いまは見えない星4:「ぼくの小さな神さま」

「くろ!来てくれたの?」
「うん。元気だった?」
 第二次大戦後初の日本国産潜水艦、計画番号S112cこと今は名前のないこの小さき潜水艦は、くろしおの名前のことを「くろ」と略して呼んだ。
 くろこと潜水艦「くろしお」は、昭和二九年三月に締結された日米相互防衛協定に基づいて貸与されたガトー級潜水艦「ミンゴ」の現在の名前である。くろしおはこの小さき潜水艦に初めて会った時、ぼくはアメリカからやってきたんだよ、いまはくろしおって言うんだよろしくね、と挨拶をした。「くろ」はその時に賜った、親愛をこめてつけられた光栄あるあだ名である(くろしお?うーん……じゃあくろね!)。こちらとしては「くろしお」という名前に頓着はなかったから、好きに呼んでもらって全く構わないのだった。
「元気だったけど、くろが来てくれなくてさみしかったよ」
「可愛いこというね」
 彼はくろしおにまとわりつきながら、若干舌足らずな言葉で不満を漏らした。くろしおは彼の柔らかい、少し跳ねた黒髪の真ん中にある小さなつむじを見つめる。彼は初対面でくろしおを女と間違え一人でショックを受けていたが、次の日には立ち直り何故かビリジアン色のヘアピンをつけていた。どうして緑色のヘアピンをつけてるの?とくろしおが聞くと、一言だけあいのあかし、と彼は答えた。いまだにその意味は分かっていない。
 ここは川崎重工業神戸工場である。
 工場から見える季節模様は、冬の冷たさから春の麗らかさにとって代わる最中だった。海の色は相変わらず鈍いままだが、遠くに見える森林の葉は元気を取り戻しているような気がする。真冬では工事も大変だったろう、人間たちも心なしか陽気に見えた。小さなつむじから視線を外し、淡い空を仰いでいたくろしおに、ちょっといつもより暖かいねえと彼は呟いた。
 彼のような進水を待つ艦霊というものは得てして暇なものだ。任務もなければ遊び相手もない。ぼくの場合はどうだったかなとしばし考え、過去のことを考えるのはやめようと彼はそっと思考をそらした。過去なんて思い出しても仕方のないことだ。
 彼はくろしおの手を引っ張りながら、先ほどいた定位置に戻った。彼は工場の現場のほんの隅に、ご丁寧にスカイブルーのシートを敷き、その上で己の本体である潜水艦の建造を見守っている。そこにはくろしおや工場の人間からもらった玩具などが散乱していた。
「くろとくろの乗員さんは何をしているの?」
「え?んー……。ぼくのところというか、横須賀のみんなは売春防止法が……水面下の地味な話題に……いやごめん、なんでもないなんでもない」
「ばいしゅん?」
「なんでもないよ!」
 警備隊時代(もちろんくろしおの知らない時代だ)は遊郭通いを推奨こそはしなかったが、暗黙のうちに認めていたらしい。一人でも性病にかかったものが出ると運用に支障がきたすから、乗員は船内での衛生講話で必ず性病防止の知識や衛星具の使用法を教えられていた。女郎買いに関しては、旧海軍時代(同じくくろしおの知らない、あるいは対岸の敵として知って(・・・)いた(・・)時代)となんら変わりはなかったというわけだ。そしてそれは海上自衛隊時代になっても変わらなかった。
 それが昭和三十二年四月一日に売春防止法が施行されてからは、衛生講話も性病の話題も衛生具の支給もなくなり、公然と遊ぶことができなくなってしまった。施行から一年後の昭和三十三年四月一日――今からちょうど半年前ほど――から施行猶予を終え、以降も売春業を営む者には刑事処分が下されることになったから、女郎買いは過去の歴史、刹那の甘い思い出として記憶するか、あるいは早々に忘れて清純に生きるかを隊員たちは――くろしおたち艦霊と呼ばれる彼らも――迫られている。大多数は水面下で地味に嘆いている。日本人女なんて御免だと豪語していたかやも、なんだか元気がなかった。だがこんな話はこの子にはできない。
「ほら!ぺんてるクレヨン出して」
「おえかき!」
 すかさず彼の意識をシートの上の机に散らばっていたクレヨンに逸らす。
 この子に初めて出会った時に渡したのが、この数年前に発売されたクレヨンだった。昭和三十年にぺんてるから発売されたこの画材は、人間の子供たちに大人気だった。人間ではないこの子とてそれは変わりがなく、渡した当初は長く綺麗に整っていたクレヨンも今は小さい塊になってしまっている。他の子供たちと違うのはとりわけグレーと(ブラック)の減りが激しいことだろうか。潜水艦を描く際の色だ。彼はオレンジ色がどっかいっちゃったよーと一人呟きながらクレヨンをかき集めていた。くろしおも手伝う。
 建造の工事の様子を眺めながら、くろしおは手持ち無沙汰にグレーのクレヨン(おやしおは只今黒を使用中)を弄んでいた。内心、なんでこんなところに来ちゃったのかなあと思う。定期的な接触を彼と図っていたが、それは就役後の関係の円滑のためにであって、そもそもご丁寧に何度も何度も訪問する必要はないし、クレヨンをプレゼントする必要もない。自身でも理由が見いだせなかったが、おそらくこの感情は同情に近いのではないかとくろしおは思った。ぼくは「なにもない」だったが、彼だって所詮「ほとんどなにもない」を背負わねばならないのだ。
「くーろ、くーろ」
「くろしお」
「く、ろ、し、お。くろしおは日本語(もじ)が書けますか?」
「君と同じくらいかな」
「いっしょかー」
 ぐりぐりと拙い手で潜水艦と「くろしお」という文字を書いて(「く」の字が逆さになっていることにくろしおは最後まで気づかなかった)いる彼の横で、くろしおもグレーの潜水艦を描いていく。すると、彼はくろしおの描いていた潜水艦――涙滴型船殻の潜水艦の絵を指して尋ねた。
「これなあに?ふうせん?」
「潜水艦だけど……。やっぱりへたくそかな」
「どうして潜水艦なのに丸いの?」
「ん?」
 彼はくろしおの描いている潜水艦が涙滴型であることに注目したらしい。
「ああ……。アルバコアっていう、アメリカ(ぼくのくに)の新しいタイプの潜水艦なんだ。水中航行に強い形をしていて、原子力潜水艦と同じく重要な……。ああ、うん」
 君は知らなくていいよ、とくろしおは彼に言った。
 アルバコア。一九五三年に進水した実験潜水艦だ。
 涙滴のような形をしているのがなによりの特徴で、ぼくや彼のように水上・水中の双方ではなく水中航行重視を目的としている。
 一九五四年、潜水艦の日本調査団が渡米した。これからの国産潜水艦の行き先を決めるためだ。もしかしたらアルバコアの資料でも持って帰ってくるのかと思っていたが、そのような話は聞かなかった。祖国もそこまで親切ではなかったということなのだろうか。
「君は知らなくていい。知っても仕方ないことだし」
「ふうん。新しくて強い潜水艦なんだ!僕と一緒だね」
「いや君は……。いやまあ確かにそうなんだけれども……」
 君はだねぇ、とくろしおはもごもごと答えた。
 彼は――計画番号S112cは、大戦期の潜水艦を参考にしている。具体的にいえば伊二〇一型潜水艦だ。それでも伊二〇一は大戦期の潜水艦にしては水中高速型だったから、おそらく建造がうまくいけば他国の潜水艦に比べても遜色のない出来に仕上がるだろう。だが一緒と言われればそれは違う。
「あとねー。くろの国はもう日本(このくに)だから。アメリカじゃないよ」
 虚を突かれ思わず言葉に詰まってしまったくろしおを気にも留めず、彼は下からくろしおを見上げ柔らかく笑った。
「ぼくと一緒」
「……そうだね」
 ぼくの「ひとつある」は、思いのほかぼくの孤独を理解しているらしい。

[※後略]

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