アジア・太平洋戦争での船の大量喪失、という問題が語られる時によくよく厳しく問いただされるのは日本海軍の海上護衛思想の薄さや、その戦争の損失で鮮明に露呈した日本国家の計画性のなさです。あるいはあまたの華やかで剛健な大型船舶たちの沈没、あるいは軍人による船員の扱いの荒さは悲壮感を伴ってわたしたちの心を打ちます。戦場を主戦場としなかった人間たちの哀しい戦争の運命がそこにはある。多くの国籍の人々を貨客船に乗せた友情、見るも鮮やかなディナー、洗練された文化が一緒くたに灰色の塗装に化けること。絹ではなく軍需品を運ぶということ。殺意と機銃掃射。にんげんの深いかなしみとくるしみ。
けれど感情で見うしなってならないのは時代を俯瞰する冷静さなのかもしれません。戦後八十年からの、その俯瞰ができる立場を、擬人化という存在に投影して描いた物語が「大脱走」でした。
わたしがあの時代を俯瞰したときに捉えた感覚をよりいっそう複雑にしたのは、森崎和江が解題するような侵略、生活上の心情的な侵略行為という考えでした。彼女がからゆきさんの主体性を語るときに言及するアジアの民衆との肌のあわせよう、アジアの民衆と彼女らで茶碗一杯の飯を奪い合うような関係。外国へ行き現地人を武器で殺し殺されることだけが戦争であり侵略なのではない、という自責に駆られる森崎和江は植民地朝鮮生まれの女性でした。朝鮮の空は高くて美しい、空気が湿らず澄んでいると彼女が想うとき、背負ってくれたオモニの髪が唇についたことを思い出すときに、森崎和江はその愛情こそが他者を侵略していたという事実をひたと見つめます。戦時中に日本に帰ってきて、故郷であった朝鮮(植民地を故郷、と呼ぶこと自体が侵略的心情なのですが)に戦後帰れなくなった森崎和江は痛感します。その郷愁や愛そのものが罪だったということを。
森崎和江は関釜連絡船で日本へやってきたのでした。
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のちのこと、老いたおキミがある日、渡り鳥の大群が飛来したのをみて、
「ああっ、この鳥!うちが朝鮮に売られていくとき、玄界灘で逢うたんよ。うちの肩にとまったんよ」と叫び、その夜眠らなかった。
(森崎和江『からゆきさん 異国に売られた少女たち』)
のちに娼婦の経験での心的外傷により精神病院で亡くなるおキミは、養女に出されからゆきとして大陸へと渡りました。神戸から貨物船に乗り、門司から玄界灘をとおり朝鮮へ。たくさんの連雀が九州へと渡っていくのが見えたらしい。鳥たちはおキミとは真逆の方向へ飛んだ。
からゆきたちと船とは切っても切れない縁です。航空機も鉄道も挟まる余地などない。二十世紀に海をわたるのですから。船に隠されて密航したからゆきたちは上手くいかなければ船底で、箱の中で、樽の中で、石炭庫内で死ぬことになります。上手くいっても海外で娼婦となるだけなのですが。日本船はおおかたは三十人ほどを乗せ、その利益は大きく、また密航の検査をするには石炭夫や火夫の気性は荒く、そうしてこれらの犯罪は報道されても止まらず、なによりも女たち自身が貧困からの脱出を夢見ていました。人買いから見せられた夢というものが真実だったかは別としてですが。それに誘拐によっても多くの少女たちがあつめられました。日本郵船の伏木丸では隠れた石炭庫に隣り合う火炉に燃やされて、多くの女たちが死んだらしい。からゆきになるまえに。この時、一八九〇年。
森崎和江が言うようなからゆきさんたちが行った心的侵略というものがあったとしたら、それらを運んだ船や船会社をどう捉えるべきだろう。彼――というものが擬人化創作では存在するのだけど――はその事象どう思っていたのでしょう。船によって運ばれたからゆきさんらはシンガポールに入港した大日本帝国海軍の艦艇に乗っていた軍人たちを好いひととして迎えていました。その威信は世界的なもので日本からとおい地にいるからゆきさんたちは誇らしく、また頼もしく思っていたことでしょう。この三者三様の関係をどう捉えたらいいのかと考えておりました。
※後ほど加筆するかもしれません
Note>「性愛の陥穽」