組織擬人化創作小説「時代の横顔」

 あのう……ですね……。その、先生を、先生をお呼びしたのは、というか、ごはんに誘ったのは、中学校時代の教師である先生を食事に誘ったのには、ほんとうに別に深い意味はないんですからね。ほんと。いやそれなりの意味はあるんですけど、学生時代にあたしとセンセはそれなりに交流はあったし、その延長上に今日のこのごはん会があるだけですからね。……え?いや、会社じゃあちゃんと「わたし」って言ってますよう。大学卒業のときに、自分で自分を名前呼びするのだってやめましたからぁ。そうじゃなくって……日々の反省会をしたいんじゃなくってですねぇ……。え、ああ、あはは、先生にはよく廊下に立たされそうになりましたよね。授業中騒いで。携帯も何度も没収されたし。あの時代ってまだガラケーだったんだよねえ。いやあ、すべてが懐かしすぎる……平成って一体なんだったんだろね……。

 まあ、でもセンセはアホだから……いやアホってそういう意味じゃなくって!!おおらかな人のことを、あたしはそうやって表現しているだけなんですよお!だから、先生はあほうだから、おおらかだから、すべてに緩くて、優しいから、だから突拍子もないことも話せるんですけど。そうだよ、本題だよ。今から本題言うよ。ほんとうに、ほんとうにびっくりしないでほしいんですけれど、……だから、……。あのう……先生は、…………日本海軍って……どう……思いますか?

 ……え?いや、入らないです、海上自衛隊には入らないです。うよく……え?右翼?っていうのでもないです、たぶん……。いや目覚めてもないです。目覚めるって、何に?真実ぅ?え?かんこれ……?かん?たいこれくしょ……いや……いえ、いや、いやいやそうじゃなくってですねぇ。

 …………拾った、んですよね……。……え?何を?え、いや、日本海軍を……。日本海軍さんを、拾ったという話なんですけど……。

 え?いや、大丈夫、大丈夫です!わかってます!引かないでください!!おかしいですよね!!正確に言えば、日本海軍を名乗る男を拾っただけなんで!あとその男も、もう家に居ないんで!大丈夫です!ええ、ええ、うん、たぶんそう、先生も昔、歴史の授業なんかで言ってた、集団の象徴みたいなものだと思う。軍だから軍象、なんでしょうか。いますよね。たしかにいるってセンセも言ってましたよね。実際いるんです、彼らは。密かにいる。ただそれが、今が現代で、彼が日本海軍であることが問題だっただけで……。海上自衛隊だったら問題なかったんだ。……いや、問題なかったのかな……。海上自衛隊さんが、落ちている……?まあどっちみち、拾った男が日本海軍を名乗ってました。マ~ジでびっくりしたね。

 ………は?グンコク主義の復活?ぐんかのおと?いや、そぉんな大それたものでもない気がしますねえ。だいたい復活だというのなら、もう居ませんよ。グンコクすぐ滅んじゃった。海軍さんを拾ったけど、帰りました。どこに帰ったのかわかんない。消えただけなのかも、今度はほんとうに消えたってことなのかなあ?

 ……拾ったのは一ヵ月前と少し前のはなしです。二日前に消えました。お盆に消えちゃった。

 あたしは地元の……そー鎌倉。その浜辺でビーチコーミングしてたんだけど……え?今そんな名前になってる。砂浜で貝を集めることが。だから、それをしていて、ビーチをコーミングしてたんです。だんだん陽も陰ってきて、海も貝もぼんやり見えなくなりそうで、寂しい浜辺になり始めて、まあ今日はお開きっすわ、魚介類ども今日はこれで勘弁したるわ、なーんて帰ろうとしていたタイミングで、すこしとおく、それでも目に見えるくらいの距離に男の人が立ってるのを見つけたんです。

 一言、ヤバかった。超不審者だった。というのもボロボロの洋服を着ている男の人だったんで。……なんで彼、軍服じゃなかったんだろ。……え?第二、復員省?……ふーん、まあいいです、あたしにとってはただの海軍さんなので。

 まあ、そんなちょっとした緊張感を持ちつつ、遠回りをして帰ろうとしていた時に、その男があたしを見つけたんでしょう、ものすごい勢いでこちらに走ってきました。ええ、死を覚悟しましたね……。あ、ヤバ、みたいな。じゃ、死ぬわ、っていう……。そしてその男にものすごい勢いで肩を掴まれ、男は一言言いました。正確には聞いてきました。

「おい、ここはどこだ」

「ひッ……」

 この状況じゃ答えられないですよね。悲鳴を上げそうになりました。というか実際ちょっと上げてた。

 その男のひとはボロボロの服を着て、あたしに縋るように肩を抱いて、もう一度ここはどこなのか、を問いました。怖かったけど、その目には哀れなくらいの必死さがあった。誰かに捨てられてしまったかのような戸惑いがそこにありました。

 あたしはそこでやっと、相手があたしとおなじ人間のように思えました。おなじ人間なんかじゃなかったのにね。でもあたしは返事ができました。

「か、かまくら……」

「鎌倉?」

 呆けたように何回か繰り返して、さっきの勢いはどこへやら、小さな声であたしにまた尋ねました。「にほんはどうなった」。

 は?日本?こんな感じにこうなっているけど……という思いすらもなく、あたしは、今のあたしがどうなっているのかもわからないまま震えていました。それはその男の人もおなじでした。あとから聞いたんですけど、彼、その時は「復活」した直後で意識が朦朧としてて、日本がどうなったのか、思い出せなかったらしいです。負けたってこと、ちゃんと知ってたはずなのにね。

 その男の人はそのまま、にほんは、とかふねがもう、とかぶつぶつ言ってました。

 よくよくその男の人の顔を見てみると、あたしより数歳年下にすら見えました。身長はでかかったし、妙な威圧感があったし、勢いよく走ってきたんで気づかなかったんですけど。呟く彼は雨に濡れて汚れた大型犬みたいで、主人をなくしてしょげたままのわんちゃんみたいで、なんか無性に可哀そうになったんですよね。

「あのう……大丈夫ですかあ」

「いや……ああ……。大丈夫なのか……。わからん……。なぜ俺は鎌倉なんぞに」

「ビーチコーミングとかしてたんじゃないんですか?」

「び……?」

 そんな会話をしながら、そのまま海岸の石階段で、夕陽が海に落ちるさまを見ていっしょに日本の斜陽から敗戦に至るまでの話をしてました。というか、一方的にされました。彼はなんとなく自分を思い出し始めていて、自分が日本海軍の依り代であること、戦争に負けたこと、敗戦後にしばらくこの世にとどまっていたこと、その後はよくわからないことをただ喋ってました。なんだっけ……水が足りないって暗号、とか言ってた……あ、そうそう、それ、ミッドウェー海戦では暗号がばれたのではないか、とか、そんなようなことを占領軍のアメリカ人が言ってた、とか、その悔しさとか、軍艦がたくさんあったこととか、それがなくなってしまったこととか、香港?マカオ?あ、上海だったかな?どっか中国の戦争かなんかの話をしてました。

 彼がそういう、なんというか自分が惨めな話を真っ向からあたしにしたのは、その時が最初で最後だったように思えます。たぶん混乱してたんだと思います。

 そこで気づいたんですけど、昔の戦争のことであたしが知ってるのって、戦争後すぐで記憶が止まってる彼よりも少ないんですよね。ミッドウェーってどこだよ、って。彼がいなくなってからGoogleマップみたけど。遠ッ!ってかんじで。どこの海だよって。そんな遠くまで行ってたんだって。びっくりしちゃった。

 海戦で勝って嬉しかったけど好きだったふねと乗っていた仲間がたくさん沈んじゃったって言ってるときと、炭鉱は働くのが特に大変だったからチョウセンジンをいっぱい連れてきたんだよなあって言うときの彼のちいさな笑顔を覚えてます。さっと鮮やかで、ほんと、サッカーでゴールを決めた高校選手が謙虚に喜びを滲ませてるみたいな自然な感じの笑みで……。あれが時代の顔というものなのか、戦争というものなのかなんですかね。わかんない。あたし、ただの会社員なんです。特にシュレッダー業務が好きです。楽だし。ボタン一つ押すだけでぜんぶ終わるし……。

*

 日本海軍、軍隊、軍人を名乗るのに反して、彼はしごくまともそうでした。いや、まともそう、って言いかためちゃくちゃ失礼ですね。

 でもなんか、その日本軍って名乗りを聞けば「そこの下女……」みたいな語りかけや吐き捨てをしてきそうな感じがあるじゃないですか。え?海軍はスマート?そうだったのかー……。…………それホントに?はー……。ええー?うーん、……まあいいや、まあ、そのスマートな彼は洋服がぼろぼろなこと以外はまともでした。あたしたちはまともに会話になっていたと思います。いままでしたこともない戦争の話が主だったということを除けばだけど……。

 そして結局、あたしは彼が日本海軍の軍象だということを受けいれました。そうなったら今度は彼をどうするかというはなしになりますよね。変な不審者ではないこと、また今が現代であること、この二つを考えると彼は今とても不憫だ、ということになっちゃうじゃないですか。さりげなくその場を立ち去れればよかったし、そうするのが当たり前だったんでしょうけど、さりげなさを装うには戦争の話を語り合いすぎたし、なんならあたしは話の途中でつい「え、じゃあもう帰る場所ないじゃん!」なんて指摘しちゃったしそれに素直に海軍さんはしょげてた。もう不自然だよね、一人で去るにはね。だからまあ、……家に連れて、帰ったよね。

 この状況はよくない、非常によろしくない、相手が海軍さんだとしても……え?海軍さんだからこそまずい?いやどっちにしろまずかった。とりあえず着替えと風呂だったから、さらにまずった。今は関西に居て、昔同居していた兄の服はまだ取ってあったから、それを入浴後に着せました。Tシャツは胸に英語でGood Times Start Nowって書いてあってちょっと笑っちゃったんだけど、昔の人だから英語は読めないだろ、と思って油断してたら「一体なにが始まるんだろうな……」って海軍さんが呟いちゃって、笑いと申し訳なさの感情の観覧車に……え?海軍は英語が得意?なんで?戦争で英語は使っちゃだめだったんじゃないの?ふうん……。あの時だけは、互いに二十代の若者の会話で、なんだかそれが面白くって、あとから思えばただただ空恐ろしかった。

 日本海軍の象徴は現代に生まれればあんななんだ、とか。今の海上自衛隊の象徴はあんななんだろうかとか。両者はどう違うのだろうかとか。時代ってなんだろうとか。時代の顔、が……。なんか、もし戦争がなかったら、っていう言葉、よく夏にNHKとかで流れてる番組とは違う……あの番組に出ている人たちの言葉とは違う……あれが自分のことのように、ってやつなんだろうか、感じてしまった。そう、もしあの時代に戦争がなかったら、何か、彼にとっていい時代が、その時に始まっていたんだろうか。ってあたし、なんともいえない感じにもやもやしちゃって。 えっ?ああ……戦争が無くても植民地があった……?グンジコッカのタイセイ?テイコクシュギ?ああ、そっか……?でも、正直言うとあたし、そういうのにぜんぶ疎かった。ガラケーの前の時代って未知の歴史なんだよね。ぜんぶが石器時代っていうか。日本史の先生のセンセは今、連立方程式を解けますか?あたし、昔は得意だったのにもう解けないよ。あたしにとって、数学と歴史はひとしいんだ。計算なんてハガキの不備が合計百四十九件あるときにしか使わないし、その計算だって電卓でやる。日本史の戦争も植民地?も、そういう意味じゃあたしにとって夏の夜の暇つぶしになるだけかもしれない。テレビ番組にはなれる。けど、少なくとも仕事じゃ使えない。使わない知識だった。少なくともあの浜辺に行くまでは、そうでした。

 センセはそういうのムカつく?悲しい?そっかー。日本史の先生だもんね。てか先生は日本史ってか、歴史が好きなの?歴史の何が好きなの?海軍さんがよく言ってたみたいな、伊四百が開発できたこと?それとも本に書いてあったみたいに、ダイハツだっけ?……に、それに助けてーって縋った兵士さんたちが、そんまま仲間に腕を切り落とされちゃったとか、そういうお話が好きなの?あー、あはは。そうだよね、んなわけないよねー。わかってるわかってる。ごめん、殴んな殴んな!殴んなってー!あはは……。……なんかね、海軍さんがいた時、彼が見てないところで本を一冊読んだんだけど、難しくて、ぜんぜんわかんなかったよね。彼がいた世界ってどんなだったんだろ、……今も分かんない。ダイハツって何?車?……センセはなにが好きなんだっけ。好きじゃない?大人としてのギム感?はあ……そうなんだ。

 で、とりあえずその日はそのまま寝ました。兄と二人暮らしだった時期があるので部屋だけは多くて広くて、それだけが救いでしたね。それでもやっぱ、無警戒過ぎたと自己嫌悪に陥って、で、そのまま無警戒に寝ました。

 男の人というか、軍人というか軍隊というか、男の人だったので、もっと警戒すべきだったのでしょうが、何もなかった。一貫してなにもなかったです。たぶん、何かしたらまずいという意識が彼にはちゃんとあったのでしょう。だって、彼がいるのは二〇二〇年代の日本で、戦前の日本じゃないんですから。何かをできる権限は、誰にも保証されてなかったんだからさ。

*

 海軍さんは次の日の朝も普通にあたしの家にいて、当たり前のように、そこに存在してました。あたしもどうしよ……ってかんじだったけど、一番困惑してたのは海軍さん自身だったみたいでした。そりゃそうだ。今、二〇二〇年代なんだよ?海軍さんがほんとに生きてたら何歳だよ。海軍がなくなって今何年目?戦争の後になくなった……んですよねえ。たぶん……。ん?戦争って何年に終わったっけ。ああ、一九四五年ですよね。いつも忘れるねえ。それじゃ、八〇年後になっちゃうよ。それもそうだし、そもそもなんで自分が今生きていて……生きていたのだろうか、あれは。あれは生きてたのかなぁ。まあ、生きてたってことにして、なんでまた生きてるんだろう、って話ですよ。……あれは……あれはやっぱりあたしの幻覚だったんだろうか……。ぜんぶ……。

 彼は顔を蒼く染め、というか吐き気を堪えてる感すらありながら「こんなことは初めてだ、経験が無かった」と言いました。そらそうだ、とあたしは思いました。こんなこと、彼ら依り代たちに何度もあったらそりゃ大変でしょ。本人も周りの人間も。面倒だよ。

 とりあえずあたしは会社に行くから、と言って、あたしは逃げるように我が家を去りました。夢か幻覚なら帰宅後に消えているでしょう。正直まあそれに賭けましたよね。でも出勤してシュレッダーをしてても、入力業務をしてても、仕分けをしてても、頭から日本海軍さんのことが消えずに……いや、やばい女ですよね?わかってますって!日本海軍かその幻覚かわからないものにとりつかれている女なんて!!

 で結果ですが、帰宅後、その日本海軍さんはやはり家にいました。しかも電気をちゃんとつけて待ってました。昔の人なのに電気のつけ方、ちゃんとわかるんですね。へ?戦前にも電気はあった?いやそれはそうですけどスイッチの形とか……え?ほとんど一緒?そうだったんだあ……。しかもクーラーまでばっちりつけてて……え?軍艦にも船にもクーラーがあった?戦前ですよ?マジで?そっか……。もう驚いたら、負けですよね。海軍さんの存在以上にびっくりすることでもないですもんね。……実は戦前って、すごいんだなあ……。

 まあ、そのクーラーが二四度に設定されていることに若干イラっとしながら、彼もごはんを食べるのか不安になったので、「ごはん食べる?」と聞いてみました。あと「あなたいつ帰れるの?」とも聞いてみました。海軍さんはキョドり気味で、後から聞いたら若い女にはじめてそんなタメ口を利かれたことが原因だったようですが、そんなの知りません。この家の家主はあたしです。彼は前者に配してはイエス、後者はわからん、との御回答をあたしに賜りました。

 さっき言ったように、「これだから女は……」とか言ってきそうな先入観すらあった軍隊である海軍さんは、一貫してこちらに謙虚というか、無関心というか、不干渉というか、でした。たぶん、追い出されるという心配もあったでしょう。この世が二〇二〇年代だということはすでに伝えてありました。今の海軍さんに権力が無いこともわかってたはずです。この家とこの世で権力があるのはむしろあたしのほうだということがわかってた。たぶん、いつもそういうことにいつも敏感に生きてたんじゃないかなあ。軍隊だもんね。でもこんな女に負けるとは、みたいなものもなかったです。ほんと、不干渉でした。うん、たぶん、怖かったんじゃないかと思います。ウケますよね。日本海軍は自身の権力のない世界に放られて、ただぼうせんとしてたんじゃないか。……そんなの、戦争に負けた時にとうに経験してたはずなのに。

 でも、呆然としていながらも、どこか穏やかにみえました。あれなんですかね、戦争中は人間とかバンバン殴ってたんですかね?テイコクシュギシャですもんね?でも、そういうそぶりがなかった。きっと権力がなくなったけど、義務とか使命感とか、やらなきゃいけないこともなくなったんでしょうね。あれが、自由ってやつだったのかなぁ……。いや、やっぱ呆けてただけなのかな?アイデンティティが、ぽっかり抜けちゃって。

 海軍さんはあたしが作ったスパゲッティを無言で喫しておりました。あたしも無言で食べましたよ。なんか、空気が重かったです。お互いの緊張感が漂っていて……。スパゲッティのいちばんの調味料はピリッとした空気で……。とはいえ、海軍さんは昨日の晩から何も食べていなかったので、心なしか嬉しそうでした。尻尾あったら振ってたんじゃないかな。その日に限って冷蔵庫にまともなものがなくって。あたしが買って帰るまで。そこは申し訳なかったと思います。まあそんなのあたしの責任じゃないんだけど……。

 あたしは、毎日会社へ行き、シュレッダーをしてハガキの計算をなどをして帰宅して、まだ海軍さんが家にいると電気の明かりでわかると毎回げんなりしつつ、日々を過ごしました。一度、炭酸ジュースをあげたら、嬉しそうにラムネの話をされて……。ラムネジュースって海軍にもあるんですね。というか戦前にもあったんだあ、ってびっくりしました。……へ~!?ふねの中にもあった?知らなかった……。そんなことまであの人、言ってなかったけど……。「人間とよく飲んだ。こんなに甘くなかったし炭酸も強くなかったが……。この時代の飲み物はよくできているんだなあ」とかなんとか言って、普通~に飲んでましたね……。ほんとに普通でした。ごちそうさまでした、おいしかったよの社交辞令みすらあった。炭酸が強いならもっと驚くとかさ、あるだろ!飛び上がってびっくりするとかしてほしかったよ、見たかったなぁ……。過去からタイムトリップ?してきたんだからさ……お決まりのさ……サービスしてよ……とか思いました。あれ、そもそもタイムトリップだったのかな。むしろお彼岸イベント?

*

 あ、そうそう、自分のふねの話を、出会った浜辺でしていたことを覚えてます。いろんな名前を言ってました。大事な宝物の話をしてるみたいに、ぽろぽろと、自分の持ってる宝石かお気に入りのどんぐりかビーチコーミングで拾った綺麗な貝殻の話をするみたいに一つ一つ呼んでました。あたしが唯一最初から知ってた戦艦大和の名前は一度も出てこなかったこと、なんでか憶えてます。

 彼のいとし子のふねの名前、ぜんぜんわかりませんでした。ウィキペディアで検索して見てたんですけど、軍艦っていっぱいいるんですねー、みたいな。白黒写真だとどれも一緒に見えて……それに、ぜんぶまるで遺影みたいだった。画質もどれも荒くて……。名前も漢字二文字が多いし。山と川と土地の名前が多いのウケますよね。それ日本人の苗字と一緒じゃんって。日本人の名前に対する感性ってどれも一緒なのかなあ……。よくわかんないけど農耕民族?ってやつだもんね。それがふねに対しても一緒なんだと思うと面白かったです。魚とか貝の名前とかじゃないんだって。まあ、そのだいたい二文字で、音が四文字だったり二文字だったり三文字だったりするそのふねの名前を、彼は熱心に熱心に呼んでました。陸奥とか高雄とか、赤城とか……。空母とか戦艦とか……駆逐艦とか……。その強さとか。粋なところとか。ベラベラ喋ってました。

 ある時、海軍さんにウィキペディアを読ませたほうが良いのかな、って悩んだんですけど、結局あたしは見せませんでした。インターネット世代じゃないし、いろんなものに耐性なさそうだし……。むしろはまっちゃって、スマホ買って、とかねだられても嫌だし。YouTubeとかずっと見てたらどうしよって。それに、自分と自分の好きなふねの後のことをGoogleとかウィキペディアとかで知るのってどうなんだろ、って思っちゃって。隼鷹とか、さいご、解体されて、そのこと、あの人知ってたんだろうか、って。思っちゃって……。だって、インターネットであんな無神経で無頓着な言葉で語られて、ネガティブな言葉と一緒に検索すればいくらでも検索結果がネガティブになってって……。ネガティブに語られて……。嗤われて、罵られてて、変な賞賛のされ方とかされてて……。日本軍のサイキョーの戦艦、とか。ダサいですよね。あんな雑な言葉で、彼は、自分のいとし子を語ってなかった。それなりの、自分自身の考えを根拠にして、そこからちゃんと出発して話してた。他人の強さを笠に着たり、自分の集団を根拠にしてなくて……。それが良いことなのか、それこそが悪いことだったのかわかんないけど。これ、海軍さんをほめ過ぎなのかなあ。でも、やっぱ、インターネットの言葉なんかでね、知ったってね、って……。まあ、あたしもインターネットで知ったんだけどさ。それをまた優しく言い直して、無難に伝え直してあげればよかったんだろか。でも、どうやって?そもそもなんで、とも思う。そんなのあたしの義務じゃないし。海軍さんだってね、武蔵ってすぐ沈んじゃったよねーあははー馬ー鹿じゃないのーとかどっかで笑われてる、って知っても、確かに馬鹿だったよなあ、って一緒に笑うかもしんないよね。無邪気に。晴れ晴れと。悔いなきみたいに。彼ってそういうとこあったと思う。……長門の最期だってもしかしたら彼は、前は知ってたかもしれないけど、今は覚えてないようでした。だって戦艦長門を呼ぶその声に、陰りはなかったから。そこにネガティブさなんかなかった。…………それともぜんぶ知ってて、だからこそあえて明るい声で長門の名誉の話だけを語ってたんだろか。それが彼のできる、唯一の愛情表現だったのかなぁ。

 海軍さん自身は気にならないのか、長門の最期とか隼鷹の行方とか、日本はどうなったとか、負けたあとの長い長い八〇年間が気にならないのかなって、最初は思ってましたけど、やっぱ、うん。怖かったんでしょう。あたしに聞いてきませんでした。だって聞いたら、今度は返ってきた答えを聞くことになっちゃうもんね。日本海軍のサイキョーの戦艦の、無残な最後とかを。

 彼は軍艦のいい思い出だけを喋ってて、だいたい海にふねがいっぱいあったこととか、軍艦がいっぱいあったカンカンシキのこととかの話で、ロシアとの戦争とか、時々イギリスとかドイツに行った時の話、あとうるわしきオメシカンの話だった。それに真珠湾の作戦を喋るくらいで、いっつも戦争の話は、だいたいはそれで終わってた。え?ああ……そうですよね、それってマジのマジでアメリカとの戦争のはじめの話ですよね。あと中国とかないですよね。たぶん、自分が好きな勝ち戦の話しかしたくなかったんだなあって……いやそりゃそうだけど……それが男ってもんなんですかね?それが軍隊?

 だから駄目なんだろおまえ、ちゃんと反省点も述べろよ、って社会人経験数年の女のあたしが思っちゃったんですけど、それウケるんですけど、超ウケるんですけど、でも……なんだろ……。かれがかれののうつくしい思い出を語るときの、あのうつくしい横顔が、いっとううつくしくて、今もどうしても、そのうつくしさが忘れらんない。……ああ、危ういですか。ですよねえ。これがグンジコッカのタイセイってやつですか。グンコク主義ですか、ですかねえ。だって、あの人、炭鉱のキョウセイレンコウの話をするときもおなじ顔、しますもんね。

*

 海軍さんは基本的に遠出をすることもなく、近所をうろうろするか、だいたいは家でぼんやりしてたみたいです。知らないけど。あたしが知ってる限りはそうだった。

 ぶっちゃけあたしのいない時に赤の他人に家を任せるの、不安感ありありだったけど。まあ、そういうのホント諦めてました。拾っちゃったのはあたしなんで。

 あたしは海軍さんを家に迎えて、なんというか今までの人生になかったものが自分のなかにできた気がしました。……いやそりゃ当たり前なんだけどね?あたしよりちょっと下に見える、あたしより何十歳も上の、今は生きてるのか死んでるのかもわかんない人間じゃない人間なんて。近くにいたら驚きでしょ。それが家で待ってるんだよ?何なんだよ……。あたしが何したんだよって。

 あたしは毎日横浜経由で東京まで仕事に行くんですけど、早上がりしたその帰りに紀伊國屋に寄ったんです。ファッション誌が欲しかったし、あともしかしたら上手く軍象を返す方法がわかる本もあるかもしれなかったし……。

 一階で雑誌を買って、とりあえず二階に行ってみたけど、結局返し方とかそういう以前に依り代の本が無かった。まあそうかーと思ってぼんやり棚を見つめてたんですけど、ふと日本軍の本を見つけました。細長いサイズ……新書?それ、それが安かったんで。それを買ったんです。白と濃い緑色の。かっこいいかんじのやつ。頭良さそうな本。買ったの、特に理由はありませんでした。うーんなんていうか……彼の話してる話ってどこまで信用していいか、わかんなかったんですよね。まあ戦争の話自体はそれでいいんですけど、もしかして、この今に今いることや、その理由が実は分かってたり、何か隠しごとをしてたり、そういうのがあっても、おかしくはないんじゃないか……という疑いがあって。結局そんなことは一切なかったみたいで、彼はただただ困惑してただけだったみたいなんですけど。戦争の本や海軍さんの本を読めば何かわかるんじゃないか、ヒントがあるんじゃないか、と思って。…………その本を帰りの電車で読んでたんだけど、知らない単語と難しい漢字が多すぎちゃって、わかるの、ぜんぶ諦めちゃった。

 なんだっけ。動けなくなっちゃって自殺しちゃった兵隊さんとか、動けなくなったって仲間に殺されちゃった兵隊さんとか。安楽死……処置だっけ?生きたまま捕まるなとか、……人の肉とか……食べ、て、たり、うーん、……中国の人を刺してたりとか、やっぱ彼あんま喋ってない、喋らないんですよね。まあ喋られてもおう……ってなるんだけどさ。でも彼、聞けばもしかしたら話したかもしんない。さらっとね。初めて会った砂浜の時みたいに。……いや、やっぱ嫌な出会いだったよなあホント……。マリアナがどうとかなんとか身振り手振りで必死に言ってて……。比叡が沈んじゃったけどーとか。あいつのオメシカン姿は最高だったーって。うるわしかった、って。すばらしかった、すばらしかったのに、って呟いて。頷いて、黙って。そして鮮やかに。魚の骨を箸で抜くみたいに、さっと。綺麗に。炭鉱が大変だったけど、って……。

 ……あの笑顔のうちに、なにかいろんなものを抱えてたのかなあ……。

 と、か、ぼんやりと考えて、鎌倉駅に降りてとぼとぼ帰宅しました。なんか、どんな顔して彼に会えばいいか分かんなかった。正直、わからないなりにショックなのはありました。寒かった。手が冷たかった。何十年も前にあったことなのにね。あたしが生まれる前からあったことなのに。部屋が二五度か二六度だったら有難いって、もういっそクーラーなんかいらないかもって、今はいらないやって正直に思った。冷たい汗をじっとりかいてた。

 帰宅したらぼんやりとした笑顔で海軍さんが迎えてくれました。「とても暇だった。だからカレーを作ったんだ。今の道具と材料は特殊でよく理解できなかったが……口に合えばいいんだが」とか言ってて。カレー作ってくれてて。笑顔で。空調はやっぱ二四度で。扇風機も出してて。勝手に。押入れから。超ウケたんですけど。ただのヒモみたいだなって正直思った。

*

 うろうろする近所といえば、海軍さんだからなのか、あたしが仕事をしている日中、例の海岸に行くことが時々あったみたいでした。海見てた。なんかいっつも鎌倉の海を見てたみたいで……。海軍って言ったら横須賀だし、船といったら横浜なので、なんでか申し訳なくなっちゃったんですよね。鎌倉の海ってサーファーとかばっかだもんね。

 で、お盆に連休が取れないあたしは、そのすこし前に休みが連日取れたので、暇だったので、海軍さんに横須賀に行かないか、と誘ってみました。たいした他意はなくて、まあ、この第二の人生?がこんな感じでそのまま終わったらカワイソだな、という気持ちからで、ほんと他意はないです。ふねがいっぱいいるから、横須賀に見に行かないか、とあたしは誘いました。

 海軍さんは横浜に行きたい、と言いました。

「横浜?横須賀じゃなくてですか。軍艦いっぱいいますよ、たぶん」

「だからだよ。他人の艦隊を見ると苦しくなるから。もう俺が持っていないものだ」

「ふーん」

 そうお、じゃあなら、いいけどお……。という話になって、あたしたちは横浜に行きました。……それも怖かった、んですよね。それを理解してあげられなかった。ま、そんなのあたしの責任じゃないんだけども。義務でもないし。なりません、なりませんよ、海軍と共犯になんかなりません。彼の孤独は彼だけのものです。あたしはそんなの担いません。

 横浜に行ったは良いんですけど、結局、海はそんなに見ませんでした。というか、たいしたところには行かなかったです。神奈川県立歴史博物館とか行ったら、ぜったい面白かったんじゃないかな、って思ったんだけど。海軍さん、行きたがらなかったんで。怖かったのかな。それも。そりゃあ横浜の変わりようにはある程度驚いていたし、それを言うなら鎌倉もいっしょですもんね。なんならホテルニューグランドがまだあそこにあることのほうがびっくりだったみたいでした。だからこう……ごはんを食べたくらいで。ごはんを。横浜で。海軍さんと。なんだ。デートか。それ。危ういだろ。それに、なんで?もっと船と海を見て狂喜するとかそんなのないんか、と思っちゃいました。船いっぱいいるし。ごらんよ海軍、これが船だよ、みたいな。君のなくしたふねなんだよ……とか思ってましたけど、まあ海軍のふねって灰色で、それこそやっぱり見るなら横須賀ですよね。横浜は、遊覧船とか、あの、軍に関係ない可愛めの船ばかりで……。え?戦争になるとチョウヨウされるかも?チョウヨウってなんですか?へえ……ああ……軍隊が持ってっちゃうんだ。徴傭っていうのか。えー沈んじゃうの?それって借りパクじゃん?あーやっぱそうなんだ……でも、ちっちゃい船ばっかですよ?観光客しか乗れませんよ。あんなの。兵器載らないでしょ。それでも?昔はされてた。はあ……やっぱり戦争って怖いんですねえ……。あ、だけど氷川丸の話には妙に食いついてました。横浜にあるデッカイ船。今はどこにも行かないやつ。客船?カキャクセン?なんでだか知らないけど。横浜ではでっかい船のほうだからかなぁ……。乗れますよ行きますか、って聞いたんですけど、毛を毟られるだろうから嫌とかなんとか言って断られました。え?海軍が戦争で徴傭してた?病院船?そーお。顔見知りってこと?じゃあ仲が悪かったのかなあ……。海軍さんにパクられそうになって。誘拐?

 大さん橋には飛鳥Ⅱがとまってて、飛鳥Ⅱの名前を聞いて海軍さんはめちゃくちゃ笑ってました。丸シップの伝統潰えたり、みたいなことを言ってゲラゲラ笑ってた気がします。え?海軍が言うと不謹慎?いやあの人、いっつも不謹慎でしたよ。それはちゃんと知ってます。ただ家主のあたしにはあまり不謹慎ジョークを言わないように気をつけていたただけで……。Ⅱであり、丸がつかないことがやっぱり面白かったみたいですね。船名めちゃくちゃや、みたいな。海上自衛隊の艦たちの名前が、日本海軍から引き継がれてること言ったら喜ぶのかなあ、とか一瞬考えましたけど、たぶんそれがぜんぶひらがなだってこと知ったらへこむんだろなって。ひらがなって何だか妙に可愛いじゃん、ってなるよね。まや、とか。女の子の名前か。だからやめました。

 海軍さんはしげしげと飛鳥Ⅱを見つめてました。よく話を聞いてみたら、飛鳥Ⅱを持ってる会社は、海軍さんが生きてた時代にもあったみたいなんですね。よく知らないけど長寿ですよねぇ。船の赤い二本の線は、その会社のファンネルマークって言うんだ、と言ってました。あれ、氷川丸にもありますよね。……ああ、やっぱおなじ会社なんだ。へえ。ニッポンユウセン。だからかあ……。

 今の貨客船は変な形だ、とか、ユーセンがあんな奇抜な船を造る時代なのか、とかあれにどうやって貨物を載せるんだろう、とか一人唸ってましたね。あと「いざという時、あれじゃ困るな……」とかなんとか深刻に悩んでるみたいでした。なんでだろ……いざという時って何、いつのこと?……え?あ、徴傭?あー!ああ……。なるほどね。海軍さん、たぶんそれ考えてたんだ。あの船、他人の物なのに。はあ、他人の物だからこそ徴傭なのか。しれっと人様からパクるってわけね。ヤラシー。……絹とか手紙とか石炭とか、でりっく?が、とか何とかって熱心に言ってましたけど、今はたぶん載せないですよね。石炭なんて……。昔は載せてた?カモツセン?カキャクセンのカ?ああ、貨物の貨、に、客船なのか……。貨、客船か。だから今はただの客船なんですね。ふうん、教えてあげたかったなぁ……。あの人、ふねには異常に熱心なんだなって、目の前にして知りました。ほぼ船のオタクだったもんね。あれ人の物なのに……。

 あたしたちは遠目に見える第二飛鳥丸の話をしつつ、横浜の日はどんどん傾いていきました。横浜の海はたくさんの小船がちらちら行き来してて可愛い。海軍さんがあの船は良いあの船はだめって言ってたけど、あれかっこいいとか可愛いとか好き嫌いとかじゃなくて徴傭できるかどうかの判定だったんだね。知らなかった。あたしも無邪気にあれはどうですか、あれとかいいんじゃないんっすかぁ、あなたおっきい船好きでしょ、とか聞いちゃってたな。ただの船の好みだと思って……。いやある意味好みなんだろうけど。

 きりのいいところでさーて帰るかーなどとぼやいて……いや日帰りです。泊まってどうするんですか。横浜と鎌倉ですよ?すぐ帰れるのに二部屋も取るわけないじゃないですか。お金ぜんぶあたし持ちですから……。でまあ、……飛鳥Ⅱが、ちょうど出航するみたいでした。わーわーいう声が遠くからでも聞こえてきました。見送りと見送られです。そして船が海をゆくんです。

「あ、船行っちゃいますね。どこ行くんだろ。いいなあ~。あたしも船で外国の海に行ってみたいな」

「……」

 海軍さんをちらっと横見すると、彼は何かを堪えるように、そして食い入るように飛鳥Ⅱの姿を見つめてました。飛鳥Ⅱはゆっくりゆっくりと大さん橋を離れて、じわじわと出航していきました。楽しそうに見送られて、海に出て行った。それを呆けたように見つめる海軍さんが……なんといえばいいんだろう……そう、哀れで。哀れだ。哀れだって、思って、しまった。あたしは無性に悲しかった。彼の孤独は彼だけのものなのに。彼……きっと、さいごには港から送り出すふねも持ってなかったんでしょうねえ。……ああ燃料もなかったのか。港も使えない。海に出してやれないし、出れなかったんだ。そうか。そうですねえ。……そう、だったんだ。

 …………横浜に部屋を取る気はなかったんですけど、飛鳥Ⅱになら、とってもいいような気がしました。して、しまった。しまいました。なんか、船に乗れば、船があれば、この世にもあの世にも居場所がない人の居場所がちゃんと確保できるんじゃないかって、思ってしまって。そこになら、船の上なら確保できるんじゃないか。ふねのうえではそれがゆるされている。その無力がゆるされている。ふねはそういう場所として、いつもいつもあったはずなんです。

 なんでまたこの世にいるのかわからず、呆然と船もない鎌倉の海を眺めて、昔も今も出航するすべを持たないで、その意味もなくて、生きてる理由が無くて、それを知る方法がなくて、それ以前に明らかに意味なんてなくて偶然で、もしかしたらあたしの幻覚上にしか居ないかもしれない、居れないのかもしれなくて……。

 ああ……なんというか、うん、彼と共犯にならない、ならないけど、けど、行き場をなくした過去として、彼を、日本海軍を、どこかへ航海させてやることはできる……。あたしにはそれができる、って。思って、……しまったんですよね。それが飛鳥Ⅱの乗船チケットでも何か別のことをすることでも。

 過去の人なんだから、なにかその過去を記録して書き留めてあげるのがほんとはよかったんですかね?彼が確かにそこにいたってことを。海にいたという事実を。たとえば文章が書けたら本を残すとか、小説を書くとか、調べてまとめるとか……。その歴史が、ふねをなくしたことなのか、あの運命の真珠湾なのか、彼が決して語らなかった笑顔の外のことなのか、つまり不名誉な、それ以外の戦争なのか。飢えて死んじゃったとか。南の国に船で運ばれている途中、戦う前にただ一方的に魚雷で沈められちゃったとか。虫歯が直せなくて痛かったーとか。よくわかんないけど。……書いてあげる。もう一回再現してあげる。無神経で無頓着じゃない言葉で。それもある意味、航海でもあるんじゃないかなぁ……って。思った。思っちゃった。海で、往き場をなくして、陸に上がってそんまま終わっちゃった彼をもう一度航海させること。過去というものを現在に航海させること。今という海に、解き放ってあげることですよね。生きものとして。ずっと止まったままなところから……。だって船って、昔のふねって、みんなの言葉や話や思い出のなかで、何度も沈んでますよね。好きに沈められちゃってて……。なんだっけ、あれ。ディカプリオ。ああそれ、映画のタイタニックとか毎回沈むじゃん、って。綺麗に沈むじゃん。みんなふねが沈む話大好きじゃんねーって。なんでしょうねあれ。ほんと。……なんとなく、そう思った。だから、だから海軍さんの軍艦が沈んで、それはほんとつらくて、あと海戦に勝って嬉しくなったり、ロシアと戦争して、長門がいて、いっぱいふねを浮かべて、なんか……そういう話をくり返し話すことで、うん。何かができる。映画みたいに、何かがもう一度再現できる。タイタニックのごはんの場面とかめっちゃ綺麗ですよね。あたしはタイタニックに乗ってなかったけど、それが綺麗だったことを知っている。あとから作った映画があったから。……綺麗、……綺麗だった。沈む時もねえ……。綺麗。うん。うん……。綺麗だったことを知っている。何かを書き残せば、例えば魚雷のせいで沈んだ船から放り出されて海に置いてかれちゃった、その十時間を記録すれば、映画とかにすれば、みんなはその十時間を知ることができる。十時間ずっと悲しかったことや苦しかったことが……。……海の中で爆弾や爆薬が爆発しちゃって内臓が破れて、苦しいっていいながら死んじゃった人たち……。

 うん、彼がほんとに日本海軍というものだったとしたら、これはとてもまずい感情だということはわかってました。だって日本海軍が好きな女とかやばいですよね!?マジ、字面が……。いや、実際いるのかもしれないけれど、レキジョ?とかオタクとか、なんとか、どこかになら……。いや、そもそもそういう意味じゃなくて、オタクとかじゃなくて、軍艦マニアとかじゃなくて、あたしが彼の栄光と悲しみの顔がうつくしいというのなら、あたしは彼の炭鉱の話もいっしょに引き受けなきゃなんない、ですよね。話さなかった真珠湾以外の戦争の話も……。海軍がもう一度自由に航海することは、どういうことか、って……ことを。航海したら最後、きっと彼、そこでまた虫歯になるんだ。そこで戦争になっちゃって。アメリカとか南の国の人とか日本人とか、チョーセン……韓国?の人とか、そこにいた人たちもそこでぜんぶ死んじゃって。ああ……。ですよね、そうですよね。そうなんですよ、ああ、これがセンセのいう歴史、ですか、歴史の話、ですか。歴史を自分のこととして引き受けること。ああ、そうですね。難しいですよねえ。そうか、すみません、授業をぜんぜん聞いてなくて。うるさい生徒でしたよね。あるいは携帯ばっかり弄って。そっぽ向いてて。歴史から。

 しょげきっている海軍さんを無言で引っ張って家に帰りました。その夜は無性に虚しくなって、正直その後の数日は憂鬱でした。彼と顔を合わせんのも。あたしはどうすればいいのかわかんないし、海軍さんもどうすればいいのかわかんないみたいだった。気を利かせて横浜に行ってみたりしたのに。あたしはむかついたし。申し訳なかったし。互いに無力だってわかった。世界ぜんぶに対してです。で、連休はそれで終わりました。かつてないほど虚しい連休だった。

*

 その夜、夢、見て。……うん。虫歯になる夢……。処置される世界の夢。あたしが戦争に行ってた夢。なんで女なのにここにいるんだろとかそういうの無くて。疑問とかない。夢なので。夢特権だよね。ぜんぶ夢です。

 兵隊さんがいっぱいいて、あたしもその一人で、兵隊で、あたしは飯盒を磨く係だった。みんなの飯盒を磨いてあげるの。綺麗に。ピカピカに。うん、ないよね、実際の海軍に飯盒を磨く係なんて。つか飯盒って陸軍だった気がするけど。読んだ本では。……うん、だよね?綺麗に磨けるとめっちゃ嬉しくて。だって白いご飯が。ちゃんと炊けるので。食べれるじゃん。でもそこにお米がなくて、貝殻を飯盒に入れてた。桜貝とか法螺貝とか、宝貝、カズラガイとか……。

 みんなで必死に貝殻集めてたなあ。なんか、たしか貝とお米が交換してもらえる制度がそこにあった気がするんですよ。誰もそんなこと言ってなかったけど、夢って夢世界の掟やルールがわかるじゃん。説明されなくても。体感的に。感覚的に……。

 しゃがんで集めてたら、誰かに飯盒を蹴られました。それって飯盒ピカピカ係のあたしへの宣戦布告ですよね?貝も全部ひっくり返っちゃった。あのね、ひっくり返った貝はお米に換金できないんですよ。汚れちゃうし。集め直しなんです。欠けたら価値がなくなるんですよ。綺麗な法螺貝は単価が高いから人気で。法螺貝いっぱい取れたのにーって。どうしてくれんのよ、って。蹴った靴を見て、足の主を見上げたら海軍さんでした。

 すごいむかつくニヤけ顔で海軍さんが、上から偉そうに話しかけてくるわけですよ。そこの下衆な人間……みたいな。でもあたしも違和感なく聞いてて。ハイ、ハイ、申し訳ございませんみたいな。飯盒蹴られてすみませんみたいな。邪魔でしたよね、っつー。現実だったらまず殴って追い出してたよね。家主はあたしだからさ。てめーあたしの貝に何した?ってなるよね。これあたしのご飯代なんだけど。あんたのご飯でもあるんだぞ、みたいな。夢だからそうはなんなかったけど。

「貝を集めろ。貝殻を集めると貴様も徳が積める。竜宮城へ行けるんだ」

 とか言われて。いや、今集めてたから。お前が蹴ったんじゃん……あたしを急かすなよな、と思うこともなく、徳を積もうともう一度貝を拾い始めたくなりました。竜宮城にもいけるらしいし。竜宮城て何?あとなんでかあたしは夢の中で、彼を尊敬してました。蹴られたけど、海軍さんと話せて嬉しかったような……気がする。

「海軍さんは白米主義者ですからね、すばらしいです」

 って褒めたのを思えてます。今はもう何がなんだかわからない。白米主義って何……?あたしは彼の完璧な白米主義を褒めたんですけど、そのまま海軍さんに二、三度殴られました。「俺に馴れ馴れしくするな一兵!」って。……あんな感じに、戦争中は人間殴ってたのかなあ……いや知らんけど。あれ夢だし。ただのあたしの夢。あたしは彼の白米主義を褒めただけなのに、殴られたんですよ。許せないですよね。でも、やっぱりそれを理不尽だとは思いませんでしたね。夢だからかな。

 てか、今思えばあたし夢の中でも貝殻集めてたよね。ビーチコーミング。徳が積めるってなんだ。賽の河原か。徳とか利益とか意味とか考えるのはビーチコーミング友の会会員失格ですよ。ほんと……。まあ実際あたしたちは利益というか、お米が欲しくて貝殻を集めてたんですけどね。……徳が積みたいんじゃないよ、あたしたちはご飯が食べたいだけだ、お腹が空いてて食べるために必死なだけだって思った。龍宮城なんて行きたくないよって。それを覚えてます。

 浜辺の砂は白く細かくて、あ、これ骨でできてる……ってわかりました。白骨……の道?なんだっけ、……あー白骨街道か。本にでできたので夢にも出てきたんだと思う。海は赤くて、血でできてて、太陽は黒かった。いやホラーじゃんて。説明すると思うけど、夢の中ではぜんぜん怖くなかったなあ。まあ夢なのでぜんぶぼんやりしてるしね。

 あたしは海軍さんに怒られたり怒鳴られたり殴られたり蹴られたりしながら、頑張って貝を集めてて。「気合いが足りない」とか「甘えてる」とか海軍さんは怒ってた。見たこともない顔してた。こ、怖ー!って感じの。出会った当初に軍艦の話を振られてあたしは興味なくて、海軍さんは拗ねちゃって。ぶつぶつ文句を言われたことがあったけど、その時にあたしがチクチクうに太郎とか呼んだ時すらそんな顔しなかったじゃんて。

 あたしはせこせこ貝を拾って、貝って脆いんだな、刺せば死ぬもんな、弾で撃てば一撃だもんな、集めるのなんて戦艦があれば余裕だよなーって思ってた。あたしたちにはふねがいっぱいあるしって。海軍さんもいるし。ぜんぶ集めてやるって。今から思えば意味不明だけど。そうやってあたしは貝を集めて、貝を集めたことで、ご飯食べれてた。ご飯は貝を集めてゲットできる。最初は貝がどれも綺麗で、素敵で、可愛くて大切だったのに、最後のほうは貝なんてどうでもよくなっちゃってたね。大きくても小さくてもどれも一緒。みんなおなじ、意味のない貝だ、って。貝どもは集められることしか価値がない、むかつくぜ、みたいなむかつきすらあった。いろんな貝の見過ぎ?貝のこと考えすぎだったのかなあ。集めすぎて。あたしのご飯に変えられれればなんでもいいやって。むしろ小さくて脆くて助かった。集めやすいし、軽いし扱いやすいし。貝がいっぱい集まって、貝の数に余裕ができたら、いらない貝は潰して捨ててた。邪魔だったし。必要ないので。小さくて汚い貝はいらない。それが戦場だもんね、仕方ないよね、じゃなきゃあたしが貝になっちゃうもんねって。捕まって、集められて。誰かのご飯に変えられちゃうって。まじ意味不明な夢だった。なんだそれ。なんだったんだあの夢……。

 貝を潰してる海軍さんが笑ってる。嬉しそうに笑ってる。あたしも貝を潰して嬉しそうに笑ってる。みんなで笑ってる。なんでかわかんないけど。嬉しかったし楽しかった。みんな仲間だった。よかったよね。白いご飯が食べれたからかなあ。もしかしたら貝のおかげで炭鉱が栄えてたのかもーって思ったの覚えてます。夢で。あと比叡のオメシカンが綺麗だった。でも戦艦比叡じゃなくて、軍艦巻きが比叡って名前だった。夢だから笑わずにすみました。あれがいわゆる海軍さんの白米主義だったんかな。ウケるんですけど。なんか足元は水に、海と波に満ちてて、だんだん水が上がってくるんだけど。ぜんぜん気にならなくて。みんなで笑ってたので。海水はとても赤くて。寄せて引いて。靴が赤く濡れて。

 波が迫ってきて、貝が拾えなくてちょっと焦ってきてた。あー桜貝がある!と思って拾おうとしたら人の爪だった。それでも楽しくて笑ってた。海軍さんが「ここには海があるから大丈夫だよなあー」って言っててそれも夢の中じゃなんか面白かったよね。なぜか。あたしは「じゃあ四方八方に貝がありますねえ」って答えた。あたしたちはそこではちゃんと、共犯だった気がする。

 竜宮城は目の前だった。行きたくないなって思った。でもみんな先にいっちゃったからなーって思ってた。みんな待ってるって。だからあたしも行かなきゃ、って。

 そこで起きちゃった。片腕空中に上げててびっくりしたよね。顔もちょっと笑ってたし。

 あたし実は夢日記をつけてるんだけど……いやせんせえ、虚しく笑わないでよ!つけてますよ、夢日記を。寂しい女なんで、ほんと。寂しい趣味ですよ。ひとりですよ。一人の趣味好きなんですよ。友達と予定あわせなくていいし。ビーチコーミングと一緒で集めてるんですよ。夢を。寂しい趣味を許してくださいよ。……その夢日記に、あたしは、ただ一言、地獄にいたって、書いといた。なんか、そんな気がした。起きて、あのニヤけ顔が頭から離れなくてむかついたから海軍さんに軽くグーパンしちゃった。海軍さんはへあ?みたいな間抜けな顔してたからスッキリしました。それで夢の中の顔はだいぶ消えた。ということにした。彼は朝の日課で、いつも通り勝手に紅茶飲んでて。……結局彼が一番喜んでた現代の利器ってティーバッグだった気がする。コップをかき混ぜながら「どうしたんだ、やつれているぞ」なんてのんきに聞かれて。「アホ」とあたしは答えました。「アホアホアーホ。お前はアホ」

「阿呆とは何だ、貴様。失礼だぞ」海軍さんが気色立って言いました。

「ティーバッグ、来週まで買えませんから節約してくださいね」とあたしは釘を刺しました。

「あと三つしかないが」

「節約しなさい」

 海軍さんは心なしかしょげてました。まあ、あちらからすればどうしたんだ?って聞いただけのに、殴られてアホ呼ばわりですからね。申し訳なかったな……。悪いのはぜんぶ夢なんだけど。あたしじゃありません。

 現実って貝を集めてもご飯にならないんですよねぇ。ティーバッグとかにも。でもそれっていいことだと思った。でもほんとうはどうだろ。あー、なんだったんだろうなあの夢。ほんと……。やな夢だった。

*

 次に来たのは盆の季節でした。

 海軍さんは二〇二〇年代の夏が苦手のようで、相変わらずエアコンの設定温度を二四度に死守してました。

「あのですね、あと一度上げましょうよ」とあたしは言ったんです。電気代安くなりますからね。何度かそのこと説明したんですけど、そのたびに「ああ、血の一滴、ってやつか……」とか「この時代の機械には疎いが、この一度で何かが違う」とか言いながら、毎回毎回華麗にスルーしてました。あたしも毎回それをスルーして一度上げて、下げて、上げて、下げて。この動作のせいで余計に電気代がかかってるってわかったので、根気強く説得してから上げることにしてました。十回中九回は拒否されました。

「この世界は暑くないか」と海軍さんは言いました。いつも通りの事実上の交渉拒否にあたります。十分の九です。交渉決裂です。もうこれ軍港を奇襲するしかないっすわ。これ真珠湾ですよね。自分ごととしての歴史。だってこれあたしが払う電気代なんだけど?まあ、そりゃ暑いんですけど。……今の夏はやっぱり暑い。

「やっぱ今の夏って昔より暑いですか」

「暑い。考えられん。どこも機関室みたいだ」

「はあ……。あのう、……負けた時も、暑かったですか」

「ああ。暑かったよ。たぶん」

「たぶん」

 あたしは元気もなく繰り返しました。海軍さんはぼんやりと言いました。

「暑かったのは憶えているが、どこにいたのか思い出せん。つまりそれがいつだったかもわからない。…………あれは、八月十五日だったのかなあ……」

 その声には空虚なあわい絶望があって、虚無感すごくて、あたしはやっぱり、ぜったいに彼とはわかりあえないんだ、と思いました。あたし、学校の勉強も、歴史の授業なんてのも興味がぜんぜんなかったんですよね。だから彼とおなじ言葉で話せないんだ、って……。場所と属性の違うひとと、ひとしての交わりが、できなかった。彼と。おなじ国にいるのに、おなじ歴史を一緒に持っていないから。太平洋戦争、中国との戦争、軍艦がいっぱいあったこと、真珠湾とか、テッタイ作戦が上手くいったことの喜びとか、仲間がいっぱい溺れちゃったこととか、比叡とか、博覧会とか、キョクジツキが鮮やかだったこととか。陛下にお声をかけてもらったとか。だから喧嘩すらできなかったんです。戦争反対とか兵器を造るなとかひとの国侵略するなとか、炭鉱のこととかレンコウとか、何も言ってあげらんなかった。戦争もその反対の理由もぜんぜん詳しくなかったから。そういう言葉にあたしは根拠を持たなかったから。あたしの言葉じゃなかったから。きっと彼も笑って聞かなかったでしょう。……れきし、って、一体、なんなんでしょうねえ……。

 

*

 彼岸の週末の夕方、あたしたちは、一緒に浜辺に行きました。

 彼岸の日に海に行っちゃいけないってよく言うけど、あたしはもうそういうのどうでもよかったし、海軍さんは積極的に近づいてみたらどうだろ、とすら思ってたんです。そもそも彼岸の向こうの存在ですよね。だから彼にも言ったんです。あの海にいたんだから、あの海から帰れるんじゃないかって。

 で、実際その通りになりました。

 初めて会った時と同じように海岸の石階段に座って、夕陽を眺めながら、暑いとか焼けるとか、そんなことをぼんやりと話してました。もうあたしたちには夏の暑さのことしか共通になりうる話題はないんだな、って思ったのを憶えてます。キョーセーレンコウのこと、なんの知識もなかったな……。レンゴウカンタイのことも。今から勉強するか、歴史を。ウィキペディアで。軍艦以外のページも見なきゃ、とか思いつつ。……すくなくとも、今、はもう間に合わない。間に合ってない。おなじ言葉じゃ話せない。孤独とか栄光とか、彼がいちばん大事に抱えてる、よくわかんないものを。だから、日焼け止めという現代の利器の話や、艦隊勤務では真っ黒になることなどを話してた。その時のことでした。

 いきなり海軍さんが、後ろにいた青年に肩を叩かれたんです。優しく。いつくしむように。いままで青年の気配に気づかなかったんで、あたしたちはただ、びっくりしました。

 愛宕、と海軍さんは驚き叫びました。愛宕って、え、じゅうじゅんあたご?あたしはウィキペディアで愛宕の記事を読んでました。たしか「火垂るの墓」でもでてくる級ですよね。なんか太った感じの、デッカい、強そうな艦です。そしてその艦も戦争で沈んでる……。で、そう、このその青年を確かに愛宕、と呼びました。海軍さんがもう少しがっしりしたようで、そしてもう少し幼いかんじの……そんな子でした。彼が着ていたのは緑色の、緑と茶色の間くらいの、陸軍みたいな軍服でした。ウィキペディアの海軍の軍人さんの、遺影みたいな写真に写ってるような真っ白な軍服じゃなかったけど、初めて会った海軍さんみたいな、ボロボロな姿じゃなかった。パキッと綺麗な軍服で、これから戦場にいくというより華やかな社交界にでも行くかのような。沈む瞬間にも、海底という、ひとつの海の都市へと向かう時にもきっと、うつくしい艦の姿のままだったんでしょう。

「迎えに来ましたよ父上」

「ええ?嘘だろう?」

 と海軍さんは奇妙な笑いを孕んだ声で、信じられないように訊き返しました。単純、嬉しそうだった。そりゃそうだ。あたしも唐突すぎてなにもかも信じられなかった。

 迎えに来た。つまり彼は彼を連れて帰ってくれるだろう、というはずの宣言でした。いやいや、オメシカンが先導したれーよ。大戦艦のだれかとかさ、とあたしは思ったものの、二人の仲はとても良さそうで、まあ、うん、本人たちが良いのならそれでいいんでしょう、そう思いました。

「嘘ではありませんよ。俺はふねなんだからあなたを連れて行ってあげられます」

「そりゃそうだ。助かった」

 いやどんな理論だよ、あたしは思いました。まあそんなもんなのか?彼岸って?ふねってすごいんだなぁ……って……。肩をすくめて、愛宕は言いました。

「あなたはこう、すぐに迷うからいけない」

 あちらでは彼岸前に海に寄ってはいけない。迷ってしまう。あなたはふねではないのだから、と愛宕青年は呟き、じゃあ行きますよ、と言った。そしてあたしにむかって父が相迷惑をかけました、と謝りました。愛宕は海軍さんの手を引き、立たせました。

「はあ……帰れるんですか」

「みたいだ。世話になった。ほんとうにおかしな世界だった。暑いし」

 と晴れ晴れしく海軍さんも言いました。もうこの世界のまとめに入ってた。めっちゃ雑な感じに。あたしたち現代人が、現代日本人が築き上げた平和な世界は、そりゃあの時代の軍人にはおかしな世界に見えたでしょう。ささっと雑に片付けたくもなるでしょう。あたしの平和は、彼らを救わない。彼らの世界はそういう制度だった、そうあった、グンジコッカだった、そしてそのまま永遠に不変だ。それが過去ゆえに。彼らは過去にいる。永劫にいる。それが、なんだか無性に悔しかったです。平和のシソウもよくわかんないのに。

 ユニクロの一九九〇円のTシャツを着た海軍さんと緑色の軍服を着た愛宕は、へっぽこな二人組のようで、おなじ空気にほどけていました。あれが過去そのものというものだったんでしょう。あたしのけっしていない場所です。

 あの、あたし、……と海軍さんに声を掛けようとした瞬間、そこには、もうなにもなくて、ビーチコーミングをし損ねたような女が階段に佇んでいるだけでした。

 ほんと、その時のあたしは間抜けに見えたでしょう。口をぽかんと開けて夕日を眺めてるだけの寂しい女に見えたはずです。寂しい顔をしてたと思います。もっと喜ぶべきでした。ホント。喜ぶべきだった。変な同居人がいなくなったんだ。クーラーを二五度にできるのに。なんなら二六度にだって。なのに……。

*

 あたしは海軍さんのことを一度も海軍さんと呼び掛けたことはありませんでした。半分は彼の話を信じてないフリをしつづけてたからです。あなたとか、お前とか、ふねオタクとかカッパとかナマコ野郎とか、あとは海っちって呼んでた。

 だって海軍さんに海軍さんが海軍さんだと認めて海軍さんと呼びかけたら、あたしは一体何なんですか?ただの一民間人の女になっちゃうじゃないですか。エアコンの温度は二四度で一生固定されたままになっちゃうんです。何なら二三度にされちゃうかも。扇風機もいつも強風になっちゃって。ダブルで稼働してて。自分だけ風に当たってて。そうやってぜんぶの権限があっちに行っちゃうでしょ。あたしは彼を日本海軍だって認めちゃいけなかった。あたしはけっして海軍さんの威信を享けてはいけなかったんです。だってここは二〇二〇年代の日本で、軍隊はもう存在しないんですから。現代人のプライドってやつだったのかもしれませんねえ……。いやそれもどうだろ、これはあたしの言葉なのか?自分の集団を根拠にしてるだけなのかな。平和ってほんとにあたしの言葉だったのかな……。

 うう……。海軍さん……海……。日本、海軍さん……。海っち……ああー海っち!……ああ……あの時、あたしは、海っちを大日本帝国海軍さんって、一度でも呼んであげるべきだったんですかね……?あたしはその威信とやらを肯定してあげるべきだった……?彼のうるわしき艦隊を……?…………え?引く?マジの右翼っぽい?真実に目覚めてるみたい?うるせー!だったらなんだんだよー!!そもそもンなわけないだろアホ!バカ!エロ教師!生徒の食事の誘いに軽々しく乗るな!

 …………あたしにとっては、ただの「海っち」だった。戦争の、グンコク主義の、侵略の道具でも、過去の存在でもなくて、ラムネの話で盛り上がる変な同居人で……。そんなのめちゃくちゃなのはわかってます。彼は大日本帝国海軍だった。彼は悪い人だった。悪人だった。彼はうるわしい艦隊とグンカンキのあざやかな赤の話しかあたしにしなかったんだもん……真珠湾の話ばっかで、それが卑怯だったなんていっさい言わなくて、長門と陸奥と赤城と愛宕で利根で足柄で、徴傭なんて語んなかったし、いっつも自分がカッコいい話ばっかで、それが語り継がれていることが少しでもわかればバカみたいにご満悦で……めったに行きもしない本屋でノンフィクション文庫の緑の背表紙を見るのが大好きで……。でもけっして本を手には取らないで……。……は?なんで?怖かったからだろ!自分が未来にどう評価されて褒められて貶されて裁判されてるか知るのが怖かったんですよ!!だからノンフィクション文庫に取り上げられてるような感じの、タイトルにある感じまんまの話ばかりしかしなくて……。え?戦争犯罪の話……?ほとんどしなかったですよ、ぜんぜんめったに、そんなの、レンコウとかくらいですよ……。それも犯罪だと思ってたか謎ですよ、彼、笑ってたんですよ?楽しそうに?なおいっそう、鮮やかに?あたしはそれに、なぜか見惚れてしまっていて?あたしはそれを、知っている。あたしは、そのことを、ちゃんと知っている……。わかっている。そういうはなしばかりで彼が満ちていることを知っている。彼は未来の、今の人間にそういう愛され方ばかりを、されているということも、あたしは知っている……。この愛情には危うさがあるんだ、それはわかってます……。知ってますよ、ちゃんと、そんなこと。え?飲んだの?ワイン一杯だけですよ、そうじゃなくて、じゃなくて、じゃなくってあたしもあの文庫本の多くの読者みたいに、表面のうつくしさを撫でていとおしむことしかできないんですよ。だって、彼、うつくしかったんです。彼の語る大艦隊のこと、艦の上から見た広い青空のこと、なによりそれを嬉しそうに語る横顔、実際に軍服姿の愛宕だってほんとに、……あれが思い出の話じゃなくてなんなんですか、うつくしくなくってなんなんですか、うるわしき追想ですよ。綺麗な思い出ですよ。でもあたしは知っている……。あたしが知らないことばかりだって、彼が語らなかった多くのことがあったことを知っている。……そうやって、あたしなりに時代を問うていくしかないんですかね……。あの顔を……笑顔を。うつくしさと語らなかったことを、忘れないでいたい。歴史を……彼とおなじ言葉を話すんだ……ウィキペディアで……新書で……ああ……。あー……。


企業・組織擬人化>「時代の横顔」


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