昭和三十年十月二十四日の横須賀での出来事を、その潜水艦は強く覚えている。
寒々しく小雨の降るこの日、アメリカから貸与されたとある一隻の潜水艦が横須賀に入港した。アメリカのサンディエゴ軍港から太平洋を渡って回航をともにした海上自衛隊潜水艦乗員の、十ヵ月ぶりの帰国であった。その家族らは夫や父親の帰りを待ちわびており、術科学校の構内の地面はほとんど未舗装で適当な面会所もなかったから、やむをえず家族はその艦内に案内されたのだった――靴が雨のせいで泥まみれのまま。
おいおい嘘だろう、彼がそう焦ったときにはすでに艦内は泥だらけだった。日本の潜水艦になってから、彼は今度こそ泣きそうになったがそれはじっとこらえた。己は潜水艦だ、海の中では泣いても無意味であろうと自身を慰めて。彼はその泥だらけの潜水艦そのものだった。ふねが人の似姿をもったもの。艦霊、と呼ぶ人間たちもいる。
それはアメリカ時代とは全く異なる処遇だった。潜水艦として潮にまみれたことはあった。でもこんなにもひどく泥にまみれたのは初めてだったかもしれない。民間人だって乗せることなんてまずなかった。泥だらけの、床がない軍事施設なんてはじめてだった。軍ですらないのもはじめてだった。こんな時に笑いながら苦労を分かちあう、潜水艦の仲間がいないのもはじめてだった。日本にはちゃんとした施設も人材も潜水艦も、なにもなかった。そしてそれはぼくにも「なにもない」ということだった。
雨に打たれ佇んで見ていた日本の海だけが脳裏に浮かぶ。敗戦を迎えた十年目の日本に、突如現れた泥だらけの英雄。
あの日から四年もたってしまった。日本の潜水艦になってからは多忙の日々が待っていた。戦後初の潜水艦として見学される、優れた潜水艦の構造の勉強のためにオーバ・ホールをされる。もちろん対潜水艦訓練目標としての、潜水艦乗員の育成としての任務が一番だった。
そうして目まぐるしく日々は移っていった。新しく知りあう人間がいない日なんてなかった。今日だって、新しい国産潜水艦の建造に携わる人間と顔をあわせることになっていた、そう。
戦後初の国産潜水艦。
どんな子になるのだろうか、と彼は思う。
昭和三十一年十一月、日本調査団がアメリカに派遣され、二ヵ月にわたって米海軍を訪問し資料を得たという。あるいはこの国の造船業界の全知能を集結した国産潜水艦の造船責任者たちの存在。十年のブランクを経て、この国に新しい潜水艦が生まれようとしている。
そして、ぼくにとって「なにもない」が、「一つある」にかわる日。
いやいやそうだけどそもそも十何歳年下だよ、一体全体仲良くできるのか、彼は顔を伏せそう一人思案していた。
ここは横須賀、とある喫茶店の一席である。昔からの風情のあると言えば聞こえがいい、寂れた喫茶店の店内では客が吸う煙草の煙が目に染みた。座っている深い茶色の椅子は背中のクッションが少し破けている。ここで待ち人を待って二十分、彼は消極的な興味で、潜水艦の造船に携わる人間たちと話がしたかったのだ。これから数年十数年は一緒に任務をともにする仲になるのだから、その潜水艦の話を聞いても悪くないないだろう、そう思って。
「こんにちは」
頭上から声をかけられた。はっと見上げるとそこにいるのは五十代ほどの温和そうな日本人男性だ。眼鏡をかけている。こんな外国人に興味本位で声をかける人間なんていないだろう。おそらくこちらを知っているもの、こちらを探していたものだ。国産潜水艦の、生み親の一人。
大丈夫、ぼくはこの異国でやっていける、新しい潜水艦とも、そう己を奮い立たせて、紳士的な笑顔を浮かべてその日本人に握手を求める――のではなく、立ち上って彼に向って会釈をした。角度は三十度、礼儀正しい普通礼。
よし、この挨拶にも慣れてきたな、と彼は己のひそかな成功に安堵し、口を開いて挨拶をする。昔はガトー級潜水艦「ミンゴ」といいました。今ですか、今のぼくの名前は――
「ぼくの名前は……あー」
己の笑顔が引きつったのがわかった。すらすらと口から出たのは、母国で十三年間親しんだ英語だった。
「……くろしお、です。」
名乗ることは未だに苦い。