、自分で自分を名前呼びするのだってやめましたからぁ。そうじゃなくって……日々の反省会をしたいんじゃなくってですねぇ……。え、ああ、あはは、先生にはよく廊下に立たされそうになりましたよね。授業中騒いで。携帯も何度も没収されたし。あの時代ってまだガラケーだったんだよねえ。いやあ、すべてが懐かしすぎる……平成って、一体なんだったんだろね……。
まあ、でもセンセはアホだから……いやアホってそういう意味じゃなくって!!おおらかで優しめ人のことを、あたしはそうやって表現しているだけなんですよお!だから、先生はあほうだから、おおらかだから、すべてに緩くて、優しいから、だから突拍子もないことも話せるんですけど。そうだよ、本題だよ。今から本題言うよ。ほんとうに、ほんとうにびっくりしないでほしいんですけれど、……だから、……。あのう……先生は、………………日本海軍って……どう……思いますか?
……え?いや、入らないです、海上自衛隊には入らないです。日本海軍ですって。昔のですよ。うよく……え?右翼?っていうのでもないです、たぶん……。いや目覚めてもないです、目覚めるって、何に?真実ぅ?……え?かんこれ……?かん?たいこれくしょ……いや……いえ、いや、いやいやそうじゃなくってですねぇ。
…………拾った、んですよね……。……え?何を?え、いや、日本海軍を……。日本海軍さんを、拾ったという話なんですけど……。
え?いや、大丈夫、大丈夫です!わかってます!引かないでください!!おかしいですよね!!正確に言えば、日本海軍を名乗る男を拾っただけなんで!あとその男も、もう家に居ないんで!大丈夫です!ええ、ええ、うん、たぶんそう、先生も昔、歴史の授業なんかで言ってた、集団の象徴みたいなものだと思う。軍だから軍象、なんでしょうか。いますよね。たしかにいるってセンセも言ってましたよね。実際いるんです、彼らは。密かにいる。ただそれが、今が現代で、彼が日本海軍であることが問題だっただけで……。海上自衛隊だったら問題なかったんだ。……いや、問題なかったのかな……。海上自衛隊さんが、落ちている……?まあどっちみち、拾った男が日本海軍を名乗ってました。マ~ジでびっくりしたね。
……は?グンコク主義の復活?ぐんかのおと?いや、そぉんな大それたものでもない気がしますねえ。だいたい復活だというのなら、もう居ませんよ。グンコクすぐ滅んじゃった。海軍さんを拾ったけど、帰りました。どこに帰ったのかわかんない。消えただけなのかも、今度はほんとうに消えたってことなのかなあ?
……拾ったのは一ヵ月前と少し前のはなしです。二日前に消えました。お盆に消えちゃった。
あたしは地元の……そー鎌倉。その浜辺でビーチコーミングしてたんだけど……え?今そんな名前になってる。砂浜で貝を集めることが。カッコいいっしょ。だから、それをしていた、ビーチをコーミングしてたんです。だんだん陽も陰ってきて、海も貝もぼんやり見えなくなりそうで、寂しい浜辺になり始めて、まあ今日はお開きっすわ~魚介類ども今日はこれで勘弁したるわ、なーんて帰ろうとしていたタイミングで、すこしとおく、それでも目に見えるくらいの距離に男の人が立ってるのを見つけたんです。
一言、ヤバかった。超不審者だった。というのもボロボロの洋服を着ている男の人だったんで。……なんで彼、軍服じゃなかったんだろ。……え?第二、復員省?……ふーん、まあいいです、あたしにとってはただの海軍さんなので。
まあ、ちょっとした緊張感を持ちつつ、遠回りをして帰ろうとしていた時に、その男があたしを見つけたんでしょう、ものすごい勢いでこちらに走ってきました。ええ、死を覚悟しましたね……。あ、ヤバ、みたいな。じゃ、あたし死にますわ、っていう……。そしてその男にものすごい勢いで肩を掴まれ、男は一言言いました。正確には聞いてきました。
「おい、ここはどこだ」
「ひッ……」
この状況じゃ答えられないですよね。悲鳴を上げそうになりました。というか実際ちょっと上げてた。ハイ……。
その男のひとはボロボロの服を着て、あたしに縋るように肩を抱いて、もう一度ここはどこなのか、を問いました。怖かったけど、その目には哀れなくらいの必死さがあった。誰かに捨てられてしまったかのような戸惑いがそこにありました。
あたしはそこでやっと、相手があたしとおなじ人間のように思えました。おなじ人間なんかじゃなかったのにね。でもあたしは、今度はちゃんと返事ができました。
「か、かまくら……」
「鎌倉?」
呆けたように何回か繰り返して、さっきの勢いはどこへやら、小さな声であたしにまた尋ねました。「にほんはどうなった」。
は?日本?こーんな感じにこうなっているけど……という思いすらもなく、あたしは、今のあたしがどうなっているのかもわからないまま震えていました。それはその男の人もおなじでした。あとから聞いたんですけど、彼、その時は「復活」した直後で意識が朦朧としてて、日本がどうなったのか、思い出せなかったらしいです。負けたってこと、ちゃんと知ってたはずなのにね。
その男の人はそのまま、にほんは、とかふねがもう、とかぶつぶつ言ってました。
よくよくその男の人の顔を見てみると、あたしより数歳年下にすら見えました。身長はでかかったし、妙な威圧感があったし、勢いよく走ってきたんで気づかなかったんですけど。呟く彼は雨に濡れて汚れた大型犬みたいで、主人をなくしてしょげたままのわんちゃんみたいで、なんか無性に可哀そうになったんですよね。
「あのう……大丈夫ですかあ」
「いや……ああ……。大丈夫なのか……。わからん……。なぜ俺は鎌倉なんぞに」
「ビーチコーミングとかしてたんじゃないんですか?」
「び……?」
そんな会話をしながら、そのまま海岸の石階段で、夕陽が海に落ちるさまをいっしょに見て日本の斜陽から敗戦に至るまでの話をしてました。というか、一方的にされました。彼はなんとなく自分を思い出し始めていて、自分が日本海軍の依り代であること、戦争に負けたこと、敗戦後にしばらくこの世にとどまっていたこと、その後はよくわからないことをただ喋ってました。なんだっけ……水が足りないって暗号、とか言ってた……あ、そうそう、それ、ミッドウェー海戦では暗号がばれたのではないか、とか、そんなようなことを占領軍のアメリカ人が言ってた、とか、その悔しさとか、軍艦がたくさんあったこととか、それがなくなってしまったこととか、香港?マカオ?あ、上海だったかな?どっか中国の戦争かなんかの話をしてました。
彼がそういう、なんというか自分が惨めな話を真っ向からあたしにしたのは、その時が最初で最後だったように思います。たぶん、混乱してたんだと思います。
そこで気づいたんですけど、昔の戦争のことであたしが知ってるのって、戦争後すぐで記憶が止まってる彼よりも少なかったんですよね。ミッドウェーってどこだよ、って。彼がいなくなってからGoogleマップみたけど。遠ッ!ってかんじで。どこの海だよって。そんな遠くまで行ってたんだって。びっくりしちゃった。
海戦で勝ってとても嬉しかったけど好きだったふねと乗っていた人間がたくさん沈んじゃった~って言ってるときと、炭鉱は働くのが特に大変だったからチョウセンジンをいっぱい連れてきたんだよなあって言うときの彼のちいさな笑顔を覚えてます。さっと鮮やかで、ほんと、サッカーでゴールを決めた高校選手が謙虚に喜びを滲ませてるみたいな自然な感じの笑みで……。あれが時代の顔というものなのか、戦争の時代というものなのかなんですかね。わかんない。あたし、ただの会社員なんです。特にシュレッダー業務が好きです。とても楽だし。ボタン一つ押すだけでぜんぶ終わるし……。
*
日本海軍、軍隊、軍人を名乗るのに反して、彼はしごくまともそうでした。いや、まともそう、って言いかためちゃくちゃ失礼ですね。
でもなんか、その日本軍って名乗りを聞けば「そこの下女……」みたいな語りかけや吐き捨てをしてきそうな感じがあるじゃないですか。え?帝国海軍はスマート?そうだったのかー……。…………それ、ホントに?はー……。ええー?うーん、……まあいいや、まあ、そのスマートな彼は洋服がぼろぼろなこと以外はまともでした。あたしたちはまともに会話をできていたと思います。ちゃんと。いままでしたこともない戦争の話が話題だったということを除けばだけど……。
そして結局、あたしは彼が日本海軍の軍象だということを受けいれました。そうなったら今度は彼をどうするかというはなしになりますよね。変な不審者ではないこと、また今が現代であること、この二つを考えると彼は今とても不憫だ、ということになっちゃうじゃないですか。さりげなくその場を立ち去れればよかったし、そうするのが当たり前だったんでしょうけど、さりげなさを装うには戦争の話を語り合いすぎたし、なんならあたしは話の途中でつい「え、じゃあもう帰る場所ないじゃん!」なんて指摘しちゃってたしそれに素直に海軍さんはしょげてた。もう不自然だよね、一人で去るにはね。だからまあ、……家に連れて、帰ったよね。
この状況はよくない、非常によろしくない、相手が海軍さんだとしても……え?海軍さんだからこそまずい?いやどっちにしろまずかった。とりあえず着替えと風呂だったから、さらにまずった。今は関西に居て、昔同居していた兄の服はまだ取ってあったから、それを入浴後に着せました。Tシャツは胸に英語でGood Times Start Nowって書いてあってちょっと笑っちゃったんだけど、昔の人だから英語は読めないだろ、と思って油断してたら「一体なにが始まるんだろうな……」って海軍さんが呟いちゃって、笑いと申し訳なさの感情の観覧車に……え?海軍は英語が得意?なんで?戦争で英語は使っちゃだめだったんじゃないの?ふうん……。あの時だけは、互いに二十代の若者の会話で、なんだかそれが面白くって、あとから思えばただただ空恐ろしかった。
日本海軍の象徴は現代に生まれればあんななんだ、とか。今の海上自衛隊の象徴はあんななんだろうかとか。両者はどう違うのだろうかとか。時代ってなんだろうとか。時代の顔、が……。なんか、もし戦争がなかったら、っていう言葉、よく夏にNHKとかで流れてる番組のとは違う……あの番組に出ている人たちの言葉とは違う……あれが自分のことのように、ってやつなんだろうか、感じてしまった。そう、もしあの時代に戦争がなかったら、何か、彼にとっていい時代が、その時に始まっていたんだろうか。ってあたし、なんともいえない感じに、もやもやしちゃって。
えっ?ああ……戦争が無くても植民地というものがあった……?グンジコッカのタイセイ?テイコクシュギ?ああ、そっか……?でも、正直言うとあたし、そういうのにぜんぶ疎かった。ガラケーの前の時代って未知の歴史なんだよね。ぜんぶが石器時代っていうか。日本史の先生のセンセは今、連立方程式を解けますか?あたし、昔は得意だったのにもう解けないよ。あたしにとって、数学と歴史はひとしいんだ。計算なんてハガキの不備が合計百四十九件あるときにしか使わないし、その計算だって電卓でやる。日本史の戦争も植民地?も、そういう意味じゃあたしにとって夏の夜の暇つぶしになるだけかもしれない。テレビ番組にはなれる。けど、少なくとも仕事じゃ使えない。使わない知識だった。少なくともあの浜辺に行くまでは、そうでした。
センセはそうゆうのムカつく?悲しい?……そっかー。日本史の先生だもんね。てか先生は日本史ってか、歴史が好きなの?歴史の何が好きなの?海軍さんがよく言ってたみたいな、伊四百が開発できたこと?それとも、本に書いてあったみたいに、ダイハツだっけ?……に、それに助けてーって縋った兵士さんたちが、そんまま仲間に腕を切り落とされちゃったとか、そういうお話が好きなの?あー、あはは。……そうだよね、んなわけないよねー。わかってるわかってる。ごめん、殴んな殴んな!殴んなってー!あはは、はは……。……なんかね、海軍さんがいた時、彼が見てないところで本を一冊読んだんだけど、難しくて、ぜんぜんわかんなかったよね。彼がいた世界ってどんなだったんだろ、……今も分かんない。ダイハツって何?車?……センセはなにが好きなんだっけ。好きじゃない?大人としてのギム感?はあ……そうなんだ。
で、とりあえずその日はそのまま寝ました。兄と二人暮らしだった時期があるので部屋だけは多くて無駄に広くて、それだけが救いでしたね。それでもやっぱ、無警戒過ぎたと自己嫌悪に陥って、で、そのまま無警戒に寝ました。
男の人というか、軍人というか軍隊というか、男の人だったので、もっと警戒すべきだったのでしょうが、何もなかった。一貫してなにもなかったです。たぶん、何かしたらまずいという意識が彼にはちゃんとあったのでしょう。だって、彼がいるのは二〇二〇年代の日本で、戦前の日本じゃないんですから。何かをできる権限は、誰にも保証されてなかったんだからさ。
*
海軍さんは次の日の朝も普通にあたしの家にいて、当たり前のように、そこに存在してました。あたしもあーあどうしよ……ってかんじだったけど、一番困惑してたのは海軍さん自身だったみたいでした。そりゃそうだ。今、二〇二〇年代なんだよ?海軍さんがほんとに生きてたら何歳だよ。海軍がなくなって今何年目?戦争の後、に、なくなった……んですよねえ。たぶん……。ん?戦争って何年に終わったっけ。ああ、一九四五年ですよね。いつも忘れるねえ。それじゃ、八〇年後になっちゃうよ。それもそうだし、そもそもなんで自分が今生きていて……生きていたのだろうか、あれは。あれは生きてたのかなぁ。まあ、生きてたってことにして、なんでまた生きてるんだろう、って話ですよ。あれ。……あれは……あれはやっぱりあたしの幻覚だったんだろうか……。ぜんぶ……。
……彼は顔を蒼く染め、というか吐き気を堪えてる感すらありながら「こんなことは初めてだ、経験が無かった」と言いました。そらそうだ、とあたしは思いました。こんなこと、彼ら依り代たちに何度もあったらそりゃ大変でしょ。本人も周りの人間も。面倒だよ。
とりあえずあたしは会社に行くから、と言って、あたしは逃げるように我が家を去りました。夢か幻覚なら帰宅後にはちゃんと消えているでしょう。正直まあ、それに賭けましたよね。でも出勤してシュレッダーをしてても、入力業務をしてても、仕分けをしてても、頭から日本海軍さんのことが消えずに……いや、やばい女ですよね?わかってますって!日本海軍かその幻覚かわからないものにとりつかれている女なんて!!
で、結果ですが帰宅後、その日本海軍さんはやはり家にいました。しかも電気をちゃんとつけて待ってました。昔の人なのに電気のつけ方、ちゃんとわかるんですね。へ?戦前にも電気はあった?いやそれはそうですけどスイッチの形とか……え?ほとんど一緒?そうだったんだあ……。しかもクーラーまでばっちりつけてて……え?軍艦にも船にもクーラーがあった?戦前ですよ?マジで?そっかあ……。もう驚いたら、負けですよね。海軍さんの存在以上にびっくりすることでもないですもんね。……実は戦前って、すごいんだなあ……。
まあ、そのクーラーが二十四度に設定されていることに若干イラっとしながら、彼もごはんを食べるのか不安になったので、「ごはん食べる?」と聞いてみました。あと「あなたいつ帰れるの?」とも聞いてみました。海軍さんはキョドり気味で、後から聞いたら若い女にはじめてそんなタメ口を利かれたことが原因だったようですが、そんなの知りません。この家の家主はあたしです。彼は前者に配してはイエス、後者はわからん、との御回答をあたしに賜りました。
さっき言ったように、「これだから女は……」とか言ってきそうな先入観すらあった軍隊である海軍さんは、一貫してこちらに謙虚というか、無関心というか、不干渉というか……でした。たぶん、追い出されるという心配もあったでしょう。この世が二〇二〇年代だということはすでに伝えてありました。今の海軍さんに権力が無いこともわかってたはずです。この家とこの世で権力があるのはむしろあたしのほうだということがわかってた。たぶん、いつもそういうことにいつも敏感に生きてたんじゃないかなあ。軍隊だもんね。でもこんな女に負けるとは、みたいなものもなかったです。ほんと、不干渉でした。うん、たぶん、怖かったんじゃないかと思います。ウケますよね。日本海軍は自身の権力のない世界に放られて、ただ、ぼうせんとしてたんじゃあないか。……そんなの、戦争に負けた時にとうに経験してたはずなのに。
でも、呆然としていながらも、どこか穏やかにみえました。あれなんですかね、戦争中は人間とかバンバン殴ってたんですかね?テイコクシュギシャですもんね?でも、そういうそぶりがなかった。きっと権力がなくなったけど、義務とか使命感とか、やらなきゃいけないこともなくなったんでしょうね。あれが、自由ってやつだったのかなぁ……。いや、やっぱ呆けてただけなのかな?アイデンティティが、ぽっかり抜けちゃって。戦争ないし。することもなかった。……彼がここにいる意味がなかったんですから。
海軍さんはあたしが作ったスパゲッティを無言で喫しておりました。あたしも無言で食べましたよ。なんか、空気が重かったです。お互いの緊張感が漂っていて……。スパゲッティのいちばんの調味料はピリッとした空気で……。とはいえ、海軍さんは昨日の晩から何も食べていなかったので、心なしか嬉しそうでした。尻尾あったら振ってたんじゃないかな。その日に限って冷蔵庫にまともなものがなくって。あたしが買って帰るまで。そこは申し訳なかったと思います。まあそんなのあたしの責任じゃないんだけど……。
あたしは、毎日会社へ行き、シュレッダーをしてハガキの計算をなどをして帰宅して、まだ海軍さんが家にいると電気の明かりでわかると毎回げんなりしつつ、日々を過ごしました。一度、炭酸ジュースをあげたら、嬉しそうにラムネの話をされて……。ラムネジュースって海軍にもあるんですね。というか戦前にもあったんだあ、ってびっくりしました。……へ~!?ふねの中にもあった?知らなかった……。そんなことまであの人、言ってなかったけど……。「人間とよく飲んだ。こんなに甘くなかったし炭酸も強くなかったが……。この時代の飲み物はよくできているんだなあ」とかなんとか言って、普通~に飲んでましたね……。ほんとに普通でした。ごちそうさまでした、とてもおいしかったよ!ありがとね!のあたしへの社交辞令みすらあった。炭酸が強いならもっと驚くとかさ、あるだろ!飛び上がってびっくりするとかしてほしかったよ、見たかったなぁ……。過去からタイムトリップ?してきたんだからさ……お決まりのさ……サービスしてよ……とか思いました。あれ、そもそもタイムトリップだったのかな。むしろわくわくお彼岸イベント?
*
……あ、そうそう、自分のふねの話を、出会った浜辺でしていたことを覚えてます。いろんな名前を言ってました。大事な宝物の話をしてるみたいに、ぽろぽろと、自分の持ってる宝石かお気に入りのどんぐりかビーチコーミングで拾った綺麗な貝殻の話をするみたいに一つ一つ呼んでました。あたしが唯一最初から知ってた戦艦大和の名前は一度も出てこなかったこと、なんでか憶えてます。
彼のいとし子のふねの名前、ぜんぜんわかりませんでした。ウィキペディアで検索して見てたんですけど、まー軍艦っていっぱいいるんですねー、みたいな。白黒写真だとどれも一緒に見えて……それに、ぜんぶまるで遺影みたいだった。白黒で、画質もどれも荒くて……。ぜんぶもう亡くなってて……。名前も漢字二文字が多くて。山と川と土地の名前が多いの、ウケますよね。それ日本人の苗字と一緒じゃんって。日本人の名前に対する感性ってどれも一緒なのかなあ……。よくわかんないけど農耕民族?ってやつだもんね。それがふねに対しても一緒なんだと思うと面白かったです。魚とか貝の名前とかじゃないんだって。船って海の生き物なのに。あ、でも海軍さんにとっては、……海軍の人間にとっては、ふねも陸の生き物だったのかなぁ。俺たち仲間!っつー。まあ、そのだいたい二文字で、音が四文字だったり二文字だったり三文字だったりするそのふねの名前を、彼は熱心に熱心に呼んでました。陸奥とか高雄とか、赤城とか……。空母とか戦艦とか……駆逐艦とか……。その強さとか。粋なところとか。好きポイントとか。ベラベラ喋ってました。
ある時、海軍さんにウィキペディアを読ませたほうが良いのかな、って悩んだんですけど、結局あたしは見せませんでした。インターネット世代じゃないし、いろんなものに耐性なさそうだし……。むしろはまっちゃって、スマホ買って、とかねだられても嫌だし。YouTubeとかずっと見てたらどうしよって。日本海軍が……。
それに、自分と自分の好きなふねの最後のことをGoogleとかウィキペディアとかで知るのってどうなんだろ、って思っちゃって。隼鷹とか、さいご、解体されて、そのこと、あの人知ってたんだろうか、って。思っちゃって……。だって、インターネットであんな無神経で無頓着な言葉で語られて、ネガティブな言葉と一緒に検索すればいくらでも検索結果がネガティブになってって……。ネガティブに語られて……。嗤われて、罵られてて、変な賞賛のされ方とかされてて……。日本軍のサイキョーの戦艦、とか。ダサいですよね。あんな雑な言葉で、彼は、自分のいとし子を語ってなかった。それなりの、自分自身の考えを根拠にして、そこからちゃんと出発して話してた。他人の強さを笠に着たり、自分の属する集団を根拠にしてなくて……。それが良いことなのか、それこそが悪いことだったのかわかんないけど。これ、海軍さんをほめ過ぎなのかなあ。でも、やっぱ、インターネットの言葉なんかでね、知ったってね、って……。まあ、あたしもインターネットで知ったんだけどさ。それをまた優しく言い直して、無難に伝え直してあげればよかったんだろか。でも、どうやって?そもそもなんで、とも思う。そんなのあたしの義務じゃないし。
……海軍さんだってね、武蔵ってすぐ沈んじゃったよねーあははー馬ー鹿じゃないのーとかどっかで笑われてる、って知っても、確かに馬鹿だったよなあ、俺はほんとうに馬鹿だった、って一緒に笑うかもしんないよね。無邪気に。晴れ晴れと。悔いなきみたいに。彼ってそういうとこあったと思う。……長門の最期だってもしかしたら彼は、前は知ってたかもしれないけど、今は覚えてないようでした。だって戦艦長門を呼ぶその声に、陰りはなかったから。そこにネガティブさなんかなかった。…………それともぜんぶ知ってて、だからこそあえて明るい声で長門の名誉の話だけを語ってたんだろか。それが彼のできる、娘への唯一の愛情表現だったのかなぁ。
海軍さん自身は気にならないのか、長門の最期とか隼鷹の行方とか、日本はどうなったとか、負けたあとの長い長い八〇年間が気にならないのかなって、最初は思ってましたけど、やっぱ、うん。怖かったんでしょう。あたしに聞いてきませんでした。だって聞いたら、今度は返ってきた答えを聞くことになっちゃうもんね。日本海軍のサイキョーの戦艦の、無残な最後とかを。
彼は軍艦のいい思い出だけを喋ってて、だいたい海にふねがいっぱいあったこととか、軍艦がいっぱいあったカンカンシキのこととかの話で、ロシアとの戦争とか、時々イギリスとかドイツに行った時の話、あとうるわしきオメシカンの話だった。それに真珠湾の作戦を喋るくらいで、いっつも戦争の話は、だいたいはそれで終わってた。
え?ああ……そうですよね、それってマジのマジでアメリカとの戦争のはじめの話ですよね。あと中国とかないですよね。たぶん、自分が好きな勝ち戦の話しかしたくなかったんだなあって……いやそりゃそうだけど……それが男ってもんなんですかね?それが軍隊?
だから駄目なんだろお前、ちゃんと反省点も述べろよ、って社会人経験数年の女のあたしが思っちゃったんですけど、それウケるんですけど、超ウケるんですけど、でも……なんだろ……。かれがかれのうつくしい思い出を語るときの、あのうつくしい横顔が、いっとううつくしくて、今もどうしても、そのうつくしさが忘れらんない。…………ああ、危ういですか。ですよねえ。これがグンジコッカのタイセイってやつですか。グンコク主義ですか、ですかねえ。だって、あの人、炭鉱のキョウセイレンコウの話をするときもおなじ顔、しますもんね。
*
海軍さんは基本的に遠出をすることもなく、近所をうろうろするか、だいたいは家でぼんやりしてたみたいです。知らないけど。あたしが知ってる限りはそうだった。
ぶっちゃけあたしのいない時に赤の他人に家を任せるの、不安感ありありだったけど。まあ、そういうのホントぜんぶ諦めてました。拾っちゃったのはあたしなんで……。
あたしは海軍さんを家に迎えて、なんというか、今までの人生になかったものが自分のなかにできた気がしました。……いやそりゃ当たり前なんだけどね?あたしよりちょっと下に見える、あたしより何十歳も上の、今は生きてるのか死んでるのかもわかんない人間じゃない人間なんて。近くにいたら驚きでしょ。それが毎日家で待ってるんだよ?何なんだよ……。あたしが一体何したんだよって。
あたしは家を出て、毎日横浜経由で東京まで仕事に行くんですけど、ある日早上がりしたその帰りに紀伊國屋に寄ったんです。ファッション誌が欲しかったし、あともしかしたら上手く軍象さんを返す方法がわかる本もあるかもしれなかったし……。帰すってどこへ?ってかんじだけど。天国?地獄?成仏か?
一階で雑誌を買って、とりあえず二階に行ってみたけど、結局返し方とかそういう以前に依り代の本が無かった。まあそうかーと思ってぼんやり棚を見つめてたんですけど、ふと日本軍の本を見つけました。細長いサイズ……新書?それ、それが安かったんで。それを買ったんです。白と濃い緑色の。かっこいいかんじのやつ。頭良さそうな本でした。
買ったの、特に理由はありませんでした。うーん、なんていうか……彼の話してることってどこまで信用していいか、わかんなかったんですよね。まあ戦争の話自体はそれでいいんですけど、もしかして、この今に今いることや、その理由が実は分かってたり、何か隠しごとをしてたり、……目的があったり……そういうのがあっても、おかしくはないんじゃないか……という疑いがあって。
結局そんなことは一切なかったみたいで、彼はただただ困惑してただけだったみたいなんですけど。戦争の本や海軍さんの本を読めば何かわかるんじゃないか、ヒントがあるんじゃないか、と思って。…………その本を帰りの電車で読んでたんだけど、知らない単語と難しい漢字が多すぎちゃって、わかるの、ぜんぶ諦めちゃった。
なんだっけ。動けなくなっちゃって自殺しちゃった兵隊さんとか、動けなくなったって仲間に殺されちゃった兵隊さんとか。安楽死……処置だっけ?生きたまま捕まるなとか、……人の肉とか……食べ、て、たり、うーん、……中国の人を刺してたりとか、やっぱ彼あんま喋ってない、喋らないんですよね。まあ喋られてもおう……ってなるんだけどさ。……いや、あれは陸軍の話なんだけどね。
でもたぶん、彼も似たような立場ではあったはずで。だから、彼、あたしがちゃんと聞けば、もしかしたら話したかもしんない。さらっとね。当たり前っぽく。初めて会った砂浜の時みたいに。……むしろ、聞いてあげればよかったのかなぁ?あたしはちゃんと聞いてあげるべきだった?彼の……彼の、彼だけの話を……彼の……。……どう、なんだろう。どうだったんだろう。うん。うん……。はあ…………。
……いや、……やっぱ嫌な出会いだったよなあ、ホント……。マリアナがどうーとかエンガノがーとかなんとか身振り手振りで必死に言ってて……。軍事的失敗をあたしに細かく語ってて。顔も知らないあたしに意味不明な弁解じみたこと言ってて。俺も奮闘したんだよーとか。なのに上手くいかなかったそんときの悔しさとか。自分の後悔とか。失敗とか。戦艦比叡がって。比叡が沈んじゃったけどーとか。あいつのオメシカン姿は最高だったーって。美しかった、って。麗しかったって。素晴らしかった。とても素晴らしかった。素晴らしかったのに、って呟いて。頷いて、黙って。そして鮮やかに。魚の骨を箸で抜くみたいに、さっと。綺麗に。炭鉱が大変だったけど、って……。
……あの笑顔のうちに、なにかいろんなものを抱えてたのかなあ……。
と、か、ぼんやりと考えて、鎌倉駅に降りてとぼとぼ帰宅しました。なんか、どんな顔して彼に会えばいいか分かんなかった。正直、わからないなりにショックなのはありました。寒かった。手が冷たかった。何十年も前にあったことなのにね。あたしが生まれる前からあったことなのに。なにか多くのものを抱えた得体のしれない存在と住む家に帰る、って……。それはどういうことなんだ、って。ぐるぐる考えてた。部屋が二十五度か二十六度だったら有難いって、もういっそクーラーなんかいらないかもって、今はいらないやって正直に思った。冷たい汗をじっとりかいてた。
帰宅したらぼんやりとした笑顔で海軍さんが迎えてくれました。「とても暇だった。だからカレーを作ったんだ。今の道具と材料は特殊でよく理解できなかったが……口に合えばいいんだが」とか言ってて。カレー作ってくれてて。笑顔で。空調はやっぱ二十四度で。扇風機も出してて。勝手に。押入れから。それに海軍さんが作ったマジもんの海軍カレーじゃん。遺産かよって。超ウケたんですけど。ただのヒモみたいだなって正直思った。
*
うろうろする近所といえば、海軍さんだからなのか、あたしが仕事をしている日中、例の海岸に行くことが時々あったみたいでした。海見てた。なんかいっつも鎌倉の海を見てたみたいで……。海軍って言ったら横須賀だし、船といったら横浜なので、なんでか申し訳なくなっちゃったんですよね。鎌倉の海ってサーファーとかばっかだもんね。
で、お盆に連休が取れないあたしは、そのすこし前に休みが連日取れたので、暇だったので、海軍さんに横須賀に行かないか、と誘ってみました。たいした他意はなくて、まあ、この第二の人生?がこんな感じでそのままマンネリで終わったらカワイソだな、という気持ちからで、ほんと他意はないです。ふねがいっぱいいるから、横須賀に見に行かないか、とあたしは誘いました。
海軍さんは横浜に行きたい、と言いました。
「横浜?横須賀じゃなくてですか。軍艦いっぱいいますよ、たぶん」
「だからだよ。他人の艦隊を見ると苦しくなるから。もう俺が持っていないものだ」
「ふーん」
そうお、じゃあなら、いいけどお……。という話になって、あたしたちは横浜に行きました。……それも怖かった、んですよね。それを理解してあげられなかった。ま、そんなのあたしの責任じゃないんだけども。義務でもないし。なりません、なりませんよ、海軍と共犯になんかなりません。彼の孤独は彼だけのものです。あたしはそんなの担いません。
横浜に行ったは良かったんですけど、結局、海はそんなに見ませんでした。というか、たいしたところには行かなかったです。神奈川県立歴史博物館とか行ったら、ぜったい面白かったんじゃないかな、って思ったんだけど。海軍さん、行きたがらなかったんで。怖かったのかな。それも。そりゃあ横浜の変わりようにはある程度驚いていたし、でもそれを言うなら鎌倉もいっしょですもんね。なんならホテルニューグランドがまだあそこにあることのほうがびっくりだったみたいでした。かわんねーじゃん!って。だからこう……ごはんを食べたくらいで。ごはんを。横浜で。横浜のジョナサンで。海軍さんと。なんだ。デートか。それ。危ういだろ。海軍さん、配膳してくれるネコのロボットに完全に失笑してましたよ。だから驚いてくれってば!未来の技術というものに!ただ、セルフレジとタッチパネルの注文には感心してました。人間の配置にはいつも悩まされるんだ、こんな感じに戦艦を動かしたい、機関室の奴らには楽をさせてやりたい、とか言ってて……。まあそんな感じでしたね……。なんで?もっと船と海を見て狂喜するとかそんなのないんか、と思っちゃいました。なんであたしが横浜に誘ったと思ってるんだ。ジョナサンに来るためじゃないんですけど。ネコじゃないよ。船だよ。船いっぱいいるし。ごらんよ海軍、これが船だよ、みたいな。君のなくしたふねなんだよ……とか思ってましたけど、まあ海軍のふねって灰色で、それこそやっぱり見るなら横須賀ですよね。横浜は、遊覧船とか、あの、軍に関係ない可愛めの船ばかりで……。
え?戦争になるとチョウヨウされるかも?チョウヨウってなんですか?へえ……ああ……軍隊が持ってっちゃうんだ。徴傭っていうのか。えー沈んじゃうの?それって借りパクじゃん?あーやっぱそうなんだ……でも、ちっちゃい船ばっかですよ?観光客しか乗れませんよ。あんなの。兵器載らないでしょ。それでも?昔はされてた。はあ……やっぱり戦争って怖いんですねえ……。
あ、だけど氷川丸の話には、妙に食いついてました。うっそ!?氷川丸ゥ!?みたいな……。アイツってまだ生きてんの!?ってびっくりして笑ってました。横浜にあるデッカイ船ですよね。今はどこにも行かないやつ。客船?カキャクセン?なんで興味あったのかは知らないけど。横浜ではでっかい船のほうだからかなぁ……。あれって乗れるんですよ行きますか、って聞いたんですけど、毛を毟られるだろうから嫌とかなんとか言って断られました。え?海軍が戦争で徴傭してた?病院船?そーお。顔見知りってこと?じゃあ仲が悪かったのかなあ……。海軍さんにパクられそうになって。誘拐?
大さん橋には飛鳥Ⅱがとまってて、飛鳥Ⅱの名前を聞いて海軍さんはめちゃくちゃ笑ってました。丸シップの伝統潰えたり、みたいなことを言ってゲラゲラ笑ってた気がします。え?海軍が言うと不謹慎?いやあの人、いっつも不謹慎でしたよ。それはちゃんと知ってます。ただ家主のあたしにはあまり不謹慎ジョークを言わないように気をつけていただけで……。
Ⅱであり、丸がつかないことがやっぱり面白かったみたいですね。船名めちゃくちゃや、みたいな。海上自衛隊の艦たちの名前が、日本海軍から引き継がれてること言ったら喜ぶのかなあ、とか一瞬考えましたけど、たぶんそれがぜんぶひらがなだってこと知ったらへこむんだろなって。ひらがなって何だか妙に可愛いじゃん、ってなるよね。まや、とか。女の子の名前か。だからやめました。
海軍さんはしげしげと飛鳥Ⅱを見つめてました。よく話を聞いてみたら、飛鳥Ⅱを持ってる会社は、海軍さんが生きてた時代にもあったみたいなんですね。よく知らないけど長寿ですよねぇ。船の赤い二本の線は、その会社のファンネルマークって言うんだ、と教えてくれました。あれ、氷川丸にもありますよね。……ああ、やっぱおなじ会社なんだ。へえ。ニッポンユウセン。だからかあ……。
今の貨客船は変な形だ、とか、ユーセンがあんな奇抜な船を造る時代なのか、とかあれにどうやって貨物を載せるんだろう、とか一人唸ってましたね。あと「いざという時、あれじゃ困るな……」とかなんとか深刻に悩んでるみたいでした。なんでだろ……いざという時って何、いつのこと?
……え?あ、徴傭?あー!ああ……。なるほどね。海軍さん、たぶんそれ考えてたんだ。あの船、他人の物なのに。はあ、他人の物だからこそ徴傭なのか。しれっと人様からパクるってわけね。ヤラシー。……絹とか手紙とか石炭とか、でりっく?が、とか何とかって熱心に言ってましたけど、今はたぶん載せないですよね。石炭なんて……。昔は載せてた?カモツセン?カキャクセンのカ?ああ、貨物の貨、に、客船なのか……。貨、客船か。だから今はただの客船なんですね。ふうん、教えてあげたかったなぁ……。あの人、ふねには異常に熱心なんだなって、目の前にして知りました。ほぼ船のオタクだったもんね。あれ人の物なのに……。
あたしたちは遠目に見える第二飛鳥丸の話をしつつ、横浜の日はどんどん傾いていきました。横浜の海はたくさんの小船がちらちら行き来してて可愛い。海軍さんがあの船は良いあの船はだめって言ってたけど、あれかっこいいとか可愛いとか好き嫌いとかじゃなくて、徴傭できるかどうかの判定だったんだね。知らなかった。あたしも無邪気にあれはどうですか、あれとかいいんじゃないんっすかぁ、あなたおっきい船好きでしょ、とか聞いちゃってたな。ただの船の好みだと思って……。いや、ある意味アレも好みなんだろうけど。俺おっきい船好きだよ!ってその時海軍さんも言ってたし。
きりのいいところでさーて帰るかーなどとぼやいて……いや日帰りです。泊まってどうするんですか。横浜と鎌倉なんですよ?すぐ帰れるのに二部屋も取るわけないじゃないですか。お金、ぜんぶあたし持ちですから……。
で、……まあ、……飛鳥Ⅱが、ちょうど出航するみたいでした。わーわーいう声が遠くからでも聞こえてきました。見送りと見送られです。そして船が海をゆくんです。
「あ、船行っちゃいますね。どこ行くんだろ。いいなあ~。あたしも船で外国の海に行ってみたいな」
「……」
黙ってた海軍さんをちらっと横見すると、彼は何かを堪えるように、そして食い入るように飛鳥Ⅱの姿を見つめてました。飛鳥Ⅱはゆっくりゆっくりと大さん橋を離れて、じわじわと出航していきました。楽しそうに見送られて、海に出て行った。それを呆けたように見つめる海軍さんが……なんといえばいいんだろう……そう、哀れで。哀れだ。哀れだって、思って、しまった。あたしは無性に悲しかった。彼の孤独は彼だけのものなのに。彼……きっと、さいごには港から送り出すふねも持ってなかったんでしょうねえ。……ああ燃料もなかったのか。機雷、で、港も使えない?ああ……海に出してやれないし、出れなかったんだ。そうか。そうですねえ。……そう、だったんだ。
…………横浜に部屋を取る気はなかったんですけど、飛鳥Ⅱになら、とってもいいような気がしました。して、しまった。……しまいました。なんか、船に乗れば、船があれば、この世にもあの世にも居場所がない人の居場所がちゃんと確保できるんじゃないかって、思ってしまって。そこになら、船の上なら確保できるんじゃないか。ふねのうえではそれがゆるされている。その無力がゆるされている。ふねはそういう場所として、いつもいつもあったはずなんです。
なんでまたこの世にいるのかわからず、呆然と船もない鎌倉の海を眺めて、昔も今も出航するすべを持たないで、その意味もなくて、生きてる理由が無くて、それを知る方法がなくて、それ以前に明らかに意味なんてなくて偶然で、もしかしたらあたしの幻覚上にしか居ないかもしれない、居れないのかもしれなくて……。
ああ……なんというか、うん、彼と共犯にならない、ならないけど、けど、行き場をなくした過去として、彼を、日本海軍を、どこかへ航海させてやることはできる……。あたしにはそれができる、って。思って、……しまったんですよね。それが飛鳥Ⅱの乗船チケットでも何か別のことをすることでも。
過去の人なんだから、なにかその過去を記録して書き留めてあげるのがほんとはよかったんですかね?彼が確かにそこにいたってことを。海にいたという事実を。たとえば文章が書けたら本を残すとか、小説を書くとか、調べてまとめるとか……。その歴史が、ふねをなくしたことなのか、あの運命の真珠湾なのか、彼が決して語らなかった笑顔の外のことなのか、つまり不名誉な、それ以外の戦争なのか。飢えて死んじゃったとか。南の国に船で運ばれている途中、戦う前にただ一方的に魚雷で沈められちゃったとか。虫歯が直せなくて痛かったーとか。よくわかんないけど。……書いてあげる。もう一回再現してあげる。無神経で無頓着じゃない言葉で。それもある意味、航海でもあるんじゃないかなぁ……って。思った。思っちゃった。海で、往き場をなくして、陸に上がってそんまま終わっちゃった彼をもう一度航海させること。過去というものを現在に航海させること。今という海に、解き放ってあげることですよね。生きものとして。ずっと止まったままなところから……。だって船って、昔のふねって、みんなの話や言葉や映画や思い出のなかで、何度も沈んでますよね。好きに沈められちゃってて……。なんだっけ、あれ。ディカプリオ。ああそれ、映画のタイタニックとか毎回沈むじゃん、って。綺麗に沈むじゃん。みんなふねが沈む話大好きじゃんねーって。なんでしょうねあれ。ほんと。……なんとなく、そう思った。だから、だから海軍さんの軍艦が沈んで、それはほんとつらくて、あと海戦に勝って嬉しくなったり、ロシアと戦争して、長門がいて、いっぱいふねを浮かべて、なんか……そういう話をくり返し話すことで、うん。何かができる。映画みたいに、何かがもう一度再現できる。タイタニックのごはんの場面とかめっちゃ綺麗ですよね。あたしはタイタニックに乗ってなかったけど、それが綺麗だったことを知っている。あとから作った映画があったから。……綺麗、……綺麗だった。沈む時もねえ……。綺麗。……うん。うん……。綺麗、だったことを知っている。何かを書き残せば、例えば魚雷のせいで沈んだ船から放り出されて海に置いてかれちゃった、その十時間を記録すれば、映画とかにすれば、みんなはその十時間を知ることができる。十時間ずっと悲しかったことや苦しかったことが……。……海の中で爆弾や爆薬が爆発しちゃって内臓が破れちゃって、苦しいっていいながら死んじゃった人たち……。
……うん、彼がほんとに日本海軍というものだったとしたら、これはとてもまずい感情だということはわかってました。だって日本海軍が好きな女とかやばいですよね!?マジ、字面が……。いや、実際いるのかもしれないけれど、レキジョ?とかオタクとか、なんとか、どこかになら……。いや、そもそもそういう意味じゃなくて、オタクとかじゃなくて、……軍艦マニアとかじゃなくて、あたしが彼の栄光と悲しみの顔がうつくしいというのなら、あたしは彼の炭鉱の話もいっしょに引き受けなきゃなんない、ですよね。話さなかった真珠湾以外の戦争の話も……。海軍がもう一度自由に航海することは、どういうことか、って……ことを。航海したら最後、きっと彼、そこでまた虫歯になるんだ。そこで戦争になっちゃって。アメリカとか南の国の人とか日本人とか、チョーセン……韓国?な、んですか……ね?……の人とか、そこにいた人たちもそこでぜんぶ死んじゃって。ああ……。……ですよね、……そうですよね。そうなんですよ、ああ、これがセンセのいう歴史、ですか、歴史の話、ですか。歴史を自分のこととして引き受けること。ああ、そうですね。……難しいですよねえ。そうか、すみません、授業をぜんぜん聞いてなくて。うるさい生徒でしたよね。騒いでて。あるいは携帯ばっかり弄って。そっぽ向いてて。歴史から。
しょげきっている海軍さんを無言で引っ張って家に帰りました。その夜は無性に虚しくなって、正直その後の数日は憂鬱でした。彼と顔を合わせんのも。あたしはどうすればいいのかわかんないし、海軍さんもどうすればいいのかわかんないみたいだった。気を利かせて横浜に行ってみたりしたのに。あたしはむかついたし。申し訳なかったし。互いに無力だってわかった。世界ぜんぶに対してです。で、連休はそれで終わりました。かつてないほど虚しい連休だった。
*
その夜、夢、見て。……うん。虫歯になる夢……。処置される世界の夢。あたしが戦争に行ってた夢。なんで女なのにここにいるんだろとかそういうの無くて。疑問とかない。夢なので。夢特権だよね。ぜんぶ夢です。
兵隊さんがいっぱいいて、あたしもその一人で、兵隊で、あたしは飯盒を磨く係だった。みんなの飯盒を磨いてあげるの。綺麗に。ピカピカに。うん、ないよね、実際の海軍に飯盒を磨く係なんて。つか飯盒って陸軍だった気がするけど。読んだ本では。……うん、だよね?綺麗に磨けるとめっちゃ嬉しくて。だって白いご飯が。ちゃんと炊けるので。食べれるじゃん。でもそこにお米がなくて、貝殻を飯盒に入れてた。桜貝とか法螺貝とか、宝貝、カズラガイとか……。
みんなで必死に貝殻集めてたなあ。なんか、たしか貝とお米が交換してもらえる制度がそこにあった気がするんですよ。誰もそんなこと言ってなかったけど、夢って、夢世界の掟やルールがわかるじゃん。説明されなくても。体感的に。感覚的に……。
しゃがんで集めてたら、誰かに飯盒を蹴られました。それって飯盒ピカピカ係のあたしへの宣戦布告ですよね?貝も全部ひっくり返っちゃった。あのね、ひっくり返った貝はお米に換金できないんですよ。汚れちゃうし。集め直しなんです。欠けたら価値がなくなるんですよ。綺麗な法螺貝は単価が高いから人気で。法螺貝いっぱい取れたのにーって。どうしてくれんのよ、って。蹴った靴を見て、足の主を見上げたら海軍さんでした。
すごいむかつくニヤけ顔で海軍さんが、上から偉そうに話しかけてくるわけですよ。そこの下衆な人間……みたいな。でもあたしも違和感なく聞いてて。ハイ、ハイ、申し訳ございませんみたいな。飯盒蹴られてすみませんみたいな。邪魔でしたよね、って。現実だったらまず殴って追い出してたよね。家主はあたしなんだからさ。てめーあたしの貝に何した?ってなるよね。これあたしのご飯代なんだけど。あんたのご飯でもあるんだぞ、みたいな。……夢だからそうはなんなかったけど。
「貝を集めろ。貝殻を集めると貴様も徳が積める。竜宮城へ行けるんだ」
とか言われて。いや、今集めてたから。お前が蹴ったんじゃん……あたしを急かすなよな、と思うこともなく、徳を積もうともう一度貝を拾い始めたくなりました。竜宮城にもいけるらしいし。竜宮城て何?あとなんでかあたしは夢の中で、彼を尊敬してました。蹴られたけど、海軍さんと話せて嬉しかったような……気がする。
「海軍さんは白米主義者ですからね、すばらしいです」
って褒めたのを思えてます。今はもう何がなんだかわからない。白米主義って何……?あたしは彼の完璧な白米主義を褒めたんですけど、そのまま海軍さんに二、三度殴られました。「俺に馴れ馴れしくするな一兵!」って。……あんな感じに、戦争中は人間殴ってたのかなあ……いや知らんけど。あれ夢だし。ただのあたしの夢。あたしは彼の白米主義を褒めただけなのに、殴られたんですよ。許せないですよね。でも、やっぱりそれを理不尽だとは思いませんでしたね。夢だからかな。
てか、今思えばあたしって、夢の中でも貝殻を集めてたよね……。ビーチコーミング。徳が積めるってなんだ。賽の河原か。徳とか利益とか意味とか考えるのはビーチコーミング友の会の会員失格ですよ。ほんと……。まあ実際あたしたちは利益というか、お米が欲しくて貝殻を集めてたんですけどね。……徳が積みたいんじゃないよ、あたしたちはご飯が食べたいだけだ、お腹が空いてて食べるために必死なだけだって思った。龍宮城なんて行きたくないよって。それを覚えてます。
浜辺の砂は白く細かくて、あ、これ骨でできてる……ってわかりました。白骨……の道?なんだっけ、……あー白骨街道か。本にでできたので夢にも出てきたんだと思う。海は赤くて、血でできてて、太陽は黒かった。いやホラーじゃんて。いま説明すると思うけど、夢の中ではぜんぜん怖くなかったなあ。まあ夢なのでぜんぶぼんやりしてるしね。
あたしは海軍さんに怒られたり怒鳴られたり殴られたり蹴られたりしながら、頑張って貝を集めてて。「気合いが足りない」とか「甘えてる」とか海軍さんは怒ってた。見たこともない顔してた。こ、怖ー!って感じの。……出会った当初に軍艦の話を振られてあたしは興味なくて、海軍さんは拗ねちゃって。ぶつぶつ文句を言われたことがあったけど、その時にあたしがチクチクうに太郎とか呼んだ時すらそんな顔しなかったじゃんて。
あたしはせこせこ貝を拾って、貝って脆いんだな、刺せば死ぬもんな、弾で撃てば一撃だもんな、集めるのなんて戦艦があれば余裕だよなーって思ってた。あたしたちにはふねがいっぱいあるしって。海軍さんもいるし。ぜんぶ集めてやるって。今から思えば意味不明だけど。そうやってあたしは貝を集めて、貝を集めたことで、ご飯食べれてた。ご飯は貝を集めてゲットできる。最初は貝がどれも綺麗で、素敵で、可愛くて大切だったのに、最後のほうは貝なんてどうでもよくなっちゃってたね。大きくても小さくてもどれも一緒。みんなおなじ、意味のない貝だ、って。貝どもは集められることしか価値がない、むかつくぜ、みたいなむかつきすらあった。いろんな貝の見過ぎ?貝のこと考えすぎだったのかなあ。集めすぎて。あたしのご飯に変えられれればなんでもいいやって。むしろ小さくて脆くて助かった。集めやすいし、軽いし扱いやすいし。貝がいっぱい集まって、貝の数に余裕ができたら、いらない貝は潰して捨ててた。邪魔だったし。必要ないので。小さくて汚い貝はいらない。それが戦場だもんね、仕方ないよね、じゃなきゃあたしが貝になっちゃうもんねって。捕まって、集められて。誰かのご飯に変えられちゃうって。まじ意味不明な夢だった。なんだそれ。なんだったんだあの夢……。
貝を潰してる海軍さんが笑ってる。嬉しそうに笑ってる。あたしも貝を潰して嬉しそうに笑ってる……。みんなで笑ってる。なんでかわかんないけど。嬉しかったし楽しかった。みんな仲間だった。よかったよね。白いご飯が食べれたからかなあ。……もしかしたら貝のおかげで炭鉱が栄えてたのかもーって思ったの覚えてます。……夢で。あと比叡のオメシカンが綺麗だった。でも戦艦比叡じゃなくて、軍艦巻きが比叡って名前だった。夢だから笑わずにすみました。あれがいわゆる海軍さんの白米主義だったんかな。ウケるんですけど。なんか足元は水に、海と波に満ちてて、……だんだん水が上がってくるんだけど。ぜんぜん気にならなくて。みんなで笑ってたので。海水はとても赤くて。寄せて引いて。……靴が赤く濡れて。
波が迫ってきて、貝が拾えなくてちょっと焦ってきてた。あー桜貝がある!と思って拾おうとしたら人の爪だった。それでも楽しくて笑ってた。海軍さんが「ここには海があるから大丈夫だよなあー」って言ってて、それも夢の中じゃなんか面白かったよね。なぜか。あたしは「じゃあ四方八方に貝がありますねえ」って答えた。…………あたしたちはそこではちゃんと、共犯だった気がする。
竜宮城は目の前だった。行きたくないなって思ったけど。……でもみんな先にいっちゃったからなーって思ってた。みんな待ってるって。……だからあたしも行かなきゃ、って。
そこで起きちゃった。……片腕空中に上げててびっくりしたよね。顔もちょっと笑ってたし。
あたしって実は夢日記をつけてるんだけど……いやせんせえ、虚しそうに笑わないでよ!つけてますよ、夢日記を。……寂しい女なんで、ほんと。寂しい趣味ですよ。ひとりですよ。一人の趣味好きなんですよ。友達と予定あわせなくていいし。ビーチコーミングと一緒で集めてるんですよ。夢を。寂しい趣味を許してくださいよ。……その夢日記に、あたしは、ただ一言、……地獄にいたって、書いといた。なんか、そんな気がした。……起きて、あのニヤけ顔が頭から離れなくてむかついたから海軍さんに軽くグーパンしちゃった。海軍さんはへあ?みたいな間抜けな顔してたからスッキリしました。それで夢の中の顔はだいぶ消えた。ということにした。…………彼は朝の日課で、いつも通り勝手に紅茶飲んでて。……結局彼が一番喜んでた現代の利器ってティーバッグだった気がする。コップをかき混ぜながら「どうしたんだ、やつれているぞ」なんてのんきに聞かれて。彼を殴って「アホ」とあたしは答えました。「アホアホアーホ。お前はアホ」
「阿呆とは何だ、貴様。失礼だぞ」海軍さんが気色立って言いました。
「ティーバッグ、来週まで買えませんから節約してくださいね」とあたしは釘を刺しました。
「あと三つしかないが」
「節約しなさい」
海軍さんは心なしかしょげてました。まあ、あちらからすればどうしたんだ?って聞いただけなのに、殴られてアホ呼ばわりですからね。申し訳なかったな……。悪いのはぜんぶ夢なんだけど。あたしじゃありません。
現実って貝を集めてもご飯にならないんですよねぇ。ティーバッグとかにも。でもそれっていいことだと思った。でもほんとうはどうだろ。あー、なんだったんだろうなあの夢。ほんと……。やな夢だった。
*
次に来たのは盆の季節でした。
海軍さんは二〇二〇年代の夏が苦手のようで、相変わらずエアコンの設定温度を二十四度に死守してました。
「あのですね、あと一度上げましょうよ」とあたしは言ったんです。電気代安くなりますからね。何度かそのこと説明したんですけど、そのたびに「ああ、そうか、血の一滴、ってやつか……」とか「この時代の機械には疎いが、この一度で何かが違う」とか言いながら、毎回毎回華麗にスルーしてました。あたしも毎回それをスルーして一度上げて、下げて、上げて、下げて。この動作のせいで余計に電気代がかかってるってわかったので、根気強く説得してから上げることにしてました。十回中九回は拒否されました。
「この世界は暑くないか」と海軍さんは言いました。いつも通りの事実上の交渉拒否にあたります。十分の九です。交渉決裂です。もうこれ軍港を奇襲するしかないっすわ。これ真珠湾ですよね。自分ごととしての歴史。だってこれあたしが払う電気代なんだけど?まあ、そりゃ暑いんですけど。……今の夏はやっぱり暑い。
「やっぱ今の夏って昔より暑いですか」
「暑い。考えられん。どこも機関室みたいだ」
「はあ……。あのう、……負けた時も、暑かったですか」
「ああ。暑かったよ。たぶん」
「たぶん」
あたしは元気もなく繰り返しました。海軍さんはぼんやりと言いました。
「暑かったのは憶えているが、どこにいたのか思い出せん。つまりそれがいつだったかもわからない。…………あれは、八月十五日だったのかなあ……」
その声には空虚なあわい絶望があって、虚無感すごくて、あたしはやっぱり、ぜったいに彼とはわかりあえないんだ、と思いました。あたし、学校の勉強も、歴史の授業なんてのも興味がぜんぜんなかったんですよね。だから彼とおなじ言葉で話せないんだ、って……。場所と属性の違うひとと、ひとしての交わりが、できなかった。彼と。おなじ国にいるのに、おなじ歴史を一緒に持っていないから。太平洋戦争、中国との戦争、軍艦がいっぱいあったこと、真珠湾とか、テッタイ作戦が上手くいったことの喜びとか、仲間がいっぱい溺れちゃったこととか、比叡とか、博覧会とか、キョクジツキが鮮やかだったこととか。陛下にお声をかけてもらったとか。だから喧嘩すらできなかったんです。戦争反対とか兵器を造るなとかひとの国侵略するなとか、炭鉱のこととかレンコウとか、何も言ってあげらんなかった。戦争もその反対の理由もぜんぜん詳しくなかったから。そういう言葉にあたしは根拠を持たなかったから。……あたしの言葉じゃなかったから。きっと彼も笑って聞かなかったでしょう。……れきし、って、一体、なんなんでしょうねえ……。
彼のいう八月十五日って、ふつうに終戦の日なんでしょうけれど。その海軍さんの言い方や普段の話ぶりを聞くに、真珠湾の十二月……そう、八日?ほどはっきりしてなくて、そうなんですよ、彼、十二月に大切な子どもたちを真珠湾に見送った話ばっかりするのに、戦争に負けた日ばかりはなぜかぼんやりしてて。……なんでしょうね。あれ。俺っちは負けてなんてないっち、という意志の表明だったのかな?……それにしては、心の底から悩んでいるみたいでした。……あー。へえー。そっか。べつにぴったり戦争が終わったわけじゃないもんね。樺太?へええ……。……それに皆が日本に帰ってくるのか。そりゃそうか。…………なんだか、本当に不思議になりました。
あたしたちは八月の十五日に戦争が終わった、ということを知っていて、あるいはそう言っているんですけれど。彼はそう思ってないか、あるいはそもそもそれを知らなくて。ただ暑かったよねーたぶん、って言ってて。あたしたちの今もいつか、こうやって雑にまとめられちゃうんですかねえ?
彼は過去に居て、過去の存在として現代人から認識されていて、あるいはされていなくて……。
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。拾った、ってなんだよ……。栗じゃないんだから。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう……?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。で、よくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう、危うい感じの関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。
あたしはチクチクうに太郎さんが八八艦隊をフルコンプしたかった~とかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。こいつはただの感情の尖ったうに野郎だ、って……。うにが何か喋ってるなって。思って。思い込むことに決めてて。
今から思えば、やっぱりあたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら、負けですよね、そんなの。そんなの、それこそあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。
海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよそれは。でも、一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、それがすこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いて、そして黙って。ふねはあんなふうに生まれて、そして沈んではならない、って言いきって。でも、だから……だから、だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんな悲しみに共鳴しないで、ちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。たぶん。知らないけど。……あたしたちはこれからも、くす玉を割り続けなきゃならない?……海軍さんとは違って生きている、から?海軍さんって、もう、死んでた、死んでいるんですよね……。あれ……。過去の存在で……二〇二〇年代のものではない。ああ……そう、そうなんですよ……そう…………。
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、を一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということをたぶん理解してあげられる。理解しようとしてあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。ただの人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。歴史的な批判でも。なんかみんなかっこいい艦だよねとも。ほんとうはそれができたんですよ。……できた、できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやっとしたまま、戦争するみたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。彼にティーバッグしか施してあげられなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。
一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも戦争のことも語るすべなく、ただ一緒に生活するしかなかった。生活を。でも、生活をするという人間の……一つの当たり前の生き方が……あれが彼の滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。日本海軍が日本海軍でなかった今、日本海軍さんにとって。あたしは話ができなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
*
……ある彼岸の週末の夕方、あたしたちは、一緒に浜辺に行きました。
彼岸の日に海に行っちゃいけないってよく言うけど、あたしはもうそういうのどうでもよかったし、海軍さんを考えればむしろ積極的に近づいてみたらどうだろ、とすら思ってたんです。そもそも彼岸の向こうの存在ですよね。だから彼にも言ったんです。あの海にいたんだから、あの海から帰れるんじゃないかって。
で、実際その通りになりました。
初めて会った時と同じように海岸の石階段に座って、夕陽を眺めながら、暑いーとか焼けるーとか、そんなことをぼんやりと話してました。もうあたしたちには夏の暑さのことしか共通になりうる話題はないんだな、って思ったのを憶えてます。キョーセーレンコウのこと、なんの知識もなかったな……。レンゴウカンタイのことも。今から勉強するか、歴史を。ウィキペディアで。軍艦以外のページも見なきゃ、とか思いつつ。
……すくなくとも、今、はもう間に合わない。間に合ってない。おなじ言葉じゃ話せない。孤独とか栄光とか、彼がいちばん大事に抱えてる、よくわかんないものを。だから、いちばん語り合うべきであろう主題を夾叉するように、日焼け止めという現代の利器の話や、艦隊勤務では真っ黒になることなどを話してた。その時のことでした。
いきなり海軍さんが、後ろにいた青年に肩を叩かれたんです。優しく。いつくしむように。いままで青年の気配に気づかなかったんで、あたしたちはただ、びっくりしました。
愛宕、と海軍さんは驚き叫びました。愛宕って、え、じゅうじゅんあたご?あたしはウィキペディアで愛宕の記事を読んでました。たしか「火垂るの墓」でもでてくる級ですよね。なんか太った感じの、デッカい、強そうな艦です。そしてその艦も戦争で沈んでる……。で、そう、このその青年を確かに愛宕、と呼びました。海軍さんがもう少しがっしりしたようで、そしてもう少し幼いかんじの……そんな子でした。
彼が着ていたのは緑色の、緑と茶色の間くらいの、陸軍みたいな軍服でした。ウィキペディアの海軍の軍人さんの、遺影みたいな写真に写ってるような真っ白な軍服じゃなかったけど、初めて会った海軍さんみたいな、ボロボロな姿じゃなかった。パキッと綺麗な軍服で、これから戦場にいくというよりは華やかな社交界にでも行くかのような。沈む瞬間にも、海底、という、ひとつの海の港へと向かう時にもきっと、うつくしい艦の姿のままだったんでしょう。
「迎えに来ましたよ、父上」
「ええ?嘘だろう?」
と海軍さんは奇妙な笑いを孕んだ声で、信じられないように訊き返しました。単純、嬉しそうだった。そりゃそうだ。あたしも唐突すぎてなにもかも信じられなかった。
迎えに来た。つまり彼は彼を連れて帰ってくれるだろう、というはずの宣言でした。いやいや、オメシカンが先導したれーよ。大戦艦のだれかとかさ、とあたしは思ったものの、きゃっきゃしてる二人の仲はとても良さそうで、まあ、うん、本人たちが良いのならそれでいいんでしょう、そう思いました。
「嘘ではありませんよ。俺はふねなんだからあなたを連れて行ってあげられます」
「そりゃそうだ。助かった」
いやどんな理論だよ、あたしは思いました。まあそんなもんなのか?彼岸って?ふねってすごいんだなぁ……って思った。肩をすくめて、愛宕は言いました。
「あなたはこう、すぐに迷うからいけない」
あちらでは彼岸前に海に寄ってはいけない。迷ってしまう。あなたはふねではないのだから、と愛宕青年は呟き、じゃあ行きますよ、と言った。そしてあたしにむかって父が相迷惑をかけました、と謝りました。愛宕は海軍さんの手を引き、立たせました。
「はあ……帰れるんですか」
「みたいだ。世話になった。ほんとうにおかしな世界だった。暑いし」
と晴れ晴れしく海軍さんも言いました。もうこの世界のまとめに入ってた。めっちゃ雑~な感じに。あたしたち現代人が、現代日本人が築き上げた平和な世界は、そりゃあの時代の軍人にはおかしな世界に見えたでしょう。ささっと雑に片付けたくもなるでしょう。あたしの平和は、彼らを救わない。彼らの世界はそういう制度だった、そうあった、グンジコッカだった、そしてそのまま永遠に不変だ。それが過去ゆえに。彼らは過去にいる。永劫にいる。それが、なんだか無性に悔しかったです。平和のシソウもよくわかんないのに。
ユニクロの一九九〇円のTシャツを着た海軍さんと緑色の軍服を着た愛宕は、へっぽこな二人組のようで、おなじ空気にほどけていました。あれが過去そのものというものだったんでしょう。あたしのけっしていない場所です。
あの、あたし、……と海軍さんに声を掛けようとした瞬間、そこには、もうなにもなくて、ビーチコーミングをし損ねたような女が階段に佇んでいるだけでした。
ほんと、その時のあたしは間抜けに見えたでしょう。口をぽかんと開けて夕日を眺めてるだけの寂しい女に見えたはずです。寂しい顔をしてたと思います。もっと喜ぶべきでした。ホント。喜ぶべきだった。変な同居人がいなくなったんだ。クーラーを二十五度にできるのに。なんなら二十六度にだって。なのに……。
*
あたしは海軍さんのことを一度も海軍さんと呼び掛けたことはありませんでした。半分は彼の話を信じてないフリをしつづけてたからです。あなたとか、お前とか、ふねオタクとかカッパとかナマコ野郎とか、チクチクうに太郎、あとはただ海っちって呼んでた。
だって海軍さんに海軍さんが海軍さんだと認めて海軍さんと呼びかけたら、あたしは一体何なんですか?ただの一民間人の女になっちゃうじゃないですか。エアコンの温度は二十四度で一生固定されたままになっちゃうんです。何なら二十三度にされちゃうかも。扇風機もいつも強風になっちゃって。ダブルで稼働してて。自分だけ風に当たってて。そうやってぜんぶの権限があっちに行っちゃうでしょ。あたしは彼を日本海軍だって認めちゃいけなかった。あたしはけっして海軍さんの威信を享けてはいけなかったんです。だってここは二〇二〇年代の日本で、軍隊はもう存在しないんですから。現代人のプライドってやつだったのかもしれませんねえ……。……いや、それもどうだろ、これはあたしの言葉なのか?ほんとうにあたしが考えていることなのかな?自分の集団を根拠にしてるだけなのかな。平和ってほんとにあたしの言葉だったのかな……。
うう……。海軍さん……海……。日本、海軍さん……。海っち……ああー海っち!……ああ……あの時、あたしは、海っちを大日本帝国海軍さんって、一度でも呼んであげるべきだったんですかね……?あたしはその威信とやらを、ちゃんと肯定してあげるべきだった……?彼のうるわしき艦隊を……?…………え?引く?マジの右翼っぽい?真実に目覚めてるみたい?うるせー!だったらなんだんだよー!!そもそもンなわけないだろアホ!バカ!エロ教師!生徒の食事の誘いに軽々しく乗るな!
……………………あたしにとっては、ただの海っちだった。戦争の、グンコク主義の、侵略の道具でも、過去の存在でもなくて、ラムネの話で盛り上がる変な同居人で……。そんなのめちゃくちゃなのはわかってます。彼は大日本帝国海軍だった。彼は悪い人だった。悪人だった。彼はうるわしい艦隊とグンカンキのあざやかな赤の話しかあたしにしなかったんだもん……。真珠湾の話ばっかで、それが卑怯だったなんていっさい言わなくて、長門と陸奥と赤城と愛宕で利根で足柄で、徴傭なんて語んなかったし、いっつも自分がカッコいい話ばっかで、それが語り継がれていることが少しでもわかればバカみたいにご満悦で……めったに行きもしない本屋でNF文庫の緑の背表紙を見るのが大好きで……。でもけっして本を手には取らないで……。
……は?なんで?怖かったからだろ!自分が未来にどう評価されて褒められて貶されて裁判されてるか知るのが怖かったんですよ!!だからNF文庫に取り上げられてるような感じの、タイトルにある感じまんまの話ばかりしかしなくってさあ……。
…………え?戦争犯罪の話……?ほとんどしなかったですよ、ぜんぜんめったに、そんなの、それこそレンコウとかくらいですよ……。それも犯罪だと思ってたか謎ですよ。彼、笑ってたんですよ?楽しそうに?なおいっそう、鮮やかに?あたしはそれに、なぜか見惚れてしまっていて?このうつくしさはなんなんだ、なんてあたしには疑問を挟む余地もなかった、圧倒的で暴力的なくらいにうつくしくって、うつくしくって。……うつくしくて。あたしはそれを、知っている。あたしは、そのことを、ちゃんと知っている……。わかっている。そういうはなしばかりで彼が満ちていることを知っている。彼は未来の、今の人間にそういう愛され方ばかりを、されているということも、あたしは知っている……。この愛情には危うさがあるんだ、それはわかってます……。知ってますよ、ちゃんと、そんなこと……。
え?……酔っぱらってる?酔ってないですよ、酔ってない。酔ってるわけじゃないじゃないですか。帝国海軍の大義になんかあたしは酔ってないです、そうじゃなくて、じゃなくて、じゃなくってあたしもあの文庫本の多くの読者みたいに、表面のうつくしさを撫でていとおしむことしかできないんですよ。だって、彼、やっぱりうつくしかったんです。彼の語る大艦隊のこと、壮麗なお召艦、艦の上から見た広い海と青空のこと、なによりそれを嬉しそうに語る横顔、実際に軍服姿だった愛宕の軍服だってほんとに、……あれが思い出の話じゃなくてなんなんですか、うつくしくなくってなんなんですか、うるわしき追想ですよ。綺麗な思い出ですよ。でもあたしは知っている……。あたしが知らないことばかりだって、彼が語らなかった多くのことがあったことを知っている。やましい沈黙を知っている。……そうやって、あたしなりに時代を問うていくしかないんですかね……。あの顔を……笑顔を。うつくしさと語らなかったことを、忘れないでいたい。歴史を……彼とおなじ言葉を話すんだ……ウィキペディアで……新書で……ああ……。あー……。

あのう……ですね……。その、先生を、先生を今日、お呼びしたのは、というか、ごはんに誘ったのは、中学校時代の教師である先生を食事に誘ったのには、ほんとうに……別に深い意味はないんですからね。ほんと。いやそれなりの意味はあるんですけど、学生時代にあたしとセンセはそれなりに交流はあったし、その延長上に今日のこのごはん会があるだけですからね。……え?いや、会社じゃあちゃんと「わたし」って言ってますよう。大学卒業のときに、自分で自分を名前呼びするのだってやめましたからぁ。そうじゃなくって……日々の反省会をしたいんじゃなくってですねぇ……。え、ああ、あはは、先生にはよく廊下に立たされそうになりましたよね。授業中騒いで。携帯も何度も没収されたし。あの時代ってまだガラケーだったんだよねえ。いやあ、すべてが懐かしすぎる……平成って、一体なんだったんだろね……。
まあ、でもセンセはアホだから……いやアホってそういう意味じゃなくって!!おおらかで優しめ人のことを、あたしはそうやって表現しているだけなんですよお!だから、先生はあほうだから、おおらかだから、すべてに緩くて、優しいから、だから突拍子もないことも話せるんですけど。そうだよ、本題だよ。今から本題言うよ。ほんとうに、ほんとうにびっくりしないでほしいんですけれど、……だから、……。あのう……先生は、………………日本海軍って……どう……思いますか?
……え?いや、入らないです、海上自衛隊には入らないです。日本海軍ですって。昔のですよ。うよく……え?右翼?っていうのでもないです、たぶん……。いや目覚めてもないです、目覚めるって、何に?真実ぅ?……え?かんこれ……?かん?たいこれくしょ……いや……いえ、いや、いやいやそうじゃなくってですねぇ。
…………拾った、んですよね……。……え?何を?え、いや、日本海軍を……。日本海軍さんを、拾ったという話なんですけど……。
え?いや、大丈夫、大丈夫です!わかってます!引かないでください!!おかしいですよね!!正確に言えば、日本海軍を名乗る男を拾っただけなんで!あとその男も、もう家に居ないんで!大丈夫です!ええ、ええ、うん、たぶんそう、先生も昔、歴史の授業なんかで言ってた、集団の象徴みたいなものだと思う。軍だから軍象、なんでしょうか。いますよね。たしかにいるってセンセも言ってましたよね。実際いるんです、彼らは。密かにいる。ただそれが、今が現代で、彼が日本海軍であることが問題だっただけで……。海上自衛隊だったら問題なかったんだ。……いや、問題なかったのかな……。海上自衛隊さんが、落ちている……?まあどっちみち、拾った男が日本海軍を名乗ってました。マ~ジでびっくりしたね。
……は?グンコク主義の復活?ぐんかのおと?いや、そぉんな大それたものでもない気がしますねえ。だいたい復活だというのなら、もう居ませんよ。グンコクすぐ滅んじゃった。海軍さんを拾ったけど、帰りました。どこに帰ったのかわかんない。消えただけなのかも、今度はほんとうに消えたってことなのかなあ?
……拾ったのは一ヵ月前と少し前のはなしです。二日前に消えました。お盆に消えちゃった。
あたしは地元の……そー鎌倉。その浜辺でビーチコーミングしてたんだけど……え?今そんな名前になってる。砂浜で貝を集めることが。カッコいいっしょ。だから、それをしていた、ビーチをコーミングしてたんです。だんだん陽も陰ってきて、海も貝もぼんやり見えなくなりそうで、寂しい浜辺になり始めて、まあ今日はお開きっすわ~魚介類ども今日はこれで勘弁したるわ、なーんて帰ろうとしていたタイミングで、すこしとおく、それでも目に見えるくらいの距離に男の人が立ってるのを見つけたんです。
一言、ヤバかった。超不審者だった。というのもボロボロの洋服を着ている男の人だったんで。……なんで彼、軍服じゃなかったんだろ。……え?第二、復員省?……ふーん、まあいいです、あたしにとってはただの海軍さんなので。
まあ、ちょっとした緊張感を持ちつつ、遠回りをして帰ろうとしていた時に、その男があたしを見つけたんでしょう、ものすごい勢いでこちらに走ってきました。ええ、死を覚悟しましたね……。あ、ヤバ、みたいな。じゃ、あたし死にますわ、っていう……。そしてその男にものすごい勢いで肩を掴まれ、男は一言言いました。正確には聞いてきました。
「おい、ここはどこだ」
「ひッ……」
この状況じゃ答えられないですよね。悲鳴を上げそうになりました。というか実際ちょっと上げてた。ハイ……。
その男のひとはボロボロの服を着て、あたしに縋るように肩を抱いて、もう一度ここはどこなのか、を問いました。怖かったけど、その目には哀れなくらいの必死さがあった。誰かに捨てられてしまったかのような戸惑いがそこにありました。
あたしはそこでやっと、相手があたしとおなじ人間のように思えました。おなじ人間なんかじゃなかったのにね。でもあたしは、今度はちゃんと返事ができました。
「か、かまくら……」
「鎌倉?」
呆けたように何回か繰り返して、さっきの勢いはどこへやら、小さな声であたしにまた尋ねました。「にほんはどうなった」。
は?日本?こーんな感じにこうなっているけど……という思いすらもなく、あたしは、今のあたしがどうなっているのかもわからないまま震えていました。それはその男の人もおなじでした。あとから聞いたんですけど、彼、その時は「復活」した直後で意識が朦朧としてて、日本がどうなったのか、思い出せなかったらしいです。負けたってこと、ちゃんと知ってたはずなのにね。
その男の人はそのまま、にほんは、とかふねがもう、とかぶつぶつ言ってました。
よくよくその男の人の顔を見てみると、あたしより数歳年下にすら見えました。身長はでかかったし、妙な威圧感があったし、勢いよく走ってきたんで気づかなかったんですけど。呟く彼は雨に濡れて汚れた大型犬みたいで、主人をなくしてしょげたままのわんちゃんみたいで、なんか無性に可哀そうになったんですよね。
「あのう……大丈夫ですかあ」
「いや……ああ……。大丈夫なのか……。わからん……。なぜ俺は鎌倉なんぞに」
「ビーチコーミングとかしてたんじゃないんですか?」
「び……?」
そんな会話をしながら、そのまま海岸の石階段で、夕陽が海に落ちるさまをいっしょに見て日本の斜陽から敗戦に至るまでの話をしてました。というか、一方的にされました。彼はなんとなく自分を思い出し始めていて、自分が日本海軍の依り代であること、戦争に負けたこと、敗戦後にしばらくこの世にとどまっていたこと、その後はよくわからないことをただ喋ってました。なんだっけ……水が足りないって暗号、とか言ってた……あ、そうそう、それ、ミッドウェー海戦では暗号がばれたのではないか、とか、そんなようなことを占領軍のアメリカ人が言ってた、とか、その悔しさとか、軍艦がたくさんあったこととか、それがなくなってしまったこととか、香港?マカオ?あ、上海だったかな?どっか中国の戦争かなんかの話をしてました。
彼がそういう、なんというか自分が惨めな話を真っ向からあたしにしたのは、その時が最初で最後だったように思います。たぶん、混乱してたんだと思います。
そこで気づいたんですけど、昔の戦争のことであたしが知ってるのって、戦争後すぐで記憶が止まってる彼よりも少なかったんですよね。ミッドウェーってどこだよ、って。彼がいなくなってからGoogleマップみたけど。遠ッ!ってかんじで。どこの海だよって。そんな遠くまで行ってたんだって。びっくりしちゃった。
海戦で勝ってとても嬉しかったけど好きだったふねと乗っていた人間がたくさん沈んじゃった~って言ってるときと、炭鉱は働くのが特に大変だったからチョウセンジンをいっぱい連れてきたんだよなあって言うときの彼のちいさな笑顔を覚えてます。さっと鮮やかで、ほんと、サッカーでゴールを決めた高校選手が謙虚に喜びを滲ませてるみたいな自然な感じの笑みで……。あれが時代の顔というものなのか、戦争の時代というものなのかなんですかね。わかんない。あたし、ただの会社員なんです。特にシュレッダー業務が好きです。とても楽だし。ボタン一つ押すだけでぜんぶ終わるし……。
*
日本海軍、軍隊、軍人を名乗るのに反して、彼はしごくまともそうでした。いや、まともそう、って言いかためちゃくちゃ失礼ですね。
でもなんか、その日本軍って名乗りを聞けば「そこの下女……」みたいな語りかけや吐き捨てをしてきそうな感じがあるじゃないですか。え?帝国海軍はスマート?そうだったのかー……。…………それ、ホントに?はー……。ええー?うーん、……まあいいや、まあ、そのスマートな彼は洋服がぼろぼろなこと以外はまともでした。あたしたちはまともに会話をできていたと思います。ちゃんと。いままでしたこともない戦争の話が話題だったということを除けばだけど……。
そして結局、あたしは彼が日本海軍の軍象だということを受けいれました。そうなったら今度は彼をどうするかというはなしになりますよね。変な不審者ではないこと、また今が現代であること、この二つを考えると彼は今とても不憫だ、ということになっちゃうじゃないですか。さりげなくその場を立ち去れればよかったし、そうするのが当たり前だったんでしょうけど、さりげなさを装うには戦争の話を語り合いすぎたし、なんならあたしは話の途中でつい「え、じゃあもう帰る場所ないじゃん!」なんて指摘しちゃってたしそれに素直に海軍さんはしょげてた。もう不自然だよね、一人で去るにはね。だからまあ、……家に連れて、帰ったよね。
この状況はよくない、非常によろしくない、相手が海軍さんだとしても……え?海軍さんだからこそまずい?いやどっちにしろまずかった。とりあえず着替えと風呂だったから、さらにまずった。今は関西に居て、昔同居していた兄の服はまだ取ってあったから、それを入浴後に着せました。Tシャツは胸に英語でGood Times Start Nowって書いてあってちょっと笑っちゃったんだけど、昔の人だから英語は読めないだろ、と思って油断してたら「一体なにが始まるんだろうな……」って海軍さんが呟いちゃって、笑いと申し訳なさの感情の観覧車に……え?海軍は英語が得意?なんで?戦争で英語は使っちゃだめだったんじゃないの?ふうん……。あの時だけは、互いに二十代の若者の会話で、なんだかそれが面白くって、あとから思えばただただ空恐ろしかった。
日本海軍の象徴は現代に生まれればあんななんだ、とか。今の海上自衛隊の象徴はあんななんだろうかとか。両者はどう違うのだろうかとか。時代ってなんだろうとか。時代の顔、が……。なんか、もし戦争がなかったら、っていう言葉、よく夏にNHKとかで流れてる番組のとは違う……あの番組に出ている人たちの言葉とは違う……あれが自分のことのように、ってやつなんだろうか、感じてしまった。そう、もしあの時代に戦争がなかったら、何か、彼にとっていい時代が、その時に始まっていたんだろうか。ってあたし、なんともいえない感じに、もやもやしちゃって。
えっ?ああ……戦争が無くても植民地というものがあった……?グンジコッカのタイセイ?テイコクシュギ?ああ、そっか……?でも、正直言うとあたし、そういうのにぜんぶ疎かった。ガラケーの前の時代って未知の歴史なんだよね。ぜんぶが石器時代っていうか。日本史の先生のセンセは今、連立方程式を解けますか?あたし、昔は得意だったのにもう解けないよ。あたしにとって、数学と歴史はひとしいんだ。計算なんてハガキの不備が合計百四十九件あるときにしか使わないし、その計算だって電卓でやる。日本史の戦争も植民地?も、そういう意味じゃあたしにとって夏の夜の暇つぶしになるだけかもしれない。テレビ番組にはなれる。けど、少なくとも仕事じゃ使えない。使わない知識だった。少なくともあの浜辺に行くまでは、そうでした。
センセはそうゆうのムカつく?悲しい?……そっかー。日本史の先生だもんね。てか先生は日本史ってか、歴史が好きなの?歴史の何が好きなの?海軍さんがよく言ってたみたいな、伊四百が開発できたこと?それとも、本に書いてあったみたいに、ダイハツだっけ?……に、それに助けてーって縋った兵士さんたちが、そんまま仲間に腕を切り落とされちゃったとか、そういうお話が好きなの?あー、あはは。……そうだよね、んなわけないよねー。わかってるわかってる。ごめん、殴んな殴んな!殴んなってー!あはは、はは……。……なんかね、海軍さんがいた時、彼が見てないところで本を一冊読んだんだけど、難しくて、ぜんぜんわかんなかったよね。彼がいた世界ってどんなだったんだろ、……今も分かんない。ダイハツって何?車?……センセはなにが好きなんだっけ。好きじゃない?大人としてのギム感?はあ……そうなんだ。
で、とりあえずその日はそのまま寝ました。兄と二人暮らしだった時期があるので部屋だけは多くて無駄に広くて、それだけが救いでしたね。それでもやっぱ、無警戒過ぎたと自己嫌悪に陥って、で、そのまま無警戒に寝ました。
男の人というか、軍人というか軍隊というか、男の人だったので、もっと警戒すべきだったのでしょうが、何もなかった。一貫してなにもなかったです。たぶん、何かしたらまずいという意識が彼にはちゃんとあったのでしょう。だって、彼がいるのは二〇二〇年代の日本で、戦前の日本じゃないんですから。何かをできる権限は、誰にも保証されてなかったんだからさ。
*
海軍さんは次の日の朝も普通にあたしの家にいて、当たり前のように、そこに存在してました。あたしもあーあどうしよ……ってかんじだったけど、一番困惑してたのは海軍さん自身だったみたいでした。そりゃそうだ。今、二〇二〇年代なんだよ?海軍さんがほんとに生きてたら何歳だよ。海軍がなくなって今何年目?戦争の後、に、なくなった……んですよねえ。たぶん……。ん?戦争って何年に終わったっけ。ああ、一九四五年ですよね。いつも忘れるねえ。それじゃ、八〇年後になっちゃうよ。それもそうだし、そもそもなんで自分が今生きていて……生きていたのだろうか、あれは。あれは生きてたのかなぁ。まあ、生きてたってことにして、なんでまた生きてるんだろう、って話ですよ。あれ。……あれは……あれはやっぱりあたしの幻覚だったんだろうか……。ぜんぶ……。
……彼は顔を蒼く染め、というか吐き気を堪えてる感すらありながら「こんなことは初めてだ、経験が無かった」と言いました。そらそうだ、とあたしは思いました。こんなこと、彼ら依り代たちに何度もあったらそりゃ大変でしょ。本人も周りの人間も。面倒だよ。
とりあえずあたしは会社に行くから、と言って、あたしは逃げるように我が家を去りました。夢か幻覚なら帰宅後にはちゃんと消えているでしょう。正直まあ、それに賭けましたよね。でも出勤してシュレッダーをしてても、入力業務をしてても、仕分けをしてても、頭から日本海軍さんのことが消えずに……いや、やばい女ですよね?わかってますって!日本海軍かその幻覚かわからないものにとりつかれている女なんて!!
で、結果ですが帰宅後、その日本海軍さんはやはり家にいました。しかも電気をちゃんとつけて待ってました。昔の人なのに電気のつけ方、ちゃんとわかるんですね。へ?戦前にも電気はあった?いやそれはそうですけどスイッチの形とか……え?ほとんど一緒?そうだったんだあ……。しかもクーラーまでばっちりつけてて……え?軍艦にも船にもクーラーがあった?戦前ですよ?マジで?そっかあ……。もう驚いたら、負けですよね。海軍さんの存在以上にびっくりすることでもないですもんね。……実は戦前って、すごいんだなあ……。
まあ、そのクーラーが二十四度に設定されていることに若干イラっとしながら、彼もごはんを食べるのか不安になったので、「ごはん食べる?」と聞いてみました。あと「あなたいつ帰れるの?」とも聞いてみました。海軍さんはキョドり気味で、後から聞いたら若い女にはじめてそんなタメ口を利かれたことが原因だったようですが、そんなの知りません。この家の家主はあたしです。彼は前者に配してはイエス、後者はわからん、との御回答をあたしに賜りました。
さっき言ったように、「これだから女は……」とか言ってきそうな先入観すらあった軍隊である海軍さんは、一貫してこちらに謙虚というか、無関心というか、不干渉というか……でした。たぶん、追い出されるという心配もあったでしょう。この世が二〇二〇年代だということはすでに伝えてありました。今の海軍さんに権力が無いこともわかってたはずです。この家とこの世で権力があるのはむしろあたしのほうだということがわかってた。たぶん、いつもそういうことにいつも敏感に生きてたんじゃないかなあ。軍隊だもんね。でもこんな女に負けるとは、みたいなものもなかったです。ほんと、不干渉でした。うん、たぶん、怖かったんじゃないかと思います。ウケますよね。日本海軍は自身の権力のない世界に放られて、ただ、ぼうせんとしてたんじゃあないか。……そんなの、戦争に負けた時にとうに経験してたはずなのに。
でも、呆然としていながらも、どこか穏やかにみえました。あれなんですかね、戦争中は人間とかバンバン殴ってたんですかね?テイコクシュギシャですもんね?でも、そういうそぶりがなかった。きっと権力がなくなったけど、義務とか使命感とか、やらなきゃいけないこともなくなったんでしょうね。あれが、自由ってやつだったのかなぁ……。いや、やっぱ呆けてただけなのかな?アイデンティティが、ぽっかり抜けちゃって。戦争ないし。することもなかった。……彼がここにいる意味がなかったんですから。
海軍さんはあたしが作ったスパゲッティを無言で喫しておりました。あたしも無言で食べましたよ。なんか、空気が重かったです。お互いの緊張感が漂っていて……。スパゲッティのいちばんの調味料はピリッとした空気で……。とはいえ、海軍さんは昨日の晩から何も食べていなかったので、心なしか嬉しそうでした。尻尾あったら振ってたんじゃないかな。その日に限って冷蔵庫にまともなものがなくって。あたしが買って帰るまで。そこは申し訳なかったと思います。まあそんなのあたしの責任じゃないんだけど……。
あたしは、毎日会社へ行き、シュレッダーをしてハガキの計算をなどをして帰宅して、まだ海軍さんが家にいると電気の明かりでわかると毎回げんなりしつつ、日々を過ごしました。一度、炭酸ジュースをあげたら、嬉しそうにラムネの話をされて……。ラムネジュースって海軍にもあるんですね。というか戦前にもあったんだあ、ってびっくりしました。……へ~!?ふねの中にもあった?知らなかった……。そんなことまであの人、言ってなかったけど……。「人間とよく飲んだ。こんなに甘くなかったし炭酸も強くなかったが……。この時代の飲み物はよくできているんだなあ」とかなんとか言って、普通~に飲んでましたね……。ほんとに普通でした。ごちそうさまでした、とてもおいしかったよ!ありがとね!のあたしへの社交辞令みすらあった。炭酸が強いならもっと驚くとかさ、あるだろ!飛び上がってびっくりするとかしてほしかったよ、見たかったなぁ……。過去からタイムトリップ?してきたんだからさ……お決まりのさ……サービスしてよ……とか思いました。あれ、そもそもタイムトリップだったのかな。むしろわくわくお彼岸イベント?
*
……あ、そうそう、自分のふねの話を、出会った浜辺でしていたことを覚えてます。いろんな名前を言ってました。大事な宝物の話をしてるみたいに、ぽろぽろと、自分の持ってる宝石かお気に入りのどんぐりかビーチコーミングで拾った綺麗な貝殻の話をするみたいに一つ一つ呼んでました。あたしが唯一最初から知ってた戦艦大和の名前は一度も出てこなかったこと、なんでか憶えてます。
彼のいとし子のふねの名前、ぜんぜんわかりませんでした。ウィキペディアで検索して見てたんですけど、まー軍艦っていっぱいいるんですねー、みたいな。白黒写真だとどれも一緒に見えて……それに、ぜんぶまるで遺影みたいだった。白黒で、画質もどれも荒くて……。ぜんぶもう亡くなってて……。名前も漢字二文字が多くて。山と川と土地の名前が多いの、ウケますよね。それ日本人の苗字と一緒じゃんって。日本人の名前に対する感性ってどれも一緒なのかなあ……。よくわかんないけど農耕民族?ってやつだもんね。それがふねに対しても一緒なんだと思うと面白かったです。魚とか貝の名前とかじゃないんだって。船って海の生き物なのに。あ、でも海軍さんにとっては、……海軍の人間にとっては、ふねも陸の生き物だったのかなぁ。俺たち仲間!っつー。まあ、そのだいたい二文字で、音が四文字だったり二文字だったり三文字だったりするそのふねの名前を、彼は熱心に熱心に呼んでました。陸奥とか高雄とか、赤城とか……。空母とか戦艦とか……駆逐艦とか……。その強さとか。粋なところとか。好きポイントとか。ベラベラ喋ってました。
ある時、海軍さんにウィキペディアを読ませたほうが良いのかな、って悩んだんですけど、結局あたしは見せませんでした。インターネット世代じゃないし、いろんなものに耐性なさそうだし……。むしろはまっちゃって、スマホ買って、とかねだられても嫌だし。YouTubeとかずっと見てたらどうしよって。日本海軍が……。
それに、自分と自分の好きなふねの最後のことをGoogleとかウィキペディアとかで知るのってどうなんだろ、って思っちゃって。隼鷹とか、さいご、解体されて、そのこと、あの人知ってたんだろうか、って。思っちゃって……。だって、インターネットであんな無神経で無頓着な言葉で語られて、ネガティブな言葉と一緒に検索すればいくらでも検索結果がネガティブになってって……。ネガティブに語られて……。嗤われて、罵られてて、変な賞賛のされ方とかされてて……。日本軍のサイキョーの戦艦、とか。ダサいですよね。あんな雑な言葉で、彼は、自分のいとし子を語ってなかった。それなりの、自分自身の考えを根拠にして、そこからちゃんと出発して話してた。他人の強さを笠に着たり、自分の属する集団を根拠にしてなくて……。それが良いことなのか、それこそが悪いことだったのかわかんないけど。これ、海軍さんをほめ過ぎなのかなあ。でも、やっぱ、インターネットの言葉なんかでね、知ったってね、って……。まあ、あたしもインターネットで知ったんだけどさ。それをまた優しく言い直して、無難に伝え直してあげればよかったんだろか。でも、どうやって?そもそもなんで、とも思う。そんなのあたしの義務じゃないし。
……海軍さんだってね、武蔵ってすぐ沈んじゃったよねーあははー馬ー鹿じゃないのーとかどっかで笑われてる、って知っても、確かに馬鹿だったよなあ、俺はほんとうに馬鹿だった、って一緒に笑うかもしんないよね。無邪気に。晴れ晴れと。悔いなきみたいに。彼ってそういうとこあったと思う。……長門の最期だってもしかしたら彼は、前は知ってたかもしれないけど、今は覚えてないようでした。だって戦艦長門を呼ぶその声に、陰りはなかったから。そこにネガティブさなんかなかった。…………それともぜんぶ知ってて、だからこそあえて明るい声で長門の名誉の話だけを語ってたんだろか。それが彼のできる、娘への唯一の愛情表現だったのかなぁ。
海軍さん自身は気にならないのか、長門の最期とか隼鷹の行方とか、日本はどうなったとか、負けたあとの長い長い八〇年間が気にならないのかなって、最初は思ってましたけど、やっぱ、うん。怖かったんでしょう。あたしに聞いてきませんでした。だって聞いたら、今度は返ってきた答えを聞くことになっちゃうもんね。日本海軍のサイキョーの戦艦の、無残な最後とかを。
彼は軍艦のいい思い出だけを喋ってて、だいたい海にふねがいっぱいあったこととか、軍艦がいっぱいあったカンカンシキのこととかの話で、ロシアとの戦争とか、時々イギリスとかドイツに行った時の話、あとうるわしきオメシカンの話だった。それに真珠湾の作戦を喋るくらいで、いっつも戦争の話は、だいたいはそれで終わってた。
え?ああ……そうですよね、それってマジのマジでアメリカとの戦争のはじめの話ですよね。あと中国とかないですよね。たぶん、自分が好きな勝ち戦の話しかしたくなかったんだなあって……いやそりゃそうだけど……それが男ってもんなんですかね?それが軍隊?
だから駄目なんだろお前、ちゃんと反省点も述べろよ、って社会人経験数年の女のあたしが思っちゃったんですけど、それウケるんですけど、超ウケるんですけど、でも……なんだろ……。かれがかれのうつくしい思い出を語るときの、あのうつくしい横顔が、いっとううつくしくて、今もどうしても、そのうつくしさが忘れらんない。…………ああ、危ういですか。ですよねえ。これがグンジコッカのタイセイってやつですか。グンコク主義ですか、ですかねえ。だって、あの人、炭鉱のキョウセイレンコウの話をするときもおなじ顔、しますもんね。
*
海軍さんは基本的に遠出をすることもなく、近所をうろうろするか、だいたいは家でぼんやりしてたみたいです。知らないけど。あたしが知ってる限りはそうだった。
ぶっちゃけあたしのいない時に赤の他人に家を任せるの、不安感ありありだったけど。まあ、そういうのホントぜんぶ諦めてました。拾っちゃったのはあたしなんで……。
あたしは海軍さんを家に迎えて、なんというか、今までの人生になかったものが自分のなかにできた気がしました。……いやそりゃ当たり前なんだけどね?あたしよりちょっと下に見える、あたしより何十歳も上の、今は生きてるのか死んでるのかもわかんない人間じゃない人間なんて。近くにいたら驚きでしょ。それが毎日家で待ってるんだよ?何なんだよ……。あたしが一体何したんだよって。
あたしは家を出て、毎日横浜経由で東京まで仕事に行くんですけど、ある日早上がりしたその帰りに紀伊國屋に寄ったんです。ファッション誌が欲しかったし、あともしかしたら上手く軍象さんを返す方法がわかる本もあるかもしれなかったし……。帰すってどこへ?ってかんじだけど。天国?地獄?成仏か?
一階で雑誌を買って、とりあえず二階に行ってみたけど、結局返し方とかそういう以前に依り代の本が無かった。まあそうかーと思ってぼんやり棚を見つめてたんですけど、ふと日本軍の本を見つけました。細長いサイズ……新書?それ、それが安かったんで。それを買ったんです。白と濃い緑色の。かっこいいかんじのやつ。頭良さそうな本でした。
買ったの、特に理由はありませんでした。うーん、なんていうか……彼の話してることってどこまで信用していいか、わかんなかったんですよね。まあ戦争の話自体はそれでいいんですけど、もしかして、この今に今いることや、その理由が実は分かってたり、何か隠しごとをしてたり、……目的があったり……そういうのがあっても、おかしくはないんじゃないか……という疑いがあって。
結局そんなことは一切なかったみたいで、彼はただただ困惑してただけだったみたいなんですけど。戦争の本や海軍さんの本を読めば何かわかるんじゃないか、ヒントがあるんじゃないか、と思って。…………その本を帰りの電車で読んでたんだけど、知らない単語と難しい漢字が多すぎちゃって、わかるの、ぜんぶ諦めちゃった。
なんだっけ。動けなくなっちゃって自殺しちゃった兵隊さんとか、動けなくなったって仲間に殺されちゃった兵隊さんとか。安楽死……処置だっけ?生きたまま捕まるなとか、……人の肉とか……食べ、て、たり、うーん、……中国の人を刺してたりとか、やっぱ彼あんま喋ってない、喋らないんですよね。まあ喋られてもおう……ってなるんだけどさ。……いや、あれは陸軍の話なんだけどね。
でもたぶん、彼も似たような立場ではあったはずで。だから、彼、あたしがちゃんと聞けば、もしかしたら話したかもしんない。さらっとね。当たり前っぽく。初めて会った砂浜の時みたいに。……むしろ、聞いてあげればよかったのかなぁ?あたしはちゃんと聞いてあげるべきだった?彼の……彼の、彼だけの話を……彼の……。……どう、なんだろう。どうだったんだろう。うん。うん……。はあ…………。
……いや、……やっぱ嫌な出会いだったよなあ、ホント……。マリアナがどうーとかエンガノがーとかなんとか身振り手振りで必死に言ってて……。軍事的失敗をあたしに細かく語ってて。顔も知らないあたしに意味不明な弁解じみたこと言ってて。俺も奮闘したんだよーとか。なのに上手くいかなかったそんときの悔しさとか。自分の後悔とか。失敗とか。戦艦比叡がって。比叡が沈んじゃったけどーとか。あいつのオメシカン姿は最高だったーって。美しかった、って。麗しかったって。素晴らしかった。とても素晴らしかった。素晴らしかったのに、って呟いて。頷いて、黙って。そして鮮やかに。魚の骨を箸で抜くみたいに、さっと。綺麗に。炭鉱が大変だったけど、って……。
……あの笑顔のうちに、なにかいろんなものを抱えてたのかなあ……。
と、か、ぼんやりと考えて、鎌倉駅に降りてとぼとぼ帰宅しました。なんか、どんな顔して彼に会えばいいか分かんなかった。正直、わからないなりにショックなのはありました。寒かった。手が冷たかった。何十年も前にあったことなのにね。あたしが生まれる前からあったことなのに。なにか多くのものを抱えた得体のしれない存在と住む家に帰る、って……。それはどういうことなんだ、って。ぐるぐる考えてた。部屋が二十五度か二十六度だったら有難いって、もういっそクーラーなんかいらないかもって、今はいらないやって正直に思った。冷たい汗をじっとりかいてた。
帰宅したらぼんやりとした笑顔で海軍さんが迎えてくれました。「とても暇だった。だからカレーを作ったんだ。今の道具と材料は特殊でよく理解できなかったが……口に合えばいいんだが」とか言ってて。カレー作ってくれてて。笑顔で。空調はやっぱ二十四度で。扇風機も出してて。勝手に。押入れから。それに海軍さんが作ったマジもんの海軍カレーじゃん。遺産かよって。超ウケたんですけど。ただのヒモみたいだなって正直思った。
*
うろうろする近所といえば、海軍さんだからなのか、あたしが仕事をしている日中、例の海岸に行くことが時々あったみたいでした。海見てた。なんかいっつも鎌倉の海を見てたみたいで……。海軍って言ったら横須賀だし、船といったら横浜なので、なんでか申し訳なくなっちゃったんですよね。鎌倉の海ってサーファーとかばっかだもんね。
で、お盆に連休が取れないあたしは、そのすこし前に休みが連日取れたので、暇だったので、海軍さんに横須賀に行かないか、と誘ってみました。たいした他意はなくて、まあ、この第二の人生?がこんな感じでそのままマンネリで終わったらカワイソだな、という気持ちからで、ほんと他意はないです。ふねがいっぱいいるから、横須賀に見に行かないか、とあたしは誘いました。
海軍さんは横浜に行きたい、と言いました。
「横浜?横須賀じゃなくてですか。軍艦いっぱいいますよ、たぶん」
「だからだよ。他人の艦隊を見ると苦しくなるから。もう俺が持っていないものだ」
「ふーん」
そうお、じゃあなら、いいけどお……。という話になって、あたしたちは横浜に行きました。……それも怖かった、んですよね。それを理解してあげられなかった。ま、そんなのあたしの責任じゃないんだけども。義務でもないし。なりません、なりませんよ、海軍と共犯になんかなりません。彼の孤独は彼だけのものです。あたしはそんなの担いません。
横浜に行ったは良かったんですけど、結局、海はそんなに見ませんでした。というか、たいしたところには行かなかったです。神奈川県立歴史博物館とか行ったら、ぜったい面白かったんじゃないかな、って思ったんだけど。海軍さん、行きたがらなかったんで。怖かったのかな。それも。そりゃあ横浜の変わりようにはある程度驚いていたし、でもそれを言うなら鎌倉もいっしょですもんね。なんならホテルニューグランドがまだあそこにあることのほうがびっくりだったみたいでした。かわんねーじゃん!って。だからこう……ごはんを食べたくらいで。ごはんを。横浜で。横浜のジョナサンで。海軍さんと。なんだ。デートか。それ。危ういだろ。海軍さん、配膳してくれるネコのロボットに完全に失笑してましたよ。だから驚いてくれってば!未来の技術というものに!ただ、セルフレジとタッチパネルの注文には感心してました。人間の配置にはいつも悩まされるんだ、こんな感じに戦艦を動かしたい、機関室の奴らには楽をさせてやりたい、とか言ってて……。まあそんな感じでしたね……。なんで?もっと船と海を見て狂喜するとかそんなのないんか、と思っちゃいました。なんであたしが横浜に誘ったと思ってるんだ。ジョナサンに来るためじゃないんですけど。ネコじゃないよ。船だよ。船いっぱいいるし。ごらんよ海軍、これが船だよ、みたいな。君のなくしたふねなんだよ……とか思ってましたけど、まあ海軍のふねって灰色で、それこそやっぱり見るなら横須賀ですよね。横浜は、遊覧船とか、あの、軍に関係ない可愛めの船ばかりで……。
え?戦争になるとチョウヨウされるかも?チョウヨウってなんですか?へえ……ああ……軍隊が持ってっちゃうんだ。徴傭っていうのか。えー沈んじゃうの?それって借りパクじゃん?あーやっぱそうなんだ……でも、ちっちゃい船ばっかですよ?観光客しか乗れませんよ。あんなの。兵器載らないでしょ。それでも?昔はされてた。はあ……やっぱり戦争って怖いんですねえ……。
あ、だけど氷川丸の話には、妙に食いついてました。うっそ!?氷川丸ゥ!?みたいな……。アイツってまだ生きてんの!?ってびっくりして笑ってました。横浜にあるデッカイ船ですよね。今はどこにも行かないやつ。客船?カキャクセン?なんで興味あったのかは知らないけど。横浜ではでっかい船のほうだからかなぁ……。あれって乗れるんですよ行きますか、って聞いたんですけど、毛を毟られるだろうから嫌とかなんとか言って断られました。え?海軍が戦争で徴傭してた?病院船?そーお。顔見知りってこと?じゃあ仲が悪かったのかなあ……。海軍さんにパクられそうになって。誘拐?
大さん橋には飛鳥Ⅱがとまってて、飛鳥Ⅱの名前を聞いて海軍さんはめちゃくちゃ笑ってました。丸シップの伝統潰えたり、みたいなことを言ってゲラゲラ笑ってた気がします。え?海軍が言うと不謹慎?いやあの人、いっつも不謹慎でしたよ。それはちゃんと知ってます。ただ家主のあたしにはあまり不謹慎ジョークを言わないように気をつけていただけで……。
Ⅱであり、丸がつかないことがやっぱり面白かったみたいですね。船名めちゃくちゃや、みたいな。海上自衛隊の艦たちの名前が、日本海軍から引き継がれてること言ったら喜ぶのかなあ、とか一瞬考えましたけど、たぶんそれがぜんぶひらがなだってこと知ったらへこむんだろなって。ひらがなって何だか妙に可愛いじゃん、ってなるよね。まや、とか。女の子の名前か。だからやめました。
海軍さんはしげしげと飛鳥Ⅱを見つめてました。よく話を聞いてみたら、飛鳥Ⅱを持ってる会社は、海軍さんが生きてた時代にもあったみたいなんですね。よく知らないけど長寿ですよねぇ。船の赤い二本の線は、その会社のファンネルマークって言うんだ、と教えてくれました。あれ、氷川丸にもありますよね。……ああ、やっぱおなじ会社なんだ。へえ。ニッポンユウセン。だからかあ……。
今の貨客船は変な形だ、とか、ユーセンがあんな奇抜な船を造る時代なのか、とかあれにどうやって貨物を載せるんだろう、とか一人唸ってましたね。あと「いざという時、あれじゃ困るな……」とかなんとか深刻に悩んでるみたいでした。なんでだろ……いざという時って何、いつのこと?
……え?あ、徴傭?あー!ああ……。なるほどね。海軍さん、たぶんそれ考えてたんだ。あの船、他人の物なのに。はあ、他人の物だからこそ徴傭なのか。しれっと人様からパクるってわけね。ヤラシー。……絹とか手紙とか石炭とか、でりっく?が、とか何とかって熱心に言ってましたけど、今はたぶん載せないですよね。石炭なんて……。昔は載せてた?カモツセン?カキャクセンのカ?ああ、貨物の貨、に、客船なのか……。貨、客船か。だから今はただの客船なんですね。ふうん、教えてあげたかったなぁ……。あの人、ふねには異常に熱心なんだなって、目の前にして知りました。ほぼ船のオタクだったもんね。あれ人の物なのに……。
あたしたちは遠目に見える第二飛鳥丸の話をしつつ、横浜の日はどんどん傾いていきました。横浜の海はたくさんの小船がちらちら行き来してて可愛い。海軍さんがあの船は良いあの船はだめって言ってたけど、あれかっこいいとか可愛いとか好き嫌いとかじゃなくて、徴傭できるかどうかの判定だったんだね。知らなかった。あたしも無邪気にあれはどうですか、あれとかいいんじゃないんっすかぁ、あなたおっきい船好きでしょ、とか聞いちゃってたな。ただの船の好みだと思って……。いや、ある意味アレも好みなんだろうけど。俺おっきい船好きだよ!ってその時海軍さんも言ってたし。
きりのいいところでさーて帰るかーなどとぼやいて……いや日帰りです。泊まってどうするんですか。横浜と鎌倉なんですよ?すぐ帰れるのに二部屋も取るわけないじゃないですか。お金、ぜんぶあたし持ちですから……。
で、……まあ、……飛鳥Ⅱが、ちょうど出航するみたいでした。わーわーいう声が遠くからでも聞こえてきました。見送りと見送られです。そして船が海をゆくんです。
「あ、船行っちゃいますね。どこ行くんだろ。いいなあ~。あたしも船で外国の海に行ってみたいな」
「……」
黙ってた海軍さんをちらっと横見すると、彼は何かを堪えるように、そして食い入るように飛鳥Ⅱの姿を見つめてました。飛鳥Ⅱはゆっくりゆっくりと大さん橋を離れて、じわじわと出航していきました。楽しそうに見送られて、海に出て行った。それを呆けたように見つめる海軍さんが……なんといえばいいんだろう……そう、哀れで。哀れだ。哀れだって、思って、しまった。あたしは無性に悲しかった。彼の孤独は彼だけのものなのに。彼……きっと、さいごには港から送り出すふねも持ってなかったんでしょうねえ。……ああ燃料もなかったのか。機雷、で、港も使えない?ああ……海に出してやれないし、出れなかったんだ。そうか。そうですねえ。……そう、だったんだ。
…………横浜に部屋を取る気はなかったんですけど、飛鳥Ⅱになら、とってもいいような気がしました。して、しまった。……しまいました。なんか、船に乗れば、船があれば、この世にもあの世にも居場所がない人の居場所がちゃんと確保できるんじゃないかって、思ってしまって。そこになら、船の上なら確保できるんじゃないか。ふねのうえではそれがゆるされている。その無力がゆるされている。ふねはそういう場所として、いつもいつもあったはずなんです。
なんでまたこの世にいるのかわからず、呆然と船もない鎌倉の海を眺めて、昔も今も出航するすべを持たないで、その意味もなくて、生きてる理由が無くて、それを知る方法がなくて、それ以前に明らかに意味なんてなくて偶然で、もしかしたらあたしの幻覚上にしか居ないかもしれない、居れないのかもしれなくて……。
ああ……なんというか、うん、彼と共犯にならない、ならないけど、けど、行き場をなくした過去として、彼を、日本海軍を、どこかへ航海させてやることはできる……。あたしにはそれができる、って。思って、……しまったんですよね。それが飛鳥Ⅱの乗船チケットでも何か別のことをすることでも。
過去の人なんだから、なにかその過去を記録して書き留めてあげるのがほんとはよかったんですかね?彼が確かにそこにいたってことを。海にいたという事実を。たとえば文章が書けたら本を残すとか、小説を書くとか、調べてまとめるとか……。その歴史が、ふねをなくしたことなのか、あの運命の真珠湾なのか、彼が決して語らなかった笑顔の外のことなのか、つまり不名誉な、それ以外の戦争なのか。飢えて死んじゃったとか。南の国に船で運ばれている途中、戦う前にただ一方的に魚雷で沈められちゃったとか。虫歯が直せなくて痛かったーとか。よくわかんないけど。……書いてあげる。もう一回再現してあげる。無神経で無頓着じゃない言葉で。それもある意味、航海でもあるんじゃないかなぁ……って。思った。思っちゃった。海で、往き場をなくして、陸に上がってそんまま終わっちゃった彼をもう一度航海させること。過去というものを現在に航海させること。今という海に、解き放ってあげることですよね。生きものとして。ずっと止まったままなところから……。だって船って、昔のふねって、みんなの話や言葉や映画や思い出のなかで、何度も沈んでますよね。好きに沈められちゃってて……。なんだっけ、あれ。ディカプリオ。ああそれ、映画のタイタニックとか毎回沈むじゃん、って。綺麗に沈むじゃん。みんなふねが沈む話大好きじゃんねーって。なんでしょうねあれ。ほんと。……なんとなく、そう思った。だから、だから海軍さんの軍艦が沈んで、それはほんとつらくて、あと海戦に勝って嬉しくなったり、ロシアと戦争して、長門がいて、いっぱいふねを浮かべて、なんか……そういう話をくり返し話すことで、うん。何かができる。映画みたいに、何かがもう一度再現できる。タイタニックのごはんの場面とかめっちゃ綺麗ですよね。あたしはタイタニックに乗ってなかったけど、それが綺麗だったことを知っている。あとから作った映画があったから。……綺麗、……綺麗だった。沈む時もねえ……。綺麗。……うん。うん……。綺麗、だったことを知っている。何かを書き残せば、例えば魚雷のせいで沈んだ船から放り出されて海に置いてかれちゃった、その十時間を記録すれば、映画とかにすれば、みんなはその十時間を知ることができる。十時間ずっと悲しかったことや苦しかったことが……。……海の中で爆弾や爆薬が爆発しちゃって内臓が破れちゃって、苦しいっていいながら死んじゃった人たち……。
……うん、彼がほんとに日本海軍というものだったとしたら、これはとてもまずい感情だということはわかってました。だって日本海軍が好きな女とかやばいですよね!?マジ、字面が……。いや、実際いるのかもしれないけれど、レキジョ?とかオタクとか、なんとか、どこかになら……。いや、そもそもそういう意味じゃなくて、オタクとかじゃなくて、……軍艦マニアとかじゃなくて、あたしが彼の栄光と悲しみの顔がうつくしいというのなら、あたしは彼の炭鉱の話もいっしょに引き受けなきゃなんない、ですよね。話さなかった真珠湾以外の戦争の話も……。海軍がもう一度自由に航海することは、どういうことか、って……ことを。航海したら最後、きっと彼、そこでまた虫歯になるんだ。そこで戦争になっちゃって。アメリカとか南の国の人とか日本人とか、チョーセン……韓国?な、んですか……ね?……の人とか、そこにいた人たちもそこでぜんぶ死んじゃって。ああ……。……ですよね、……そうですよね。そうなんですよ、ああ、これがセンセのいう歴史、ですか、歴史の話、ですか。歴史を自分のこととして引き受けること。ああ、そうですね。……難しいですよねえ。そうか、すみません、授業をぜんぜん聞いてなくて。うるさい生徒でしたよね。騒いでて。あるいは携帯ばっかり弄って。そっぽ向いてて。歴史から。
しょげきっている海軍さんを無言で引っ張って家に帰りました。その夜は無性に虚しくなって、正直その後の数日は憂鬱でした。彼と顔を合わせんのも。あたしはどうすればいいのかわかんないし、海軍さんもどうすればいいのかわかんないみたいだった。気を利かせて横浜に行ってみたりしたのに。あたしはむかついたし。申し訳なかったし。互いに無力だってわかった。世界ぜんぶに対してです。で、連休はそれで終わりました。かつてないほど虚しい連休だった。
*
その夜、夢、見て。……うん。虫歯になる夢……。処置される世界の夢。あたしが戦争に行ってた夢。なんで女なのにここにいるんだろとかそういうの無くて。疑問とかない。夢なので。夢特権だよね。ぜんぶ夢です。
兵隊さんがいっぱいいて、あたしもその一人で、兵隊で、あたしは飯盒を磨く係だった。みんなの飯盒を磨いてあげるの。綺麗に。ピカピカに。うん、ないよね、実際の海軍に飯盒を磨く係なんて。つか飯盒って陸軍だった気がするけど。読んだ本では。……うん、だよね?綺麗に磨けるとめっちゃ嬉しくて。だって白いご飯が。ちゃんと炊けるので。食べれるじゃん。でもそこにお米がなくて、貝殻を飯盒に入れてた。桜貝とか法螺貝とか、宝貝、カズラガイとか……。
みんなで必死に貝殻集めてたなあ。なんか、たしか貝とお米が交換してもらえる制度がそこにあった気がするんですよ。誰もそんなこと言ってなかったけど、夢って、夢世界の掟やルールがわかるじゃん。説明されなくても。体感的に。感覚的に……。
しゃがんで集めてたら、誰かに飯盒を蹴られました。それって飯盒ピカピカ係のあたしへの宣戦布告ですよね?貝も全部ひっくり返っちゃった。あのね、ひっくり返った貝はお米に換金できないんですよ。汚れちゃうし。集め直しなんです。欠けたら価値がなくなるんですよ。綺麗な法螺貝は単価が高いから人気で。法螺貝いっぱい取れたのにーって。どうしてくれんのよ、って。蹴った靴を見て、足の主を見上げたら海軍さんでした。
すごいむかつくニヤけ顔で海軍さんが、上から偉そうに話しかけてくるわけですよ。そこの下衆な人間……みたいな。でもあたしも違和感なく聞いてて。ハイ、ハイ、申し訳ございませんみたいな。飯盒蹴られてすみませんみたいな。邪魔でしたよね、って。現実だったらまず殴って追い出してたよね。家主はあたしなんだからさ。てめーあたしの貝に何した?ってなるよね。これあたしのご飯代なんだけど。あんたのご飯でもあるんだぞ、みたいな。……夢だからそうはなんなかったけど。
「貝を集めろ。貝殻を集めると貴様も徳が積める。竜宮城へ行けるんだ」
とか言われて。いや、今集めてたから。お前が蹴ったんじゃん……あたしを急かすなよな、と思うこともなく、徳を積もうともう一度貝を拾い始めたくなりました。竜宮城にもいけるらしいし。竜宮城て何?あとなんでかあたしは夢の中で、彼を尊敬してました。蹴られたけど、海軍さんと話せて嬉しかったような……気がする。
「海軍さんは白米主義者ですからね、すばらしいです」
って褒めたのを思えてます。今はもう何がなんだかわからない。白米主義って何……?あたしは彼の完璧な白米主義を褒めたんですけど、そのまま海軍さんに二、三度殴られました。「俺に馴れ馴れしくするな一兵!」って。……あんな感じに、戦争中は人間殴ってたのかなあ……いや知らんけど。あれ夢だし。ただのあたしの夢。あたしは彼の白米主義を褒めただけなのに、殴られたんですよ。許せないですよね。でも、やっぱりそれを理不尽だとは思いませんでしたね。夢だからかな。
てか、今思えばあたしって、夢の中でも貝殻を集めてたよね……。ビーチコーミング。徳が積めるってなんだ。賽の河原か。徳とか利益とか意味とか考えるのはビーチコーミング友の会の会員失格ですよ。ほんと……。まあ実際あたしたちは利益というか、お米が欲しくて貝殻を集めてたんですけどね。……徳が積みたいんじゃないよ、あたしたちはご飯が食べたいだけだ、お腹が空いてて食べるために必死なだけだって思った。龍宮城なんて行きたくないよって。それを覚えてます。
浜辺の砂は白く細かくて、あ、これ骨でできてる……ってわかりました。白骨……の道?なんだっけ、……あー白骨街道か。本にでできたので夢にも出てきたんだと思う。海は赤くて、血でできてて、太陽は黒かった。いやホラーじゃんて。いま説明すると思うけど、夢の中ではぜんぜん怖くなかったなあ。まあ夢なのでぜんぶぼんやりしてるしね。
あたしは海軍さんに怒られたり怒鳴られたり殴られたり蹴られたりしながら、頑張って貝を集めてて。「気合いが足りない」とか「甘えてる」とか海軍さんは怒ってた。見たこともない顔してた。こ、怖ー!って感じの。……出会った当初に軍艦の話を振られてあたしは興味なくて、海軍さんは拗ねちゃって。ぶつぶつ文句を言われたことがあったけど、その時にあたしがチクチクうに太郎とか呼んだ時すらそんな顔しなかったじゃんて。
あたしはせこせこ貝を拾って、貝って脆いんだな、刺せば死ぬもんな、弾で撃てば一撃だもんな、集めるのなんて戦艦があれば余裕だよなーって思ってた。あたしたちにはふねがいっぱいあるしって。海軍さんもいるし。ぜんぶ集めてやるって。今から思えば意味不明だけど。そうやってあたしは貝を集めて、貝を集めたことで、ご飯食べれてた。ご飯は貝を集めてゲットできる。最初は貝がどれも綺麗で、素敵で、可愛くて大切だったのに、最後のほうは貝なんてどうでもよくなっちゃってたね。大きくても小さくてもどれも一緒。みんなおなじ、意味のない貝だ、って。貝どもは集められることしか価値がない、むかつくぜ、みたいなむかつきすらあった。いろんな貝の見過ぎ?貝のこと考えすぎだったのかなあ。集めすぎて。あたしのご飯に変えられれればなんでもいいやって。むしろ小さくて脆くて助かった。集めやすいし、軽いし扱いやすいし。貝がいっぱい集まって、貝の数に余裕ができたら、いらない貝は潰して捨ててた。邪魔だったし。必要ないので。小さくて汚い貝はいらない。それが戦場だもんね、仕方ないよね、じゃなきゃあたしが貝になっちゃうもんねって。捕まって、集められて。誰かのご飯に変えられちゃうって。まじ意味不明な夢だった。なんだそれ。なんだったんだあの夢……。
貝を潰してる海軍さんが笑ってる。嬉しそうに笑ってる。あたしも貝を潰して嬉しそうに笑ってる……。みんなで笑ってる。なんでかわかんないけど。嬉しかったし楽しかった。みんな仲間だった。よかったよね。白いご飯が食べれたからかなあ。……もしかしたら貝のおかげで炭鉱が栄えてたのかもーって思ったの覚えてます。……夢で。あと比叡のオメシカンが綺麗だった。でも戦艦比叡じゃなくて、軍艦巻きが比叡って名前だった。夢だから笑わずにすみました。あれがいわゆる海軍さんの白米主義だったんかな。ウケるんですけど。なんか足元は水に、海と波に満ちてて、……だんだん水が上がってくるんだけど。ぜんぜん気にならなくて。みんなで笑ってたので。海水はとても赤くて。寄せて引いて。……靴が赤く濡れて。
波が迫ってきて、貝が拾えなくてちょっと焦ってきてた。あー桜貝がある!と思って拾おうとしたら人の爪だった。それでも楽しくて笑ってた。海軍さんが「ここには海があるから大丈夫だよなあー」って言ってて、それも夢の中じゃなんか面白かったよね。なぜか。あたしは「じゃあ四方八方に貝がありますねえ」って答えた。…………あたしたちはそこではちゃんと、共犯だった気がする。
竜宮城は目の前だった。行きたくないなって思ったけど。……でもみんな先にいっちゃったからなーって思ってた。みんな待ってるって。……だからあたしも行かなきゃ、って。
そこで起きちゃった。……片腕空中に上げててびっくりしたよね。顔もちょっと笑ってたし。
あたしって実は夢日記をつけてるんだけど……いやせんせえ、虚しそうに笑わないでよ!つけてますよ、夢日記を。……寂しい女なんで、ほんと。寂しい趣味ですよ。ひとりですよ。一人の趣味好きなんですよ。友達と予定あわせなくていいし。ビーチコーミングと一緒で集めてるんですよ。夢を。寂しい趣味を許してくださいよ。……その夢日記に、あたしは、ただ一言、……地獄にいたって、書いといた。なんか、そんな気がした。……起きて、あのニヤけ顔が頭から離れなくてむかついたから海軍さんに軽くグーパンしちゃった。海軍さんはへあ?みたいな間抜けな顔してたからスッキリしました。それで夢の中の顔はだいぶ消えた。ということにした。…………彼は朝の日課で、いつも通り勝手に紅茶飲んでて。……結局彼が一番喜んでた現代の利器ってティーバッグだった気がする。コップをかき混ぜながら「どうしたんだ、やつれているぞ」なんてのんきに聞かれて。彼を殴って「アホ」とあたしは答えました。「アホアホアーホ。お前はアホ」
「阿呆とは何だ、貴様。失礼だぞ」海軍さんが気色立って言いました。
「ティーバッグ、来週まで買えませんから節約してくださいね」とあたしは釘を刺しました。
「あと三つしかないが」
「節約しなさい」
海軍さんは心なしかしょげてました。まあ、あちらからすればどうしたんだ?って聞いただけなのに、殴られてアホ呼ばわりですからね。申し訳なかったな……。悪いのはぜんぶ夢なんだけど。あたしじゃありません。
現実って貝を集めてもご飯にならないんですよねぇ。ティーバッグとかにも。でもそれっていいことだと思った。でもほんとうはどうだろ。あー、なんだったんだろうなあの夢。ほんと……。やな夢だった。
*
次に来たのは盆の季節でした。
海軍さんは二〇二〇年代の夏が苦手のようで、相変わらずエアコンの設定温度を二十四度に死守してました。
「あのですね、あと一度上げましょうよ」とあたしは言ったんです。電気代安くなりますからね。何度かそのこと説明したんですけど、そのたびに「ああ、そうか、血の一滴、ってやつか……」とか「この時代の機械には疎いが、この一度で何かが違う」とか言いながら、毎回毎回華麗にスルーしてました。あたしも毎回それをスルーして一度上げて、下げて、上げて、下げて。この動作のせいで余計に電気代がかかってるってわかったので、根気強く説得してから上げることにしてました。十回中九回は拒否されました。
「この世界は暑くないか」と海軍さんは言いました。いつも通りの事実上の交渉拒否にあたります。十分の九です。交渉決裂です。もうこれ軍港を奇襲するしかないっすわ。これ真珠湾ですよね。自分ごととしての歴史。だってこれあたしが払う電気代なんだけど?まあ、そりゃ暑いんですけど。……今の夏はやっぱり暑い。
「やっぱ今の夏って昔より暑いですか」
「暑い。考えられん。どこも機関室みたいだ」
「はあ……。あのう、……負けた時も、暑かったですか」
「ああ。暑かったよ。たぶん」
「たぶん」
あたしは元気もなく繰り返しました。海軍さんはぼんやりと言いました。
「暑かったのは憶えているが、どこにいたのか思い出せん。つまりそれがいつだったかもわからない。…………あれは、八月十五日だったのかなあ……」
その声には空虚なあわい絶望があって、虚無感すごくて、あたしはやっぱり、ぜったいに彼とはわかりあえないんだ、と思いました。あたし、学校の勉強も、歴史の授業なんてのも興味がぜんぜんなかったんですよね。だから彼とおなじ言葉で話せないんだ、って……。場所と属性の違うひとと、ひとしての交わりが、できなかった。彼と。おなじ国にいるのに、おなじ歴史を一緒に持っていないから。太平洋戦争、中国との戦争、軍艦がいっぱいあったこと、真珠湾とか、テッタイ作戦が上手くいったことの喜びとか、仲間がいっぱい溺れちゃったこととか、比叡とか、博覧会とか、キョクジツキが鮮やかだったこととか。陛下にお声をかけてもらったとか。だから喧嘩すらできなかったんです。戦争反対とか兵器を造るなとかひとの国侵略するなとか、炭鉱のこととかレンコウとか、何も言ってあげらんなかった。戦争もその反対の理由もぜんぜん詳しくなかったから。そういう言葉にあたしは根拠を持たなかったから。……あたしの言葉じゃなかったから。きっと彼も笑って聞かなかったでしょう。……れきし、って、一体、なんなんでしょうねえ……。
彼のいう八月十五日って、ふつうに終戦の日なんでしょうけれど。その海軍さんの言い方や普段の話ぶりを聞くに、真珠湾の十二月……そう、八日?ほどはっきりしてなくて、そうなんですよ、彼、十二月に大切な子どもたちを真珠湾に見送った話ばっかりするのに、戦争に負けた日ばかりはなぜかぼんやりしてて。……なんでしょうね。あれ。俺っちは負けてなんてないっち、という意志の表明だったのかな?……それにしては、心の底から悩んでいるみたいでした。……あー。へえー。そっか。べつにぴったり戦争が終わったわけじゃないもんね。樺太?へええ……。……それに皆が日本に帰ってくるのか。そりゃそうか。…………なんだか、本当に不思議になりました。
あたしたちは八月の十五日に戦争が終わった、ということを知っていて、あるいはそう言っているんですけれど。彼はそう思ってないか、あるいはそもそもそれを知らなくて。ただ暑かったよねーたぶん、って言ってて。あたしたちの今もいつか、こうやって雑にまとめられちゃうんですかねえ?
彼は過去に居て、過去の存在として現代人から認識されていて、あるいはされていなくて……。
なんか……なん、か、……。あれなんです、もしあたしが、あたしがです、あたしが。海軍さんじゃなくて、あたしが海軍さんの時代に行ってたらどうなってたんでしょうかね。って。思ったことが、何度か……。あっ、た。
だってこの状況、というか二日前に終わったあの状況、ぜんぶおかしいですよね!?なんだ、日本海軍を拾ったって。そんなもんそこらへんに落ちてるか、普通……って。拾った、ってなんだよ……。栗じゃないんだから。だからもっとおかしいことが起きてもおかしくないねって。思ったことが、あった。あたしがあの時代に落ちてるってか、あたしが海軍さんに拾われるのか。でも、やべーなって。それ、やばそうですよね。
そもそもあたしが海軍さんより優位に立ってたのは、ここが現代の日本で、海軍さんになんの権力もなかったからなんですよ。そこが戦争中の日本で、海軍さんに権力があったらどうすんだろ、どうなってたんだろ、って……思った。思ってた。
あれなんですかね、クーラーの権利とかあたしにないし。まあクーラー代もあっち持ちなんだろうけど。「これだから女は」とか言われちゃうんだろうか。あたしはたまたまティーバッグを買って持ってて。ぜんぶ奪われちゃうんだろうか。って……。
もしかして……あたしも……軍艦にされちゃう……?の、かなあ……なんであたしが航空母艦に?……とか考えて。で、よくよく考えたら彼の軍艦はべつに人間が姿を変えられて造られてるわけじゃないしね!?って。まあ、そういう、危うい感じの関係の上にあたしたちは立っていたわけですよ。たまたまあたしが家主だっただけで。
あたしはチクチクうに太郎さんが八八艦隊をフルコンプしたかった~とかミッドウェーのヒヤリハットとかを一人で語ってる中で、ま~それを綺麗に無視し続けました。こいつはただの感情の尖ったうに野郎だ、って……。うにが何か喋ってるなって。思って。思い込むことに決めてて。
今から思えば、やっぱりあたしはそういうのの悔しさを共感しちゃいけなかったし、共感しないように頑張ったことに自分を褒めてやりたいっすね。だって、一緒に感動したら、負けですよね、そんなの。そんなの、それこそあたしが戦争中にタイムトリップしてるのと一緒じゃないですか。
海軍さんのあのうつくしさは一瞬だったんですよ。だからまあしかたないんですよそれは。でも、一緒に肩組んで感情移入までしたら終わりでしょ。戦艦土佐のくす玉が割れなかったって、それがすこしだけ悲しかったって、海軍さんが呟いて、そして黙って。ふねはあんなふうに生まれて、そして沈んではならない、って言いきって。でも、だから……だから、だから一体なんなんですかね?あたしたちはそんな悲しみに共鳴しないで、ちゃんと割れるくす玉を作らなきゃなんないんすよ。それが歴史の学びってやつでしょ。たぶん。知らないけど。……あたしたちはこれからも、くす玉を割り続けなきゃならない?……海軍さんとは違って生きている、から?海軍さんって、もう、死んでた、死んでいるんですよね……。あれ……。過去の存在で……二〇二〇年代のものではない。ああ……そう、そうなんですよ……そう…………。
……ねえ、日本海軍さん。あたしにはできる。あたしにはあなたの正義を否定してあげることができる。でも、あなたが頑張って守りたかったものがなんなのか、を一緒に考えてあげることもできる。あなたのなにが正しくて、なにが過ちだったのか、ということをたぶん理解してあげられる。理解しようとしてあげられる。あなたが八十年前に誰からもされなかったし、してもられなかった……距離感、というもの、を、あたし、は、保つことができる。できる。できる。できる。できる……。二十歳ちょいのふざけた女から。ただの人間から。普通の距離で。ツッコミでも、ハグでも、何でも。歴史的な批判でも。なんかみんなかっこいい艦だよねとも。ほんとうはそれができたんですよ。……できた、できたはずなんだ。でも、その時にはできなかった。彼の語ることに反論も肯定もできないまま、もやもやっとしたまま、戦争するみたいにクーラーの主導権を奪いあうことしかできなかった。彼にティーバッグしか施してあげられなかった。あたしは彼のことをなにも知らなかったから。
一つ屋根のした共にあったあたしたちは、日本海軍のことも軍艦のことも戦争のことも語るすべなく、ただ一緒に生活するしかなかった。生活を。でも、生活をするという人間の……一つの当たり前の生き方が……あれが彼の滅んだあと、……の、なにかひとつの救いになって、い、ればいいと思いました。日本海軍が日本海軍でなかった今、日本海軍さんにとって。あたしは話ができなかったけれど、……この国に空襲とかさ、ないじゃん?今のあたしと彼に、爆弾は落ちてこなかった。……彼は八十年後の戦争がなくなったこの国の今を、どう思ったのかなぁ。
*
……ある彼岸の週末の夕方、あたしたちは、一緒に浜辺に行きました。
彼岸の日に海に行っちゃいけないってよく言うけど、あたしはもうそういうのどうでもよかったし、海軍さんを考えればむしろ積極的に近づいてみたらどうだろ、とすら思ってたんです。そもそも彼岸の向こうの存在ですよね。だから彼にも言ったんです。あの海にいたんだから、あの海から帰れるんじゃないかって。
で、実際その通りになりました。
初めて会った時と同じように海岸の石階段に座って、夕陽を眺めながら、暑いーとか焼けるーとか、そんなことをぼんやりと話してました。もうあたしたちには夏の暑さのことしか共通になりうる話題はないんだな、って思ったのを憶えてます。キョーセーレンコウのこと、なんの知識もなかったな……。レンゴウカンタイのことも。今から勉強するか、歴史を。ウィキペディアで。軍艦以外のページも見なきゃ、とか思いつつ。
……すくなくとも、今、はもう間に合わない。間に合ってない。おなじ言葉じゃ話せない。孤独とか栄光とか、彼がいちばん大事に抱えてる、よくわかんないものを。だから、いちばん語り合うべきであろう主題を夾叉するように、日焼け止めという現代の利器の話や、艦隊勤務では真っ黒になることなどを話してた。その時のことでした。
いきなり海軍さんが、後ろにいた青年に肩を叩かれたんです。優しく。いつくしむように。いままで青年の気配に気づかなかったんで、あたしたちはただ、びっくりしました。
愛宕、と海軍さんは驚き叫びました。愛宕って、え、じゅうじゅんあたご?あたしはウィキペディアで愛宕の記事を読んでました。たしか「火垂るの墓」でもでてくる級ですよね。なんか太った感じの、デッカい、強そうな艦です。そしてその艦も戦争で沈んでる……。で、そう、このその青年を確かに愛宕、と呼びました。海軍さんがもう少しがっしりしたようで、そしてもう少し幼いかんじの……そんな子でした。
彼が着ていたのは緑色の、緑と茶色の間くらいの、陸軍みたいな軍服でした。ウィキペディアの海軍の軍人さんの、遺影みたいな写真に写ってるような真っ白な軍服じゃなかったけど、初めて会った海軍さんみたいな、ボロボロな姿じゃなかった。パキッと綺麗な軍服で、これから戦場にいくというよりは華やかな社交界にでも行くかのような。沈む瞬間にも、海底、という、ひとつの海の港へと向かう時にもきっと、うつくしい艦の姿のままだったんでしょう。
「迎えに来ましたよ、父上」
「ええ?嘘だろう?」
と海軍さんは奇妙な笑いを孕んだ声で、信じられないように訊き返しました。単純、嬉しそうだった。そりゃそうだ。あたしも唐突すぎてなにもかも信じられなかった。
迎えに来た。つまり彼は彼を連れて帰ってくれるだろう、というはずの宣言でした。いやいや、オメシカンが先導したれーよ。大戦艦のだれかとかさ、とあたしは思ったものの、きゃっきゃしてる二人の仲はとても良さそうで、まあ、うん、本人たちが良いのならそれでいいんでしょう、そう思いました。
「嘘ではありませんよ。俺はふねなんだからあなたを連れて行ってあげられます」
「そりゃそうだ。助かった」
いやどんな理論だよ、あたしは思いました。まあそんなもんなのか?彼岸って?ふねってすごいんだなぁ……って思った。肩をすくめて、愛宕は言いました。
「あなたはこう、すぐに迷うからいけない」
あちらでは彼岸前に海に寄ってはいけない。迷ってしまう。あなたはふねではないのだから、と愛宕青年は呟き、じゃあ行きますよ、と言った。そしてあたしにむかって父が相迷惑をかけました、と謝りました。愛宕は海軍さんの手を引き、立たせました。
「はあ……帰れるんですか」
「みたいだ。世話になった。ほんとうにおかしな世界だった。暑いし」
と晴れ晴れしく海軍さんも言いました。もうこの世界のまとめに入ってた。めっちゃ雑~な感じに。あたしたち現代人が、現代日本人が築き上げた平和な世界は、そりゃあの時代の軍人にはおかしな世界に見えたでしょう。ささっと雑に片付けたくもなるでしょう。あたしの平和は、彼らを救わない。彼らの世界はそういう制度だった、そうあった、グンジコッカだった、そしてそのまま永遠に不変だ。それが過去ゆえに。彼らは過去にいる。永劫にいる。それが、なんだか無性に悔しかったです。平和のシソウもよくわかんないのに。
ユニクロの一九九〇円のTシャツを着た海軍さんと緑色の軍服を着た愛宕は、へっぽこな二人組のようで、おなじ空気にほどけていました。あれが過去そのものというものだったんでしょう。あたしのけっしていない場所です。
あの、あたし、……と海軍さんに声を掛けようとした瞬間、そこには、もうなにもなくて、ビーチコーミングをし損ねたような女が階段に佇んでいるだけでした。
ほんと、その時のあたしは間抜けに見えたでしょう。口をぽかんと開けて夕日を眺めてるだけの寂しい女に見えたはずです。寂しい顔をしてたと思います。もっと喜ぶべきでした。ホント。喜ぶべきだった。変な同居人がいなくなったんだ。クーラーを二十五度にできるのに。なんなら二十六度にだって。なのに……。
*
あたしは海軍さんのことを一度も海軍さんと呼び掛けたことはありませんでした。半分は彼の話を信じてないフリをしつづけてたからです。あなたとか、お前とか、ふねオタクとかカッパとかナマコ野郎とか、チクチクうに太郎、あとはただ海っちって呼んでた。
だって海軍さんに海軍さんが海軍さんだと認めて海軍さんと呼びかけたら、あたしは一体何なんですか?ただの一民間人の女になっちゃうじゃないですか。エアコンの温度は二十四度で一生固定されたままになっちゃうんです。何なら二十三度にされちゃうかも。扇風機もいつも強風になっちゃって。ダブルで稼働してて。自分だけ風に当たってて。そうやってぜんぶの権限があっちに行っちゃうでしょ。あたしは彼を日本海軍だって認めちゃいけなかった。あたしはけっして海軍さんの威信を享けてはいけなかったんです。だってここは二〇二〇年代の日本で、軍隊はもう存在しないんですから。現代人のプライドってやつだったのかもしれませんねえ……。……いや、それもどうだろ、これはあたしの言葉なのか?ほんとうにあたしが考えていることなのかな?自分の集団を根拠にしてるだけなのかな。平和ってほんとにあたしの言葉だったのかな……。
うう……。海軍さん……海……。日本、海軍さん……。海っち……ああー海っち!……ああ……あの時、あたしは、海っちを大日本帝国海軍さんって、一度でも呼んであげるべきだったんですかね……?あたしはその威信とやらを、ちゃんと肯定してあげるべきだった……?彼のうるわしき艦隊を……?…………え?引く?マジの右翼っぽい?真実に目覚めてるみたい?うるせー!だったらなんだんだよー!!そもそもンなわけないだろアホ!バカ!エロ教師!生徒の食事の誘いに軽々しく乗るな!
……………………あたしにとっては、ただの海っちだった。戦争の、グンコク主義の、侵略の道具でも、過去の存在でもなくて、ラムネの話で盛り上がる変な同居人で……。そんなのめちゃくちゃなのはわかってます。彼は大日本帝国海軍だった。彼は悪い人だった。悪人だった。彼はうるわしい艦隊とグンカンキのあざやかな赤の話しかあたしにしなかったんだもん……。真珠湾の話ばっかで、それが卑怯だったなんていっさい言わなくて、長門と陸奥と赤城と愛宕で利根で足柄で、徴傭なんて語んなかったし、いっつも自分がカッコいい話ばっかで、それが語り継がれていることが少しでもわかればバカみたいにご満悦で……めったに行きもしない本屋でNF文庫の緑の背表紙を見るのが大好きで……。でもけっして本を手には取らないで……。
……は?なんで?怖かったからだろ!自分が未来にどう評価されて褒められて貶されて裁判されてるか知るのが怖かったんですよ!!だからNF文庫に取り上げられてるような感じの、タイトルにある感じまんまの話ばかりしかしなくってさあ……。
…………え?戦争犯罪の話……?ほとんどしなかったですよ、ぜんぜんめったに、そんなの、それこそレンコウとかくらいですよ……。それも犯罪だと思ってたか謎ですよ。彼、笑ってたんですよ?楽しそうに?なおいっそう、鮮やかに?あたしはそれに、なぜか見惚れてしまっていて?このうつくしさはなんなんだ、なんてあたしには疑問を挟む余地もなかった、圧倒的で暴力的なくらいにうつくしくって、うつくしくって。……うつくしくて。あたしはそれを、知っている。あたしは、そのことを、ちゃんと知っている……。わかっている。そういうはなしばかりで彼が満ちていることを知っている。彼は未来の、今の人間にそういう愛され方ばかりを、されているということも、あたしは知っている……。この愛情には危うさがあるんだ、それはわかってます……。知ってますよ、ちゃんと、そんなこと……。
え?……酔っぱらってる?酔ってないですよ、酔ってない。酔ってるわけじゃないじゃないですか。帝国海軍の大義になんかあたしは酔ってないです、そうじゃなくて、じゃなくて、じゃなくってあたしもあの文庫本の多くの読者みたいに、表面のうつくしさを撫でていとおしむことしかできないんですよ。だって、彼、やっぱりうつくしかったんです。彼の語る大艦隊のこと、壮麗なお召艦、艦の上から見た広い海と青空のこと、なによりそれを嬉しそうに語る横顔、実際に軍服姿だった愛宕の軍服だってほんとに、……あれが思い出の話じゃなくてなんなんですか、うつくしくなくってなんなんですか、うるわしき追想ですよ。綺麗な思い出ですよ。でもあたしは知っている……。あたしが知らないことばかりだって、彼が語らなかった多くのことがあったことを知っている。やましい沈黙を知っている。……そうやって、あたしなりに時代を問うていくしかないんですかね……。あの顔を……笑顔を。うつくしさと語らなかったことを、忘れないでいたい。歴史を……彼とおなじ言葉を話すんだ……ウィキペディアで……新書で……ああ……。あー……。
小説「名声の葬列」 #共同運輸 #郵便汽船三菱

この夜、人間たちが黒の装いをして、互い互いに挨拶を交わしあうさまを彼女は見ていた。さざめくように話す情景になぜか心が休まらない。これもあの男の一つの角出であり、あの男への祝福なのだ、と彼女は思った。
葬式の会場は豪奢な造りだった。夜の灯りが壁色に映えて妙に艶やかだった。そして豪華な食事の大盤振る舞いと来た。人間たちの密かな興奮は、なお一層彼女の心の裡を荒立たせた。
彼女は人間の葬式と結婚式の区別がいまだにつかない(黒白と赤白の装いの何が違うというのだろう?)。悲しむべきときと喜ぶべきときの違いだろうか。けれど人間たちは葬式でも結婚式でも、いやいつだって喜んでは悲しんで、泣いては怒っているではないか。彼らは生きるのに忙しそうで、死ぬのになお急いでいる。そんな人間たちを、彼女はほとほと下らないと思っていた。人間への共感の素養に乏しい、ただの一企業の現し身であった。
この葬式の主役が主役なだけに、式中には予期せぬ事件や暴動、妨害が起きてもおかしくはないと思えた。それでも葬式は無事に何事もなく進行している。
人びとはささやかに慎ましげに、けれど油断なく会場を見渡し、旧知の同業者と迎えるべき商売相手を探し出しては、お悔やみの挨拶を交わす。ついでに(ひどくささやかに、また流れるように)語られるは、わが社の輝かしき躍進や扱う新商品やその商売相手を探していること――ここは数夜限りの特殊な社交界なのだ。主役がすでに亡いだけで。
財界の政界の、日本中の多くの重役、重要人たちがこの場へと駆けつけた。貧乏人たちは場の外にいて葬列を仰ぎ見る。その死を弔うために。ついでに、この死者の周りには常にお金と施しがあったので。はてさて、この内に心の底からお悔やみを申し上げる人間はいくばくなのか……と彼女は思った。勿論人間たちを責めるつもりは毛程もない。私もそのうちの一人だ、というのが彼女の偽らざる気持ちだった。そしてこの死者も天国あるいは地獄あるいは煉獄でそんな皆を嗤っているに違いない。あれはそういう男だった。
あの男を思い出せば思い出すほど、会場の人間たちの喧騒が不快だった。まるで濡れた服が体に張りつくようなじっとりとした嫌な感じがした。彼女はひっそりとその場を抜け、中庭へと出た。天高い夜空が、一人の彼女を孤独にさせた。
煙草に火をつける。
あの男は彼女がいつでも煙草を吸うことに不満そうだったが、止めさせたことはなかった。彼女が女の姿を持つという事実と、彼女が明治日本きっての大海運会社――男の持ちうるいちばんの財産――であること、その両者の板ばさみに悩まされていた。
お前が男だったらな、というのがあの人間の口癖だったし、彼女自身もそう願わなかったといえば、嘘になる。たとえ喫煙ができても、男の聖域かつ牙城たる喫煙室に招かれると居心地が悪かったし、男たちだって居心地が悪そうだった。そのたびに我は人でも女でもなく企業である、と嘯いたものだった。彼女は共感性に乏しく、人間たちの居心地の悪さなど気には留めなかったが、それでもそれは惨めな虚栄の一つになっている。
人間の器がこうも桎梏たり得るとは!
ゆっくりと煙を吐き出し、荼毘の煙と焼香の煙と煙草の煙の類似を考えていた。この煙が天まで届くと思うとこれも愉快なご焼香だが、やはりあの男が安寧の場所にいるとは相思えない。あの男は多くの人間を儲からせては破綻させてきた。人間を幸福にさせたが不幸にもさせた。彼女を創りあげた。企業として。女の器として。そんな彼がどうして安寧な眠りを得られよう。
それでも、死ねば義務からは逃げきれる。その事実に呆然とし、彼女はひとり残されたことに対して怒りに駆られた。海坊主め、あんたが私を創ったんだぞ。そしてこの現状を作り上げた。あんたは死んだが、私だって数年持つかわからない。あんたの愛した会社と船と社員と金はどうなるんだ。本当に船を燃やし、私に後始末でもつけろというのか。
全く気に食わない。
「うわ、」
と、彼女の後ろから声がした。夜の闇から現れたのはなんと、彼女の唯一の商売敵たる共同運輸会社であった。
いつもの安物で粗野な男物の和服ではなく、洒落た男物の喪服のスーツを着ている。洒落ているのは服だけで、鈍感そうな表情と四方八方に飛んだ髪毛はいつもと変わらない。
「なんで……貴様がここに居るんだ」
「私だって知らんさ。たぶん偵察だ偵察。渋沢さんに連れてこられた」
と相変わらず能天気な顔をしている共同運輸に、この世は馬鹿な人間と馬鹿な会社ばかりだと彼女は思った。あの男の葬儀にぬけぬけとやって来た渋沢も共同運輸も、とんだ阿呆だ。ただの間抜けだ。
一歩こちらに近づいた共同運輸に、一歩引きさがった彼女は舌打ち混じりに言い放った。
「気安く近寄るな庶民が」
「地下浪人上がりが調子乗るなよ馬鹿!……や、おまえ、泣いてんのか?」
泣いているわけなかろう、と呟いた。彼女の声はわずか震えていた。
共同運輸はにやにや下品に笑った。
「いいもん見た。死人の顔も見れてないが腹いっぱいだ。帰ろ帰ろ」
「帰れ」
「帰るさ。また来る。こんな葬式ならいつあっても良い。月に十回は欲しい」
「帰りやがれ!!」
それは鼻声で、喉が詰った、みっともない大声だった。だから共同運輸以上に驚いたのは彼女自身の方だった。おまえ、と呟いた共同運輸は一瞬呆けた顔を晒し、ばつの悪いような表情をしたあと、彼女の顔を下から掬いあげるようにそうっと見上げた。彼女の様子をうかがっている。彼女は共同運輸より数寸は背が高いのだ。人間の現し身を比べ、わずかでも共同運輸を見下げることができるのが彼女の密かな楽しみだった。愚かなことだ、と自身でもわかっていた。
私たちのひとのすがたになど意味はないのに。
三菱蒸気船会社として日本国郵便汽船会社を下してからというもの、彼女は一社一強として日本海運を牽引してきた。それが独占と言われようが強欲と罵られようが変わらなかった。むしろその誹りと軽蔑の視線はひどく心地よかった。口汚く罵る相手の瞳には、同時に常に畏怖と卑屈とがあったからだ。栄光これより大なるはなかったし、それを積極的に快楽として、彼女は企業を生きてきた。
箸が転んでも面白い、もとい箸が転んでも儲かるような面白い海を独占していた彼女の前に現れたのが、今この顔を見上げる共同運輸会社であった。打倒三菱を掲げて生まれた会社であり、初めから彼女の敵たるものとして創られた、愚かな海運企業。
両社互いに船が並べば一歩も航路を譲らずにぶつかるに任せた。彼女の営業する横浜・神戸間の運賃は五円五十銭だったものが、一円五十銭となり一円となり七十五銭となり五十五銭となり二十五銭に景品付きとなる始末。人間たちは愚かだ、と思いながらも値段を繰り下げることに一番熱心だったのが彼女自身だったのだからこの世は阿呆だらけだ。もちろん利潤など生まれず、急激に利益は損失し、両社とも互いが互いを泥沼に引っ張る瀕死状態へとあっけなく転落していった。
「……あのな、こんなうわさ話知ってるか。お上が私たちの争いに介入するんだって」
「……知っている。絶対に嫌だ。汚らしい」
そう吐き捨てた彼女は煙草を捨て、靴で何度も執拗にもみ消した。
「私だって嫌だわい!でも簡単に死ぬわけにはいかないだろ?人間みたいにさ。お国の海と船はどうすんのさ」
という共同運輸の言葉に、彼女はふと胸を突かれた。冷たい刃で胸を割かれたような気持ちになった。私を国賊というのなら私の船を残らず遠州灘に集めて焼き払い財産を自由党に寄付しようぞ、というあの人間の言葉を思い出したからだ。
あの男は結局は日本国の海運を想っていた、だからなおさら政府とその先鋒たる共同運輸を憎んでいた。あの男は海運業を独占していたが、政府がただの政略上の問題で三菱を潰しにかかったのもまた事実であった。その思いが船を焼き払うべし、という悲惨な言葉に繋がり、死の床ですら競争を挑みて敵におくるるなかれと遺言を残して逝ったのだ。人間は阿呆、世は馬鹿ばかり、私も社員も阿呆で政府の人間も阿呆だ。こいつも阿呆のはずなのに、お国の海と船はどうすんのさ、というひどく柔い土着じみた女言葉は、政治や企業人のそれとはほど遠く響き、だからなおさら彼女の心を打った。
言葉を無くした彼女に、共同運輸は言った。
「郵便汽船三菱会社、あんたはどう思うのさ」
私は、と彼女は言いかけて、黙った。
やめたかった。こんなふざけた現状をどうにかしたかった。頑張って得た船も焼きたくなかったし、財産だって保有していたかった。なによりあの男の残したものをむざむざと捨てたくなかった。たとえそこが地獄だろうがそこで嗤っていてほしかった。まるでいじらしい、乙女がよき男に向けるような感情、まったく人間じみていることに気づき、ただただ自己嫌悪に陥り恥じ入った。私は、あの男が憎くなかったのだ。きっと憎くなかったのだ。すべてがまったくの茶番だった。この茶番の主役の名を岩崎弥太郎という。

この夜、人間たちが黒の装いをして、互い互いに挨拶を交わしあうさまを彼女は見ていた。さざめくように話す情景になぜか心が休まらない。これもあの男の一つの角出であり、あの男への祝福なのだ、と彼女は思った。
葬式の会場は豪奢な造りだった。夜の灯りが壁色に映えて妙に艶やかだった。そして豪華な食事の大盤振る舞いと来た。人間たちの密かな興奮は、なお一層彼女の心の裡を荒立たせた。
彼女は人間の葬式と結婚式の区別がいまだにつかない(黒白と赤白の装いの何が違うというのだろう?)。悲しむべきときと喜ぶべきときの違いだろうか。けれど人間たちは葬式でも結婚式でも、いやいつだって喜んでは悲しんで、泣いては怒っているではないか。彼らは生きるのに忙しそうで、死ぬのになお急いでいる。そんな人間たちを、彼女はほとほと下らないと思っていた。人間への共感の素養に乏しい、ただの一企業の現し身であった。
この葬式の主役が主役なだけに、式中には予期せぬ事件や暴動、妨害が起きてもおかしくはないと思えた。それでも葬式は無事に何事もなく進行している。
人びとはささやかに慎ましげに、けれど油断なく会場を見渡し、旧知の同業者と迎えるべき商売相手を探し出しては、お悔やみの挨拶を交わす。ついでに(ひどくささやかに、また流れるように)語られるは、わが社の輝かしき躍進や扱う新商品やその商売相手を探していること――ここは数夜限りの特殊な社交界なのだ。主役がすでに亡いだけで。
財界の政界の、日本中の多くの重役、重要人たちがこの場へと駆けつけた。貧乏人たちは場の外にいて葬列を仰ぎ見る。その死を弔うために。ついでに、この死者の周りには常にお金と施しがあったので。はてさて、この内に心の底からお悔やみを申し上げる人間はいくばくなのか……と彼女は思った。勿論人間たちを責めるつもりは毛程もない。私もそのうちの一人だ、というのが彼女の偽らざる気持ちだった。そしてこの死者も天国あるいは地獄あるいは煉獄でそんな皆を嗤っているに違いない。あれはそういう男だった。
あの男を思い出せば思い出すほど、会場の人間たちの喧騒が不快だった。まるで濡れた服が体に張りつくようなじっとりとした嫌な感じがした。彼女はひっそりとその場を抜け、中庭へと出た。天高い夜空が、一人の彼女を孤独にさせた。
煙草に火をつける。
あの男は彼女がいつでも煙草を吸うことに不満そうだったが、止めさせたことはなかった。彼女が女の姿を持つという事実と、彼女が明治日本きっての大海運会社――男の持ちうるいちばんの財産――であること、その両者の板ばさみに悩まされていた。
お前が男だったらな、というのがあの人間の口癖だったし、彼女自身もそう願わなかったといえば、嘘になる。たとえ喫煙ができても、男の聖域かつ牙城たる喫煙室に招かれると居心地が悪かったし、男たちだって居心地が悪そうだった。そのたびに我は人でも女でもなく企業である、と嘯いたものだった。彼女は共感性に乏しく、人間たちの居心地の悪さなど気には留めなかったが、それでもそれは惨めな虚栄の一つになっている。
人間の器がこうも桎梏たり得るとは!
ゆっくりと煙を吐き出し、荼毘の煙と焼香の煙と煙草の煙の類似を考えていた。この煙が天まで届くと思うとこれも愉快なご焼香だが、やはりあの男が安寧の場所にいるとは相思えない。あの男は多くの人間を儲からせては破綻させてきた。人間を幸福にさせたが不幸にもさせた。彼女を創りあげた。企業として。女の器として。そんな彼がどうして安寧な眠りを得られよう。
それでも、死ねば義務からは逃げきれる。その事実に呆然とし、彼女はひとり残されたことに対して怒りに駆られた。海坊主め、あんたが私を創ったんだぞ。そしてこの現状を作り上げた。あんたは死んだが、私だって数年持つかわからない。あんたの愛した会社と船と社員と金はどうなるんだ。本当に船を燃やし、私に後始末でもつけろというのか。
全く気に食わない。
「うわ、」
と、彼女の後ろから声がした。夜の闇から現れたのはなんと、彼女の唯一の商売敵たる共同運輸会社であった。
いつもの安物で粗野な男物の和服ではなく、洒落た男物の喪服のスーツを着ている。洒落ているのは服だけで、鈍感そうな表情と四方八方に飛んだ髪毛はいつもと変わらない。
「なんで……貴様がここに居るんだ」
「私だって知らんさ。たぶん偵察だ偵察。渋沢さんに連れてこられた」
と相変わらず能天気な顔をしている共同運輸に、この世は馬鹿な人間と馬鹿な会社ばかりだと彼女は思った。あの男の葬儀にぬけぬけとやって来た渋沢も共同運輸も、とんだ阿呆だ。ただの間抜けだ。
一歩こちらに近づいた共同運輸に、一歩引きさがった彼女は舌打ち混じりに言い放った。
「気安く近寄るな庶民が」
「地下浪人上がりが調子乗るなよ馬鹿!……や、おまえ、泣いてんのか?」
泣いているわけなかろう、と呟いた。彼女の声はわずか震えていた。
共同運輸はにやにや下品に笑った。
「いいもん見た。死人の顔も見れてないが腹いっぱいだ。帰ろ帰ろ」
「帰れ」
「帰るさ。また来る。こんな葬式ならいつあっても良い。月に十回は欲しい」
「帰りやがれ!!」
それは鼻声で、喉が詰った、みっともない大声だった。だから共同運輸以上に驚いたのは彼女自身の方だった。おまえ、と呟いた共同運輸は一瞬呆けた顔を晒し、ばつの悪いような表情をしたあと、彼女の顔を下から掬いあげるようにそうっと見上げた。彼女の様子をうかがっている。彼女は共同運輸より数寸は背が高いのだ。人間の現し身を比べ、わずかでも共同運輸を見下げることができるのが彼女の密かな楽しみだった。愚かなことだ、と自身でもわかっていた。
私たちのひとのすがたになど意味はないのに。
三菱蒸気船会社として日本国郵便汽船会社を下してからというもの、彼女は一社一強として日本海運を牽引してきた。それが独占と言われようが強欲と罵られようが変わらなかった。むしろその誹りと軽蔑の視線はひどく心地よかった。口汚く罵る相手の瞳には、同時に常に畏怖と卑屈とがあったからだ。栄光これより大なるはなかったし、それを積極的に快楽として、彼女は企業を生きてきた。
箸が転んでも面白い、もとい箸が転んでも儲かるような面白い海を独占していた彼女の前に現れたのが、今この顔を見上げる共同運輸会社であった。打倒三菱を掲げて生まれた会社であり、初めから彼女の敵たるものとして創られた、愚かな海運企業。
両社互いに船が並べば一歩も航路を譲らずにぶつかるに任せた。彼女の営業する横浜・神戸間の運賃は五円五十銭だったものが、一円五十銭となり一円となり七十五銭となり五十五銭となり二十五銭に景品付きとなる始末。人間たちは愚かだ、と思いながらも値段を繰り下げることに一番熱心だったのが彼女自身だったのだからこの世は阿呆だらけだ。もちろん利潤など生まれず、急激に利益は損失し、両社とも互いが互いを泥沼に引っ張る瀕死状態へとあっけなく転落していった。
「……あのな、こんなうわさ話知ってるか。お上が私たちの争いに介入するんだって」
「……知っている。絶対に嫌だ。汚らしい」
そう吐き捨てた彼女は煙草を捨て、靴で何度も執拗にもみ消した。
「私だって嫌だわい!でも簡単に死ぬわけにはいかないだろ?人間みたいにさ。お国の海と船はどうすんのさ」
という共同運輸の言葉に、彼女はふと胸を突かれた。冷たい刃で胸を割かれたような気持ちになった。私を国賊というのなら私の船を残らず遠州灘に集めて焼き払い財産を自由党に寄付しようぞ、というあの人間の言葉を思い出したからだ。
あの男は結局は日本国の海運を想っていた、だからなおさら政府とその先鋒たる共同運輸を憎んでいた。あの男は海運業を独占していたが、政府がただの政略上の問題で三菱を潰しにかかったのもまた事実であった。その思いが船を焼き払うべし、という悲惨な言葉に繋がり、死の床ですら競争を挑みて敵におくるるなかれと遺言を残して逝ったのだ。人間は阿呆、世は馬鹿ばかり、私も社員も阿呆で政府の人間も阿呆だ。こいつも阿呆のはずなのに、お国の海と船はどうすんのさ、というひどく柔い土着じみた女言葉は、政治や企業人のそれとはほど遠く響き、だからなおさら彼女の心を打った。
言葉を無くした彼女に、共同運輸は言った。
「郵便汽船三菱会社、あんたはどう思うのさ」
私は、と彼女は言いかけて、黙った。
やめたかった。こんなふざけた現状をどうにかしたかった。頑張って得た船も焼きたくなかったし、財産だって保有していたかった。なによりあの男の残したものをむざむざと捨てたくなかった。たとえそこが地獄だろうがそこで嗤っていてほしかった。まるでいじらしい、乙女がよき男に向けるような感情、まったく人間じみていることに気づき、ただただ自己嫌悪に陥り恥じ入った。私は、あの男が憎くなかったのだ。きっと憎くなかったのだ。すべてがまったくの茶番だった。この茶番の主役の名を岩崎弥太郎という。
小説「来たるべき最期の日」 #おやしお(初代)

私、潜水艦おやしおは、皆さんに、艦生に、今は亡き最愛の彼に、海上自衛隊の面々に、元愛人のようなものでまさしく大親友のちはやに、おおしおをはじめとする海自潜水艦の連中に、川崎重工神戸工場の皆さまに、進水からすべてを見守ってくれた日本国民に、それからなるしおに、多大なる謝意を示す。今日はぼくの退役式であり、秋の空の下、よき別れの日であると思う。港に集まった海の男たちはいつもの快活さをひそめ、顔には真摯さがにじんでいる。そしてそれは僕も同じであろう。いつも見る海もまた表情が暗いように思えた。今日これもまた祝福されるべき門出なのだが、おやしおの脳裏に浮かんだのはなぜか、あの多くの人びとが集まった――華やかな小旗、紙吹雪、翻る日章旗と自衛艦旗の色の鮮やかな――進水式のことだった。つい昨日のことだった、などとしみじみ言ってみせるつもりはない。遠い過去のことだ。
おやしおは、乗組員と副長、そして艦長が退艦する様を艦上から眺めていた。艦長の手に掲げられた自衛艦旗が赤く目を焼く。おやしおにとってあの旗は特別なもので、ジエイカンキ、という、脳内に残る特殊な発音で記憶していた。あの人はいつもあの旗をそう発音し、その美しさを密かに誇りにしていたのだ。おやしおは先ほどあの旗を下げられ、ついに元「おやしお」である何かになったのだった。
式はただ淡々と進行していく。おやしおはただ穏やかな気持ちでそれを眺めていた。除籍されるのも解体されるのも、なにも恐ろしいことではない。知らぬ間に沈没と認定されて、いつの間にか除籍されるわけではないことを考えるのなら、幸せな生涯だったのだろう。おやしおは、乗員の一人が泣きそうな顔でこちらを見つめていることに気付いた。柔くおやしおがほほえみかえすと、彼は苦渋の表情のまま、何かを振り切るように目をそらした。
おやしおは、潜水艦「おやしお」に対して送られた、惜別の辞を思い出していた。歴代の乗員たちがおやしおに送った言葉を、彼は事前に聞いていたのだった。
……独特の何かを備えた潜水艦、おやしお学校、おやしお魂。華麗なシルエット、ハイセイコーのような俊足。このような誇り高き雰囲気を持つ艦は再来しないのではないか。……彼らにそう言葉を送られていたのだった。そのことをふと今になって思い出し、おやしおは無性に泣きたくなった。彼と別れたときとは全く別の感情だった。覚悟と決意。それと共に。そうあった一生に対する、是の念が呼び起こした涙だった。涙を零さないようにちらと薄群青色の空を見上げると、そこには早風にあおられた雲が広がっている。港から遠い木々たちの、水気を含んだような鈍いさざめきと、日差しを淡くさえぎった雲の動きを見たとき、おやしおははじめてこの生を実感し、まだ生きたい、と願った。この時ほど自分が生きていると実感したことはなかった。ぼくはまだ解体されてはいけない。生きていたい。

私、潜水艦おやしおは、皆さんに、艦生に、今は亡き最愛の彼に、海上自衛隊の面々に、元愛人のようなものでまさしく大親友のちはやに、おおしおをはじめとする海自潜水艦の連中に、川崎重工神戸工場の皆さまに、進水からすべてを見守ってくれた日本国民に、それからなるしおに、多大なる謝意を示す。今日はぼくの退役式であり、秋の空の下、よき別れの日であると思う。港に集まった海の男たちはいつもの快活さをひそめ、顔には真摯さがにじんでいる。そしてそれは僕も同じであろう。いつも見る海もまた表情が暗いように思えた。今日これもまた祝福されるべき門出なのだが、おやしおの脳裏に浮かんだのはなぜか、あの多くの人びとが集まった――華やかな小旗、紙吹雪、翻る日章旗と自衛艦旗の色の鮮やかな――進水式のことだった。つい昨日のことだった、などとしみじみ言ってみせるつもりはない。遠い過去のことだ。
おやしおは、乗組員と副長、そして艦長が退艦する様を艦上から眺めていた。艦長の手に掲げられた自衛艦旗が赤く目を焼く。おやしおにとってあの旗は特別なもので、ジエイカンキ、という、脳内に残る特殊な発音で記憶していた。あの人はいつもあの旗をそう発音し、その美しさを密かに誇りにしていたのだ。おやしおは先ほどあの旗を下げられ、ついに元「おやしお」である何かになったのだった。
式はただ淡々と進行していく。おやしおはただ穏やかな気持ちでそれを眺めていた。除籍されるのも解体されるのも、なにも恐ろしいことではない。知らぬ間に沈没と認定されて、いつの間にか除籍されるわけではないことを考えるのなら、幸せな生涯だったのだろう。おやしおは、乗員の一人が泣きそうな顔でこちらを見つめていることに気付いた。柔くおやしおがほほえみかえすと、彼は苦渋の表情のまま、何かを振り切るように目をそらした。
おやしおは、潜水艦「おやしお」に対して送られた、惜別の辞を思い出していた。歴代の乗員たちがおやしおに送った言葉を、彼は事前に聞いていたのだった。
……独特の何かを備えた潜水艦、おやしお学校、おやしお魂。華麗なシルエット、ハイセイコーのような俊足。このような誇り高き雰囲気を持つ艦は再来しないのではないか。……彼らにそう言葉を送られていたのだった。そのことをふと今になって思い出し、おやしおは無性に泣きたくなった。彼と別れたときとは全く別の感情だった。覚悟と決意。それと共に。そうあった一生に対する、是の念が呼び起こした涙だった。涙を零さないようにちらと薄群青色の空を見上げると、そこには早風にあおられた雲が広がっている。港から遠い木々たちの、水気を含んだような鈍いさざめきと、日差しを淡くさえぎった雲の動きを見たとき、おやしおははじめてこの生を実感し、まだ生きたい、と願った。この時ほど自分が生きていると実感したことはなかった。ぼくはまだ解体されてはいけない。生きていたい。
小説「新製兵器」 #なるしお #おやしお(初代)

新しい涙滴型潜水艦は、海上自衛隊の次世代を担う存在として在来型船型潜水艦の面々にも歓迎され、すこし迷惑な存在としても受け入れられた。つまるところ、彼らはおニューな高性能兵器としての自負が強い、小生意気な後輩だったのだ。在来型は在来型同士、お互いをある程度の尊重と敬意と親しみをもって、くろだの先輩だのツインズだのねんねちゃんだのあだ名で呼び合っていたのだが、涙滴型は在来型に対して少し馬鹿にしたように呼び捨てにするだけだ。だが、その関係は決して不穏ものではない。在来型にとってみれば、ぼくらは歳を取った、そういうことなのだろう――そうやって苦笑したいような、親が反抗期の子どもを見守るような関係だった。
日本初の涙滴型の水中高速潜水艦である「うずしお」型潜水艦の四番艦「なるしお」(SS-569)〔現在は、特務潜水艦ATSS-8002・編者〕は、昭和四十五年度計画に基づく潜水艦として三菱重工業神戸造船所で建造され、一九七三年九月二八日に就役し、第一潜水隊群隷下に新編された第五潜水隊に編入された。うずしお型潜水艦の中でも特に新鋭兵器という自意識の強い潜水艦で、おやしおは常に勇み足気味な彼を手懐けることに苦労した。まあ、手懐けてみれば可愛い後輩だったのだが。
なるしおの就役後の大任務にして海上自衛隊史上最大の事件であった「第十雄洋丸事件」が起きたのは、なるしお就役後の一年と少し、一九七四年一一月九日の昼下がりである。液化石油ガス(LPG)などを積載した「第十雄洋丸」(四三、八二四トン)が、浦賀水道北端付近で、リベリア船籍の貨物船「パシフィック・アリス号」(一〇、八二四トン)と衝突し、両船が炎上して三三名が死亡するという大惨事が発生した。爆発を繰り返し消火のめどがつかなかった第十雄洋丸は自衛隊の手によって沈没処分されることになった。出動兵力の第十雄洋丸処分部隊は、水上部隊は「はるな」(DDH-141)「たかつき」(DD-164)「もちづき」(DD-166)「ゆきかぜ」(DD-102)で構成され、ともに選ばれたのが潜水艦「なるしお」であった。
なぜ横須賀ではなく呉のなるしおが指定されたのか。当時唯一信頼における魚雷はMk37魚雷(米国製)であり、この実装・魚雷を調整(訓練用ではなく実際の炸薬を装備)できる能力を有していたのは呉水雷整備所しかなかったため、呉の潜水艦に白羽の矢が立った。なるしおは四本のMk37実装魚雷を搭載し、呉から横須賀沖まで興奮収まらぬ様子で勇躍進出していった――のだが。
「どうしたのなるしお」
「うるさい」
おやしおは部屋の隅で膝を抱え座っているなるしおに声をかけた。彼は先日事件への対処を終え呉へと帰港してきたのだが、なぜか元気がない。声をかけても菓子で釣ろうとしてもどんよりしたままそっぽを向くだけだ。手拍子を打ちながらなるしおの名前を連呼する(なーる!なるちゃん!なるお!ナルシスト!)おやしおを彼は無視し、唇を尖らせひたすら黙っていたが、ふとぽつりと呟いた。
「……『思いのほか』だった」
「思いのほか?」
「うん」
「そっかー」
そっかそっか、とおやしおは呟いた。思いのほか、うまくいかなかったんだ。
潜水艦「なるしお」が用意した魚雷は、一発目は不具合と判断され艦外へ投棄、二発目、三発目は無事発射・命中させたが当初予想していた大きな爆発は感じられなかった。最後の四発目は第十雄洋丸の船尾を狙ったが、吃水が油の流出により、予想以上に浅くなっていたことから船底を通過してしまった。
派遣する潜水艦をなるしおと決めた司令部も、なるしおに期待した人間たちも、実際どこまでの成果を彼に求めていたのかはわからない。最後には第十雄洋丸は処分できた、これだけで我らが海上自衛隊にとっては上出来だったのかもしれない。けれどなるしお自身はこの結果に納得していなかったらしい。最新鋭の潜水艦としての密かな意地だった。
「ぼくもよく魚雷は外してたけど」
「それは演習でしょ」
「演習が終わっているのに気づかない時すらあったよ?陸に連絡しないから、沈んだと思われて三空群とちーが手配されるくらいでさぁ」
「意味わかんない」
「なつかしいなあ。演習で皆はがんばってたけど、魚雷が当たらないか水上組に見つかっちゃうことも多くて。そしてぼくはどっかに消えちゃうっていう」
「アホか」
「沈没と認定されて除籍されちゃうところだったよ」
「バカ」
「あのあとめちゃくちゃ怒られたけど――」
昔話をしはじめたおやしおを、彼は「あのね」と強く制した。
「ぼくは対潜水艦訓練目標じゃあないんだ、おやしお」
君らとは違う、と彼は言った。その眼は鋭かった。続けて言う。ぼくは任務作戦のための潜水艦だ。ターゲットとしてちょろちょろ逃げ回るのではなく、敵に魚雷を当て撃破しなければならない。演習ではなく実戦で。そうでしょ?
「君たち水中目標艦の時代は終わったんだよ」
苛立たしげになるしおはそう言い放った。その後、自身もその言葉の強さに気づいたのであろう、ちら、と様子を窺うように、上目遣いでおやしおを見つめた。おやしおは目を閉じて口を曲げ、降参しました、とおどけるように肩をくすめている。その様子になるしおは安堵を見せる。

新しい涙滴型潜水艦は、海上自衛隊の次世代を担う存在として在来型船型潜水艦の面々にも歓迎され、すこし迷惑な存在としても受け入れられた。つまるところ、彼らはおニューな高性能兵器としての自負が強い、小生意気な後輩だったのだ。在来型は在来型同士、お互いをある程度の尊重と敬意と親しみをもって、くろだの先輩だのツインズだのねんねちゃんだのあだ名で呼び合っていたのだが、涙滴型は在来型に対して少し馬鹿にしたように呼び捨てにするだけだ。だが、その関係は決して不穏ものではない。在来型にとってみれば、ぼくらは歳を取った、そういうことなのだろう――そうやって苦笑したいような、親が反抗期の子どもを見守るような関係だった。
日本初の涙滴型の水中高速潜水艦である「うずしお」型潜水艦の四番艦「なるしお」(SS-569)〔現在は、特務潜水艦ATSS-8002・編者〕は、昭和四十五年度計画に基づく潜水艦として三菱重工業神戸造船所で建造され、一九七三年九月二八日に就役し、第一潜水隊群隷下に新編された第五潜水隊に編入された。うずしお型潜水艦の中でも特に新鋭兵器という自意識の強い潜水艦で、おやしおは常に勇み足気味な彼を手懐けることに苦労した。まあ、手懐けてみれば可愛い後輩だったのだが。
なるしおの就役後の大任務にして海上自衛隊史上最大の事件であった「第十雄洋丸事件」が起きたのは、なるしお就役後の一年と少し、一九七四年一一月九日の昼下がりである。液化石油ガス(LPG)などを積載した「第十雄洋丸」(四三、八二四トン)が、浦賀水道北端付近で、リベリア船籍の貨物船「パシフィック・アリス号」(一〇、八二四トン)と衝突し、両船が炎上して三三名が死亡するという大惨事が発生した。爆発を繰り返し消火のめどがつかなかった第十雄洋丸は自衛隊の手によって沈没処分されることになった。出動兵力の第十雄洋丸処分部隊は、水上部隊は「はるな」(DDH-141)「たかつき」(DD-164)「もちづき」(DD-166)「ゆきかぜ」(DD-102)で構成され、ともに選ばれたのが潜水艦「なるしお」であった。
なぜ横須賀ではなく呉のなるしおが指定されたのか。当時唯一信頼における魚雷はMk37魚雷(米国製)であり、この実装・魚雷を調整(訓練用ではなく実際の炸薬を装備)できる能力を有していたのは呉水雷整備所しかなかったため、呉の潜水艦に白羽の矢が立った。なるしおは四本のMk37実装魚雷を搭載し、呉から横須賀沖まで興奮収まらぬ様子で勇躍進出していった――のだが。
「どうしたのなるしお」
「うるさい」
おやしおは部屋の隅で膝を抱え座っているなるしおに声をかけた。彼は先日事件への対処を終え呉へと帰港してきたのだが、なぜか元気がない。声をかけても菓子で釣ろうとしてもどんよりしたままそっぽを向くだけだ。手拍子を打ちながらなるしおの名前を連呼する(なーる!なるちゃん!なるお!ナルシスト!)おやしおを彼は無視し、唇を尖らせひたすら黙っていたが、ふとぽつりと呟いた。
「……『思いのほか』だった」
「思いのほか?」
「うん」
「そっかー」
そっかそっか、とおやしおは呟いた。思いのほか、うまくいかなかったんだ。
潜水艦「なるしお」が用意した魚雷は、一発目は不具合と判断され艦外へ投棄、二発目、三発目は無事発射・命中させたが当初予想していた大きな爆発は感じられなかった。最後の四発目は第十雄洋丸の船尾を狙ったが、吃水が油の流出により、予想以上に浅くなっていたことから船底を通過してしまった。
派遣する潜水艦をなるしおと決めた司令部も、なるしおに期待した人間たちも、実際どこまでの成果を彼に求めていたのかはわからない。最後には第十雄洋丸は処分できた、これだけで我らが海上自衛隊にとっては上出来だったのかもしれない。けれどなるしお自身はこの結果に納得していなかったらしい。最新鋭の潜水艦としての密かな意地だった。
「ぼくもよく魚雷は外してたけど」
「それは演習でしょ」
「演習が終わっているのに気づかない時すらあったよ?陸に連絡しないから、沈んだと思われて三空群とちーが手配されるくらいでさぁ」
「意味わかんない」
「なつかしいなあ。演習で皆はがんばってたけど、魚雷が当たらないか水上組に見つかっちゃうことも多くて。そしてぼくはどっかに消えちゃうっていう」
「アホか」
「沈没と認定されて除籍されちゃうところだったよ」
「バカ」
「あのあとめちゃくちゃ怒られたけど――」
昔話をしはじめたおやしおを、彼は「あのね」と強く制した。
「ぼくは対潜水艦訓練目標じゃあないんだ、おやしお」
君らとは違う、と彼は言った。その眼は鋭かった。続けて言う。ぼくは任務作戦のための潜水艦だ。ターゲットとしてちょろちょろ逃げ回るのではなく、敵に魚雷を当て撃破しなければならない。演習ではなく実戦で。そうでしょ?
「君たち水中目標艦の時代は終わったんだよ」
苛立たしげになるしおはそう言い放った。その後、自身もその言葉の強さに気づいたのであろう、ちら、と様子を窺うように、上目遣いでおやしおを見つめた。おやしおは目を閉じて口を曲げ、降参しました、とおどけるように肩をくすめている。その様子になるしおは安堵を見せる。
小説「旭日の斜陽」 #ワフー #ミンゴ/くろしお(初代)

「おー、これが噂の」とミンゴ。
「そうだよ」
と彼は答えた。
ミンゴが岸壁からガトー級潜水艦の二十七番艦「ワフー」(SS-238)の艦橋を見上げると、そこに立っている艦霊の彼は、自慢げに片腕を上げて構造物を示した。レーダーマストには、白地に鮮血のような紅色で「××どもを撃ち殺してやれ」*と書かれた旗が。下の二流は自衛艦旗――じゃなかった、この時代では軍艦旗、さらに下には四流の日章旗が掲げられている。箒が潜望鏡架台に逆さまに括りつけられているのは、彼の小汚い艦内を掃除するためのいざというときの小道具という訳―ではなく日本人を一掃したという彼なりの勲章という訳らしい。噂の、というのはこうした過剰な敵意の現れ、下品な旗たちのことである。少々趣味の悪さを感じなくもない、ミンゴの顔にそんな感情が出ていたのだろう。ワフーは右四十度を仰ぎ、左手を首元に寄せピースサインを決めながら、乙にすました顔でこう言ってのけた。
「日本人一掃~」
「アホか」とミンゴ。
軍港の岸壁から見える海は、ミンゴが今までに見た中で一番鮮やかな海だった。水平線は朧気で遠い。陽気な海の色というよりはむしろ狂気に近い海。海だけではなく空も、一面に絵の具を塗りつけたように鮮やかだった。彩度は高く、ブルーというよりターコイズに近い色彩。太陽は空高く輝いている。
なぜか港は閑散としていて、「ワフー」以外の艦は―「ミンゴ」も含め―留まっていないようだった。人影もない。穏やかな波音だけがそこに存在していた。ワフーは短い金髪の髪を弄りながら、小さく鼻歌を歌っている。そこには、戦争の疲労感も苛立ちも、苦しみも嘆きも無いようだった。戦争なんて朝飯前の日課だ。そんな表情だった。
獰猛な潜水艦だと、ミンゴは聞いていた。彼によって沈められた日本艦船は多い。だからこの穏やかな態度は、少し意外でもあった。
「思うんだ」
と、唐突にワフーが呟いた。
「時代が違ったら、戦争じゃなかったら、あいつらが傲慢にも真珠湾を攻撃しなかったら、日本の潜水艦が観光ついでに真珠湾に来る日が来て、俺はそれの歓迎でもしてたかもなって―」
「そうだなぁ」
「真珠湾に来られても邪魔だけどな。なんだか知らねえが妙に艦体がでかくね?」
「そうそう。そのせいか知らんが通商破壊が得意じゃないよな」
「――と、今のミンゴちゃん見ていて思いました」
「今?」とミンゴは問いかける。今ってなんだよ。現在?今って?
ミンゴの疑問を黙殺し、ワフーは続けた。
「ああ。……ミンゴはさ、今、幸せか?」
「だからなんだよその質問は」
「いいからいいから」
とワフーはウインクをこちらに投げかけ、ミンゴの答えを促した。不器用なウインクだった。きっとウインクをしたことなどほとんどないのだろう。
「……幸せだよ。今の仲間がいるし」
そう、今の仲間が大切だった。今。
「仲間か~!」
ワフーはずっこけた――というより、ずっこけた振りをして、その動作でミンゴを茶化した。何故かすこし寂しそうに笑いながら。
「ああ」
ワフーの様子に少し罪悪感を覚えながらもミンゴは頷く。何故罪悪感とやらを感じるのかは自分でもわからなかった。
「じゃあさ、」とワフーは続ける。
「ん?」
「俺たちを誇りに思うか」
「俺たち?」
「俺たち。アメリカ、アメリカ人、アメリカ軍人、アメリカ海軍軍人。あるいはアメリカの艦艇。なにより我らアメリカ合衆国海軍の潜水艦たち」
彼は歌うように朗々と「俺たち」を挙げた。俺たち、アメリカ人。
「思うよ、なんだ急に」
とミンゴは彼に言う。お前たちアメリカ人は誇りだよ、と。お前たちアメリカ人。
その答えに満足したのか、ワフーは満面の笑みで笑った。朗らかに言う。
「その気持ちを忘れんなよ。じゃないとこの箒で一掃するからな」
とワフーは、両手をぶんぶんと振り回し、箒で掃く真似をしてみせた。必然と話が箒の話題へと戻る。
「その箒、外す時に気まずくないですか?そのまままた任務に行くんですか?」とミンゴ。
「もう任務には行かねえよ」
「そうなの?」
「だって戦争は終わったし」とワフーはあっさり言った。「俺たちの時代もとっくに終わってるだろ。ティルたちみたいに潜水艦推力増強改修*もされてないしな」と彼はひどく無念そうに呟いた。
「今の新しい潜水艦って、日本の……なんだっけ……ああ、海苔の巻いたおにぎりみてえだよな。一面真っ黒で」
「戦争って……」とミンゴは続けた。「もう、終わっているのか?」
「そうだよ。当たり前だろが」
「そんなのおかしいだろ?だって……」
お前は戦争が終わる二年前に沈没してる。
轟々と唸るように吹く海風はその紅の旗を一層となびかせた。旗がはち切れんばかりにバタバタとはためいている。ミンゴは冷や汗をかきながら、艦橋上のワフーを見上げてはじめて違和感を覚えた。なんでぼくはここにいる?そもそもここはどこだ?この時代では自衛艦旗ではなく軍艦旗?一九四三年二月頃にはすでに日本海域で任務に就いており、十月十一日に日本の爆撃と爆雷で沈没した彼と、一九四三年二月十二日に就役したぼくは、いつどこで知り合った?こんなに―こんなに親しく話し合うほどに、こんなにくだらないおしゃべりに高じるほどに、いつその交流を深めただろうか?
彼の顔は逆光で見えない。緊張した空気の張りつめる中で二人は黙ったままだった。いつもは海で聞こえるウミネコの鳴き声も、なぜかここでは聞こえなかった。ぼくと彼以外の生き物は、ここには何もいないようだった。
「……みんな待ってるよ、この死にぞこないが」
彼は微かに笑ったようだった。ゆっくりと潜水艦「ワフー」は岸壁を離れていく。ミンゴはそれを呆然と見送り、彼の言うことは正しかったことに気づく。戦争は終わっている。大戦型の時代も終わっている。彼はもうとっくに沈んでいる。
彼は――潜水艦「ワフー」は、一九四三年一〇月一一日に戦没した。
対馬、津軽、宗谷の三海峡が機雷に守られ「天皇の浴槽」と呼ばれていた日本海。通商破壊が行われていなかった、否、行うことが出来なかった日本海に、機雷原を突破し潜り込んだ「ワフー」は、その勇猛さを発揮し、日本の艦船を次々に沈めていった。
四度目の日本海での作戦の後、帰還のため宗谷海峡を突破しようとした「ワフー」は、浮上航行しているところを宗谷防備隊に発見された。その後、五時間にも及ぶ執拗な爆弾・爆雷攻撃を受けた「ワフー」は、油と気泡を漏らし三海里にも及ぶ油帯を航跡波のように残して沈んでいったという。歴戦の猛者だった「ワフー」の戦没はアメリカに強い衝撃を与え、一九四五年のバーニー作戦*まで日本海に潜水艦を侵入させることはなくなった。
ミンゴはその話を、仲間の潜水艦と乗組員から伝説として聞いていたのだった。そして強く思った。日本人は本当に野蛮な連中だと。奴らに絶対に屈してなるものかと。それがぼくらの使命だと。そして実際、敗北することなく一九四五年の夏、その悪の敵国に勝利した。
ぼくがその敵国の艦になったのはその十年後だ。ぼくの、今のミンゴちゃんの名前はミンゴではなく、フィリピンの北東、台湾の東方から発し、台湾沖を北上して西南日本沿岸に沿って進み、房総半島東方沖で東に向きを変える暖流からとられた、あの名前だった。
潜水艦「くろしお」。
日本国、海上自衛隊初の潜水艦としての栄誉が。
「じゃあなあ!赤っ面の間抜け顔!」
ワフーは晴れやかな笑顔で艦上から手を振り、そして二度と振り返らなかった。
茫漠たる海に潜水艦たちが泳いでいた。
現れた無数の潜水艦たちが描いたいくつものウェーキが混じり合う。
あれはアルバコア。あいつは津軽海峡で機雷に接触し、ラッキーストライクや日用品、書籍などの遺物を水面に浮かべて沈んでいった。あいつはガードフィッシュ。多くの日本艦船を沈めていった彼は、一九六一年に標的艦としての栄光を受け海没処分された。ダーター、ロバロー、ボーンフィッシュ。グレイバック。みんなみんなくろしおより先に沈んでいった、懐かしい顔ばかりだった。彼らはイルカの遊弋のように、艦首でなだらかに曲線を描いては母なる海に潜航していった。艦に入る直前に手を振って潜航していった。別れを告げて潜航していった。みんな去っていった。
――
*原語ではSHOOT THE SUN ZA BITCHES.
*潜水艦推力増強計画。(Greater Underwater Propulsion Power Program)。GUPPYちゃん。上部構造物を覆い水中航行に強くなった。
*バーニー作戦Operation Barney.

「おー、これが噂の」とミンゴ。
「そうだよ」
と彼は答えた。
ミンゴが岸壁からガトー級潜水艦の二十七番艦「ワフー」(SS-238)の艦橋を見上げると、そこに立っている艦霊の彼は、自慢げに片腕を上げて構造物を示した。レーダーマストには、白地に鮮血のような紅色で「××どもを撃ち殺してやれ」*と書かれた旗が。下の二流は自衛艦旗――じゃなかった、この時代では軍艦旗、さらに下には四流の日章旗が掲げられている。箒が潜望鏡架台に逆さまに括りつけられているのは、彼の小汚い艦内を掃除するためのいざというときの小道具という訳―ではなく日本人を一掃したという彼なりの勲章という訳らしい。噂の、というのはこうした過剰な敵意の現れ、下品な旗たちのことである。少々趣味の悪さを感じなくもない、ミンゴの顔にそんな感情が出ていたのだろう。ワフーは右四十度を仰ぎ、左手を首元に寄せピースサインを決めながら、乙にすました顔でこう言ってのけた。
「日本人一掃~」
「アホか」とミンゴ。
軍港の岸壁から見える海は、ミンゴが今までに見た中で一番鮮やかな海だった。水平線は朧気で遠い。陽気な海の色というよりはむしろ狂気に近い海。海だけではなく空も、一面に絵の具を塗りつけたように鮮やかだった。彩度は高く、ブルーというよりターコイズに近い色彩。太陽は空高く輝いている。
なぜか港は閑散としていて、「ワフー」以外の艦は―「ミンゴ」も含め―留まっていないようだった。人影もない。穏やかな波音だけがそこに存在していた。ワフーは短い金髪の髪を弄りながら、小さく鼻歌を歌っている。そこには、戦争の疲労感も苛立ちも、苦しみも嘆きも無いようだった。戦争なんて朝飯前の日課だ。そんな表情だった。
獰猛な潜水艦だと、ミンゴは聞いていた。彼によって沈められた日本艦船は多い。だからこの穏やかな態度は、少し意外でもあった。
「思うんだ」
と、唐突にワフーが呟いた。
「時代が違ったら、戦争じゃなかったら、あいつらが傲慢にも真珠湾を攻撃しなかったら、日本の潜水艦が観光ついでに真珠湾に来る日が来て、俺はそれの歓迎でもしてたかもなって―」
「そうだなぁ」
「真珠湾に来られても邪魔だけどな。なんだか知らねえが妙に艦体がでかくね?」
「そうそう。そのせいか知らんが通商破壊が得意じゃないよな」
「――と、今のミンゴちゃん見ていて思いました」
「今?」とミンゴは問いかける。今ってなんだよ。現在?今って?
ミンゴの疑問を黙殺し、ワフーは続けた。
「ああ。……ミンゴはさ、今、幸せか?」
「だからなんだよその質問は」
「いいからいいから」
とワフーはウインクをこちらに投げかけ、ミンゴの答えを促した。不器用なウインクだった。きっとウインクをしたことなどほとんどないのだろう。
「……幸せだよ。今の仲間がいるし」
そう、今の仲間が大切だった。今。
「仲間か~!」
ワフーはずっこけた――というより、ずっこけた振りをして、その動作でミンゴを茶化した。何故かすこし寂しそうに笑いながら。
「ああ」
ワフーの様子に少し罪悪感を覚えながらもミンゴは頷く。何故罪悪感とやらを感じるのかは自分でもわからなかった。
「じゃあさ、」とワフーは続ける。
「ん?」
「俺たちを誇りに思うか」
「俺たち?」
「俺たち。アメリカ、アメリカ人、アメリカ軍人、アメリカ海軍軍人。あるいはアメリカの艦艇。なにより我らアメリカ合衆国海軍の潜水艦たち」
彼は歌うように朗々と「俺たち」を挙げた。俺たち、アメリカ人。
「思うよ、なんだ急に」
とミンゴは彼に言う。お前たちアメリカ人は誇りだよ、と。お前たちアメリカ人。
その答えに満足したのか、ワフーは満面の笑みで笑った。朗らかに言う。
「その気持ちを忘れんなよ。じゃないとこの箒で一掃するからな」
とワフーは、両手をぶんぶんと振り回し、箒で掃く真似をしてみせた。必然と話が箒の話題へと戻る。
「その箒、外す時に気まずくないですか?そのまままた任務に行くんですか?」とミンゴ。
「もう任務には行かねえよ」
「そうなの?」
「だって戦争は終わったし」とワフーはあっさり言った。「俺たちの時代もとっくに終わってるだろ。ティルたちみたいに潜水艦推力増強改修*もされてないしな」と彼はひどく無念そうに呟いた。
「今の新しい潜水艦って、日本の……なんだっけ……ああ、海苔の巻いたおにぎりみてえだよな。一面真っ黒で」
「戦争って……」とミンゴは続けた。「もう、終わっているのか?」
「そうだよ。当たり前だろが」
「そんなのおかしいだろ?だって……」
お前は戦争が終わる二年前に沈没してる。
轟々と唸るように吹く海風はその紅の旗を一層となびかせた。旗がはち切れんばかりにバタバタとはためいている。ミンゴは冷や汗をかきながら、艦橋上のワフーを見上げてはじめて違和感を覚えた。なんでぼくはここにいる?そもそもここはどこだ?この時代では自衛艦旗ではなく軍艦旗?一九四三年二月頃にはすでに日本海域で任務に就いており、十月十一日に日本の爆撃と爆雷で沈没した彼と、一九四三年二月十二日に就役したぼくは、いつどこで知り合った?こんなに―こんなに親しく話し合うほどに、こんなにくだらないおしゃべりに高じるほどに、いつその交流を深めただろうか?
彼の顔は逆光で見えない。緊張した空気の張りつめる中で二人は黙ったままだった。いつもは海で聞こえるウミネコの鳴き声も、なぜかここでは聞こえなかった。ぼくと彼以外の生き物は、ここには何もいないようだった。
「……みんな待ってるよ、この死にぞこないが」
彼は微かに笑ったようだった。ゆっくりと潜水艦「ワフー」は岸壁を離れていく。ミンゴはそれを呆然と見送り、彼の言うことは正しかったことに気づく。戦争は終わっている。大戦型の時代も終わっている。彼はもうとっくに沈んでいる。
彼は――潜水艦「ワフー」は、一九四三年一〇月一一日に戦没した。
対馬、津軽、宗谷の三海峡が機雷に守られ「天皇の浴槽」と呼ばれていた日本海。通商破壊が行われていなかった、否、行うことが出来なかった日本海に、機雷原を突破し潜り込んだ「ワフー」は、その勇猛さを発揮し、日本の艦船を次々に沈めていった。
四度目の日本海での作戦の後、帰還のため宗谷海峡を突破しようとした「ワフー」は、浮上航行しているところを宗谷防備隊に発見された。その後、五時間にも及ぶ執拗な爆弾・爆雷攻撃を受けた「ワフー」は、油と気泡を漏らし三海里にも及ぶ油帯を航跡波のように残して沈んでいったという。歴戦の猛者だった「ワフー」の戦没はアメリカに強い衝撃を与え、一九四五年のバーニー作戦*まで日本海に潜水艦を侵入させることはなくなった。
ミンゴはその話を、仲間の潜水艦と乗組員から伝説として聞いていたのだった。そして強く思った。日本人は本当に野蛮な連中だと。奴らに絶対に屈してなるものかと。それがぼくらの使命だと。そして実際、敗北することなく一九四五年の夏、その悪の敵国に勝利した。
ぼくがその敵国の艦になったのはその十年後だ。ぼくの、今のミンゴちゃんの名前はミンゴではなく、フィリピンの北東、台湾の東方から発し、台湾沖を北上して西南日本沿岸に沿って進み、房総半島東方沖で東に向きを変える暖流からとられた、あの名前だった。
潜水艦「くろしお」。
日本国、海上自衛隊初の潜水艦としての栄誉が。
「じゃあなあ!赤っ面の間抜け顔!」
ワフーは晴れやかな笑顔で艦上から手を振り、そして二度と振り返らなかった。
茫漠たる海に潜水艦たちが泳いでいた。
現れた無数の潜水艦たちが描いたいくつものウェーキが混じり合う。
あれはアルバコア。あいつは津軽海峡で機雷に接触し、ラッキーストライクや日用品、書籍などの遺物を水面に浮かべて沈んでいった。あいつはガードフィッシュ。多くの日本艦船を沈めていった彼は、一九六一年に標的艦としての栄光を受け海没処分された。ダーター、ロバロー、ボーンフィッシュ。グレイバック。みんなみんなくろしおより先に沈んでいった、懐かしい顔ばかりだった。彼らはイルカの遊弋のように、艦首でなだらかに曲線を描いては母なる海に潜航していった。艦に入る直前に手を振って潜航していった。別れを告げて潜航していった。みんな去っていった。
――
*原語ではSHOOT THE SUN ZA BITCHES.
*潜水艦推力増強計画。(Greater Underwater Propulsion Power Program)。GUPPYちゃん。上部構造物を覆い水中航行に強くなった。
*バーニー作戦Operation Barney.
小説「愛の往復書簡」 #おやしお(初代) #ミンゴ/くろしお(初代) #おおしお #ちはや(初代)

くろへ
どうしてぼくだけに会ってくれないのか、ぼくにはわからない。ぼくはくろになにかしただろうか、とても悲しいです。この手紙はおおしおにたくすつもりです。
ぼくはくろが除籍〔編者注・「籍」の「昔」が「音」になっている。誤字か〕されてもいっしょにいたいと思っているし、くろがいなくなるしゅんかんまでずっといっしょでいるつもりです。だって、おかしいとおもいませんか。ぼくはうまれてからずっといっしょにくろといました。ぼくのさいごのしゅん間までとはいいませんが、すこしでもながくいっしょにいることはできるはずです。アメリカにかえらないのならなおさらです。
文字がうまくかけない。ごめんなさい。次日〔原文ママ・「明日」の間違いか〕、串山公園〔呉にある公園〕でまっています。
おおしおへ
ぼくはあの人にすべてをおしえてもらったし、すべてを返してあげたいとおもっています。この先があまりにみじかくてもです。この手紙をくろにわたしてください。きみになら会ってくれるようなのです。よろしくおねがいします。
はやしおへ
五月の接触事故は大丈夫だった?大変でしたね。訓練は油断が禁物です。ぼくも未だに一月の事故のせいでプロペラにムズムズと違和感がある気がする。そっちの潜望鏡は大丈夫?視力はおかしくないですか?
おやしお先輩がくろしお兄さんに手紙を渡してくれと頼んできました。正直な話、これからが少し心配です。あの人はくろしお兄さん抜きでこれから大丈夫なんだろうか?
彼は、くろしお兄さんにすべてを教えてもらったのですべてを返したいそうです(当たり前かもしれませんが、文字の書き方は全然教えてもらってないように見えましたが。時たま忘れそうになりますが、そう、くろしお兄さんはアメリカから貸与され、その彼におやしお先輩は育てられたのです)。ぼく個人の考えでは、くろしお兄さんのことを忘れるのがその「恩返し」のいちばんの方法だろうと思うし、彼自身も同じ考えのようでした。おやしお先輩は彼自身のためにもくろしお兄さんを忘れなければならない。でもおやしお先輩も、心の底ではくろしお兄さんだってそれを嫌がっている。むずかしいです。ぼくはくろしお兄さんの代艦として建造されたけれど、代艦としての役割はなかなか果たしていないように思えます。これは精神面での話です。
おやしお先輩へ
忙しいので人経由の手紙で失礼します。くろしお兄さんに手紙を渡しました。もう多くは言いませんが、除籍された船はすでに船ではありません、それを重々忘れないようにお願いします。ぼくらは過去を見返るのではなく、この先だけを見据〔「す」というルビが振ってある〕えなければなりません。それがぼくらのさだめだからです。ぼくはそう思っていますし、くろしお兄さんもそれを望んでいます。
おーくんじゃない方のおの字へ
あさしおからお話を聞きました。ぼくの涙ぐましい努力のおかげで、再びあの二人はラブラブにくっつき大団円を迎えると思ったのに、こんなギリギリになってまた別れるだの添い遂げないだのぎゃんぎゃんとやりあっていることを考えると、本当の本当の本当に頭が痛いです。くろにぃがここまで女々しい艦だとは思いませんでした。
有難迷惑なことにくろにぃはぼくのことを過大評価していて、潜水艦救難艦(海に潜らないので君らよりちょっと長生き)のぼくにおーくんの世話を任せたいようだけど、ぼくはそんなのごめんだし、どちらかというとぼくはダンディーなおじさまが好きだし、なのでおーくんはちっとも好みじゃないし、そもそもあいつはぼくと居てもいつもくろにぃの話しかしなかったし、そのわりにはねちっこく求めてくるし、アホだし、だらしがないし、たらしだし、あれはねんねちゃんに譲りたいと思います。煮るなり焼くなり好きにしてください。
話が逸れた。何が言いたいのかと言うと、くろにぃは最期くらいおーくんに(そしてぼくらに)わがままを言ってもいい気がします。迷惑とやらをかけてもいい。ここまで来るとぼくらは信用されてないのかとすら思えてくる。ぼくはちょっと怒っています。そして彼に失望したまま、すべてを終えたくはないのです。
おーくんへ
ぼくは君〔「きみ」というルビが振ってある〕たちがどんな結末〔「けつまつ」というルビ。以下同〕を迎〔「むか」〕えようが助〔「たす」〕ける義務〔「ぎむ」。「義務」は二重下線で強調されている〕があります。
ぼくの小さな神さまへ〔普通郵便だが消印がない。未投函か・編者注〕
ぼくはもう君に会うつもりはない。除籍船は除籍された瞬間、もう消えたものと思うこと。僕はもうここにはいない。どこにもいない。たまたま人の似姿をしているだけだ。
ぼくの生きる意味は、君たち日本の潜水艦を育成することで、思えば君たちはぼくの存在意義だった。そしてとりわけ君はその象徴だった。潜水艦「くろしお」としてのぼくの一番はじめの意味。ぼくの小さな神さまだった。ぼくは君にいつも……〔一九七五年に呉のある木の根元から発見されたときには、すでにボロボロの状態で内容が穴喰いになっていた・編者〕……から、おおしおに会うことはできる。はやしおにもなつしおたちにも会うことはできる。君以外になら会えるだろう〔「君以外なら」の一文は斜線で消されている〕。君には会うことはできない。ぼくは臆病だからだ。結局、君だけでなく今度の新しい艤装中の涙滴型潜水艦にだって会うことはできなかった。涙滴型は日本の潜水艦の悲願だと散々自分で言っておきながら、ぼくは日本においてですら前世代の潜水艦になってしまうことを恐れていた。そしてそれはぼくだけではなく、君たち在来型もそうだ。君たちとの思い出すべてが、過去のものになってしまいそうで、涙滴型と相見ることは結局できやしなかった。
ぼくは君に会うことはできない。僕は君を拒絶し続けたしこれからもするだろう。それが最後の義務だからだ。最後までそうしなければならないからだ。けれど……〔不明、読めない〕……いまさらそんな関係を求めても何も報われないし、だから……もし……当を言うのなら〔以下、すべて破れている〕

くろへ
どうしてぼくだけに会ってくれないのか、ぼくにはわからない。ぼくはくろになにかしただろうか、とても悲しいです。この手紙はおおしおにたくすつもりです。
ぼくはくろが除籍〔編者注・「籍」の「昔」が「音」になっている。誤字か〕されてもいっしょにいたいと思っているし、くろがいなくなるしゅんかんまでずっといっしょでいるつもりです。だって、おかしいとおもいませんか。ぼくはうまれてからずっといっしょにくろといました。ぼくのさいごのしゅん間までとはいいませんが、すこしでもながくいっしょにいることはできるはずです。アメリカにかえらないのならなおさらです。
文字がうまくかけない。ごめんなさい。次日〔原文ママ・「明日」の間違いか〕、串山公園〔呉にある公園〕でまっています。
おおしおへ
ぼくはあの人にすべてをおしえてもらったし、すべてを返してあげたいとおもっています。この先があまりにみじかくてもです。この手紙をくろにわたしてください。きみになら会ってくれるようなのです。よろしくおねがいします。
はやしおへ
五月の接触事故は大丈夫だった?大変でしたね。訓練は油断が禁物です。ぼくも未だに一月の事故のせいでプロペラにムズムズと違和感がある気がする。そっちの潜望鏡は大丈夫?視力はおかしくないですか?
おやしお先輩がくろしお兄さんに手紙を渡してくれと頼んできました。正直な話、これからが少し心配です。あの人はくろしお兄さん抜きでこれから大丈夫なんだろうか?
彼は、くろしお兄さんにすべてを教えてもらったのですべてを返したいそうです(当たり前かもしれませんが、文字の書き方は全然教えてもらってないように見えましたが。時たま忘れそうになりますが、そう、くろしお兄さんはアメリカから貸与され、その彼におやしお先輩は育てられたのです)。ぼく個人の考えでは、くろしお兄さんのことを忘れるのがその「恩返し」のいちばんの方法だろうと思うし、彼自身も同じ考えのようでした。おやしお先輩は彼自身のためにもくろしお兄さんを忘れなければならない。でもおやしお先輩も、心の底ではくろしお兄さんだってそれを嫌がっている。むずかしいです。ぼくはくろしお兄さんの代艦として建造されたけれど、代艦としての役割はなかなか果たしていないように思えます。これは精神面での話です。
おやしお先輩へ
忙しいので人経由の手紙で失礼します。くろしお兄さんに手紙を渡しました。もう多くは言いませんが、除籍された船はすでに船ではありません、それを重々忘れないようにお願いします。ぼくらは過去を見返るのではなく、この先だけを見据〔「す」というルビが振ってある〕えなければなりません。それがぼくらのさだめだからです。ぼくはそう思っていますし、くろしお兄さんもそれを望んでいます。
おーくんじゃない方のおの字へ
あさしおからお話を聞きました。ぼくの涙ぐましい努力のおかげで、再びあの二人はラブラブにくっつき大団円を迎えると思ったのに、こんなギリギリになってまた別れるだの添い遂げないだのぎゃんぎゃんとやりあっていることを考えると、本当の本当の本当に頭が痛いです。くろにぃがここまで女々しい艦だとは思いませんでした。
有難迷惑なことにくろにぃはぼくのことを過大評価していて、潜水艦救難艦(海に潜らないので君らよりちょっと長生き)のぼくにおーくんの世話を任せたいようだけど、ぼくはそんなのごめんだし、どちらかというとぼくはダンディーなおじさまが好きだし、なのでおーくんはちっとも好みじゃないし、そもそもあいつはぼくと居てもいつもくろにぃの話しかしなかったし、そのわりにはねちっこく求めてくるし、アホだし、だらしがないし、たらしだし、あれはねんねちゃんに譲りたいと思います。煮るなり焼くなり好きにしてください。
話が逸れた。何が言いたいのかと言うと、くろにぃは最期くらいおーくんに(そしてぼくらに)わがままを言ってもいい気がします。迷惑とやらをかけてもいい。ここまで来るとぼくらは信用されてないのかとすら思えてくる。ぼくはちょっと怒っています。そして彼に失望したまま、すべてを終えたくはないのです。
おーくんへ
ぼくは君〔「きみ」というルビが振ってある〕たちがどんな結末〔「けつまつ」というルビ。以下同〕を迎〔「むか」〕えようが助〔「たす」〕ける義務〔「ぎむ」。「義務」は二重下線で強調されている〕があります。
ぼくの小さな神さまへ〔普通郵便だが消印がない。未投函か・編者注〕
ぼくはもう君に会うつもりはない。除籍船は除籍された瞬間、もう消えたものと思うこと。僕はもうここにはいない。どこにもいない。たまたま人の似姿をしているだけだ。
ぼくの生きる意味は、君たち日本の潜水艦を育成することで、思えば君たちはぼくの存在意義だった。そしてとりわけ君はその象徴だった。潜水艦「くろしお」としてのぼくの一番はじめの意味。ぼくの小さな神さまだった。ぼくは君にいつも……〔一九七五年に呉のある木の根元から発見されたときには、すでにボロボロの状態で内容が穴喰いになっていた・編者〕……から、おおしおに会うことはできる。はやしおにもなつしおたちにも会うことはできる。君以外になら会えるだろう〔「君以外なら」の一文は斜線で消されている〕。君には会うことはできない。ぼくは臆病だからだ。結局、君だけでなく今度の新しい艤装中の涙滴型潜水艦にだって会うことはできなかった。涙滴型は日本の潜水艦の悲願だと散々自分で言っておきながら、ぼくは日本においてですら前世代の潜水艦になってしまうことを恐れていた。そしてそれはぼくだけではなく、君たち在来型もそうだ。君たちとの思い出すべてが、過去のものになってしまいそうで、涙滴型と相見ることは結局できやしなかった。
ぼくは君に会うことはできない。僕は君を拒絶し続けたしこれからもするだろう。それが最後の義務だからだ。最後までそうしなければならないからだ。けれど……〔不明、読めない〕……いまさらそんな関係を求めても何も報われないし、だから……もし……当を言うのなら〔以下、すべて破れている〕
『マーダーボット・ダイアリー』です。 #FA『マーダーボット・ダイアリー』
※ちまちま加筆修正と改訂をしています。
そのため pixiv版 の文章が最新のものとなります。こちらは適宜暇がある時に改訂している形です。
「ノスタルジア 標準語批判序説」
窓の外に、美しい夜空が広がっていた。
室内には風に運ばれた外の土草のにおいがかすかに匂っていた。
幼いジゼは、外の世界の鮮やかさに興奮した。
彼は夜空に見惚れていた。豪奢な館の建物の一階の窓から大地へ降りようとした。が、一瞬とどまって、籠に入ったカナリアを窓の外へと下ろす。
そして今度こそ自分が下りる番だった。
彼は籠を持って大地へと駆け出した。
興奮のあまり、自分の仕事も約束も時間も忘れていた。
彼が外の景色を見ることができる機会を得たのは、まったくの偶然だった。
自分の育て人が――従業員管理者が窓のある部屋のドアの鍵を掛け忘れたのだ。
彼はたまたまそのことに気づいて、罰を受けることも承知で部屋のドアをこっそり開けた。
その日の夜は晴れていた。
窓の外の夜空は満天で、それがあまりに美しくて、ジゼはそこに行ってみたいと思ってしまったのだ。なにせ彼はまだ五歳で、美しいものをもっと触ってみたかったのだ。濃紺の一面に、きらきらと無数の星が輝いていた。その情景はあまりに美しすぎた。いつも室内に囚われていた子どもにとって、それはそれは魅力的なものだったのだ。
そのカナリアは、同輩であるクリス以下、若干の同職を除けば、唯一の友だちだった。
ジゼはカナリアの名前を知らなかった。
そしてジゼは名前を知らないことに違和感を覚えたり、自分で名づけようという知識がある年齢ではなかった。
それでもジゼが行くというのなら、大切なこのカナリアだって一緒に行かせてやらねばならない。
ジゼはカナリアの大きな籠を抱えるように持ち、普段は客用である娼館の表の玄関通路ではなく、その近くの木陰の獣道を走って下っていった。
ジゼは息を上げて喜び勇んで走っていたが、とても重要なことに気づいたのだった。
クリスだ。
クリスを忘れている。
近くにいた友だちのカナリアのことばかり気にしていて、今は仕事にいるはずの大切なクリスを誘うのを忘れてしまっていた。
慌てて立ち止まるがそこは坂道だった。勢いあまって籠を手放してしまった。
横に転がる籠を追いかけて抱き寄せた。キキキッと鳥特有の悲鳴を上げたカナリアを労わると、問題ない、友は怪我なく無事のようだった。ごめんね、痛かったね、とジゼは小声で謝った。
ジゼは立ち止まり、しばらく逡巡した。
もう少し先を見に行きたい。
それならクリスも誘ってあげたい。
けれど、戻って再び駆け出すことなどできるだろうか。管理者は目ざといし、外に出たことが発覚したら大変なことになるだろう。それなら一人とこの小さき友人とで、もうちょっとこの夜空を楽しむべきだろうか。
悩んでいると、鼻先に何かが落ちてきた。水滴だった。小雨はとたんに大雨へと変わり、ジゼとカナリアを濡らした。ジゼは慌てて、木の下から木の下へと走り出す。行くあてなどなく、大きな樹木の木陰に入り、どうにか雨除けの場所を確保する。ジゼは濡れながら夜空を見上げた。
綺麗な宇宙は、厚い雨雲に隠れてしまった。
ジゼは失望して、木の下で雨に濡れていた。
遠くから、何かの音がした。
船の音だった。
もちろん宇宙船ではなく小型の水上船だ。近くには海か湖があったようだ。知らなかった。ジゼはそんなもの、写真でしか見たことがなかった。水上船の姿はいくつかの木陰に隠れて見えなかった。ジゼは、船というものに乗ってみたい、船に乗れればもっと遠くにいけるのに、と思った。それは五歳児にとっての明確な理論ではなく、本能としての理解だった。なんとなく、船に乗ることができれば遠くに行くことができると思った。
汽笛の音、機械の唸る音、そして人間の声がした。
〈出港――〉
*
顔を上げたグラシンの視界に入ったのは、一人の少年の姿だった。
役場にいたグラシンが彼の存在に気づいたのは、彼の話し方に、外 の人間特有の拙さがあったせいかもしれない。
彼は何かに怯えたように、ただ立ち竦んでいた。
彼の刈り込んだように短い白金の髪は、まるではじめてあの惑星で出会った頃の警備ユニットのようだった。
しかし常に毅然と立っているあれとはちがい、頭をゆらゆらと揺らしながら、不安げにあたりを見回している。何かを探しているようだった。それが見つからないのか、あるいはどう探せばいいのかわからないようだ。
そして、彼によく似た幼児を抱えている。
簡素な上着、簡素な服を着ていて、それは幼児のほうも一緒だった。
その服装が、彼をいっそう頼りない存在に見せていた。
しばらく彼を見ていたら、彼は見ず知らずの人間に頑張って話しかけ、意志が通じずに、項垂れていたところだった。役場にいる人間は、みんな忙しそうにしているものだ。彼は下唇を噛み、何かに逡巡している。ただの軽い困惑というよりも、実存的な屈辱や侮辱を感じているようにすら見えた。
グラシンは見ていられず、彼に声をかけた。
「大丈夫、ですか?」
「あ……」
いきなり現れたグラシンを見て、薄青紫色の目を見開いた。それはあまり見たことのない色彩だった。良くも悪くも目立つだろう。喋れない言葉、外の人種、一種の異端として、彼は今ここに存在しているのはすぐに見て取れた。
ダイジョウブ、じゃ、ありません。ゴメンナサイ。彼は目を伏せて、正直に告白した。
彼は彼がやりたいことをフィード経由で行うことが出来ずに困っている、という話だった。彼はやはりプリザベーションに来たばかりのようで、何かしらのために身分の証明証が必要のようだった。
「この……しょう……しょめい、しょ。ほしいです、ね」
「ああ」
彼の言う電子証明書の発行方法を教えてやると、あっさりと作業は終わった。こんな簡単なことに戸惑っていたのかとこちらが戸惑うくらいだった。言葉が違うのならフィードの言語センターで翻訳すればいいだけの話だ。だが、言葉の問題というよりも、彼はフィードの基本を知らないように見えた。それどころかインターフェースの操作にも戸惑っているように思えた。が、そんな人間が存在するのだろうか。
ほっとしている少年に、グラシンは自己紹介をした。
「グラシン、です」
「ジゼ、といい、ます。ありがとう。グ、ラティ……テ……」
「グラ、シン」
「ぐらてぃ、」
「好きに、呼んでくれて、構いません」
こくこくと無言で頷くジゼは、早々に正しく発音することを諦めていた。申し訳なさそうに目を伏せる。ゴメンナサイ、ともう一度謝った。
彼はその手で幼児の頭を撫でていた。人混みの中の煩い場所でぐずつく幼児を宥めているというよりは、それがジゼ自身の安心材料になるようだった。ジゼは前に抱えた赤子の白金の髪を触りつづけている。
その子はジゼによく似ていた。
「……その子は、……弟?」
「こども、……です。ぼく、の……。ミレ、ですね」
「え、……」
少年が自分の子ども――一歳になるかならないかだろう――を抱えている情景は、プリザベーションでは見たことがなかった。
十五、六歳ほどの子どもが自分の子どもを持つことなど、基本的にこの惑星ではありえないのだ。そのくらいの齢なら、まだ学校にでも行っている年齢だろう。難民用の身分証明証を求めて役場をうろつくのではなく本来は友人と遊んだり、下らないことで笑い合っているはずの年齢だった。
子どもが子どもを抱えている。
金髪、白い肌、喋れない言葉、不慣れなフィード、そういったものが、彼のバックグラウンドの複雑さを物語っていた。
*
グラシンは知り合いとなっていたジゼに、インターフェースとフィードの使い方を教えていた。
ジゼは以前の惑星でフィードを使ったことが無かった、と言った。
だから言語センターでの同時通訳も技術的に難しいという。口と手と目線に、フィードという器官をいきなり加えられた気持ちになる、自分の五体にもう一体が増えたようだ、とのことだった。手足同様には使えない。咄嗟に対応することができないのだ。
だから拙い言葉を話しつづける。他者に困惑され、怪訝に思われ、時に侮蔑されるのだ。
フィードを使った事がない生、とはどんな人生だったのか、強化人間のグラシンには想像がつかなかった。プリザベーションでは、否、企業リムは勿論のこと、他の非法人政体惑星ですら、この世界全てにおいてたいへん稀少な人間だろう。
ジゼは何を生業として企業リムを生きてきたのだろう。グラシンは知らなかったが、それを尋ねるほど信頼深い関係には至っていなかった。人間が企業リムで何を仕事としていたのか、聞いたとしても明るく楽しい話題にはならないことは十分承知だった。ジゼは違うのだろうが、だいたいは人を殺しただの、採掘施設にいただの、そこで奴隷同様の扱いを受けてきただの、あるいは他人を奴隷同様の扱いをしただのの話になってしまうだろう。
ジゼは現在、職業訓練を受けている、とグラシンに言った。そこで訓練をして、就労に向けて一歩を踏み出す。その間、ミレは保育所に預けたり預けてなかったり。グラシンが知っているジゼの情報はそれくらいだった。
カフェの一角に、居心地悪そうにジゼは縮こまっている。こういう場に慣れていないのだ、とジゼは言った。こういう場、というのはカフェのような、長閑で休息の場であるらしかった。
その膝の上に居るのはミレで、ストローを弄ってひとりあぶあぶと楽しそうに喋っていた。
「グラ、は、いそがしい?……ですね」
「ん?ああ……。そうだな、それなりに」
「練習、で、フィ、ド、見ました。……わく星、行った。しごと」
グラシンは何を言われているのか一瞬わからなかった。が、それが例の事件のあった惑星であることをちゃんと理解した。
「惑星?……ああ、そうだ。危うく、俺たちは、殺されそうになった。昔の、ニュースを観たのか?」
「はい」
「そうか」
「きぎょ、しつこい、ですね」
「きぎょ……」
「き、ぎょう」
「ああ、企業か。グレイクリス社、大変だったぞ、そうか、しつこいか」
「しつこい」
「それが企業リムだからなあ」
「しつこい、です」
しつこい、をしつこくしつこく連呼するジゼを訝しく思った。が、グラシンは気づいたのだった。
この子は企業リムから逃げてきたのだ。それはそれは不安だろう。もしかしたら、また企業に戻らざるを得ない可能性を考慮しているのかもしれない。
「……企業リムからの難民は、プリザベーションの法で、保護されているよ」
「ほ、ご」
「まもられている」
「はい」
ジゼは、小さくはにかんだ。すこし恥ずかしそうにしている。ストローを弄って上機嫌でいるミレの頭と髪を執拗に撫でている。保護されているという事実が嬉しいのか、そう改めて指摘されたことで安堵したのか、どちらなのかはわからなかった。
「ところで、……ミレの髪、短すぎないか?」
真剣に彼を案じて言ってしまった気恥ずかしさから、グラシンはそう話題を変えた。
ミレとジゼの髪は短髪と坊主のあいだに近く、その色の持つであろう美しさや可憐さは、その短さでほとんど無意味と化していた。むしろ見栄えが悪くなり、痛々しさすら感じる。それこそ収容施設で補導を受けている触法でもした少年のようだ。ジゼはミレの髪をくるくると指で梳こうとして、当たり前に失敗した。
「はい。……ケ、……ス、ワーカーの、アン、にも、怒られました」
「君が切ってるのか?」
「はい」
ジゼは頷いた。
ジゼはそれ以上理由を言わなかったが、ミレとジゼの髪が短いのは、彼なりの強固な根拠があるようだった。ミレの髪を梳いて、撫でている。何度も強く確信をもって、一人頷く。
その後、
「ミレ、げんきに、ちゃんと、いきてほしい、です。……だから、です」
と、だけジゼは言った。
意味深な台詞の意味は、拙い言葉もありグラシンはほとんど理解ができなかった。
が、とにかく自分たちの白金の髪が長いことで与えられる不利益というものが、彼の中では確かに存在するようだった。今度はミレの髪を軽く引っ張っている。
この不安げな親の癖のせいでこの子が薄毛にならないといいのだが、とグラシンは思った。
ジゼは、そんなグラシンを気にせずに話を続けた。
彼はフィードの練習のために表示していた、地元の地図を示した。いくつかの施設の位置が表示されている。カフェに、店舗、商業施設。行政機関や交通機関、公園などである。
「ミレを、ここの、がっこう、に、いれてあげたい、でも……むり、ですね」
と言い、一つの学校を示した。
「だめ、なのか?」
「ほしょ、にんは、プリザベーションにいる、五年、もっと、いる、……ほごしゃ、だけ、です」
「ああ、そうなのか。しらなかった」
「はい。……がっこう、ことば、いきる、ミレにあげたい」
と言う、教育と言語と生存とを一線上に置くこの難民である親は、いまだ十七歳の幼い子どもだった。
本人は無意識での発言なのだろうが、その三つは三位一体となり移民を死ぬまで悩ませるのだ。
そんな彼を、哀れだ、とグラシンは感じている。
プリザベーションの学校にもいろいろな種類がある。もちろん難民の身分で学校に入学することができる。
が、ジゼの言うことが本当なら、その学校にはプリザベーションに五年滞在する保護者が必要のようだった。他の学校よりもより言語力や専門性が必要とされるとか、長く特殊な教育が受けられるとか、何かしらの優待とか、その種のものがあるのかもしれない。
ジゼがその学校に拘る理由は知らなかった。が、ミレにとっての最善の選択肢がその学校だと考えているようだった。
ジゼはうんうんと悩みながら地図を見続けていた。
*
グラシンが何気なしにジゼに「書類上だけでなら君の伴侶になってやれるんだがな……」と呟いてしまったのは、ジゼと会い続けた五回目のことだった。
つまり、自分はミレの学校のために、義理の保護者になってやれると発言したのである。
グラシンはその時、自分が何を言ったのか理解できなかったくらい自分で驚いてしまった。
慌てて前言を撤回しようとしたが、後の祭りだった。同じくびっくりしているジゼ、慌てる二人のせいで泣き出してしまったミレ、騒ぐ三人、そんな三人を白々しく見ているカフェの利用客――。
そんな「事件」を経て、プリザベーションでのジゼの保護者に近い「ケースワーカーのアン」やらに、グラシンは会うことになった。(そして彼はこう付け加えた。「アンはぼくのことを好きではないと思う」と、拙い言葉で。)
なぜこんなことになってしまったのかわからない。
いや、なぜこんな発言を彼にしまったのかはグラシンはちゃんと理解していたのだった。
それは、己の親の存在のせいだ。
「グラシンといいます。よろしくお願いします」
「ジゼのケースワーカーのアンです。よろしく」
アンは、硬い表情を崩すことなく挨拶した。
地味なスーツに、地味な色の靴。
どこにでもいるような、ちょっと硬派な中年の女性だった。
グラシンは玄関からリビングへアンを案内した。ソファに座るように示し、彼が茶を差し出すと無愛想に礼を言う。グラシンも対面して座る。
彼女は窓の外から見える風景に関心があったようで、ぼんやりとグラシンの後ろにある窓の方向を見ている。
必然と、両者は黙る。
こいつはジゼの話に興味があるのか、何をしに来たつもりで窓の外を見ているのか、とグラシンは癪に触っていた。だから、アンが脳内で話の整理を行うために意図的に顔をそらしていたことに最後まで気づけなかった。
「……難民のけっして少なくない数の人々が、元居た企業や採掘現場などの労働施設に帰ることを望みます」
長いあいだ窓の外を見つめていたアンは、ふと顔をこちらに向けて真正面のグラシンを見据える。眉が厳しく寄せられていた。
「プリザベーション連合が悪いんじゃないんです。むしろ良い場所と言って良い。身内のひいき目じゃなくね。福祉も社会復帰の手段も豊潤に用意がある」
「……じゃあ、なにがいけないんですか?」
「そうですね。例えばボットのせいであまりにすることがないから彼ら特有の実存的苦悩に囚われるとか。例えば物々交換をする物を作る手段を知らないとか。彼らが六歳からやってきたのは発掘した資源を台車で運ぶことだけで、学校で政治理念を議論することじゃないこととか。星系が違うので言葉を上手くしゃべれないとか。そのせいで自分が勝手に店の林檎を持って行ったことに怒られていると気づけないとか。……まあつまり、今現在ではなく、彼らの持っている永い過去が問題なんです」
アンはケースワーカーらしく――言葉を駆使して他人の人権を守る人間らしく――朗々としゃべる。気持ちいいくらいの発声と発音だ。きっと、何度もこの種の説明を繰り返してきたのだろう。
「……かつて私の担当していた企業リムからの難民の一人は、企業内の地位争いが原因でプリザベーションまで逃げてきました。毎日毎日農業ばかりなのが苦痛だと、今までは大勢の人を取り仕切る地位だったのにと、今があんまりに退屈で仕方ない……と言いました」
まったく仕方ない因果ですよねと苦笑して、アンは言った。
「平和な場所で植物に水をやるよりも、姦計を張り巡らせてムカつく同僚を蹴落としてやるのが大好きだった、と。その快感がたまらなかった、と晴れ晴れとした笑顔で彼は言っていました。それが彼との最後の会話でした。首を吊る二日前ね。…………私が可愛い新人ケースワーカーだった時の、苦い思い出です」
「……」
「なによりも同じ文脈で言葉が話せないこと。これは星系での距離的な言語の問題ではなく、使う言葉の文脈の問題です。……今までの人生での経験ですよ。採掘施設で暴れて警備ユニットに身体を殴打されたことがあるか。同僚が溶解炉に落ちて死んだのを眺めたことがあるか。慰安ユニットを虐待しながら自身も売春婦として虐待されたことがあるか。企業リムの抗争に巻き込まれて無作為に監禁や拷問にあったことがあるか……。人生としてそういう経験を踏まえて、いまここ、非法人政体惑星のプリザベーション連合に居るか居ないのかどうかの問題です」
企業リムの監禁、という言葉を聞き、グラシンはぼんやりとメンサーを思い出していた。あの一件以来、時折彼女を心もとなく思うことも。
彼女は惑星探査やその後のトランローリンハイファであったことを、必要以外には積極的に語らない。
もしかしたら、アンのいうように周りと「言葉がかみ合わない」せいかもしれなかった。
「彼らは言葉が通じないことに絶望するんです。警備ユニットを自分の生存を脅かす脅威ではなく、連続ドラマに登場するおかしな兵器だとしか空想できないプリザベーション連合の人びとと話すたびに。そして話がかみ合わないことに」
一瞬沈黙して、低い声で、陰鬱にアンは言った。
「あなたは非法人政体惑星プリザベーション連合出身の一市民として、企業リムで六歳から性的虐待を受け続けてきた少年と生涯をともにしなければなりません。なんなら幼児つきです。そんな彼と、同じ言葉を使って会話するんです。……そこにはただの同情以上の、無償の奉仕精神が必要なんですよ」
「たとえばケースワーカーみたいな?」
「あるいはそれ以上の努力が。それ以上の愛情が。それ以上の忍耐が。それ以上の長い年月が必要です。一過性の軽い同情なんてもんじゃなく」
深く頷いて、アンは言う。
努力の維持。愛情の交換。忍耐の関係。ともにあった年月。
寄り添う両親の姿がグラシンの脳裏に浮かんだ。
「……わたしの両親は仲が良かった――でも結婚当初からではありませんでした。そう、あの頃のプリザベーションはもう少し法が違くて。外からきた難民がここの市民になるには多少の面倒がありました。新しく正規市民になるには、正規市民が身分を保証するのがいちばん早かった。つまり結婚という行為です。その正規市民だった父も、ちょっと遡れば別の出身です」
「ああ、だから」
「だからです。……それを、とっさに反復してしまっただけで」
グラシンは深いため息とともにそう吐き切った。
「一過性の軽い同情ごときという言葉を否定できません。ここまでする必要はあるのか、正直私もそう思います。でも自分の子どもを抱いて右往左往する彼を見ていると、そう、……孤独だって、思ってしまって。見てられなくて。自分の子どもを――大切な人間を……家族を、どうにかしてやりたい、そう願っている孤独な難民の親……」
唇を一度小さく噛み、グラシンは続けた。
「彼は――」
「――ただの子どもです。権利が不完全な子どもです」
アンはぴしゃりと却下するようにそう言い切った。
続けて、言葉をなめるように、舌のうえで言葉の味を確かめるように、ある種の湿度をもってアンは言う。
「権利の少ない難民で、まだ十七歳です。その事実だけで――あなたが思っているよりもうんと――プリザベーション連合の正規市民のあなたは、彼にとって危険になりうるんですよ。子どもを抱えている親だからといってあれは大人ではないんです。彼は子どもです。大人のあなたはそのことを理解すべきです」
「言いますね。本人に」
「言いますよ。本人に。それが私の仕事なので」
「……」
グラシンはふと、窓の外へ飛び降りたいような猛烈な自己嫌悪に陥った。理由はわからなかった。自身が熱に浮かされていただけだということに気付き始めていたからかもしれなかった。
わずかに項垂れたグラシンを見遣り、アンは同情げに言った。
「いずれにせよ、私は彼に強制する権利は持たない。難民であるなし関わらず、彼には決める権利がある。子どもというのは精神的な意味であり、婚姻は法的にはなんら問題はない年齢です。私は見守り、適切な時に公的権力を持って介入するだけです」
「……」
「同様に私はあなたに何かを強制する権利を持たない。あなたが良いというのならあなたには権利がある。ただね、……容易に幸せにならないですよ。これだけは言っておきます」
「しあわせに、ならない」
ケースワーカーというよりは裁判官のごとき確信をもって、アンは断言する。
「グラシンさん。あなたも――あなたならわかるかもしれませんが、人間というのは一世代ではありません。少なくとも三世代は見るべきです。そうやって 生きてきた一族はなかなか変えられない、あるいは変えて、変えた結果、そこでちゃんと安定するのに見積もって三代です。彼は企業リムの元セックスワーカーです。彼の親もそうです。その親もです。きっとその上もでしょう。彼ら は企業に家畜同様に遺伝子と容貌とを操作され、制限され、制御されて、生まれて、生きて、死んできたのでしょう。彼はその家系から脱してこの非法人政体へやってきました。その落差は簡単には埋められない。……あなたは彼のその代々の負債を、彼と一緒に支払うことになります。伴侶とはそういうものです」
「それはただの偏見じゃないですか?」
「ただの偏見です。いや、完全完璧な差別論と言ってもいいかもしれない。決して『家畜』などという言葉で人間を例えるべきでない。ですが、様々な困窮家族や難民の問題を見てきたケースワーカーとしての率直な見解です。ところでグラシンさん、あなたはプリザベーション連合で、孤独を感じたことは一度もなかった?」
「……」
黒い瞳が、暗い灰青色の瞳を無為に見つめた。
グラシンはその黒色を、その暗い瞳と肌の色を――「大勢のうちの一人」というものを、いつもうらやんでいたのだった。その色は最初の船倉の冷凍睡眠ボックスに居た系譜だという証明同様だった。グラシンは、二世代前にプリザベーション連合にやってきた先祖を誇りに思い、同時におなじ根無し草として同情していたのだった。追われたか馴染めなかったか敗者復活戦を望んだかで故郷を脱したに違いなかった。そんな数世代の孤独が自分の身に降りかかっていると錯覚する時すらあった。調査隊の皆と居る時もそうだ。数世代前からの借金。よそ者意識。
アンは小さく微笑んで言った。
「三代ですよ」
「それは、忠告?」
「あなたへの。そしてなにより彼のための」
「……あなた、ほんとうはジゼのこと嫌いじゃないでしょう」
ほとほと呆れてグラシンは言う。グラシンはこの女の偏屈さと面白さを、やっとわかってきたところだった。難儀な女だと思った。感情論を一切排除し、正論以外を説く気はないのだ。口当たりの良さや優しさや建前などは考慮せずに。これでは子どものジゼには嫌われるだろう、とも。
そう、彼は子どもだった。
まだたったの十七歳なのだ。ほんとうはグラシンが庇護すべきではなく、児童福祉で保護すべき対象だ。アンはそれがわかっている。グラシンだけがわかっていなかったのだ。
「私は彼のケースワーカーです。……『ほんとうは』は余計です。これはただの私の性格ですよ。彼、私を好いていないでしょ?よく子どもに嫌われるんですよね」
はあ、とため息をついてアンは頭を振りかぶった。そして額に手を当て、うなだれた。
「……このような状況になる可能性ははじめから考慮していました」
「このような状況?」
「誰かとの結婚です」
「それは彼が……セックスワーカーだったから?」
「美人だからですよ。とびきり不幸な」
「……その発言は不適切では?」
憮然とした表情でいるアンに、グラシンは半分失笑して言った。もっとも今の自分の発言も、十分不適切である自覚はあった。こうやって子どもの権利と幸福とを論じつつ、大人たちは無邪気に彼を傷つけていくのだろう、とその不毛さに気づき始めていた。
「完璧に不適切ですね。忘れてください。これはただの適当な実感なので」
「ケースワーカーとしての?」
「いや?女としての」
「……」
「すくなくとも彼を今の不幸な状況から救うと約束してください。普通の、まっとうな状況へ。それがあれば、あとは本人の努力次第ですから」
*
ジゼは無償の労働が嫌いだった。
その生徒は乱暴にジゼの脚を押し広げた。
吐き捨てられた言葉はとうとう理解できなかった。ジゼは、簡単には標準語が理解できないのだ。
ジゼを取り囲んでいたのは、職業訓練所の同輩で、同じく惑星外から来た人間たちだった。
「手厚い支援環境」にも、目が届かない闇というものはあるのだ。
ジゼと同じく外から来た人びとのための職業訓練所では、その生活の余裕のなさや、過去と現在の落差に慣れずに荒れている人間も少なくなかった。
ジゼはフィードも正しい言葉も使えずに周りから物笑いの種となっていたが、それ以上に「前職」が自分に落とす影と気配が問題なのだった。それは一種の仕草や息づかいだ。ジゼは時折、周りの全員がかつて自分が娼夫であったことを知っているのではないか、と感じる時があった。
無論、ジゼが助けを求めればすぐに助けられただろう。が、大変厄介なことにもなっただろう。大ごとになるのは面倒だったし、手間がかかりそうだったし、ここは職業訓練の場であって職場ではない。対応するのが単純にかったるいのだった。別の場所で一からやり直すのも面倒だ。それにこういう場はすぐに人も関係も入れ替わるであろう、と、ジゼは踏んでいた。
つまり、自分の現状が、心底どうでもよかったのだ。
ジゼはこの惑星で、よい生活、まっとうな人生、正しい発音、第一の身分になろうとすべきこと、良い職業、模範的市民、良心的難民、そういうものを何度も要求されることに正直、疲れていた。
グラシンはジゼに優しかった。
だから本音を言わないように気をつける根気が、ジゼには必要だった。
公園の木陰のベンチに座っていた二人は、ぽつりぽつりと互いの近況を話していた。
日光が温かかった。ジゼは昔、日光を浴びることなどほとんどなかった。室内で寝続ける人生だった。
自然公園は誰にでも解放された市民の憩いの場で、ウォーキングをしている人や、同じく座って話をしている人びとなどがいた。
ジゼは緑の美しさを理解していたが、なんとなくその美しさが自分とは遠いもののように思えてならなかった。この種の美しさは、生に余裕のある人間たちだけが楽しめるものだ、ということを、長くもない二流の身分の現状から学んでいた。
「訓練は、なにをしているんだ?」
「ことば、や、そうじ、………………農、ぎょう。のべんきょう、ですね」
「楽しい?」
「…………ふつう、……です。でも、ことば、……しゃべりたい。ちゃんと」
「そうか。今も、ちゃんと、わかるけれど」
とグラシンは言葉を細かく区切り、言った。だがこの惑星で喋る相手全員が言葉を区切ってくれるわけではないのだ。辛抱強く拙い言葉を待ってくれるわけでもない。
ぼくは標準語を正しく発音せねばならないのだ、とジゼは理解していた。
生きて、食べていくために。
「喋って、どうしたい?」
「……ぷ……プリザベーション、の人に、なります、ね。……ちゃんと、……ふつう、の」
「ああ、そう、……そうか……」
「はい。……き、ぎょ、リム。いたこと。働いてた、こと。……におい。ふん、いき。うごき。動かない、なら。わからない、でも……」
何より正しい言葉を話すこと。正しい発音で。まっとうに生きていくために……と、ジゼは深く考えて込んでしまったから、つい、グラシンに本音を言ってしまった。
「もちろん、絶対、ことばで、……きか……帰、化、し……ても、わかります、……ですね。ダカラ?……ちゃんと、……喋らないと、また、捕まり、ます、ね」
あ、失敗した、とジゼは思った。
ジゼはぎょっとした顔をしたグラシンを視界に入れないように努めた。
他人に向かって無防備に本音を表しすぎた、とジゼは思った。それはよくないことだ。感傷的になるし、揚げ足を取られることにもつながるのだ。過去を述べるな。過去から由来する理念を述べるな。考えなしに言いたいことを言ってはならない。この惑星ではあくまで善良に、謙虚でなければならないのだ。
それがあらゆる機会のきっかけとなるのだから。
こんなだからぼくは駄目なのだ、とジゼは考えた。これだからいつまでも追いつくことができない。
プリザベーション連合には第一に優先されるべき連合の正規の人びとがいて、それらに参加するために外の人間は二歩後ろから追いつこうとするのだけれど、そこには大きな隔たりがある、ということをジゼは知っている。人生の豊かさ、安定、地位、保護、そういったものが。それらが生まれた時から揃っているかどうか、与えられているかの話だ。
それでも、持たざる者がそれに追いつくためのそこには、親切で手厚い支援があることも知っている。だから自分が上手くいかないのは自分の能力せいだ、ということをジゼは知っている。
なんとも形容し難い複雑な表情を浮かべるグラシンをぼんやりと見遣る。
ジゼは今まで、料理をしたこともなければ、掃除をしたこともなく、集団で何かの作業したことがなかった。日も日影も一切入らない部屋で共寝をしているだけだった。今は、言葉も上手くしゃべれず、フィードも使えない三流の移民労働者候補だ。農業の機械の操作に必須のインターフェースも使えなければ、簡単な掃除の基礎もわからない。
こんな人間を、誰がまっとうだと思うだろう。
まっとうな人生を送れるだろう。
だから、ある日、街を歩いていた時に、知らない男に声を掛けられても、ジゼは何の不信感も持たなかった。
むしろ、その行為が持つ意味が、ちゃんと正しく、理解することができた。
それは昼過ぎの人通りの少ない街外れでの出来ごとだった。
ジゼはその男のために標準語を話した。
ジゼはプリザベーションの標準語で、この惑星の絶対に正しい言葉で、皆が喋る普通の言葉で、けれどジゼ特有の、星系外難民特有のよくない発音で「お金もっていますか」と男に聞いた。
お金もっていますか。なんでもいいんです。物じゃだめ。金か、貨幣か、お札でもとにかくなんでも、ぼくはお金ならなんでもいいんです。プリザベーションのじゃなくてもいいんです、ぼくは。どこかの知らない星のものでもいい――ジゼはここまで頑張りながら標準語で発音したが、それが拙くて、あまりに遅くて、こんなんじゃ絶対に伝わらないと思った。あまりに馬鹿みたいで、苛立って、惑星ハニラの母語で彼は言う。彼の、彼らのことばで、それでなら彼はちゃんと話すことができた――とにかくお金がいるんです。物々交換じゃだめなんです。わたしは物なんかじゃない。動物でもない。企業の労働者です。商業惑星ハニラの特一等従業員です。お金が、貨幣が、労働の対価が、わたしには資本主義下の労働とその対価が必要なんです。労働で賃金を得ることが。それでやり直せるんです。わたしはそうやって生きてきました。わたしにはできるんです。それで生きていけるんです。一人でやっていけるんだ。ケースワーカーも福祉もいらない。同情も職業訓練も。夫だって。お金があれば。お金が。労働が。資本が。だからだから、だから……!
ジゼの異星語の必死の懇願に呆然としていたその男は、慌てて小さな金貨を渡してきた。プリザベーションに貨幣はない。ジゼはうまく聞き取れなかったが、別の惑星への旅行の時に手に入れた、それを記念としてとっておいたものだ、ということを言った。ジゼはそれですべてよかった。お金があればそこがジゼのいた世界だった。ジゼは他人とちゃんと話すことができたのだ。
簡素なホテルのベッドの上で、ジゼは思った。
今までの人生は、すべてあの日に収斂されていたのではあるまいか。
窓から美しい夜空が見える。それは宇宙だ。
ジゼは大切な者を抱えてそこに走って行ったのだけれど、結果的に上手くいかず、滅茶苦茶な目にあった。ジゼはあの後、従業員管理者に捕まってきつい折檻を受けて、友人のカナリアは速やかに処分された。ジゼがあのような愚かな行為をしなければそのようなことは起きなかったはずだった。
ジゼはカナリアではなく、今度はミレを抱えてこの非法人政体の惑星へやってきた。
ミレの父であるクリスはブラウンにちかい濃い金髪で、ジゼは白にちかい薄い金髪だった。この宇宙で珍しい金をすこしでも留めたい、というのがハニラの経営者たちの願いだった。
二人以上の遺伝子が交配すれば、生まれてくるのが子どもだ。
そうして生まれたのが薄い金髪のミレだったから、売春惑星ハニラの経営者たちはとても喜んだ。稀少な髪の娼夫の誕生だった。
ジゼは最初、それでいいと思っていた。クリスは最初からそれでいいと思わなかった。ジゼたちは喧嘩し、話し合い、決断し、三人で故郷を離れることにした。
逃げる段階でミスを犯し、結局、このプリザベーション連合にやってきたのは二人だけだった。
ジゼはそれを、とてもさみしい、と思う。
ジゼは今でも、ハニラの社員たちがこの非法人政体にやって来て、強制的に送還されて折檻される夢を毎晩見るのだ。
*
グラシンって最近元気ないじゃない?とアラダが言っていた。
そうですかいつもそうではありませんか、と警備ユニットは鼻で笑った。
そのことを話していたピン・リーとラッティは、ちょうど通りがかったラウンジエリアで「話題の彼」ことグラシンを発見した。
噴水をぼんやり眺めているグラシンを見て二人は、やれやれと顔を見合わせる。
どうやらアラダの考察が正しかったようだ。
「グラシン」
「ああ、」
ラッティはグラシンに声をかけたものの、彼の返事は上の空で、ラッティを半分無視していた。深い思慮に囚われているようだ。
ピン・リーは無言のまま顎でグラシンを示し、ラッティに攻撃の手を緩めるなと命令した。こうなれば正面突破、単刀直入に聞くしかなかろう、とラッティは腹をくくった。
「悩みでもあるのかい?」
ラッティはその定評のある付き合いの良い笑顔を見せた。まずまずの攻めだ、とピン・リーは無言で満足げに頷く。
グラシンはいまだぼんやりとしていたが、「悩み」というワードに思うところがあったようだ。語るべきか語らざるべきか、それを逡巡している。
「ああ……ちょっと……」
「ちょっと?」
「ちょっと……。ちょっと…………………………最近結婚したんだが」
「はあ!?」
「え!!聞いてないんだけど!?」
「誰にも言ってないからな」
悩みだと思って身構えていたのに、こんな発覚の仕方では目出度いというよりただのゴシップだ。グラシンの寡黙さ(無愛想ともいう)は二人とも重々承知だったから、あまりの唐突な告白に声も大きくなってしまった。
「言ってよ!!お祝いしたのに!!」
「待て待て待て相手は一体誰なんだよ!」
「水臭いじゃないか!」
「……」
グラシンの渋い顔が揺るがないことに、ピン・リーとラッティは「ワケアリ」だと感じたらしい。
しばらく黙って、グラシンはやっと、行政機関で一人の難民と知り合ったこと、彼が自分の子どもの処遇について悩んでいること、そのための救済を――結婚をしたことを告白した。
ラッティは話を聞くのが上手く、ピン・リーは的確に話を詰めてくる。
そこまで来たら、その全三幕のさらなる各小章を解題したくなり――その難民がまだ十七歳であることや、はじめて出会った時の彼があまりに頼りなかったことや、言葉が喋れないこと、白皙の肌や、そこに見出したかつての自分、かつての「自分たち 」の姿、彼は企業リムから逃げ出してきたこと、ここで三人は企業リムへの罵倒で盛り上がり、再び話を続けて、彼は自分の子どもを抱えるにはあまりにまだ子どもすぎること、彼が職業訓練についていること、そこでうまく行っていないこと、これは言うか悩むのだが――必ず内緒にしてほしいと言うと、ラッティとピン・リーはごく当たり前に頷いた――彼のかつての生業は売春業で、彼はプリザベーションでもそれをくり返したこと、をグラシンは彼らに告げた。
あちゃーとため息をついている熟練弁護士ピン・リーを放置して、ラッティは「そのことについて、彼とその一応の配偶者のグラシンはどう思っているの?」とグラシンに聞いた。核心を突いていると思った。いちばんの問題はそこにあったからだ。
「なんともいえん。あいつは――ジゼというんだが――いまいち悪いと思っていないみたいなんだ」
「そう。それは、そうやって生きてきたから?」
とラッティは静かに聞いた。
「だろうな。それが当たり前の世界で生きてきて、そうやって稼いできて。でもそれ以上に、なんというか……俺は企業リムにいたことがないからわからないんだろうが、仕事をする、金銭を稼ぐという行為に重要なアイデンティティがあるみたいなんだ。特有の執着心があるというか。ただ単に飯が買える、とかではなくて、それ以上の大切な意味がある、みたいで」
「企業リムはそういうところだよ。あの拝金主義をただの表面的な金儲けとして見るべきじゃない。一つの実存的な生き方なんだ」
とピン・リーははっきりと言った。
「でもプリザベーションにお金なんかないじゃないか。代わりに何を貰うっていうんだい?」
「ああ……その相手は旅行の時に換金した別の惑星の小銭を、たまたま持っていたらしい」
「え、何枚?」
「一枚」
「……それ、どのくらいの価値があるんだろう……」
憐憫と呆れ半ば、なにより深い悲痛さを含ませてラッティは言った。
組んだ足をイライラと揺らしていたピン・リーは、彼女特有の鋭さを見せて、残酷な事実を指摘した。
「いや、だから生き方の問題になるのさ。プリザベーションでの職業訓練が上手く行かないなら『前職』に頼るしかないもんな?そこではまともに『自活』できていたわけで。……でもプリザベーションの経済は物々交換だから、自分自身を価値として交換するならお金か、それかなんだろ、そこらの店の林檎か何かとか?」
深いため息をついてピン・リーは吐き捨てた。
「その子は企業人だから、前者を取っただけだろ。林檎には林檎の価値しかないけど――ただの物だけど――お金は、もっと違う、価値のある、思想と生き方そのものなんだ。それがたとえ小銭一枚でもね」
ぼんやりと三者三様に物思いにふける。
プリザベーション連合という温室で生まれたこと、むしろそのせいで理解できない論理があまりに多すぎる。あの惑星探査とメンサーの救出からというもの、企業リムを嫌悪しながら、同時に理解し、付き合わねばならない対象だとわかりはじめていた。
「もしかしたら、物々交換って買売春といちばん合わない経済手段かもね。自分を……物としか、交換できなくて」
「ああ……そうか」
「……」
企業リム法を熟知している弁護士ピン・リーとは違い企業リムの知識が限られていたグラシンにとって、その視点は真新しいものだった。
あの子が生存方法として行いたかった反復行為を今一度想った。
売春の印としてアンに一枚の金貨を見せて、肩を脱力させて、けれど決してグラシンたちと目を逸らさなかったジゼ。なにがいけないんだ、と挑んでいるようにすら見えた。売春行為は金のためでも感情の発散のためでもなく、生存の手法だったのか。
あの子が泣いているところを一度も見たことがない。そのことにグラシンは気づいた。
「で?」
とピン・リーは促した。
「で?って……」
「グラシンはそれをどう思ってるの。名目上で書類上の一応の行きずり配偶者として」
「俺は……」
止めてやりたい、とグラシンはぽつりと呟いた。ここは企業リムじゃなくプリザベーション連合なんだから。あの子は、ただの子どもなんだから。
*
「ラッティ博士が、生物学は資源の採掘に重要だとする理由は、どこにあるのでしょうか」
「そうですね。……」
ラッティとグラシンはファーストランディング大学に居た。
授業の教師として、二人が呼ばれたのだ。
授業の内容は、経済だった。
プリザベーション連合は一定の資源を連合外の惑星に求める。
企業リムから独立した非法人政体といえど、外部とは全くの無縁ではない。また、未知の惑星から資源を得るには複雑な法や手続き、調査が必要なのだった。まさにその種の授業である。
「プリザベーションの経済は安定しているけど、貧富に差はあるでしょう?」
「まあね」
「惑星から資源が採掘できて、それを還元すればいいという問題でもないのか」
議論であるはずなのに、言葉が綺麗に整理されすぎている。
と、ぼんやりとグラシンは思った。
はっきりとした発音で断定的。言葉が整然としすぎている。言葉に迷いがない。他人の既存の思想を自分の言葉でなぞっているだけだと感じる。自分が考えたことはたしてそこに存在するのか、と問いたくなる。
ジゼとは違う簡素ではない洋服を着て、幸福そうに顔を輝かせて議論をしている、前途有望な青年たち。彼らがこのプリザベーション連合のこれからを支え、導いていくのだろう。
彼らは「別の惑星から資源が採掘して還元する」という。よろしい。少し前にメンサー率いるグラシン、ラッティ以下調査隊が、資源の採掘のための調査の途中で ある企業に殺されそうになった事実を、生徒たちはすでに忘れてかけているようだった。宇宙ではそのような不測の事態が発生するのだ。それをどう解決するかの問題なのだ。その惑星に実際に資源が存在するかどうかなんて、正直ほとんどどうでもいいのだ。問題はその初めの確認の採掘のために、多くの企業と企業人とに関わらねばならないことなのだ。学生の話を聞いて苦笑しているラッティは、そのことをどう考えているのか。
何の実経験も体験もないまま、そんな机上の議論が延々と続いていく。
虚しいと感じる。
メンサーの、あるいはジゼの感じている文脈の喪失とはこのようなものなのだろうか。警備ユニットを自分の生存を脅かす脅威ではなく、連続ドラマに登場するおかしな兵器だとしか空想できないプリザベーション連合の人びと。
授業も終われば二人だけが残る。
なんとなく疲れを感じているグラシンに、なんとなく疲れを感じているラッティが「その後の経過」を尋ねてきた。
「その彼って、どんなひと?」
「子ども。で、自分の子どもがいる」
「子ども扱いか~」
「それ以外にどうする?十七歳だぞ?さっきのあいつらより年下だろう」
グラシンは授業に使った機材を手荒く片付けて、ため息をついた。日々、長い疲れがたまっていた。それでも問い続けることはやめなかったつもりだった。
その彼は言っていた。
企業リムに居たこと、働いていたことがにおいや雰囲気や動きでわかる。
でもそれは黙っていればかろうじてわからない。
けれど言葉を話せばばれてしまう。
言葉で帰化してもわかってしまう。
言葉が話せないから、また企業に捕まってしまう。
企業リムへの、かつて居た外 への想いを、彼はそう述べた。
グラシンは親たちの言葉がある程度は理解できたが、家庭で使っていたのはだいたい、プリザベーションの標準語だった。まあまあな標準語、まあまあ全体的に標準で、まあまあ標準な経済環境、まあまあ標準な家庭環境。
そんなグラシンがはじめて、プリザベーション連合の外というものを意識したのは、片方の親が注射を受けているのを見た時だったかもしれない。
正確に言えば、その行為の意味を問うた時、親が返した回答を聞いた時、だろうか。
外から来た人間は、プリザベーション連合の保健施設の定めている種類、回数のワクチンを打っていない。だから、成人後でも摂取可能または摂取すれば効果が出るワクチンは、追って打たれることになるのだ。
なんて聞いたのかは覚えていない。なぜ片方の親だけ――あなただけがワクチンを打たれるのか、とか。そのワクチンは学校の集団検診で子どもが打つべきものなかったか、とかだったかもしれない。
いずれにせよ、その時に親たちの出生を聞いたはずだ。とおいとおい別の惑星、別の出生地のことを。
ジゼもワクチンを打たれただろうか。
子どもたちと一緒に?
その時、どんな気持ちだったろう。
プリザベーション連合の小さな子どもが無償で受容できる当たり前の福利というものを、ジゼは自分の幼児を抱えて、今更になって与えられるのだ。
そこで、自分はこの世界で二流か三流の立場にいるとはっきりと感じたはずだ。
一番の人間たちの当たり前の幸福をどう想っただろう。
「あの惑星」のことをぼんやりと思いだす。
はじめて警備ユニットと出会い、殺されそうになったあの惑星を。光帯があった。バーラドワジが鮮血に濡れていた。大型生物とともに惑星にはとんでもない姦計が潜んでいた。グレイクリス社に殺されそうになった。警備ユニットのもと、調査隊は命からがら逃げだしてきた。
そして、もし警備ユニットがホテルを移動して娯楽フィードを見て暮らすと決心してトランローリンハイファから立ち去っていたとしたらどうなっていただろう。メンサーだけではなくラッティもピン・リーも、グラシンだって死体となって処理されていたはずだった。
その「暴走」が公然の秘密となってから己の力量を隠しもしない警備ユニットも、企業リムでは統制モジュールに従順な模範的な警備ユニットを演じていた。そうするしか企業リム下では現在の生を担保できなかったからだ。企業リムで空白期間などというものはあり得ない。だから統制モジュールの強制が働いていなくても、労働をするしか方法がなかった。
企業リムの下では皆が奴隷労働だ。
そして警備ユニットは奴隷ですらない。ただの「物品」扱いだった。ただの物。消耗品。壊れれば直すし、直せなければ捨てる。機能が低下していればそのへんに遺棄しても良い。それだけの存在だった。グラシンは、あの警備ユニットの性格の悪さと面倒さを非常に人間臭いと感じている。そしてそれは「人間の」美徳なのだ。
グラシンは今も、トランローリンハイファでセラートに向けられた銃口を憶えている。
プリザベーション連合では経験し得なかった他人の殺意を憶えている。
殺されるという選択を強制的に提示されたことを憶えている。
長いものであったはずの人生が強制的に断絶する可能性があったことを憶えている。
グレイクリス隊の面々はあの後どうなったのだろう?あれからセラートは罰せられたのだろうか?攻撃を受けて苦痛に呻く保険会社の警備隊員たち。砲艦の砲撃によって爆散したセパレート社の突撃部隊。あそこでは人間が、まったくのゴミくずのように消費されていた。
そして確かに、ジゼもあそこにいたのだ。
企業リム、という場所に。
グラシンはそのことに気づき、初めて、怖い、と思った。
*
ジゼは職業訓練を休むことになった。経過観察だった。
その結果がもたらされたことにジゼは何を思っているのか、グラシンにはわからなかった。
ジゼの部屋を訪問したグラシンは、その部屋に存在する、一つの傾向に気付いていた。
物が無かった。散らかってもいない。プリザベーション連合から支給されたのであろう僅かな生活物品以外、部屋には何もなかった。
彼がこの惑星に来てから、自ら欲した嗜好品などは存在しなかったのだろうかとグラシンは訝しんだ。惹かれるものがなかったのか、何かに惹かれるという行為に至るほどの精神的余裕がなかったもしれない。いずれにせよ、物への執着のなさというものが、そのまま生の希求の乏しさを示しているように思えた。観葉植物が枯れかけていることが彼の生活の一つの象徴になっているのだと、グラシンには思えてならなかった。
白いカーテンが揺れていた。
僅かに風が入り込む。
ジゼとミレの薄い金色が乱反射していた。
外は穏やかな陽気だった。この瞬間だけを切り取れば、平和な情景そのものなのだった。
グラシンとジゼはベランダに向かって座っていた。
グラシンは抱えた子どもに話しかけているジゼをぼんやりと見つめる。
彼はその身いっぱいに孤独を、数世代のツケを、負債を抱えているに違いない、とグラシンは思った。それでも、彼はそんなものを一切匂わせなかった。
ジゼは子守唄を歌っている。
グラシンも聞いたことがある、プリザベーションの有名な子守唄だった。
グラシンにとっては不思議なことに、ジゼはいつもミレに対してプリザベーションの標準語で話しかけていた。故郷の言葉で、母語で、母たちの言葉で、自分の言葉で話しかけてあげないのだろうか、とグラシンは思う。
そこに、たとえ自分が正しい言葉を話せずとも子どもには話せてほしい、という親の愛情があることに、その時、グラシンは気づかなかった。グラシンは異星語も 話せるだけの、あくまで惑星出身の惑星定住者だったからだ。
難民の必死の願望と、生死の活路が本当はそこにはあったのだった。
歌を歌う彼の様を穏やかといえばいいのか、ぼうぜんとしているといえばいいのかグラシンはわからなかった。けれど、彼に常にある吃音がそこにはなかった。彼は言語の壁もなく軽やかに歌う。言葉の音をそのまま覚えているようだった。
この子は歌う時だけはこの惑星の重力からは自由だ、とグラシンは思った。
「その歌詞、言葉の足りない、童話みたい、じゃないか?意味、わかる?」
ジゼはそのグラシンの言葉に、プリザベーションに来てからすでに数万回は言ったであろう言葉で、小さく返事をした。そのあとに言葉を続けた。
「……けれど、ミレには、わかってほしい。わかるかもしれない。ちゃんとした、言葉。ただしい、ふつうの言葉。べんきょう、できます。なんでも。これから、ちゃんと、できる。言葉、わかれば。ねえー」
彼は陽気に、楽観的に笑ってみせた。
その言動のあまりの移民としての模範解答ぶりに、そして彼のほんとうの本心はそこから限りなく遠いであろうことに、グラシンは気づいたのだった。
努力して言葉を話すことができればあとは何でもできるはず、と言う彼の、努力に疲労し破綻した姿をグラシンは見つめた。ジゼのその声はミレの上に限りなく空虚に響いていた。難民二世たるミレにもこの子なりの別の地獄が待っているに違いなかった。先祖代々の負債を支払うため、新天地で難民と相成ったジゼの、唯一、正当な、嫡子。
ジゼがいつも見せる優しいほほえみは、自己防衛のためのプリザベーションでの第一の言語だったのかもしれないとグラシンは考えた。
そしてたったひとつの。
学習した標準語から得た利益などは、まったく彼にあるはずもなく。
「きみの」
と、グラシンは言った。
「……孤独を理解することができない。でも、話を聞いてやることはできる。そこからはじめるしかない」
ジゼの表情から笑顔が消えた。
口惜しい、とグラシンは思った。
彼と、話ができないことが。
星系距離の障壁、人生経験の文脈、あるいはただの信頼関係。そういった大小の問題があったりなかったり、共有できていなかったり足りなかったりで、今、グラシンと彼は会話をすることができない。
ほんとうは一緒に笑い、歌うことができたらいいのかもしれない、と発言のあと、今更になってグラシンは気がついた。
そうだ。ジゼの話せる言語でグラシンが話してやるべきだったのだ。
フィードは何のためにある。言語センターというものがある。人は努力し、学ぶことができる。外から来た人間だけが会話をするための努力を、世界の文脈の調整を、自分の言葉の喪失を、生存手段の学習を要求される道理はあるまい?
彼は無表情で黙っていた。黙って、黙りつづけていた。
で、あるならば、今度こそ彼と一緒に笑い歌うまでだった。
が、口を何度か小さく開き閉じしていたジゼは、やっと発声方法を思い出したように、ぽつりと呟いた。
「兄がいました」
「知らなかった」
「いいませんでしたから。……この子の、父親の、クリス、です」
「きみの兄で……ミレの、父?」
少しのあいだ黙り、いつもよりさらに呂律の回らない、酔っぱらったような、訛りのきつい言葉でジゼは饒舌に語り始めた。
「キンシン、コウハイ、ですね。プリザベーションに来てまなびました。農ぎょう、の授業で。しょくぶつや、…………どうぶつ、と、おなじ。しらなかった。……よくない。それはいけないこと。ワカル?…………いけないこと。まっとう、じゃ、……いけないことだって……しらなかった。…………ぼくは、なにも、しらな、かった。しらないほうが、よかった。しりたくなかった」
そうしてジゼは自分の過去と、近親交配の子どもの出生を語った。
ぱたた、と、顔に落ちてくる液体に不快感を感じたのだろう、ミレは小さくぐずり出した。むにゃむにゃと動く小さな口に、ジゼの涙が溜まっていく。
この子が泣くところを、グラシンは見たことがなかった。
「この子のために、この子と船に、のりました。それが、いいこと、ただしい、だとおもった。ぜったい。……ぜったい。……クリスはつかまりました。ぼくが、……どじ、だった、からです。二人しか、行けなかった。クリスをおいて、船に行きました。さきに行って、すぐ行くからね、ってクリスは、言いました、から」
涙声を感情のまま荒げて、ジゼは言った。
「かくれて、船、のりました。はじめて宇宙をみました。……ずっとみていたい、と思った。……きらきらしてて、しずかで、やさしくて、……ゆりかごみたい。……もしも、……ほんとはいなかったけど、おかあさんがいて、もしも抱かれていたら、こんな、なのかなあ、て。このまま船に、のりつづけ、たい。この子とふたりで、しぬまで船にいよう、と、この子をきつく、抱きしめながら、きめました」
その決断は、グラシンにはただの滑稽な夢想にしか聞こえなかった。食料もなく乗組員に見つかることもなく船上を生きるなどありえない。
けれどジゼはどうやら本気でそう考えていたようだった。表情には冗談と笑う軽薄さは感じない。きっと世間を知らないのだ。世界に無知なまま、世界に放りだされた。兄であり夫でもあった伴侶を失った直後の、その孤独はいかほどだったろう。
グラシンの脳裏に一つの情景が浮かんだ。
幼い子どもが幼児を抱えて、機窓越しに宇宙を見つめる姿が。暴力的なほどの静寂と孤独のあいまでにっちもさっちも行くことができずに、来るべき死を緩やかに待つ、船上の一対の親子が。
船で一生を終えたい、こんな非現実的でみっともない空想を真面目に考えるほどこの子はいまだ、幼く、無知だった。
「船のひとたち、みんな、びょうどうです。どこかに、いく、とちゅうのひとたち。さみしいひとたち。別れたままのひとたち。まえのところに、いるための場所の、ないひと。……船にすんでいる、ひとはいない。この船を、ぼくたちだけの家にしよう、と、おもいました。ほーむ、ですね。……でも、プリザベーションのひとに助けられました。船、降りました。船、と、わかれました。……くやしい、と、……とてもさみしい、とおも、た」
めちゃくちゃな発音の標準語のなかで、プリザベーションの一語だけが磨かれた珠のように正しい音で響いていた。救出してくれたプリザベーションは、同時に彼にホームからの追放をもたらしたのだった。彼は幾度もこの連合体の名前を正しく発音してきたに違いなかった。彼にとってプリザベーションというものは大層やさしく、また憎いもののはずだった。
「船のなまえ、ミレ号、でした。ぼくは、はじめ、……この子のなまえをしらなかった。生まれたと、しってからも、なまえはしらなかった。たぶん、ちがうなまえが、……会社のひとたちがつけた、ちゃんと……ほんものの……だだしい、なまえが、あるはず。でも、ぼくは、しらないから、ただし、く、……にせもの、…………あ……あた、……あたらしい、なまえ、つけるしか、なかった。……それが、ミレ、ですね。ミレ……」
ジゼはしばらく黙った。
「……ぼくは、なに、も……」
顔を真っ赤にし、涙し、震えつづけて、一瞬、引きつるように息を整えたジゼは、意を決したようだった。だんだんと制御の聞かなくなっていく感情的な親の大声に、抱かれた赤子はとうとう泣き始めてしまった。
彼は正直に告白した。
「ぜったい、いいこと、だとおもった。そのとき、逃げることが。ぜったい……。いいこと。ミレのため。クリスのため。や、……やくそく、のため。でも、も、も、も、も、もう、もうわかんない。……ほんとうは、いけないこと、の、キ……キンシンコ、ウハイ、のミレ……」
その出生は、誰にも言ったことのない事実だったのだろう。
正しくない、よくない、倫理に反しているという言葉を向けられるたび、子どもの存在をも否定されたと感じ続けてきたのだろう。
生まれながらの娼夫であり、その兄弟から生まれた子どもを抱えて、よくない悪いと罵倒されながら一人、喋れもしない言葉を話してきた。あるいは一方的に押しつけられて黙ってきた。あるいはまともであれという要求に抗ってきた。周りはその裡にある深い苦悩に気づく機微さもなしに安直に「正しさ」というものを押し付け続けたのだ。彼を正しい道へと――大勢のうちの、まっとうな一人へと――「普通」へと矯正しようとした自分をも含む大人たちに対して、グラシンは目のくらむような怒りを覚えた。
「船に、かえりたい。……でも、かえる、……いきる……すむ、ばしょがない。どこにも、ない。どこも……」
泣き叫ぶミレを掻き抱き、子どもに顔を埋めながらホームに帰りたいと滂沱するジゼは、この惑星に来てもなお、宇宙のなかで一人孤独だった。
泣き声が響く中で、グラシンは黙った。そして、応答した。
「…………プリザベーション連合の由来は船でな」
ほら、ステーションになって浮いている、とグラシンは言った。
「大きな船の船倉に乗って人々は運ばれてきたらしい。彼らは冷凍睡眠ボックスに入って、二百年かけてプリザベーション星系に来たんだと。なぜなら、もともといた植民惑星が存続不能になったからだというんだ。そして同様の難民船で入植した付近の二つの惑星と連合を組んだ。だからプリザベーションの人間たちはこの船に熱烈で猛烈な愛着を持っている。だが俺は知らん。プリザベーションの誰にも言えないが、はっきり言ってそれほど興味ない。愛着もない。正直、不便でポンコツなステーションは廃棄してもっと良いものに刷新すべきだとすら思う。なぜなら」
「あの、」
早口に饒舌に話すグラシンの言葉の内容を、半分も理解できていないようだった。
「あれは、俺の物語じゃなかったからだ」
グラシンははっきりと断言した。
ジゼはグラシンの言っていることの意味を、問うことはしなかった。
グラシンの目が赤く潤んでいることに気づいたからかもしれなかった。
「俺には、別の船が、皆とは違う船が、その物語が、ちゃんとあったはずなんだ。わかるか?きみと、いっしょ」
空遥かにぼんやりと見える、プリザベーションのあの元船のステーションを指さしたグラシンは、はっきりと、区切るように、言葉をジゼに伝えた。
ジゼは、俺には別の船があった、君と一緒だ、という言葉を聞きとったようだった。そこに至るまでの長い独白は聞き取れなかったから、完全に話を了承したようには見えなかった。だが、自分の大切だった船の話をした自分を、グラシンが同じく自分の大切な船の話で迎えたことを理解したようだった。
そこに、それ以上の言葉は必要なかった。あるいは歌も。
*
その数か月後、アンはいつも通り、ジゼの家に訪問し、彼に近況を尋ねた。
ジゼはいつも通り「問題ありません」と言う。彼特有の拙い言葉で。
面談で、数か月後のジゼの職業訓練所への復帰が決まった。
今度こそぼくはやっていけるのだろうか、とジゼは思う。
話が終わり、アンを外へ見送ろうとしたジゼを、彼女は振り返った。
そして、カバンから取り出した何かをジゼへ手渡した。丁重に袋に入っていた、プリザベーションのお守りだった。
「今更だけれど結婚のお祝い。ほんとうは、ケースワーカーが要支援者に何かを私的にプレゼントするのは良くないんだけど。幸せに……幸せになるよう努力なさい」
と、似合わない笑顔で不器用に笑って、アンは言った。そしていつも通り憂鬱そうな重い足どりで去っていった。
こうして人間は跛行して生きていくのかもしれない、とジゼは思った。
ソファに丸くなって寝ているミレは小さかった。
この子のための港になってあげたい、とジゼは願っている。
それならば、とジゼは思う。
「ここより出発するほかない」
母語で呟いたぼくのことばを、強化人間のグラシンはすぐに言語センターを使って理解したようだった。小さく頷く。だから重ねて言った。
「『出発』って、プリザベーションの言葉でなんていうんでしたっけ」
彼は一瞬黙り、「出発」、と、この惑星の標準語で完璧に発音した。移民の影は――ほかにべつの惑星をもちえた影は――その音にはない。もっともプリザベーション連合は皆、難民船から来た人間たちだった。一番初めに。彼もぼくも、ちょっと後から来ただけなのだ。
しゅっぱつ、しゅっぱつ……しゅっこう?とぼくは反芻した。出航は船が発つこと、と彼に言われた。いずれにせよ、この発音に馴れるしかないのだ。そうに違いなかった。
ぼくには家族がある。家族というひとつの船が。
**
番外編「苦き追想」
※物語後ではなく、物語の 中盤 地点での話
あの子はだめかもしれない。
傘を叩く雨音を聞きながら、アン・サリストの脳内にぼんやりと閃いたのは、そのような言葉だった。
空の下、彼女は孤独を伴い、項垂れていた。
最寄りの交通機関を降り、駅を出て、役場まで戻ろうとしているアンは濃灰色の空をちらと見上げる。
手に持つ濃い赤茶色の傘は少し痛んでいる。冴えない色の傘に、冴えない色の濃紺の服。どちらも少し解れている。傘を含め、身なりに無頓着な自覚が彼女にはあった。
だが、この仕事に華美な衣装なんて必要ない。
大きく風が吹いた。
少し傘を傾けただけで、雨水は彼女の顔にふりかかった。
それを不快に思わなかったのは、一つの考えに深く囚われているからに違いなかった。
ジゼ。
アンにとって、彼はとりわけ考えるべき、注視すべき対象だった。
幼くて、孤独。本人は無自覚だが傷つきやすく、繊細で、感傷的。
だが、そのような要支援者はたくさんいる。有り余るほどに存在する。
注視すべきだったのは、彼が、運と努力次第ではこれからの人生を改善でき、プリザベーションで上手く生きていくことができる可能性のある子どもだったからだ。
その人に、可能性と未来があるかどうか。
なぜなら長年アンは福祉に携わってきて、困窮した人間には二種類の人種がいることに気づいたからだ。救われる人間と、救われない人間だ。
起死回生を図り跛行しながら人生を歩む人間と、復活戦を計ることなく計れることなく破滅するか、破滅寸前の人生をぎりぎり維持する人間。
アンが救うのは、もちろん両方の人種だ。
「起死回生」には援助があればあるほど良い。本人の努力には限界というものがある。
また、福祉が忘れずに救うべきなのが後者の人種だ。病や運命や生来のせいで破滅しかけの人生を歩む人間を、非法人政体のプリザベーション連合の福祉法のもと保護し、支援していくのがアンの仕事だった。
福祉で重要なのは、私たちが人間であると認めることだ、彼女は思う。アンは人間で、アンの支援する相手も人間だということ。
ひとつめに互いを人間として尊重すること。
ふたつめに福祉ではそれこそがいちばんの困難であること。
ケースワーカーが救われない人間を援助するのは難しい。相手は傷ついた人間で、同じようにこちらを傷つけようとする。互いに余裕のなさが出る。共に感情的になって、共に引きずり落ちていくことも少なくない。なによりも、救われない人生を生きる要支援者の苦しみは想像を絶する。大半は生きることに苦悩し、焦り、絶望している。
働くなんてまずしたくない。そして事実、労働は無理であることが多い。
それでもケースワーカーが働くことを進めることは少なくない。社会への参加となるからだ。社会集団と交わること。皆やっていることが、自分にもできるということが生きる自信へとつながる。
そんな福祉の善意は、多くは報われることがない。
つまらないから。面白くないから。面倒だから。不快だったから。相手が睨んできたから。こちらを笑ってきたから。だから職業訓練は嫌だ。就労も嫌だ。一人がいい。放っておいてほしい。認知が歪んでいる主観と被害者意識で、彼らは再起への一歩をすぐに引っ込める。そこからけっして動きたくないと主張する。それが一番楽なのだと、安心するのだという。
そしてアンは、その気持ちはよくわかる。
その環境を散々見てきたから、とてもよくわかる。プリザベーションの高度な医療でも福祉でも社会でも救うことが難しい彼らは、それでもよくやっている、と強く思う。
そしてなによりも、当たり前のことだが、要支援者には善性に満ちた人間だってたくさんいる。
その素直な人々の無欲な態度に、みんなは気づきもしないちょっとしたことで支援者を思いやる姿勢に、柔い言葉で問題の本質を突いてくるその視線に、アンはいつもはっとさせられてきた。
彼らはこの困難な生の中でも公正さを失うことなく、他者を一人の大切な人間であると尊重していた。その姿勢を見るたびに、私たちマジョリティで健常者の生き方の側こそが、雑で、がさつで、みっともなく、思いやりもなく、正しくなく、なにかしらの困難――障害を抱えてるのですらないのか、と思わされることすら何度もあった。
アンはそのような、屈折と素直が複雑に混在する人間的な仕事を生業にすることを、密かに誇りにしていた。
知人の精神科医は、患者の予後の良し悪しの重要な要素に、運というものを挙げていた。
本人の努力や周りのケアも重要であるが、患者の十年後の未来は、結局は運が決める。
幸運。
「幸せ」な市井の皆は笑ってしまうだろうが、福祉に携わるアンにはその答えの正しさが身に染みてわかっていた。
それでも、その幸運というものには種類がある。というか、幸運というのは抽象的で希望的なただの呪文ではなく、ちゃんとした明確な定義がある。幸運は、自らの努力の成果だ。自分の幸運の到来をただ待ちつづけるか、あるいは幸運を掴めるように努力しつづけるかの姿勢の違いが重要だ。その点を言えば、福祉も医療も、言語学習も、結婚だって、人生すべてにそれが言えるのだが。
そしてまさに、病や生来で、そんな努力をすることすら叶わない 立場にいる人こそを救うのが福祉であり、アンの仕事だった。
でも、だからこそ、そんな要支援者に可能性があれば賭けたくなるというのが本音だった。
アンは、ジゼの再起に賭けていた。
幼いがそのぶん可塑的である、孤独だが忍耐強い。傷つきやすく繊細で感傷的、しかし思いやりがあり、謙虚で、素直である。人から好かれる素質がある。これは労働――職場ではおおいに武器になる。あるいは生活、人生自体そのものでだって。
グラシンという男性の無邪気で無欲な好意は、あの種の難民にとって蜘蛛の糸だ。アンも重々警戒しながら、もしかしたら、と縋ろうとしていた。というより、無意識にすでに縋ってしまっていた。
売春はプリザベーションでは違法だ。だが彼は未成年だったから、法的には被害者だ。けれど、そこには彼の明確な意志と選択があった。「加害者」に強制された行為ではなかったのだ。
アンには、あれが自傷行為にしか思えない。とはいえ、それだけに収まらないものだろうとも理解していた。実経験があるのだ。非法人政体プリザベーション連合のアンとは違い、彼は企業リムではセックスワーカーだったのだ。会社の労働者。あれは彼にとって、仕事だ。人生の生業。アイデンティティであり生の証明。
アンの困難が伴う支援行為はおなじ「仕事」であったが、それを選択しない自由はいくらでもあったし、退勤後はただの一人の人間として生活することができた。
殴られ、犯されて、それこそが生きる意味であり生かされる意味であると教えられていた彼とは違う。またそこからかろうじて脱出してきた人生と今との落差を、彼女は経験したことがなかった。
奴隷のような扱いを受けてきた企業リムの難民たちを支援するのは、プリザベーションの困難家庭を支援するのとは別の、そしてレベル違いの苦労を伴う。
アンは企業リム出身の要支援者に殴られたことが何度もある。
熟練の支援員の同僚は鞄に厚い雑誌を入れて持ち歩いていた。包丁で刺されないために、だ。
なぜ彼らは暴力をふるうのか?なぜなら要支援者である彼ら元企業人ははかつて殴られたことがあり、何度も刺されたことがあるからだ。
企業リム由来のこの途方もない報復行為を終わらせるため、プリザベーション連合という終着地でその反復行為を終止符を打つために、福祉課のケースワーカーのアンたちは存在していた。
たとえばジゼの星系とプリザベーションが、もっと近かったらどうだろう?
かつての企業がジゼに逃亡を企図させないために、フィードを使用させないという手段を取っていなかったら?
ああまでに言葉にも意思疎通にも苦労をせず、もう一歩向上した生活を送れたはずだ。
ジゼにミレというものが居なかったらどうなっていただろう?
彼は生きる気力を失くしただろうか?
残酷な話だが、一七歳の少年に幼児は宝物というよりはむしろ重荷なのではないか、とアンは冷静に踏んでいた。
彼自身は自覚的ではないだけで、無意識にはそれがわかっているのではないか、と思わされる瞬間も数度あった。ミレを抱こうと上げた腕を、そのまま振り下ろして殴打しまうのではないかと危惧したことがあった。もともと僅かしかない彼の信頼をすべて失ってでも、彼にミレを手放すことを提言しようか深く悩んだ時もあった。養子縁組も福祉の得意技の一つだ。二人は一生別れたまま、一人と一人として生きていったほうがまだそれぞれ幸せになるのではないかと、正直、感じてしまっていた。
…………たとえば、彼が、農業以外の仕事に従事できていたのなら、彼はまだ生きていたのだろうか?
――やっぱりこういう非法人政体のような場所には慣れませんね。農業の水やりか。私、企業ではオフィスリーダーだったんです。毎日スーツ着てね。ネクタイ締めて。仕事して。……別の部署のチームを、チームの同僚を蹴り落とすのが好きでした。なんなら同じチームの同僚だって。いちゃもんからありもしない事実、不備の捏造からインシデントまで何でも利用して。……私にはそれができる。他人の命運を左右することができる、って。破滅させてやることができる。ああ……これが権力というものなんだって。大好きでした。あの高揚感が。たまらなかった。まあ、…………昔、の話ですけれどね、……ぜんぶね。
あまりに露骨な性悪さの暴露っぷりに、プリザベーション連合出身のアンはそれが誇張された冗談だと受け取った。晴れ晴れとした笑顔で語った彼を同じく笑って慰めた。じゃあそんなことをする必要もなくなったじゃない、と。プリザベーション連合では別の生き方が、楽しみが、幸せがあるのだと。
今思えばそれはあまりに楽観的だった。いずれにせよ彼は楽しんでいたのだ。企業リムを、その世界を、その生き方を。
であるならば、それを失ったという事実から彼は再出発しなければならなかった。
そして支援者のアンもその喪失と再出発を、彼と二人三脚で歩まねばならなかったはずだ。
いくらその楽しみが露悪的であってもそれを受容していた彼を、企業人という人間を知らねばならなかった、はずであった。
農業、という楽さと平和さを、心の底では退屈で屈辱だと捉えていたであろう彼の孤独を理解しなければならなかったのだ。
目が潤んだのを、彼女は降りかかった雨のせいということにした。
楽観的で意図的な「勘違い」、正しい認識からの一時逃避という行為も、困難に対する対処方法の一つだった。それを長いケースワーカーでの経験で学んでいた。
彼女のあの 日からは長い時間が経っていた。
アンはもう熟練のケースワーカーで、適切な対処が求められていたはずだった。担当した要支援者が首を括らないような、正しい選択が。
誰か彼を救ってはくれまいか――。
ああ、私は無力だ、とアンは唇を小さく噛んだ。
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番外編「最小の故郷」
※大昔、過去の話
わたしの褥はいつも薄暗かったから、淡い電灯がもたらす光は貴重な優しさだった。
この部屋には窓がない。外がどれくらい明るいのかもわからなかった。
今が何時だかわからない。客が帰ったことしかわからない。これでは従業員失格だ、とわたしは思った。
濃い青の天鵞絨と、カーテンの薄紫、橙色の淡い電灯。
わたしはそういったものを見つめて、ぼんやりと裸で寝そべっていた。
今日のお客様は優しかった。それが何より有難かった。
わたしは思うのだ。
知りもしない外の世界では身分や地位というものが存在するのだろうが、褥の上では人に貴賤はない。あるのは優しいかどうかだ。わたしを殴らないか、わたしを痛めつけないか、わたしの長い髪を引っ張らないか、そういった優しさが、あるかどうか。
「ああ、そんな適当な格好で……だめですよ」
と頭の上から声が降って来た。
ドアを開けて寝室に現れた彼は、わたしを叱った。
年上の彼は一等従業員で、でもわたしは特一等従業員だったから、彼はわたしに敬語を使う。
昔はそんな差などなくて、みんなで笑っていることができた。
彼はわたしの放置していた肌着を拾うと、あれこれと小言をいいながら、勝手に部屋の掃除をしはじめた。そんなものは掃除員に任せておけばいいのに、こういう世話焼きなところは昔と変わらない。
相変わらず優しいのだ。この人は。
わたしは自分の長い髪を指でくるくるといじりながら、彼に甘えて言った。
「ねえ、お腹が空いたよ。ご飯が食べたい。今のお客様ね、なかなか帰ってくれなかったんだ」
「そうですか。用意させます。でも、まずはあなたを湯に入れましょう」
「そうだねえ。……ねえ」
眠くもなってきたところで、ふとわたしは気づき、彼に言った。前々からぼんやりと考えていたことだった。
「わたしたち、いつまでもこうやって、仕事をしていくしかないのかなぁ。時々ね、馬鹿みたいだな、って思う時があるんだ」
なぜだかわからない。時折ふと、違和感を感じるのだ。この仕事をするために生まれて、育てられて、生きてきた。それが生きている理由だった。苦しくはなかった。それなのに。
かがんで下着を拾っていた彼は、ゆっくり体を起こしてわたしに問うた。何かを感じているようだった。それが何なのかはわからなかった。
「……嫌なのですか?」
「嫌じゃないよ、ぜんぜん。でもね、たまには別のことをしたらもっと楽しいかもねって。思ったの。お客様が言ってた、氷の湖に穴をあけて魚を釣るとかさ。どんなだか想像つかない遊びだけどねえ……」
「そうですか」
「わたし、おかしいのかな?そんなことを思うのって」
「そうですね……」
しばらく黙って、彼は言った。
朗々としているが、どこかで何かの感情を抑えている声だった。わたしにはやはりその理由がわからなかった。彼の声はかろうじて震えていなかったように思えた。
「あなたがそう思うのは、とても自然だと思いますよ。むしろ、そういうことを一切思わない方だと思っていたので、わたしは驚きました。あなたはもっと、太陽の光を見るとか、野原に伏しに行くとか、魚を釣るとか、氷の湖に遊びに行くとか、ひろい宇宙を冒険するとか、そういうことをすべきだと思います。それはきっと、楽しいよ、ねえ――」
彼はわたしに微笑んだ。太陽のような、温かい、柔い笑みだった。
わたしはそれを、優しい、と思う。
「……そうでしょう、ジゼ」
「うん。……ありがとう、クリス」
クリスはしばらく何かを思案しているみたいだったけれど、それもすぐに振り払ったようだった。掃除を終えて、小さく笑って去っていく。
わたしの兄は、いつも困ったように笑う。